2019年5月15日

「人は何故生きられるのか」Ⅱ


なんというのか・・・最近はまともな文章が書けなくなってきている。
今のような状態で「生き続けている」ということは、この状態が生きている限り続く、ということではなく、頭も、精神も、そして身体的にも、確実に悪くなってゆくことを意味する。現実に「死ねないから」とぐずぐずしていても、状況は日毎に悪化している。

「人は何故生きられるのか」、ふたつさんの出色のコメントに引き続いて、瀬里香さんからも、いかにも彼女らしい、他のブログでは決してお目にかかることのできないようなコメントが寄せられた。

T:「死ねないから」という以外の「生きていること」への積極的な理由なんて何ひとつない。
S:はい、わたしも自分が死ぬのがまづ怖いし、それに自分が自殺したら両親も娘息子も業務的に「自殺者の身内」というラベルを貼られますから。わたしの死を彼らが悲しむかどうかは別として。

ここら辺の表現がとてもいい。

S:精神科で処方される薬とも一生のお付き合いだし、喧しい電車のアナウンスや暑苦しいアスファルトや煩わしい電子媒体攻めや電子音の鳥のさえずりや、スマホ決済や、けたたましい選挙カーなどとも一生のお付き合いだと思つてゐます。

精神科の薬は仕方がない。「みなさま、ばかでございます」と触れ回る選挙カーは不快とは言え、せいぜい一週間程度。

けれども、わたしはやはり、「喧しい電車のアナウンスや暑苦しいアスファルトや煩わしい電子媒体攻めや電子音の鳥のさえずりや、スマホ決済」の世界に長居はできない。

では何故瀬里香さんは、そういうものたちと一生のお付き合いができるのか?それが世に言う「鈍感力」というものなのか?言い換えれば、「今の時代、この社会は、「鈍く」なければとても生きて行けるものではない」ということを、問わず語りに白状しているということなのか?

S:とにかくこれほど不便な世間にうんざりしますが、だから週末になると自由自在に思ふ存分マイナスイオンに逃走することばかり考へてゐます。

わたしには逃げ場がない。田舎に行きたいと思う。(わたしが子供の頃=40年前と同じような、木と、植物と、動物と、小川と、ところどころに古い民家があるような文字通りの「田舎」がまだこの国に存在すればの話だが)
しかし、田舎に行くにはどうすればいい?車に乗れないわたしは電車を利用するしかない。では電車や駅には何がある?誰がいる?

「良くなる」とか「元気に」「外に出られるように」ということが、そもそも絶対的に「有り得ない」ことなのだ。というよりも、誤解を怖れずに言うなら、それは(わたしにとって)「あってはならない」ことなのだ。そして「現状維持」とは即ち「(心身全般の)悪化の一途」を意味する。
それでは果たして残されている途とは何か・・・





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