2019年5月22日

断想


● 二階堂奥歯の『八本脚の蝶』にこのような記述がある。

2001年6月26日

『きみは本をつきつける。「この本、もうあと読みたくないよ。博士はきっと最後に死んでしまうんだもん」
「わたしを失いたくないか? 泣かせるね」
「最後に死ぬんでしょう、ねえ? あなたは火のなかで焼け死んで、ランサム船長はタラーを残して行ってしまうんだ」
デス博士は微笑する。「だけど、また本を最初から読みはじめれば、みんな帰ってくるんだよ。ゴロも、獣人も」
「ほんと?」
「ほんとうだとも」彼は立ちあがり、きみの髪をもみくしゃにする。「きみだってそうなんだ、タッキー。まだ小さいから理解できないかもしれないが、きみだって同じなんだよ」

(ジーン・ウルフ「デス博士の島その他の物語」『20世紀SF 4 1970年代』河出文庫)

私を読んでいるあなた。
私はかつて私を創造しつづけるあなたを憎んでいました。

でも、あなたは創造者ではなかったのかもしれない。
一人の読者でしかなかったのかもしれない。
 
(後略) 』

わたしが彼女の本(ブログ)を好んで読むのは、この2年後に、彼女がビルの屋上から飛び降りて自らの存在を消した=「生きるのをやめた」ということを知っているからだ。だからわたしは安心して彼女の本を読むことができる。
最後には彼女は死んでしまうんだという思いがあるから。



● イヴァン・イリイチ・オブローモフは
「人はどう生きるかをしきりに考えている。けれどもぼくはどうしても何故生きるのかを考えずにはいられない・・・」と呟いた。そして結局何もしない人生を閉じた。

ところでいまのわたしは「何故生きる」という問いから更に遡って、「生きている」とはどういうことか?という疑問に憑りつかれている。
「何故生きる」もなにも、そもそも「生きる」ってなんだ?
「生きている」とはどのようなことなのだろう?



●「あなたが死んでも悲しむ人は母親だけ」と言った人がいる。それは当たっているようないないような。そもそも母は悲しむべきではない。わたしという存在のために人生を台無しにされたのだから。わたしは最近「障害者は不幸しか生み出さない」という言葉に心の底から首肯するようになった。
ただしこれは決して「一般論」にはしない。

わたしが死んでも悲しむ人がいないのは、わたしに知人がいないという、それだけの理由からではない。わたしを知っている人間が多ければ、それに比例して、わたしの死を、「喜ぶ」ことはないかもしれないが、内心ほくそえむ人も増えるはずだ。「m」氏を含め。


● こんなブログを書き続けて、なお生き続けていることが苛立たしく腹立たしいと感じている人はひとりではない筈だ。「死ぬのか?生きるのか?どっちかはっきりしろ!」と焦(じ)れている人は・・・
自殺をすれば「迷惑」と舌打ちをされ、生き残っていれば、それはそれでまた舌打ちをされる。そんな人間はわたし一人ではない筈だ。



● インターネットというものは、その存在からして必然的に人間の劣情を惹起する性格を持っている。劣情とは何も女の尻に触りたいという感情だけではない。見ず知らずの人のブログを読んで、「こいつはやく自殺しねえかな」というのも「劣情」である。

北方領土について、安易に「戦争」という言葉を持ち出して島民の怒りを買っている馬鹿な議員(馬鹿な政治家」とはそもそもトートロジーだが)に対して、元キャスターで、現在看護師の石井苗子がツイッターで援護したところ、わたしと同い年の精神科看護師、宮子あずさ氏が激怒している。「看護師に何より求められるのは「倫理観」だ」と。
ひょっとして石井氏は、看護師としてではなく、一個人・・・わたしという一人の人間としての発言だ、というかもしれない(わたしの勝手な憶測である)けれども、正に「素」の、その人の資質「倫理観」こそが問題なのであって、裸の自分には倫理観はなくて、服を着るように時と場所に応じて倫理を纏うなどということがそもそもあってはならないのだ。




●  最後に「ふたつ」さん。コメントへの返事が遅れてすみません。
書いている本人は、2008年頃の日記はともかく、その後、7~8年のブランクをおいて2015年後半から再開して以降、基本的に、スタイルは変わっていないと思っています。
変わったことと言えば、もともと下手な文章が、最近輪をかけてまずくなったということくらいでしょうか。そして内容が愚痴と世の中への怨嗟呪詛ばかりになった。

生きていることがつらくて仕方がないと、今ほど感じていることはかつてありませんでした。
だからといって、それによって筆致が冴えてきているとも文章に深みが現れているとも思えない。今も昔も文章は下手です。そして今は正直読むに堪えるものではありません。

四六時中死のことばかりを考えている今のわたしの文章に惹かれると言われるのが、なにか複雑な気持ちです。



ー追記ー

先日の瀬里香さんのコメントで、この間、「母の日」だったことを初めて知りました。
つい2年前までは、花を、カードを欠かしたことがなかったのに。
「花を買いに行けない」どころではなく、母の日であることさえ知らなかった。
最近は辛うじて、今は何月、ということを知っている程度です。
自分のカレンダーも持っていません。冗談ではなく、既に半分以上廃人です・・・









 


3 件のコメント:

  1. こんばんは。

    返信のことは、まったく気にしませんから、どうぞお気遣いなく。

    ぼくが、このブログに惹きつけられている理由は、自分でもはっきりしませんが、少なくとも、文章の巧拙とかスタイルに関することとは無関係だと思います。

    そもそも、ぼくはほとんど本を読んでいませんから、文章の良し悪しもスタイルについても判断するほどの材料がありません。

    一時期、いろいろなブログを読ませてもらったことがありましたが、ぼくの印象では、どのブログもとても立派なものにしか見えませんでした。

    なんというか、『皆さんそれぞれに、上手な文章を書かれているんだな』と言うような印象でした。
    もちろん、文章の出来に比例して内容もあるとは限りませんが、少なくとも、多くのブログが『ちゃんとカタチに成っているんだなぁ』と思ったものです。

    でも、それなのに、読み続けたブログはほとんどありませんでした。

    たぶん、その点は、内容があるブログを見つけていたとしても、あまり変わらなかったと思います。

    つまり、ぼくは、文章の良し悪しも内容も、読んでやしないということです。

    おそらく、ぼくが読んでいるのは、「TakeoさんがTakeoさんであること」ではないかと思いますね。
    そして、そのことが、前のブログよりも、今のこのブログの方が、より強く感じられるんだと思います。
    それが、Takeoさんの苦悩から生み出されていることは察して余りありますし、そのこと自体を『いいじゃないですか』と言うつもりは全くありませんが、ぼくが、そのことに惹きつけられているのは、確かなことのような気がします。

    もしも、このブログが、ぼくにとって魅力のないものに成って、そのことでTakeoさんの苦悩が、ほんのわずかでも減じることがあるのであれば、そうなってほしいと思いますが、そういう苦悩の中で「自分であること」を捨てられない人から、ぼくは目を離すことが出来ないようにできているんだと思っています。
    (ぼくが、ブルースを聞くのもそういうことだと思います。だから、ぼくは、本当のブルースは、もう無くなってしまったと思っていますが、そのことを、心から喜んでいます。)

    そのことは、特に特別なことではないと思いますが、ぼくは、そういう人間であることを特に悪いことだとも思いませんので、そういう人間のままでいたいと思っています。

    とりもなおさず、ぼくはTakeoさんが死んだときには、悲しむと思います。
    「亀の子」が死んだときと同じく、また、「見慣れた樹木」が切り倒された時と同じく、いや、それと等価であるからこそ、それよりも少し多く悲しむと思います。

    こちらにも、返信は気の向くままに、どうぞ、お気遣いなく。

    では、また。


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  2. Ciao Takeoさん
    私はTakeoさんの辛さを完全に把握できないので、最終的にはTakeoさんの好きなようにすればいいと思っていますが、、( 止めるなんて小賢しい、と言うか無意味に傲慢なことなどできないですし、止めなきゃいけないとも思いません、それはTakeoさんが最終的に取る決断をもはややむを得ない、唯一の選択であるだろうと信じているからだとも思いますが、
    でもTakeoさんが死んだら私は悲しみます。
    お目にかかった事がなくても悲しみます。
    それは遠い日本でまた木が一本伐り倒されたと知った時の慟哭に似ていると思います、てか ほぼ一緒です。

    カレンダーを持たず、カレンダーを追って暮らしていないから半分以上廃人という意見には賛同しかねます。カレンダーなどもはや時間を何時間、何日と言う数や長さでしか、捉えることのできない、それこそ「社会人」という嘘くさい名称の陰に隠れた、動物としての勘や生気をもはや失った生き物が作ったものですし、そんなものに振り回されて、皆と頭を揃えてつるんで生きている事を果たして生きていると言うのかなあとも考えます。

    苦しみなどの一般的に嫌な感情だと思われている感情を感じないように、スルーして生きている小器用な人たちこそが私は半分以上死んでる人間だと思っています。私は苦しさや悲しさこそが生きている証であると思うのです。喜びじゃなくね。

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  3. こんにちは, Takeo さん.

    Takeo さんが苦しみの中にいるということが伝えわってきます.

    その苦しみをどれだけ私が想像できているのか, もしかしたらまったくわかっていないのかも知れません. けれども, 私は Takeo さんの文章や, ブログに載せられた絵や写真や引用, そしてもう一つのブログの絵画などを受け取ることはできていると思います.
    そういうものに, 私は揺さぶられたのです. 不安や無気力・無感動の中にあるときに, 恐怖や怯え, 悲しみではない心の動きを与えてもらっているのです.

    Takeo さんが虚無の中に飲みこまれていくようで恐ろしい.

    少し休みます.

    Takeo さんも休んでください.

    混乱しているせいでまとまりの無い文章になってしまってごめんなさい.

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