(順不同で)瀬里香さん、ふたつさん、あのようなわたしの発言にも関わらず、まるでそんなこと聞いていなかったかのような、いつも通りの自然なコメント、どうもありがとうございます。殊に「人は何故生きられるのか?」へのふたつさんの投稿は素晴らしい。(このような貧弱な語彙しか持たないことを、今更ながらうらめしく感じています)
言い訳のように先の投稿を振りかざすわけではありませんが、頂いたコメントに、今のわたしは何も言葉を返すことができません。
それはなにもこのブログへの瀬里香さんやふたつさんの言葉に対してだけではなく、今、わたしは、人と、それがどのような内容であれ、言葉を交わすことができないと感じています。「思考力の低下」云々というよりも、所詮それだけの、見せかけだけの(今では「見かけに違(たが)わぬ」)「空っぽ」の人間だったということでしょう。
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瀬里香さんが長距離サイクリングの話をしてくれました。疲れたけど、とても気分爽快だと。
わたしに、「疲れたけどたのしかった」なんてことがあるでしょうか?
わたしにはただ「生きていることの倦怠」しかないような気がしています。
近頃時々思うのは、今のわたしにはどのような「時間」が必要なのだろう、
どのような「場所」が必要なのだろう、そして、どのような「人」が必要なのだろう・・・と。
まるでわかりません。実際わたしと「わたし以外の人」、わたし(の内面)と外界(外の世界)との距離があまりにも、まるで別の天体同士であるかのようにかけ離れているからです。
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「わたしは自分と人とを比較はしない。だって所詮は別の人間だし、比較しても仕方がない」という言葉を時々耳にします。「自分と人とを比較する」と言う場合、それは大抵、垂直方向での比較ではないかと思います。どちらがより上か、下か・・・
わたしはよく人と自分を比べます。彼(彼女)とわたしと、「強・弱」「優・劣」「上・下」「大・小」「多寡」といった相対的な比較ではなく、どのように違うか?どこが同じかを比べます。比較します。しかし、これも何度も繰り返していますが、わたしはそもそも「比較」をする以前に、どの人間とも似ていない。
そりゃ学校の校庭くらいの大きさのジグソーパズルの1つか2つのピースくらいは、広大な海辺で見つけた小さな貝殻1個か2個くらい「似ている」部分がある人がいるかもしれない。けれども所詮は「点」。瀬里香さんの言葉を借りれば「接点」ということでしょうか。
わたしは人と人とは「面」で接し合わなければ生きられないと思う人間です。どころか、「全き抱擁」=「他者との一体化」(木村敏)をこそ、今のわたしは乞い求めています。
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最近はよく昔、といっても、まだ友達がいた10年ほど前・・・2000年から2008・9年頃のことですが・・・ほんとうにあんな時代があったのだと思うと、なにやらとても不思議な想いに捕らわれます。そして続けて思うのは、いまここにいるわたしとはナニモノか?と。
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