もう十日以上前にメールを頂きながら、返事を書けずにいる人がいます。(仮にSさんとします。)
毎日気にしています。書かないのでも、書く気がないのでもなく、書けないのです。
大きな理由の一つには、わたしがこの先どうなるのか、まるで見当がつかない、ということがあります。今のわたしは死んではいない。けれども到底生きているともいえない。
そもそもわたしの考えが甘かったのです。以前のように、仲のいい友達ができれば、昔みたいではないにしても、少しは外に出られるようになるのではないか、そんな浅墓な考えを持っていました。けれども現実は、わたしが友達とほとんど毎日のようにどこかへ出かけ、毎週のように美術館に絵を観に行っていた頃とは、まったく違っていました。
ロミオとジュリエットのような、片方が死ねばもう一人も生きてはいけないというような関係であれば別かもしれませんが、わたしにとって今の世の中は、友達ができたくらいで「違って見える」ほど生易しい場所ではありませんでした。(現実に「友達」がいないのにこう言い切るのも変ですが・・・)
今のわたしにとって「救い」とは、最早「安らかにこの世界を去ること」以外には考えられなくなっています。
また現実的にも、現在のわたしは、ここにも繰り返し書いているように、これまで以上に、他者と話が通じなくなっています。
より厳密に言えば、人と話が通じないというよりも、今の世の中に渋々ながらでも適応できている人との齟齬に過敏になってきた・・・ということです。
Sさんはもうこのブログも、もう一つのブログも見てはいないと思いますが、
ここで交わされた「ふたつ」さんと「瀬里香」さんの会話を聞いていて、わたしはとっさに、1980年代に作られた、エリック・ロメール監督の『レネットとミラベル』という映画の冒頭のシーンを想いました。
ふたりの若い女性の友情を描いた「四つの物語」ですが、二人の出会いは、(どっちがレネットで、どちらがミラベルだったか忘れましたが)そのどちらかが、パリに住んでいて、休みに田舎に来て、朝まだきの田舎の道を自転車でひとりで走っていました。途中タイヤがパンクしてしまい困っているところに、もうひとり、レネットだかミラベルだかが通りあわせて、自分の家に案内し、パンクを直してくれたのです。それがふたりの友情のはじまりでした。つまり「自転車のパンク」がふたりの出逢いを作ったのです。
停電から始まる恋もあるでしょう。ケーリー・グラント&デボラ・カー主演、レオ・マッケリー監督のロマンスの名作『めぐり逢い』も、今井正の傑作『また逢う日まで』も、すれ違いの悲劇でした。
予期せぬ出来事を可能な限り排除すること、すべてが予定通りに進むことが現在の至上の価値とされています。決して臨機応変に適応対応できるようなシャープな人間ではないにも関わらず、わたしはあまりにも全てが予定通りに進む、そんな世界を厭います。
とにかく、世界とわたしは、急速に正反対の方向に進みつつあります。
ということは、最早わたしに居場所はないということを意味します。
◇
わたしは自分自身障害者として、「障害者は不幸しか生み出さない」という言葉を、100%否定するものではありません。また、希死念慮を持つ引きこもりの人のブログに書かれていた、「やまゆり園の殺人を肯定はしないが、あの中には、自ら死にたいと思っていた人もいるのではないか?」という言葉を、まったくのナンセンスと退けることもできません。
何故ならわたしも「誰か殺してくれないかな」と、思うことがあるからです。
本当に、金持ちなら、ドクター・キリコかデューク東郷(aka ゴルゴ13)を雇うでしょう(苦笑)
今のわたしには米一粒ほどの希望もありません。
(安らかな)死こそ救いだと思っている人間が、いったいまともな、普通の人間に何を言えるでしょう、というのが、わたしの言い訳ではなく、本心なのです。
今のわたしは新宿や渋谷まで、小一時間電車に乗っている自分を想像できません。
スマホ、タブレットに対するわたしの拒否反応を思う時に、いつも「シックハウス症候群」という言葉を連想します。しかし現実には、スマホに対して、このような反応を示す者は、わたしの知る限り、世界でわたし一人です。何故なら「シックハウス」は化学物質に対する人体の生理的な(正常な)拒否反応であり、一方でわたし固有の「スマホシック」は、要は気の持ちようで、結局単なる「わがまま」に過ぎないからです。
三島由紀夫が、太宰の稀有な才能を認めながらも、「結局彼の根本にある思想・厭世観などは、毎日の乾布摩擦で治ってしまう程度のものだ」と豪語したのは有名な話です。
今更、と言われそうですが、まとまりのない、要点を得ない文章をクダクダと書きました。
最早わたしは、まったくまともなところのない人間(?)になってしまいました・・・
Ciao Takeo さん
返信削除化学物質過敏症と言う症状に苦しんでいる人たちが居ますよね
彼らは、私たちが気づかない掃除の時に使った洗剤や、洗濯の時に使った柔軟剤や化学繊維やらとにかくあらゆる化学物質に身体が反応してしまう、そんな彼らにとって化学物質で溢れかえっているこの今の社会は地獄であり、そこで暮らす事はむしろ不可能なのではないかとさえ思います。
Takeoさんはよく健康という事の定義の話をしていらっしゃいますが、ここでそういう化学物質にことごとく反応してしまう彼らとそれに反応しない私たちとどちらが健康であると言えるのか?考えます。
化学物質のほとんどは毒性がありますから、その毒性を危険なものしてアラームを鳴らす彼らの身体は、むしろ私たちの鈍感な身体より正常に機能していると言えると思いますが、それが日々の生活に支障をきたすとなれば、どちらが歓迎されるかは一目瞭然です。
私もTakeo さんもご承知の通りスマホアレルギーで、スマホを使ってる人を見るとそれが歩きスマホ、子供に使わせている場合などは特に、言いようもない怒りがムラっとこみあげ、歩きスマホの人間の後頭部を張り飛ばすか、背中をど突くかしてやりたいと言う欲求に襲われます。
大学で知っている学生が構内で歩きスマホをしていると、大声で後ろから歩きスマホはいけませーーん。と相手がやめるまで叫び続けます。先週は中国語の教授にもやりました 苦笑
前はこんな事しなかったので、エスカレートしているという事です
つまり、言いたい事は、ある程度鈍感にならなければ、この世は生きていけない、生きていけたとしても実に居心地の悪い思いを始終していなければいけないのではないか?という事です。
多分Takeo さんも私もそういう意味で化学物質過敏症のように、全ての私たちの感性に触るものにふつうの人以上に反応してしまうのだと思います。
でもね、鈍感になる事で気に触る事が少なくなるのだとしても、それは頭痛を痛み止めで誤魔化すように、その存在自体を消しているわけではないのですから
私はそれはそれでそっちのほうが気持ち悪いと思います。
痛み止めなどでごまかすのではなく、痛みは私の身体の声として、きちんと味わいたいと思っていますから。
先日冬眠が越せなかった亀の死をグズグズ悼んでいたら、日本人の友人が私の感情の動きはは19世紀ぽいと言いました。
今は皆忙しくていろんなことが体の中に留まってる暇がなく、
うれしいことも辛いこともそれをきっと体が納得するまで味わうことがないのだと、忘れる事でなんとかやって行ってるのだと言いました。
そういう意味で私は出来事の消化が上手ではありません
それでも、軽快に暮らすために何もなかったかのように悲しみも喜びも味わわないで右から左へと流す生き方をすれば、自分の居心地が良くなるとも思えないのです。
見ないふりして何もないように、全てうまく行っているかのように暮らすくらいなら、
勘に障ること、理不尽な事に不快な思いをしながら苦しんで生きる事、それが決して心に軽い事でなかったとしても、そちらを選びます。
Takeoさんはスマホシックをわがままだと言いましたが、わがままでいいじゃあないかと思います。
私は私の人生、自分のわがままをも堂々と認めて、わがままを存分に言って生きたいと思います。なぜ嫌いなものを嫌いじゃあないふりをしなければいけないのか?その理由も必要性もわからないからです。
嫌いなものを、周りの顔色やら風向きやらで、嫌いじゃないふりをする必要など全くないと、もちろん他人のスマホを止めろという権利はありませんが、スマホにだらだらすがり、溺れている人たちを軽蔑する権利はあると思っています。
なんだか自分でも何を言いたかったのかわからなくなってきましたが、苦笑
つまり無神経、無関心、不感症で漂って生きるよりも、多少の居心地の悪さが伴おうが私は私の繊細さ、突出した好き嫌い、全ての感情を深く味わうことを迷う事なく選びます。
こんばんは、Junkoさん。
削除化学物質過敏症というのは知りませんでした。「シックハウス」という限定された症状だけだと思っていました。
そのような症状に苦しんでいる人たちを「気の毒」だと、果たして、わたしたちに言う資格があるでしょうか?
生物として正しくまともなのは、むしろ彼らの方なのだから。
わたしは彼らのようでなくて運がよかったといえるのか・・・
わたしのブログには40~50代の人たちがコメントをくれますが、そのわれわれが生きて来たわずか4~50年の間に、世界のありよう(つまりそれは人間のありように直結しているわけですが)はまったく変わってしまいました。
昨夜母が子供の頃は、(疎開してそのまま高校まで田舎暮らしでした)「ゴミ捨て場」などなくて、河原に放っていたそうです。それでも、当時のごみは全て有機物で、プラスチックなんてありませんから、多少におうくらいで済んだのです。
残飯は犬の餌だったし、畑の肥料にもなりました。
◇
わたしのこのブログで、過去一年間で、最も多く使われた言葉はおそらく「スマホ」だと思います。わたしは今「醜さ」「グロテスク」を売り物にしたブログを作っていますが、わたしは、「戦争」と「スマホ」以上に醜いものを知りません。「権力」とか「金儲け」とか目に見えないものは除いて。あ、醜いといえば「受勲」だな。
あのかわいい亀、死んじゃったのですか?!友達からもらったんでしたっけ?Junkoさんのブログに貼られてた、亀がいっしょうけんめい歩いている姿に胸を打たれました。
それはわたしが以前載せた、貧しい子供たちが懸命に生きている姿に重なります。
(ちょっと口調変わります)
>今は皆忙しくていろんなことが体の中に留まってる暇がなく、
うれしいことも辛いこともそれをきっと体が納得するまで味わうことがないのだと、忘れる事でなんとかやって行ってるのだと言いました。
でもさあ、それってそもそも「生きてる」って言えるの?「何とかやっていく」って、何を?繰り返すけど、それってほんとうに生きてるって言えるの?
19世紀でも20世紀でも、それはまだ「人間」が人間でいられた時代で、21世紀とは、最早「人間」という概念そのものが変質しているのだってことだよね。
◇
でもやっぱりJunkoさんと、わたしとでは根本的に違います。「好き嫌い」に関しては、Junkoさんはわたしほど極端でも過激でもない。わたしはとても居残りさんなどとは口もききたくない。「人徳」という言葉は、確かに居残りさんのところで幾度か見ましたが、じゃあJunkoさんはその言葉に無縁かというとわたしにはまるでそうは思えない。「m」さんも「人徳」ありますね。彼のブログをたまに覗きますが、和やかです。仲よさそうですもん。
瀬里香さんとも同じことが数回ありました。なんであんな奴、(例えば嫌韓派、右より、天皇万歳)のような人とそもそも言葉を交わすことができるのか?
居残りさんは上記の要素はないかもしれないけど、所詮は日和見の楽隠居。
彼らが今のこの日本を築いたのです。
つまりかつてJunkoさんの逆鱗に触れたように、Junkoさんはわたしには到底考えられないような人たちと平気で口が利ける。
無論それを非難するつもりはありません。Junkoさんが誰かに猛然と怒りを露わにしたのは、過去にわたしだけではありませんか?これは冗談ではなく、これだけ人に対する許容量の大きな人を激怒させたなんて、やっぱりわたしならではだなと思います。
人を不快にさせることに関しては誰にも負けない自信がありますから。
最後に言いたいことがふたつ、
亀の死を心から悼みます。
そして、もうひとつは、Junkoさんのブログは閉じられても終わってもいない。形を変えて続いている。と、わたしには映るいうことです。
ごめんなさい。わたしは「人気がある」というだけで食って掛かる性格なもので・・・人徳があるのはJunkoさんのせいではないのだけど・・・
コメントをありがとうございました。
Ciao Takeoさん
返信削除> でもさあ、それってそもそも「生きてる」って言えるの?
私にとっても、それは「生きてる」とは言えません
それが肉体的痛みであろうが、感情的苦痛であろうが、存在するものを感じずない「麻痺」と言う状態を好都合と認識してそれに甘んじる事は、少なくとも私にとっては、「生きている」事にはならないのですが、これまた健康をどう定義するかと同じ事で、「生きる」と言う事の定義は人それぞれ違うのだと思います。ですから、あくまでも私にとっては、ですが。
ちなみに私は30年以上薬というものを口にしていません
その中でも一番嫌いなのが、「痛み止め」ってやつです。
私を激怒させたのは,,
実際Takeoさんにも激怒はしていません、しかしながら、あの程度のやり取りであれば、しょっちゅうあちこちでやってますよ 苦笑
Saheiziさんのところでも、もちろん私のところでも、、 たまたまTakeoさんの目に留まっていないだけだと、mさんと言うのがどなたなのかわかりませんが、、
子亀は冬眠が越せなくて、固くなっているのを見つけました。
今年の春は、暖かくなった後で、また冬顔負けの寒さが戻ってきて、実際今も寒いのですが、
目覚めたのはいいけれど、その後の寒さに耐えられないかったのかもしれませんが、私の注意が足りなかったと、どうしてもっと早く見つけてあげられなかったのかと未だに申し訳ない思いで重い心で暮らしています。
小さな手足をバタバタ動かし、生き残ったもう1匹の子亀より元気な子でした。
庭で偶然見つけた時の事を思い出すたび、そして生き残った子亀を散歩に連れて行くたびに、もう1匹いた彼女の不在を悼みます。
そうですね
私が人間もよりはるかに動物の方が好きなのは、彼らが懸命に生きているからかもしれません
亀の死を悼んでくださってありがとうございます
いろんな人が私があまりに悲しんでいるので、残念がったり、慰めたりしてくれますが、彼らの誰一人も私の残念さの真の深さをわかっていない事が感じられます
彼らにとっては、残念だけど所詮亀の死なのです。
私にとっては、誰か人間の死も伐られた木の死も、そして小さな生き物の死も全く同じ重みを持ち、その死を悼む気持ちは同じだと言うことをわかる人はいません
そのことを、私の友人は私の感情の動きは19世紀ぽいと言いました
たしかに、私の暮らしのリズムは、他の人のリズムに比べて極端に遅く、一個一個の感情を消化するのに非常に時間がかかります。
これでも随分強くなりましたが、身体の傷はすぐ治るのですが、心の傷はいつまでも口を開けています。
でもTakeo さんが書いてくださったこの一言にTakeoさんは誰よりも私の思いをわかってくれている、本当に彼女の死を悼んでくれている、そう感じ、涙が出ました。
ありがとうございます
庭の片隅に彼女のお墓を作りましたが、まだ土をかける勇気が出ずに、毎日庭のお花を摘んではかけてあげています。
1週間、と思いましたが、すでに1ヶ月以上経っています
心の中で、奇跡が起きてある日ちょこちょこ出てきてくれないか。と思っているのです。
今日は、うちの猫が殺生してしまった蛇も一緒に入れてあげました
「ペットセメタリー」と言う映画を観たことがありますか?
とても怖い映画でしたが、その映画を思い出しました。
上の方のコメントで、ちょっとしたことがあったので、今どうしようかと思案中です。
削除お返事、ちょっと遅れます。
一言だけ。
わたしは見慣れた樹が一本伐り倒されただけで、もう生きて行けないかもとさえ思う人間です。一本の樹、小さな亀の子の死が、人間の死より軽いという感情がそもそもわたしには理解できません。
寧ろわたしは人間に対しては冷淡かもしれません。少なくとも、人間「人類?」よりも動植物の方が好きであるということは言えるでしょう。