2019年5月23日

或る狂人の述懐(ふたつさん、Junkoさん、底彦さんのコメントに触れて…)その1「ふたつさん」


今のわたしの精神状態・・・いや、心身の状態で、まともな文章を書くことは不可能であることを予め断っておきます。

毎度のことながら、わたしの拙文にコメントを寄せてくれる4人(上記の3人、そして瀬里香さん)のコメントの質は、それ自体が、わたし自身の投稿に勝るほどのクオリティーを持っているので、とてもそれらに対して、的を射た返事を書くことはできません。
的外れどころか、却って彼らに不愉快な思いをさせてしまうかもしれない。
「私が言いたい(言っている)のはそういうことじゃないんだけどな・・・」と思われるであろうことは、容易に想像できます。

それでも、彼らの言葉を受け止めて感じた(ている)ことを拙い文章に認めてみたいと思います。今更本音を隠して物を言うつもりはありません。阿呆が感じたままをそのまま書きます。



「断想」

こちらに寄せられた3人の文章を丸ごと引用しようとしましたが、逆に読みにくくなるかもしれない。そこで、それぞれのコメントから抜粋引用して、それについての感想を書こうと思います。

>つまり、ぼくは、文章の良し悪しも内容も、読んでやしないということです。
おそらく、ぼくが読んでいるのは、「TakeoさんがTakeoさんであること」ではないかと思いますね。


ふたつさん。SNSが主流の今の時代、ブログ、(二階堂奥歯のブログは、当時は「ウェブ日記」と呼ばれていました。)は既に時代遅れのメディアだと思います。
そんな中で敢えて、ブログを書く人というのは、良かれ悪しかれ自分の主張、オリジナリティーを持っている人ではないでしょうか?

つまりふたつさんの言われた、「TakeoがTakeoである」のと同じように、皆がそれぞれ、「自分自身」である場、それがブログではないでしょうか?何もわたしだけが、「わたし」を保持しているわけではない、と思うのです。

ふたつさんがわたしのブログに惹かれる理由が、「書き手が書き手そのものであること」であるとすれば、わたしのブログも、辺見庸のブログも、「m」氏のブログも、その点においては同じではないか?

少なくともわたしはそのような気持ちを持っているので、当然重視されるのは
文章のスタイル=言葉の選び方、文体、そして書かれている内容です。
文章に劣等感を持っているわたしは、スタイルのある文体に惹かれますし、また、本を読むのと同じように、自分と同じような価値観を持つ人のブログを好みます。

わたしには、「書き手が書き手でないブログ」というものが、そもそも想像できないのです。

わたしがJunkoさんや瀬里香さんに、「あんなことをブログに書くようような人間と、ネット上とはいえ交流がある人とは付き合えない」と断交宣言をしたのも、「あんな奴ら」がそれぞれに、「わたしの大嫌いな」「自己」「自分の意見」を持っているからに他なりません。


>もしも、このブログが、ぼくにとって魅力のないものに成って、そのことでTakeoさんの苦悩が、ほんのわずかでも減じることがあるのであれば、そうなってほしいと思いますが、そういう苦悩の中で「自分であること」を捨てられない人から、ぼくは目を離すことが出来ないようにできているんだと思っています。

このブログが、ふたつさんに限らず、今現在、継続して読んでいる人、不定期に訪れている人たちにとって、まったく「興味」を唆られないものになることは、正直言って時間の問題だと思っています。けれどもそれは、わたしの苦悩が軽くなり、普通の人間に近づいてきたということを意味しません。

この二つは確信をもって言うことができます。
わたしのブログは日を追って、つまらない「繰り言」になるでしょう。そしてわたしの狂気は愈々(いよいよ)悪化の一途を辿るでしょう。

ふたつさん、「自分であること」を放棄できる人って、どういう人でしょう。
また「自分であることを放棄する」とはどのようなことでしょう。
自殺とは、自分が自分であり続けるために、わたしがわたしとして生き続けるために残された最後の手段ではないでしょうか。

以前も書きましたが、わたしは尾崎豊という人の歌を『卒業』という1曲しか知りません。あるブログに彼の『十六歳の地図』(だったかな?)という歌の詞の一節が引用されていました。

そこにはこう書かれていました

「勝ち続けなければならない 僕が僕であるために」

前後の文脈はわかりませんが、それがいかなるものであれ、これはわたしの価値観、美意識と真っ向から対立します。

僕が僕であるためには「勝ち続けて」いてはダメなんだ。「勝ち続けること」によってしか維持できない「ぼく」「わたし」ってなんだ。
勝つことで得られるものってなんだ。

わたしはブルースを知りません。けれども、少なくとも、敗者であることで初めてBluesの味がわかるし、『マタイ受難曲』が、『悪の華』が身に染みるのだと思っています。
ブルースは、'Blue'という心の在り方を知っているものにのみ語り掛けてきます。ではブルーズの心とは何か?それは「虐げられし者」「弱者」「苦悩を知る者」・・・
嘗て「美と悲しみを知る者だけを私は愛する」とオスカー・ワイルドはいいました。
「俺も昔はさんざん泥水を啜ってきたよ・・・」と自慢をする者がいる。笑止!
所詮成り上がりものの知るところではありません。

強者とは、勝者とは、畢竟めくらでつんぼの謂いである。わたしはそう思っています。



























2 件のコメント:

  1. こんにちは。

    確かに、Takeoさんのおっしゃるように、みんなが「自分であること」を表現しているのが、ブログの本来の姿なんだと思います。

    しかし、ぼくには、現実にそう成っているようには見えませんでした。

    これも、また、おっしゃる通りだと思いますが、インターネット上におけるメディアの先端はSNSに移行したと言っていいんでしょうが、そのことが、現在ブログを続けている人が、「自己表現」を重視していたり、そこに多くの力を使っているということに直結してはいないような気がします。

    むしろ、どちらかと言えば、SNSと言う「より自己表現から遠く離れたメディア」が出現したということに近いと、ぼくは思っています。


    さて、そこで、どうしてブログなどのような本来ならば「自己表現」であるはずの媒体において「自己」を表現する人が少ないのかと言えば、現在に生きている人間には、「既成概念」が刷り込まれているからだと思います。

    少なくとも、「マスコミ」と「教育」が一般に普及した世界においては、この「既成概念」の影響が、あまりにも強く、そこから逃れることはほぼ不可能と言ってもいいほどだと思います。
    そこで、現在「自分」と言うものを、完全に「既成概念」から切り離した形で把握できている人は、まず居ないと言っていいでしょう。

    だから、すべての人が、「既成概念」に、何らかの影響を行けていると思いますが、ただし、そこから、ほんの少しでも逃れて、「一滴の自己」をそこに見つけ出そうとしている人は居ると思います。

    たとえば、Takeoさんが、相手の言動に対して、憤りを感じることがあるとして、その時、その人の言動の「内容」に対して納得がいかない場合と、その人がナニカを発言することに対する「そもそもの根本的な姿勢」に対して違和感を感じる場合があるんじゃないかと思います。

    Takeoさんは、「内容」に関することであれば、自分の考えと違う考えであっても受け入れられる人のような気がします。
    (例えば、右翼思想を持っている人でも受け入れることがあるように)

    しかし、その人に『これが常識なんだから、これが正しいのだ!』とか、『そんなことは、有名なダレソレがもうとっくに言っていることですよ!』と言うようなことを言われた場合は、おそらく受け入れられないと思うんじゃないでしょうか?

    こんなことを言えば、当たり前のことのように聞こえてしまうでしょうが、実を言えば、ほとんどの人が『常識だから~』や、『有名な~』の方を選択してしまいますし、右翼に対して否定的な考えを持っている人が右翼を受け入れれば、それを「矛盾」と解釈します。

    基本的に、「社会」が供給している「教育」や「常識」などの「情報」は、すべて「社会」にとっての都合で配布されていますから、「社会」と対立する「個」を認めないように出来ているわけで、そういう「情報」の中では「個人」は完全に排除されることに成ります。

    従って、「個人」による「固有の考え」と言うようなものは、「社会」に有益なものとは判断されずに、どんどん末端の片隅に追いやられていくことに成るわけです。
    (場合によっては、「害毒」と判断されて、迫害されることに成ります)

    「社会」は「個」を「部品」とみなして使役するものだと考えています。
    つまり、「社会」とは「人間」によって構成されている「組織」ではなく、「社会」と言う独立した「一つのモノ」であると考える次第です。

    だから、当然、「その構成要素」である「個人」は、「一つの部品」として機能することを求められますし、「社会」にとって有益であるかどうかで、すべてのことが断じられてしまうわけですね。


    以上のようなことにおいて、「社会」が、「社会にとって最も都合のいい情報」として「部品」である「個人」に対して配布しているのが、「既成概念」と言う情報なんだと思います。

    しかも、その「個人」を踏み倒す「既成概念」が、公然と「教育」や「正しい情報」として、一方的に大量に流されて、刷り込まれているということです。


    ぼくは、「社会に対して従順であること」を、「悪事」であるとは思いませんが、「社会」に対して反抗する者を排除したり、叱責したりする行為には嫌悪感を感じてしまいます。

    それとは、反対に、ぼくは「社会に対して反抗するという行為」に注目せずにはいられませんし、それを「善行」であるととまでは言いませんが、個人的には賛美せずにいられないわけです。

    まぁ、一言で言えば、このブログは、ぼくにとって、そんな風に見えるということです。
    つまり、「個」であり続けようとすでる姿勢であり、そのために「社会」を拒絶しようという無謀な試みの連続ということですね。

    ぼくは、そこに拍手を送り続けますよ。

    どこかの誰かが、『ただ単にスマホに悪態をついているだけだろ』と言っても、『死ぬ死ぬと言って死なないじゃないか』と言っても、そんなことは全く気に成りませんね。

    だって、それは「人間の言葉」ではなく「社会の言葉」ですから、「社会」が「社会に都合のいいこと」を言っているだけですから、一見すれば、「人」が言っているように見えますが、それは「人と言う部品」に過ぎませんから、だから気に成りません。

    取り合えず、ぼくは、このブログをこれからも見せていただきたいと思っています。


    かなり、話が飛躍してしまいましたが、今後もよろしくお願いいたします。

    では、また。




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  2. こんにちは、Blueさん。今日はほんの一言です。
    明日は最高気温が34度になるやうなので、どうが充分にご自愛くださいませ。

    わたしは明日は自転車で滋賀県の琵琶湖と彦根城下を走る予定です。
    来週、中三の息子が東京・横浜に修学旅行に行きますので、関東地方の皆様よろしくお願い申し上げます。


    わたしは2008年頃からずつと、Blueさんのブログは居心地が良いと感じます。

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