2021年9月30日

絵を観ること、世界を見ること 

松浦寿輝は、エッセイ集『青の奇蹟』の中で、ニコラ・ド・スタールの絵についてこのように語っている

見ることの至福とでも言おうか、まなざしの法悦とでも言おうか。
ニコラ・ド・スタールのタブローと向かい合って幸福にならない人間がいるとは信じられない。
 (略)
彼のタブローにひととき視線を遊ばせていると、精神の奥底まで心地よく揉みほぐされてゆくような気がする。人体を知悉した整体師の指先が骨の歪みを探り当てて矯正してくれるように、ド・スタールの色と形の戯れは、わたしたちの感覚と精神の内部に潜む不均斉を正し、曲がっていたものをまっすぐにし、外れていたものを元の位置に戻してくれるような気がする。わたしたちはさわやかに覚醒し、混濁のとれた視界に瞳を見開いて、いったい、世界とはこんなに明るかったのかと改めて驚くことになる。要するにこれは、幸福な絵画なのだ。
 (略)
ほとんど暴力すれすれの荒々しい原色を大胆に駆使する彼の画面構成は、人を優しく慰撫するというよりはむしろ、あたかもこちらの体のツボをぐっと押してくるような強い力の一撃となって、文字通りわたしたちを撃つ。その一撃によってようやく視覚と精神が正常に働きだしたかのような快感を、わたしたちは享受するのである。

「眼の法悦から「見ること」の冒険へ ── ニコラ・ド・スタール」(初出1998年)
(太字・下線は引用者)


なんだか指圧やマッサージの効能と快感を滔々と述べているような気がしないでもないが、
そもそも、絵を観るということは、あるひとりの人間の精神の、感覚の、特殊性を観ることなのではないか。強いて言うならば、わたしたちは、今目の前にある、一個のにんげんの「感覚と精神の内部に潜む不均斉」をこそ享受しているのではないだろうか?わたしの好きな画家、シャイム・スーチンの絵など、これ以上ないほどにゆがみ、たわみ、ねじれ、屈折屈曲している。その歪みや撓み、捻じれが、わたしの内面のそれとピタリと重なり合うこと。そこに彼の絵を見ることの歓びが生じる。

そもそも芸術作品が正すべき、または矯正し得るという精神や感覚の歪みとはなんだろう?

腕のいい整体師に全身を揉みほぐされ、躰の歪みを矯正してもらい、翳りひとつない晴れ渡った精神を以て、わたしたちは果たして絵画の美を感受できるのだろうか?

そこに傷みがあり、苦悩があり、悲しみがあるからこそ、タブローに表出された闇(病み)に同調できるのではなかったか?心身ともに健康健全な者に、そもそも芸術の味わいが分かるとは思えないのだ。

そのとき、単なる目の悦びを越えたところで ── 偉大な画家のタブローについて必ず起るように ── この画家は、世界を、人間を、ものを、要するに世界を、これほど深く、豊かに見ているのかという驚きが、改めてわたしたちにやってくるだろう。


絵というものは「眼」で見るものではない、世界もまた同様である。 わたしたちはそれぞれの魂によって絵を、世界を感得感受しているのだ。

内面の屈託屈折なしに我々は一枚の絵の深みも、世界の美醜をも見取ることはできないだろう。絵を観る快感とは、他ならぬ、わたしたちの内部の穢れや濁り、汚れ、爛れや膿んだ古傷と、作品に叩き付けられたそれとが照応し合うという稀有な邂逅に恵まれるということに他ならない。

真の芸術とは誰(た)そか彼かの夕間暮れ、日没の寂光の裡に出逢うものである。

嘗て種村季弘はいった

「五体満足なら踊る必要はない」と。

美の女神は跛である・・・

(無論今日の「健全なる」パソコンが、跛(びっこ)なる文字に変換させるはずがない。)









2021年9月29日

ムード・インディゴ ー フランク・シナトラ




You ain't been blue; no, no, no. You ain't been blue, Till you've had that mood indigo. That feelin' goes stealin' down to my shoes While I sit and sigh, "Go 'long blues". Always get that mood indigo, Since my baby said goodbye. In the evenin' when lights are low, I'm so lonesome I could cry. 'Cause there's nobody who cares about me, I'm just a soul who's bluer than blue can be. When I get that mood indigo, I could lay me down and die.

*



嘗てこんなことを書いたことがあります。


「あい」と言う文字を打って変換したら藍という文字が出来た。

ほんとは「愛」という字を打つつもりだった。

「青は藍より出でて藍より青し」・・・

青(BLUE)は愛(LOVE)より生まれ 愛よりもブルー か・・・


13年前、2008年のブログからです。

「ムード・インディゴ」というタイトルはそんな気持ちから付けられたのかもしれません。

(ちょっとこじつけ)








お詫び

実は昨日の投稿について「お詫び」の投稿をしようと考えていました。

わたしの書いた

「コメントをしなくても黙って共感してくれている人だっているかもしれないという言葉を聞く。確かにそういうことも言えるかもしれないが、ことわたしに関して言えば、声が聴こえないということは、存在しないことと同じに思えるのだ。

また

孤立無援の中で、自分が納得できる文章を書く。それはこれまでもやってきたことじゃないか。」



これらの言い草は、明らかに、声なき読者を無視しているという、甚だしい非礼であったと思い返しています。

現にわたしの前の前のブログ「Nostalgic Light」からも、更には「楽天ブログ」からも、大挙して・・・とまでは言えませんが、数名の方が訪れてくれています。

コメントをもらえること、わたしの書いた文章についての感想が聴けることは、なによりもうれしいことに違いありませんが、黙って見守ってくれる方たちも確かにいるのだと・・・そう信じたいと思っています。何故そのような言い方をするかというと、自分の書いたもの・・・(以前の投稿にも書きましたが、「孤立と、独特の認識の化け物」の書いたもの)に共感してくれる人がいるということが、自分自身で想像するのが非常に困難だからです。しかしだからと言って、それをあのような形で表現すべきべきではありませんでした。

自分の未熟な表現を愧じるとともに、改めてわたしの礼を失した発言に対して、深くお詫びします。

拙文を読んで下さっているみなさん、もうしわけありませんでした。
そして、ありがとうございます。







2021年9月28日

再び、書くということ

 先のブログの最後の投稿が8月28日。今日で「ぼく自身 或いは困難な存在」の更新がストップしてちょうどひと月になる。ある読者から逃れるようにこちらにやって来て、これまでに二十数回の投稿をしたが、まったく反応がないので正直へたばっている。
もともと、「読者の数と文章の質とは反比例する」という自負を持ってはいるが、そのように傲然と構えていられたのも、これまでは曲がりなりにも、それが自分自身にとってだけであっても、それなりに納得のいく文章が書けていたからだ。
それがいまは書けない。
(なんだかこのブログに移って来てから、書くことと言えば「書けない書けない」というボヤキばかりのような気がしないでもないが・・・)

では具体的には反応のあるなしは何が規準なのかといえば、単にPV(ページヴュー)の数字だけではなく、わたしの文章、わたしの考えに対する意見が聞きたいのだ。
「山高きが故に貴からず 樹あるを以て貴しとなす」という俚諺に倣えば、PVの折れ線グラフが急勾配で上昇することよりも、ポツポツと、雨垂れのようであっても、読んでくれた人の声が聴こえた方が遥かにうれしいのだ。

コメントをしなくても黙って共感してくれている人だっているかもしれないという言葉を聞く。確かにそういうことも言えるかもしれないが、ことわたしに関して言えば、声が聴こえないということは、存在しないことと同じに思えるのだ。けれどもそれは所詮無い物ねだりというものなのだろうか?
つまりわたしには到底コメントを貰えるような文章を書くことはできないということなのだろうか。

どちらにしても今は自分のブログが、書いている当人にしか見えていないのではないかと不安に駆られるくらい、このブログは深い森の中のように静まり返っていて、他者の気配がまるでない。そのことがわたしの気分を更に昏く沈み込ませ、その結果、自分だけでも納得のいく文章さえ書くことができないという悪循環に陥っている気がするのだ。

大勢の読者に支持されることは端から求めていない ── そもそもわたしの書く文章でそのようなことを求めようがない ── 閲覧数の多寡がそのまま文章のクオリティーを反映しているとも思わない。それにしてもわたしはこの静寂の中で独り書くことを学ばなければならない。それを学ぶことができないということは、「最早書くことはできない」ということをただちに意味するからだ。

孤立無援の中で、自分が納得できる文章を書く。それはこれまでもやってきたことじゃないか。
やむを得ぬ事情によって場所を移ったとはいえ、先のブログとこのブログがいまだに連続しているということは言うまでもない。無論、以前書けていたということは、何ら「今も書ける」ということの保証にはならないが、時々後ろを振り返り、自分の足跡を辿ってみることも、少しは慰めには成るだろう・・・

◇◆◇


主なる神よ!願わくは聖寵あって、私がせめて人間の最下等の者ではなく、
     私の軽蔑する人々よりも劣れる者ではないと、
     私自らに証明する、佳き数行の詩句をして、この手に成らしめよ。

     ーシャルル・ボードレール







2021年9月27日

『手をめぐる四百字』より、 多田智満子

 最後の握手 多田智満子

おすわり というとすわる
前脚をお姫様のように品よくそろえて

お手 というと左足をあげる
人の手と 犬の≪手≫の 握手

(弾力のあるぼこぼこの掌は 地面と同じ温度 しかし冬でも暖いことがある まるくなって寝ていた時だ)
おかわり というと右足をあげる
もう一度 握手
これがご飯の前の儀式

きのうわたしは最後の握手をした
獣毛に覆われた全身を バスタオルでくるむ前に

その手は硬く 冷えきって
両の掌に包んでも暖めることはできなかった




「最後の握手」という悲しいタイトルの短い文章である。

こころから愛したいのちが永遠にうしなわれてしまったのち、人はどのように生きつづけることができるのだろう。
このことが常に大いなる疑問としてある。
犬がいた時の生活と、彼女をうしなってからの生活は大きく変わる筈である、
人は何故そのような(愛情が喪失した後の)変化に順応できるのか?

以前にも書いたように、毎日眺めていた一本の樹が伐り倒されただけでも、わたしの一部が失われる。

自分が愛するものに囲まれている時にのみ、「私」は「私」でいられる。
逆に愛するもの(こと)が存在しない時、わたしという存在は単なる形骸に過ぎない。

何度もいうように、わたしの生きる根拠はわたし自身の内部には無い。
愛する人や愛する犬、毎日愛でている樹々や植物が、わたしを取り巻くことによって、わたしという生命を「生かしめている」のだから。


土居健郎の『甘えの構造』は、英訳版では、" The Anatomy of Dependence " というタイトルが付けられている。「ディペンド」とは「頼る」Depend on you は「きみを頼りにする」という意味だ。わたしは『甘えの構造』を読んだことがないが、そもそも日本語の「甘える」と、英語の Depend 「頼る」とは、似ているようでまったく異なる概念のように思われるのだ。

犬を愛することが甘えだろうか?樹や花を愛でること(=愛すること)は「甘え」だろうか?
I Love You!」とは「甘え」の表明なのだろうか?

繰り返すが、わたしの存在は、わたしの外部に存在するそれらに支えられている。
「愛することによって生かされている」ということが甘えと呼び得るのだろうか?

ドストエフスキーは、「地獄とは、最早何ものをも愛することができない(愛し得ない)ことである」という。
つまり、人は愛されること(だけ)ではなく、なにものかを「愛すること」='Depending' によってはじめて生きることができるのだ。










2021年9月26日

今日の一枚 フレデリック・レイトン

Flaming June, 1895, Frederic Leighton. English (1830 - 1896)

フレデリック・レイトン「フレーミング・ジェーン」(1895)

*

" It’s better to live your life in dreams than in reality"

ー Marcel Proust

*

「人生は、それを生きるよりも、夢見た方がいい。
もっとも生きるとは夢を見ることかもしれないが・・・」

ーマルセル・プルースト





 

わたしの「手をめぐる四百字」

 「最期までの味方」 Takeo 

 有名人の死にさして驚いたことはないが、唯一例外がある。俳優ロビン・ウィリアムスが縊死した時である。わたしの知っている彼は、笑わせることのできない人などいないように感じられた。
 一方、「浪速の爆笑王」こと桂枝雀師匠が、自宅で首を吊り意識不明の重体、という報に接した時には、心のどこかで「やっぱり」という気持ちはあったが、ロビン・ウィリアムスの時のような「驚き」や「意外さ」は感じられなかった。
 写真家ダイアン・アーバス、詩人シルヴィア・プラスはそれぞれ、オーブンに頭を突っ込んで自死した。
 ロビン・ウィリアムスや枝雀師匠の首に巻かれた「ロープの輪」を作ったのも、オーブンのガス栓を開いたのも、自身の生死を問わず、持ち主の意思に従う手であった。手は無言で「自分らしく」生きることを手助けしてくれる、最後の最後まで「わたしの」味方である。







2021年9月25日

「手」の温り

 手許に文化出版局発行の季刊誌『銀花』に掲載されていた『手をめぐる四百字Ⅱ 女たち』という本がある。勿論図書館から借りたものである。先日紹介した『最後に残るのは本』と同じように、各分野で活動活躍している53人の女性たちが、それぞれ日頃愛用の原稿用紙に手書きで、「手」についての様々な想いを綴ったものである。表紙にも「手書きエッセー」と記されている。出版は2010年。執筆されている方々の中には既に他界されている方も数名いらっしゃる。

作家であるが、それよりも、「谷中・根津・千駄木」の地域の文化・特色について書かれた冊子、『谷根千』の主催者として知られている森まゆみさんの「手蹟」という文章を引用する。


「原稿は手で書く。A4判の用紙にオノトの万年筆を使っている。著者もだんだん手書き派(?)は少なくなる。ワープロ原稿よりもらったとき断然うれしい、と担当の編集者は言ってくれるが、それとてファックスで送るので、自筆稿が残るわけではない。一人だけ、手書き・郵送の著者がいて、その生原稿だけは大事に取ってあります。と彼はいった。
 昔はそういう編集者から文学館に収まったり、古書界に流れたものだが、みんなワープロ、パソコンになったら、文学館は成立しない。
 樋口一葉の手稿を見た。罫のない薄紙に毛筆のつづけ字。日記の刊本は句読点がなく読みにくいが、手稿では息をつぐところで墨をついでいるのがまざまざとわかる。読点はないが余白がある。いま一葉の本を書き終えたばかり、最後は手の内に入った話になった。」


誠に情けない話で、自分でも嫌になるが、直筆の文字が読みにくい。
森さんの次の頁には矢川澄子の「手はシャイです」という文章。これは断然読み易い。

正直に申し上げます。自分の字でいちばん気に入っているのは、何気なく書き捨て、書き流した時の字です。つまり下書き原稿のそれで、思うことを書き表わすことのほかに、手はいっさい余念ないのです。でもそれは滅多に人前に出せるものではなくて、浄書がすめば紙屑籠行きです。

わたしが矢川さんの手稿は読み易いといったのは、これは矢川さんが一番好きな、書きなぐり、書き流した文字ではなく、「浄書」したものだからなのだろうか。

矢川さんが澁澤龍彦と過ごした10年間を綴った著書のタイトルは『おにいちゃんー回想の澁澤龍彦』だが、わたしが40代の頃、6年間親友としていつも傍にいてくれた20歳年上の女性は、わたしを「あんちゃん」と呼んでくれていた。詳しい話はここでは省くが、わたしたちは年の逆転した、そして一緒にいるときには子供の様になれた兄と妹のような関係であった。(いうところの「賢妹愚兄」というやつか・・・)とてもあたまの良い女性だったが、子供の様な字を書いた。わたしは誕生日やクリスマスに彼女からもらうカードがなによりも好きだった。癖のある字の方が、ペン習字のような味も素っ気もない型にはまった文字よりもはるかに好ましい。極論すれば、手蹟に「上手も下手もない」のだと思う。

手紙やカードなど、その人の「手」で書かれた「紙」 をもらうのは殊の外うれしい。

おそらくわたしが特殊なのだろうが、わずか四百字の原稿を読むのにこれほど時間がかかるとはつくづく情けない。

ブログを通じて知り合ったSさんは、伊東屋で万年筆を買って、ブログのほかに、自分の心の裡をありのままに綴る日記を書いているという。頭が下がる。

森さんの手稿の話ではないが、世の中から「手紙」というものがなくなりつつある気がする。全く同じことが書かれていても、手書きの文字と、ディスプレイ上の規格化された文字とでは、そこに込められた情報量が「圧倒的に」違う。

「言外」という言葉がある、「行間を読む」という言い方をする。言葉に明示されていない、言葉の裏に隠された暗示や機微を読み取るということだ。
紙の本ならまだしも、電子書籍とやらだか、スマホやタブレットでやり取りするメールから、行間を読む、言葉の陰に潜んでいる別の意味を読み取るということが本当に可能であるのか訝る。

昔から「文は人なり」といわれる。確かにその通りかもしれない。けれども、今こうしてわたしがタイプし、あなたが読んでいるこの文字の連なりには、手書きの文字(文章)のような「貌」がない。
「文は人なり」という以上に「文字(手)は人なり」であったということを改めて思う。

便利に、手軽に、効率的に、スピーディーにということばかり追い求めて、わたしたちは生身の人間としてこのうえなく大事なものを次から次と我から放棄している。

手紙、手書きという文化の衰退は、人類にとって途轍もなく大きな損失であると思われてならない。

「手のぬくもり」がなつかしい・・・


祖母が息をひきとって、

かわいがられた孫が

つめたくなった手を合わせてあげたとき

静脈はしおれた蒼い花だった。

ー 須賀敦子

(その須賀さんも、もうこの世にはいない)








2021年9月24日

大いなる疑問、精神科入院という摩訶不思議(或いは野戦病院)

以前から精神科病棟に入院するということの意味がわたしにはわからなかった。

数週間、或いは数か月間病棟にいて、精神科医と呼ばれる人に「良くなった」「回復した」──そもそも「良くなる」とか「回復」という言葉の意味もまるで分からないのだが ── との判断が下され、「入院」が解かれ「退院」する。

では「退院」したわたしはいったいどこへ行くのか?

何処へ行けばいいのか?

病院の外の世界は、わたしをたった今出てきたばかりの病棟に籠らなければならなくさせた世界ではないのか?

今自分が立っているこの世界(乃至社会)との絶対的な不協和が、不可避的な断絶対立が、わたしを六号室のマットレスの上に押し倒したのではなかったのか?

医師はわたしの状態は「改善」されたと判断したらしい。

けれどもわたしを病院に送り込んだその当事者である「社会」の方は、わたし同様に「良くなって」「回復」したのか?

精神科病棟から「退院」したわたしが出てきたところは、いったいどこなのだ?






「塵は塵に」「砂は砂に」

Untitled, 1959, Ralph Eugene Meatyard. American (1925 - 1972) 

「無題」ラルフ・ユージン・ミートヤード (1959)

*

“ Real friends are very special, but you have to be careful because sometimes
you have a friend and you think they are made of rock, then suddenly you
realize they're only made of sand. ”

ー Maria Callas (1923 - 1977) 

*

「現実の友だちは特別な存在よ。でも心得ておくべきことがあるわ。
あなたが友だちを持った時、友人は力強く頼りがいのある岩だと思わないこと。
さもないと、いつかあなたは友人が頼もしい岩なんかじゃなく、指の間からさらさらとこぼれおちる砂だったということに気づかされことになるから・・・」

ー マリア・カラス








死を前にして アナトール・フランス

 ノーベル文学賞を受賞し、死後国葬に附されたアナトール・フランスの最期の叫びは「ママン!」だったという。




2021年9月23日

My Favorite Jazz


カーリン・クロッグ「バイ・マイセルフ」(1964) 

Karin Krog - By Myself, 1964

Recorded at  Aarhus Lydstudie
July 15 & 16, 1964









納豆と世界

わたしには好きな言葉がいくつもある。「座右の銘は?」などと訊かれれば口籠ってしまうが、「好きなことば」がある。(それは「趣味は?」と訊かれて答えることが出来ず、「好きなモノ・好きなコト」なら挙げられるという心理に似ている)

その一つが、(これまでも屡々引用しているが、)アナイス・ニンの次のような言葉である。

” We don't see the world as it is, We see the world as we are. ”

「私たちは世界をそのあるがままには見てはいない。私たちは世界を私たちがあるように見ている」

わたしはこの言葉をあるアメリカ映画で知った。(邦題『キッシング・ジェシカ』というマイナーな映画である)

成程世界はわたしたちとは無関係に、わたしたちの周囲に厳然として存在している。
しかしその客観的な世界を、わたしたちが感知することはできない。

卑近な例をあげるなら、「納豆」が美味いかマズいかに客観的な基準は存在しない。
納豆を美味いという人には納豆はおいしいのであり、納豆は嫌いという人にとって、納豆の美味さは存在しないということと同じである。
言い換えれば、納豆が美味いかマズいかはまったく個人個人の味覚に因る。「納豆」「くさやの干物」、「ラッキョウ」の美味しさを分からないなんて悲しいじゃないの・・・と言われても、わからないものはわからないのである。

つまりわたしたちは世界や社会の在り方を、その美醜を、納豆が美味いかマズいかというのとまったく同じレベルで認識している。納豆がマズく、世界は醜いと感じている者に、「本当は」納豆はおいしく、世界は確かにうつくしいのだと説かれても、それは通じない。


けれども、アナイスは、人間を固定したものであるとは言ってはいない。彼女は「私は世界を、(いま現在)私があるように見ている」と言っているのだ。

いうまでもなく人間の気持ち、気分は変わる。「ころころ変わるからココロってなもんだ!」(これは森繁の喜劇で覚えたセリフ)

20代までわたしはジャズをまったく受けつけなかった。理屈ではなく、どのジャズのレコードを聴いても、1分もしないうちに頭が痛くなるのだ。
ところがある日、新聞を読むことさえ気怠い午後のまどろみの中で、ビル・エヴァンスの『ポートレイト・イン・ジャズ』とコルトレーンの『バラード』のLPを何気なしにかけていると、なんの抵抗もなくすんなり、心地よく音楽が耳に入ってくるのだ。以来数年間、聴く音楽はジャズオンリーになった。
渋谷、神保町、新宿の中古レコード店に足繁く通い、ジャズのレコードやCDを漁った。

嫌いだったものがある日を境に、ある出来事をきっかけに突然好きになることは別に不思議じゃない。

しかしそれとても、アナイスの法則から外れてはいない。

いづれにしても、納豆の美味さやジャズの心地よさというものが、わたしから離れて存在しているわけではない。世界はわたしたちの生理と五感によって感知認識される。それをわたしたちは「センス」(’Five senses’のセンスと同義である)と呼び「美意識」と呼ぶ。

わたしという個人(=個体)の感受性と美意識を離れたところに、「本当の」世界も、納豆も、ジャズもありはしない。

蛇足を付け加えるなら、わたしは納豆好きである。豆腐屋でありながら豆腐はあまり・・・








2021年9月22日

無題

時折、自分を解放してやることが、わたしの唯一すべきことだと思うことがある。



書くこと、生きること

 松浦寿輝(ひさき)のエッセイ集の「あとがき」にこのような記述がある。

ある時、旧友と出版社でばったり出会ったロラン・バルトに旧友が尋ねた。
「それで君、この頃はどんなものを書いているんだい?」
そう聞かれたバルトは、不快そうに顔を顰めてこう答えた。
「僕がなにを書いているかだって?書いてなんぞいるもんか!ただ注文仕事をこなしているだけさ!」

ところで本書は、わたしがずいぶん長い歳月にわたって書いてきた短い文章を集めた本である。何々について、何日までに、何枚で、(場合によっては何字で)書いてほしいという注文を受け、それを淡々と、営々と、渋々と、ごく稀には嬉々として、とにかくこなしてきたわけだ。それが二十年も続けばまあ一応、プロを自称してもバチは当たるまい。

プロと言ってもそんなご大層なものではない。江藤淳の言葉を借りるなら、ざる一丁と言われればへいといってざるを作って出し、天ぷらそば一丁と言われれば、へいといって天ぷらそばを作って出し、そんな単調なことを飽きもせずに繰り返してきたというだけの話だ。ではそんな渡世を後悔しているかと言えば、実はそれほどでもない。わたしのざるや天ぷらそばを旨そうに食べてくれるお客が、いつでもほんの少しはいたからである。
 (略)
ロラン・バルトにとって本当の意味での「書くこと」とは、プルーストが『失われた時を求めて』を書くような営みのことでなければならなかったのだろう。それでも、久しぶりに会った友達にしかめっ面を作ってみせたのはたぶん社交術と照れに過ぎず、きっとバルトも大小様々な注文原稿の執筆をそれなりに愉しんでいたに違いない。わたしはそう確信している。

ー松浦寿輝『青の奇蹟』(2006年)「あとがき」より
(下線引用者)

いうまでもなくわたしは「プロ」の物書きではない。それにレパートリーといっても、それこそざると天ぷらそばの二種類くらいしかない。
小津安二郎が、いつも同じような話の映画ばかり作っていると批判された時に「豆腐屋は豆腐を作るのが仕事だ」と反論したように、わたしの書くことのできる領域は極めて限定されている。

わざわざ引用文に下線を引いたように、わたしにとっても、「書く」ということは、プルーストが『失われた時を求めて』を書くような営みでなければならないと思っている。
しかし現実にはこの数か月、自分なりに満足のいく文章はひとつも書けていない。以前は書けていたような文章を書くことができない。
その理由は、生きているということの苦しさが日増しに強くなっているということと、それに伴い生きていることに付随する何もかもが面倒くさく、億劫になってきているということ。
「まだ生きなければならない」と命ぜられたわけではないが、死ぬことが出来ずにいる。
現実には「生きて」いないにもかかわらず、くたびれ果てたこの生にとどめを刺すことができない。
それは言葉を換えれば、生きるということも、死ぬということも、あらゆる行為がたまらなく億劫なほど疲れ果てているということであるのかもしれない。


「ではそんな渡世を後悔しているかと言えば、実はそれほどでもない。わたしのざるや天ぷらそばを旨そうに食べてくれるお客が、いつでもほんの少しはいたからである。」

嘗てわたしのつくった豆腐を旨いと言ってくれた人が「ほんの少し」でもいただろうか?
それでもわたしは誰も見向きもしないものを飽きもせずに書き続けてきた。
それはわたしにとって唯一、この世界に存在していたことの証しだからだ。
そして誰も旨いとは言ってくれなくとも、「これまでは」「自分自身が納得できるもの」が曲がりなりにも書けていた。けれども今は「プルーストが『失われた時を求めて』を書くような」、彫心鏤骨入魂の文章が書けない。

既に実質的には「生きている」とは言い難いわたしにとって、書けなくなったということは、最早完全な「屍(かばね)」と同義である。

わたしは誰かに旨いと言ってもらうよりも、なによりも自分が納得できる文章が書きたいのだ。(といってこのような畸形者の文章に共感してくれる者の存在が、どれだけ孤独な魂の支えとなり、励みになるかは言うまでもないことだろう)

書けば書くほど、自分は「書けない」ということを思い知らされるのが現状である。

クルシイのだ。生きているということが。そして書くことがその空虚、懊悩を少しでも緩和してくれるのならまだ救いはあるが、書くことができない。

「きっとバルトも大小様々な注文原稿の執筆をそれなりに愉しんでいたに違いない。わたしはそう確信している。」

わたしはとてもそのような「確信」は持てない。バルトはやはり苦しかったのだ。忌々しく腹立たしく、苛立っていたのだ。自分の思うように執筆できないことに・・・勿論それにもまた「確信」など持つことはできないが・・・











2021年9月21日

「私の」問題意識

本を読むのは問題意識を持つからである。問題意識とは、自分を取り巻く現状に対する生理的な違和感から発することがほとんどである。ところが、現状維持派(乃至現状容認派及び無頓着派)としては、違和感や問題意識など持ってもらっては困るのである。それを象徴的に示しているのが、レイ・ブラッドベリの『華氏451』であり、オーウェルの『1984』などの所謂「ディストピア小説」である。その中では問題意識を持ち、それをさらに深く掘り下げるためにあれこれと本を読むということは「犯罪」であるとされている。
だからわたしは本を読み、考える。自分の感じている「違和感」について。この社会の座り心地の悪さについて。わたしの考えは、過激で、間違っているかもしれない。けれども、正しいとか間違っているとかは二義的なことで、自分の違和感に無関心無頓着ではないということが大事なのだと思う。それがわたしが自己に対し誠実であるということだと思うのだ。

と、ここまではなんとか納得できる人もいるだろう。けれども、わたしのブログの人気(ひとけ)のなさは「わたしの問題意識」の在り方が、他の多くの人の問題意識とほとんど重なり合うことがないことにある。だからわたしが自分の問題意識にもとづいて本を読み、それについてこのような場所で認めても、他人はそこになにも見出すことはできない。そのことを充分承知の上でわたしは読み、そして書いている・・・と、言いたいところだが、現実にはわたしの問題意識に沿うような文献自体がほとんど存在しない。

例を挙げるなら、「世界が醜いから」という審美的理由によって外に出られない者(=引きこもり)の存在、症例についての文献は結局ひとつも見つからなかった。
更には、何故日本の公共交通機関はこうもやかましいのか?
何故日本人は繰り返し繰り返し手取り足取り教えてもらわなければエスカレーターにすら乗ることができないのか?
何故真昼の太陽がかんかんと照っている時間帯に、プラットホームに昼行燈の如く無駄な照明が点けられているのか?
何故誰もが例外なくスマホを持つのか?・・・etc....

何故誰もこれらのことについて疑問を抱かないのか・・・


ポール・ヴァレリーは自身の自画像ともいえる『テスト氏』の中で、テスト氏の夫人が敬愛する牧師に、テスト氏についてこう評させている、「彼は孤立と独特の認識の化け物なのです・・・」と。

わたしは自分のブログにこの言葉を名刺代わりに掲げていた。
けれどもよくよく考えれば、「独特の認識」をする者、即ち「異質の者」が孤立するのも、また彼が、その独自の世界の見方・感じ方によって「化け物」と呼ばれることも、まったく当たり前のことではないかと今では思うようになっている。

サルトルは「他者とは地獄である」と言っている。それも事実ではあるけれど、同時にこの国、この社会の多くのひとたちにとっては「他者とは化け物である」と言えるのではないだろうか。
何故なら彼/彼女は、自分たちの考えるようには考えず、自分たちと同じように振る舞わず、自分たちが感じているようには感じていないからである。








2021年9月20日

I Am a Rock - Simon & Garfunkel






治癒と尊厳

改めて繰り返すのも憚られるが、「健康」というものは単独で存在するものではなく、ある個人と、その主体を取り巻く環境との融和に他ならないと考えている。「精神」(の健康)に関して言えば、肉体の健康にも遥かに増して個体と外界との関係性に大きく左右される。
その環境というのは、広くいえばその時々の社会の状態・状況であり、世界の情勢・趨勢であり、小状況であれば、家庭環境、或いは自分の属している(学校や企業その他の)組織内の環境であり、更には「私」の身体・精神状態に直接影響を与える住環境であったりと、さまざまである。

「生」「いのち」という概念も全く同じで、実体を伴わない抽象的な「生」「いのち」などというものは現実には世界中どこにも存在しない。

自死を考えている者に「生きたいか?」と尋ねた時に、「否」の答えが返ってきたとしても、現実にはほとんど例外なく「イエスでもありノー」でもあるのだ。人間を含む生物には盲目的な生への意志が潜んでいる。それは個々人の思惑を超えて、生命体としてそうなのだ。
しかし同時に「私という個人」は、もうこの「生」の「在り様」に疲れ果てている。
生命自体をなげ出したいわけではない。己の生をこのようにあらしめている「環境・状況」から逃れたいのだ。

わたし自身、いつでも、「楽に死ねるものなら・・・」と考えているが、仮に現在わたしを取り巻いている状況が一変するならば「生きたい」と思うだろう。


「治癒」するということは、苦痛が取り除かれることである。けれども、自分と外の世界との友好的な関係の構築を抜きにして、どのように(精神的な)苦痛が軽減・消滅するだろう。
われわれは自分の意思と無関係に、周囲の環境によって、「いまのわたしのように」「あらしめられている」。それが、カミュのいう「人間は不条理と双子として生まれてくる」という言葉の真意ではないだろうか。


「治癒」とはある意味で、その人間の「社会的な状態」を言う。
「いま目の前に厳としてある社会」と融和することが即ち「治癒」と言えるだろう。
ある者は、(社会生活を送れない)「病気」(病人)「障害」(障害者)を「規格外」であると述べている。
これはヒトという自然界のなかのひとつの生き物が、病まず、疲れず、斃れず、ということを前提とした ── 即ち「生体」と「製品」とを同一視するという ── 極めて幼稚且俗悪な思想だ。しかし現実に現在この国には、このような根本から誤った考えが充満している。


残念なことだが、この国で、現在「治癒する」ということは、この陋劣醜悪な社会と手を結ぶことを意味するのではないだろうか。

「治癒」が言葉の本来の意味での「健康」ではなく、逆に「個」としての尊厳を放棄し、皆と同じ「規格品」になること、武骨で頑丈な、'Another Brick in The Wall ' 化すること・・・わたしたちの社会では、そのような悲しむべき逆説が成立する。

ではもう全く救いも希望も存在しないのか?と問われれば、「規格外品同士の連帯」という途以外には無いのではなかろうか。
「目指せ社会復帰」と言っている者は、自らを規格品とすることを「治癒」であり「健康」であると信じているようである。

それは生き易い途かもしれないが、その代償として、「私が私以外の何者のでもないということ」「私は私であるということ」という「健康」「治癒」という概念の基盤となる根本思想でもあり、我々人間一人一人の持つ、人としての尊厳の放棄に他ならないのではないだろうか・・・









2021年9月19日

反・書物

(日記、書簡を含めた)「本」に比べ、「ブログ」が不細工だなと思うのは、本とは正反対に、一番最後に書かれたものが冒頭にくるという点である。つまり時系列に逆行しているところにあると思うのだ。「ブログは「ライブ」なのだ」という反論も成り立つのかもしれないが、わたしにとっては便利なようで、実際不便且不親切なメディアである。

わたしにとってブログとは、その時々に感じ、考えたことの記録であるとしても、ある感情、ある思想は、唐突に頭の中に出現するわけではなく、なにかを契機に少しづつ理路を辿りながら、今現在の思想なり感情に辿り着いているはずだ。本を読むということは、その生成の過程を追体験することが可能だが、ブログではそれができない。
ひとつの考え方、感じ方も、ある人物の内面で有為転変を経たのちにいまの地点に立っている。それはまったく他の生物たちと同じで、成長の過程を経て現在の形態がある。

日々書き、試行錯誤することによって、少しづつ思想が生成・形成されていく場合、そういう人物の書いた文章を、「ブログ」というメディアで読むことは非常に不便である。
ブログは弁証法的な思考法に反していると言えるだろう。
自分の中にAという考えが浮かび、それに対し、いやいや、BやCという見方もできるという発想が生じ、あれこれと思索を続けていくうちに、今現在の(暫定的な結論)に至っている。その道筋、軌跡を、著者の後について歩んでゆくことが容易ではない。

まあ確かに『コロンボ』的な味わい方もできるかもしれない。
『刑事コロンボ』は、今更説明するまでもなく、冒頭に緻密な計画に基づいた殺人事件がある。視聴者はそのトリックを知っている。そしてコロンボがどのようにその殺人に使われたトリックを解き明かしてゆくのかを見守っている。それがこのドラマの醍醐味である。
けれども、コロンボは勿論、視聴者も最後まで知らされないことがある。それは5W1H
のひとつ「Why 」(何故?)である。

視聴者が知っているのは When (いつ)Where(どこで)Who(誰が)What(何を)How(どうしたか)だけである。

コロンボにしてからが、殺人を犯した者の動機、その葛藤逡巡から実行に至るまでの心の流れは最後まで明かされない。

ウェブ上の「日記」ともいえる文章に於いて、そこに記されている矛盾や齟齬も含めて、成長・生成の「過程」を尻目に、書き手のいま現在(の状態・心境)から読み始めなければならないというブログは、やはりどう考えても文学的ではなく、いわば「反・書物」といっても差し支えないのではないだろうか。









2021年9月18日

乱れる(文章、エチュード2)

T 1955-23a, Hans Hartung. French/German, (1904 - 1989)


T 1988-R47, 1988, Hans Hartung. French/German, (1904 - 1989)


L 97. 1963 , 1963, Hans Hartung. French/German, (1904 - 1989)


今回新たにアイコンに採用したハンス・ハルトゥング(?)の抽象表現主義の作品は、明らかに今のわたしの精神状態を表わしていると言えないだろうか・・・

これらの絵を(三枚目はリトグラフだが・・・)みてすぐに思い出したのは、デヴィッド’チム’シーモアの撮った少女。(1948年)。強制収容所から解放され、保護された施設で、「あなたの家を描いてみて」と言われて描いたのがこの「絵」だ。
(「家」といっても、「あなたの’ホーム’を描いてみて」と言われたので、建物としての「ハウス」ではなく、寧ろ、「家庭」「ファミリー」「生活」といった広い意味を指すのだろう。これは爆撃に遭った家ではない・・・)

今のわたしの頭、そして胸の中もこれに近い。「混乱」「惑乱」「錯乱」そして「混沌」「崩壊の予感」「喪失」「悲しみ」「苦痛」「不安」「恐怖」「制御不能」「寄る辺のなさ」「絶対的孤立」「無援」「言語化不能」「説明不能」・・・


A girl who grew up in a concentration camp draws a picture of home while living in a residence for disturbed children, 1948



けれども何故か、ハルトゥングの作品を観ていると、波立つ心が次第に凪いでくるのが感じられる。ユダヤ人の少女の描いた絵にも、ハルトゥングの絵にも、強烈なパッション(「情熱」という言葉ではいま一つしっくりこない・・・)が漲っている。その強烈さ、こう言ってよければ、その力強い「狂気」が、わたしの惑乱錯乱とピッタリと重なり合うことによって、ある種の鎮静作用が齎(もたら)されるのではないだろうか。

「混沌」に目鼻耳口の(七竅ーしちきょう)= 七つの穴を穿つことによって、混沌は死んだ。けれども、混沌をカオスの状態のまま、カンバズに叩き付けることによって、作者自身を含め、それを観る者の内面の混乱が鎮まるということがあるのではないか。
このような「表現(乃至「表出」)」も、ある意味で「非言語的言語化」と呼べるのではないだろうか。

内なる混沌を「言葉」にする=「七竅を穿つ」ことも言語化なら、己の外部の鏡に、内面のカオスをそのまま写し出すこともまた、言語化と同様の作用があるのだろう。

(未完)










参考図書調査依頼

 晩年のプルーストはコルク張りの部屋に暮らしていたと聞きます。おそらくは遮音の必要であったろうと思われます。その最晩年のプルーストの生活の様子について触れられている本を捜してもらいたいのです。当時の日記、或いは書簡の類で、自分のそのような生活や精神状態について本人が語っているものがあればそれも。

追伸

高橋たか子も同じような環境の晩年だったと聞いています。彼女についてもプルースト同様の資料があれば教えていただければ助かります。

勝手を申すようですが、可能な限り早く手元に資料が届くことを希望します。







無題

金木犀の香りに何の感興もおぼえなくなって久しい。

わたしの生に最早何の意味もない・・・





2021年9月17日

書けないということ

ブログを再開するにあたって、一番大きな壁になっているのは、意外にも、他ならぬ、過去に自分が書いた文章たちだった。「過去」といっても、2018年から今年の春先まで、わずか3年ほどの間に書かれたものだが、昨年11月の「やむを得ぬ」引っ越し以来、心身共に衰弱の著しいこの身にとって、2年前、3年前は途方もない「昔」に感じられ、「往時」書かれたようなものは、今ではとても書く自信がない。

人は誰しも、衰えに直面しなければならない。58歳で「衰え」とは少々早すぎだろうか?
しかし現実にわたしは書けなくなっている。それに60といえばもう立派な老境である。

昨日ナンシー・グリフィスの記事を書いた。日頃は「ケッ」という感じで見向きもしないウィキペディア(英語版)によると、彼女の活動期間は1977から2013年までと書かれていた。つまりもう8年も前から音楽活動を休止していたのだ。
昨年だったか、You Tubeで彼女の曲を聴いていて、気まぐれにコメント欄を眺めていると、Nanci is sick...という文字が目に入った。おそらくは長い闘病生活があったのだろう。もう一度ステージに立ちたかっただろう。もう一度、自分で詞を書き、曲を作りたかっただろう。仲間でもあり、ライバルでもある他のミュージシャンたちの活躍活動の様子をどんな気持ちで病床から見つめていたのだろう。

ナンシーのグラミー賞受賞アルバム'Other Voices Other Rooms' は、彼女が影響を受けたミュージシャンたちの曲のカバー集であった。彼女自身の作品は1曲もない。素晴らしいアルバムである。全曲他人の曲であっても。
「枕頭の書」という言葉がある。文字通り、常に枕元に置いて愛読する書物のことである。一時、いや、ながいあいだナンシーのこのCDは、わたしの「枕頭のアルバム」であった。そのころは、わたしもまだあたりまえのように外に出ることが出来ていたし、ナンシーも作詞し、曲を作り、オーディエンスの前で歌っていた。


白状するが、わたしは今日のように書けない時に、過去に自分が書いた文章(3年間で約1200程)をこっそり「コピー」して「今日の投稿」としてしまいたい誘惑に駆られることがある。
ナンシーは自分で曲が書けなくなったから、敬愛するミュージシャンたちの曲のカバーアルバムを作ったわけではない。自分に大きな影響を与え、「ナンシー・グリフィス」というミュージシャンを生み育てた先輩たちへのオマージュは、最早人の手を借りずとも自分の脚でしっかりと立っているアーティストの、自信と余裕に裏打ちされた感謝の気持ちから生まれた。

病によって音楽活動(創作活動)ができなくなった(であろう)ナンシーは、病床から、或いはテキサスの自宅のポーチの椅子に座って、どのような想いで、自分の過去の作品を振り返っていたのだろう、そしてどんな想いでその最晩年の日々を送っていたのだろう。








2021年9月16日

R.I.P. Nanci...

Nanci Caroline Griffith (July 6, 1953 – August 13, 2021)

Nanci Griffith - Not My Way Home

わたしの大好きな女性フォークシンガー、ナンシー・グリフィスが先月の16日に亡くなっていたことを先程知りました。
死因は明らかにされていない(不明)だと。

あなたが亡くなっても、あなたの遺したすばらしい歌はこれからも残ります。

一時、わたしが死ぬ時には、あなたのグラミー賞受賞アルバム'Ohter Voices Other Rooms' から2曲を、と思い定めていました。

あなたはわたしのさびしく孤独な人生をその歌で慰めてくれました。

わたしより先に旅立ってしまわれましたね。

しかし何故かわたしはさびしくはないのです。この世界はわたしの生きる世界ではない、わたしが生きることができる世界ではないと、この頃、強く実感しているからです。
仮にわたしに親友がいて、彼/彼女が自殺したと聞いても、やはりわたしは悲しいとは感じないでしょう。今わたしの心はこのあまりに醜い世界に押し潰されそうになっています。
そして(自死を含む)「死」は最終的な、穢土からの「救済」であると今は考えています。


あなたの声、あなたの歌は最後までわたしの胸に残るでしょう。

そして最後まで謎だった、あなたがいつもコンサートの時に胸に付けていたL.B.J のティンバッジ。

(リンドン・B・ジョンソンの頭文字。)

Left Side を自認していたあなたにとって、ジョンソン大統領とはどのような存在だったのか?

今となっては永遠の謎になってしまいました。


わたしの「マイ・ラスト・ソング」の1曲だった、'Speed of the sound of loneliness' 

あなたのコンサートのオープニングにいつも使われていたこの曲の作者、ジョン・プレインも昨年亡くなりましたね。

この映像は以前のブログでも使いました。

より美しい場所へ移られたナンシー。

わたしはせいぜいブログを移すことしかできない臆病者です・・・


ナンシー・キャロライン・グリフィス(1953年ー2021年)行年68歳

Nanci Griffith sings Speed Of The Sound Of Loneliness (written by John Prine) live at The Historic Tennessee Theater In Knoxville,Tennessee (May 29 , 2002)










語り得ぬことについては沈黙しなければならない・・・

この本(『最後に残るのは本』)には、ところどころ、面白いことが書かれている・・・などと言うと、いかに日頃本に接していないかという、問わず語りの告白のようになってしまうのだが、実際そうなのだから仕方がない。

今日は佐倉統(おさむ)という人の「読み人知らず」(初出1998年)という文章について。

高校時代、佐倉氏は「古文の授業がつまらなくて」仕方がなかった。そのことを母にこぼすと、彼の母親は、自分が大学生だった頃の話をした。彼女が伝え聞いたところによると、

歌人・島木赤彦の万葉集の講義は、歌をひとつ詠んでは、本を閉じ、宙を仰いで、「いいですなぁ・・・」と嘆じる。その繰り返し。それだけだったというのだ。

高校生の佐倉氏は呆れるが、後に、

しかしこれ、若気の思い上がりとは、恐ろしいものである。最近そういう講義ができるっていうのは、実はものすごいことなんじゃないか、と思うようになってきた。いろんな感動があるんだから、中にはそれ以上言葉で表せないのだってあるだろう。もしそういう感動を他人に伝えようとしたら、これはもう、読んで嘆じるしかないのではないか。それが一番まっとうな表現なのではないか。
感動とは本来コミュニケーション不可能なものだ。このことはみんな知っている。だけどそれを実地に示すことは難しい。そんじょそこらの人間には、真似のできない技だ。昔ぼくが軽蔑した万葉の講義は、島木赤彦ならではの、ある種の高みに達した境地の開陳、だったに違いない。
(下線、引用者)

そして更に佐倉氏は、

これで講義が成立しているというのは、今の大学では考えられない。今なら、ぼくなら、非言語的情報を学生に伝達するために、ビデオやスライドやマンガを使う。この差は何なのか。

と拱手嘆息してしまう。

 ◇

結局わたしの「本嫌い」「読書(家)嫌い」というものは、本来語り得ぬものを無理矢理に言葉にしようとする「知識(乃至教養)偏重」に対する強い反発と抵抗ではないかと思うのだ。


わたしがこのブログで書きたいことは、「知識」でも「情報」でもなく、言葉にならないもがきであり、絶叫、悲鳴のようなものだ。
それは極々個人的な「傷み」であって、仮にその悲鳴や呻きをなんとか言葉に置き換えることができたとしても、やはりそれを他者と「共有」することはできない。

わたしの周りに笑い声や、微笑みはほとんど存在しない。あるのは呻吟と、喉の奥で音にならず、発声されない叫び、そして言葉として結晶する前に気化してしまう深い絶望の吐息のみである。

それは一見「文章」の形を採っているように見えるかもしれないが、わたしの文章は、究極のところ、以上のような生きていく上での苦しさの表出なのだ。

「生きて行く上での苦しさ」・・・別に生きていかなければならないと思っているわけでは更々ないが・・・


島木赤彦も、高村光太郎や吉井勇などのように、御多分に漏れず、戦争協力詩人・歌人のひとりであったろうことは容易に想像がつくことで、そのような人物の「戦後の」講義の在り方を安直に礼賛することはできないが、そのことについては今は触れずにおく。

繰り返すが、わたしがネット上の「ブログ」に、或いは「本」に最終的に求めるものは、「言葉」の背後にある、彼/彼女の心の闇(病み)であり、涙であり、心労の果ての幽かな独話以外ではないと考えている。

「最後に残るのは本」だとしても、そこに懊悩や嗟嘆の感じられない本など、単なる娯楽かひまつぶしの具に過ぎない。




 

 

2021年9月15日

わたしと本

再び工作舎『最後に残るのは本』(2020年)より。

この本は、67名の「作者」が、「本」または「読書」について千文字前後で書いたものをまとめたもので、執筆者は必ずしも「作家」や「物書き」と呼ばれる人に限らないが、いづれも、その分野で書物を著した人たちばかりである。目当てに借りた松山巌や矢川澄子、中村桂子の文章は正直期待外れだったが、先に引用した(寡聞にしてこの本で初めてその存在を知った)松浦寿輝(ひさき)という人の文章は本の掉尾を飾るにふさわしいものであった。

わたしは「引用」の多い本を偏愛している。松山巌が好きな理由の一つに、彼の著作での引用の多さ、その多様多彩さが挙げられるだろう。

今日紹介する杉浦日向子など、のっけから3分の1くらい「引用」が占めている。

「ダーウィンなどは毫も書物を大事にしなかった。彼は重い本などは持ちやすいように半分に割ってしまい、また本を置く場所を節約するため大事なページだけをとって、あとはみんな捨て去ってしまった。いくつかの病名にその名を残している神経学の泰斗ジャクソンも似たようなことをしている。彼は友人などに必要な個所を切り抜いて送ってしまうので、その蔵書には満足な本はほとんど一冊もなかった。彼は本屋で本を買うと、その場でたちどころに表紙を引きはがし、ついでバリバリと頁を二分して、半分を一方のポケットへ、残りの半分をもう一方のポケットにねじこんだという」(北杜夫「マンボウ万華鏡」より)。
 こんな話、嬉しくて大好きです。

ー杉浦日向子「私と本」1986年『最後に残るのは本』より


わたしもこういう話(こういう文章)大好きです。この本では、見開き二ページが「私と本」にあてられているが、上に引用した部分だけで、片側一ページが占められている。

わたしはどちらかというと、「本好き」、「読書家」という人種が嫌いである。理由はよくわからない。単に知的劣等感だけが原因ではなさそうである。しかし「知的だな」と感じる人間が苦手ということもあるので、やはり知的コンプレックスなのかもしれず、その辺は曖昧なままにしておく。

ところで、わたしは言葉が大好きである。つまり本嫌いの言葉好きである。(だから「引用」を好むのだろう)

先に本とは所詮「ことば ことば ことば」の集積であると言った。だから、わたしは本全体から一箇所でも二箇所でも「引用するに足る」言葉を見つけるとうれしくなる。
つまり本自体は、北杜夫(や杉浦氏が)述べているように、ダーウィンやジャクソン同様、引き裂こうが切り抜こうが一向に構わないのである。わたしにとって大事なのは「本」(箱)ではなく「ことば」(中に入ったいろいろなチョコレート)なのだから。

本だと切り抜いたり、不要な部分を捨て去ったりしてしまうことが大変乱暴なことのように感じられるけれど、わたしたちは新聞を読むとき同じことをしていないか?
必要な部分だけを切り取って、後はフライパンの油を拭いたり、束ねてゴミに出したり、はてはゴキブリ退治などに使っているではないか。

わたしの本嫌いの言葉好きを、実際の行為にすると上のようになるという好例ではないだろうか。

世の本好き、読書家というものが、須らく、ダーウィンやジャクソン、そしてこの文章を著した杉浦日向子のようであったら、わたしの彼ら/彼女らを見る目もまた違ってくるかもしれない。

尤も、図書館の本を切り抜いたり、汚したりすることは言語道断であるので、それだけはやめてほしい。それが新聞であろうと、雑誌であろうと同じである。切り抜くのも、ページを折るのも、汚すのも、自分の買った本で思う存分やってくれ。







2021年9月14日

文章、エチュード・・・

詩人多田智満子が、数人の日本の詩人と共にキューバに招かれて行った折に、ハバナの図書出版協会からもらった雑誌の表紙に、フィデル・カストロの写真が大きく載っていて、

ミーハー的なカストロ・ファンである私は、その雑誌を少し熱心にめくって見た。「見た」というのは文字通りの意味であって、全然スペイン語のできない私は、「読む」わけにはいかなかったからだ。とはいってもラテン系の言語なので、ところどころわかる単語ももあり、見出しなどは大体見当がついた。見当ちがいの見当かもしれないが。「インターネットは本の死か」などと、本を作る側としてはかなり悲壮な文句も見られたが、私がちょっとにっこりしてしまったのは、大きな活字でしるされたカストロの次の言葉であった。
「最後に残るのは本だ。」
 (略)
あいにく私の語学力不足のため、どういう文脈で語られたのかよく分からないが、それだけにいろいろな解釈ができて楽しい言葉であった。
 (略)
私などは、「本こそは究極のもの」と強引にねじ曲げて想像してみたりする。

ー多田智満子「最後に残るのは本」(1999年)『最後に残るのは本』工作舎(2020年)より

わたしは多田智満子のように、「最後に残るのは本」だとも「本こそ究極のもの」だとも思わない。最後に残るのは、結局はいのちのぬくもりであると思っている。「わたし」という「個」に注がれた愛情と想いだと考えている。
「究極」という言葉を用いるなら、究極のところ本とは(ハムレットの台詞のように)「ことば」の集積に過ぎない。
「言葉」や「知」というものに根深い不信感を抱いているわたしにとって、極論すればそういうことになる。

昔よく言われた、「哲学は人を救えるか?」という問いに対しては、わたしは常に「否」の立場である。究極的に人間存在を救い得るのは、ゼニ・カネでも、先賢先哲の「ことば」でもなく、文盲の老女の手厚い看護なのだ。
人の魂を救い得るのは他の魂以外にはないと固く信じている。
「本があるから私は孤独ではない」等という言葉(或いはそう言える人)と、わたしの孤独の闇の深さ冷たさとの懸隔は計り知れないほどに遠く、また深い・・・

インターネット時代に入って書物という紙のメディアのアナクロニズムが語られることがときおりあるが、わたしにとって、「本」の空間はとっくのとうに廃墟化していたように思う。もちろん、廃墟とは例外なく美しいものだということを前提としたうえでのはなしだ。「本」を支配しているのは荒涼とした冬枯れの風景であり、その寥々としたさびしさに惹かれるということがなかったなら、わたしは書物の形で自分の詩をまとめてみたいなどとは絶えて思わなかったことだろう。
(下線引用者)

ー松浦寿輝「この冬、この本」2000年1月、同上『最後に残るのは本』より

本の魅力は寥寥としたさびしさであると松浦氏は言う。わたしはそれに同意するからこそ、本によって孤独な魂が癒されることはないと思うのだ。

「教養は富めるときには身の飾り、病めるときには心の避難所」というアリストテレスだかエミリー・ディキンソンだかの言葉に、あたりまえのように頷いていた若い頃と、いまのわたしは違う。

わたしの魂は、プリーモ・レーヴィやシモーヌ・ヴェイユの言葉でも癒されることはない。

わたしの魂とはわたしの身体と同一である。であるならば、わたしの実存を救い得るのは、血の通った生体(必ずしも人間に限定しない)による「無言の抱擁」以外にはないと思っている。









2021年9月13日

ブログの再開?はじめの一歩?

 冗談ではなく、(人生の)先は短いが、一日ははてしもなく長い。

これまで数年間、ブログに文章を書くことを優先して、だいぶ間遠になっていたアートブログとTumblr、先月から再び投稿をはじめたが、11年前に始めたアートブログ、そして翌年参加して、今年で10年目になるTumblr、いざ再開してみると、昔と違い、アートを渉猟してくることがかなり難しい状況になっている。(コンピューターやインターネットに関してはまったく無智なので、ほとんどのサイトが’Cookie’を求めてくることや、右クリックで画像を保存することができないという事情については省略するが)とにかく以前のように、見つけたアートや写真を、確実に我がパソコンの中に収めることが出来ていた時代では最早なくなっている。

Tumblrは「ブログ」ではあるけれど、SNS的な面も備えているので、少しづつだが、フォロワーは増えている。一方アートブログの方は思ったほどアクセスが伸びない。だからと言って、わたしにとって最も重きを置いているアートブログは、Tumblrの「ブログ」ではなく、況やより多くのフォロワー欲しさにインスタグラムに変節するなどということは考えたこともなく、あくまでもわたしのアートの拠点は、Clock Without Hands である。

けれども、いづれにしても、インターネット上のアート関連のサイト運営の状況は、わたしがClock Without Hands や a man with a past を始めた頃と大きく異なりつつある。

そこで、また一から文章を書いてみようかと思い始めている。自分でも以前のような文章はもうどうやっても書けないことは承知している。だからまず文章を書くことに慣れていくつもりで、少しづつ、他の人のブログの文章、書き方、テーマの選び方など参考にしながら、週に1回でも投稿できればと考えている。