2020年10月8日

認知症と狂気

 母が図書館のある市の文化センターでもらってきた「認知症」に関するパンフレットを眺めていると、母以上にあてはまるところが多い。

もっとも当てはまると思うのは、

「人柄が変わる」
● ささいなことで怒りっぽくなった
● 以前よりもひどく疑い深くなった

更に

「意欲が無くなる」
● 趣味への興味がなくなった
● 身だしなみに関心がなくなった
● 家でじっとしていることが増えた
● 日課をしなくなった

そしてなによりも、このパンフレットで、認知症の終末期的症状として記されている「言葉によるコミュニケーションが難しくなる」「家族や身近な人のことがわからなくなる」という点に於いてはまさにその通りの状態である。

「言葉によるコミュニケーションが不可能」・・・わたしは相手が何を言っているのか、何を言わんとしているのかがよく理解できない。また相手に自分の言いたいことが伝わっているという実感が持てない。それが医療関係者であると非常に不都合なのだ。

このブログにめっきりコメントが来なくなったのは、おそらく誰もわたしの言っていることが理解できない・・・言い方を変えれば人が理解できることばを話せなくなっているということではないのか?

怒りっぽくなったというのも、「誰とも言葉が通じない」ということへの苛立ちではないか。

今年春までデイケアに通っていた病院に認知症外来があるので、近いうちに受診しようと思っている。「コミュニケーション不全」というのが、認知症の症状であるのか、或いは狂気の亢進であるのかを知りたい。


ー追記ー

「テレパシー」というのか、言葉を使わずに意思の疎通ができる能力を「超能力」というが、わたしには「言葉」という「目に見えないもの」で別々の人間が通じ合えるということがそもそも「超能力」乃至「オカルト」の領域に思えてしまう。












2020年10月6日

ことば

 
ふたつさんと、先日ひょんなことから知り合いになったEさんからメッセージを頂きました。

不思議な偶然を感じています。

わたしがさびしさを噛み締めている時に、こうさんの「朝」という詩に出逢いました。

「まことに さびしい ときがあり」

そしてEさんが読んでくださったわたしの過去の投稿にはこう書かれていました。

とにかく先ず、わたしは自分が愚鈍で、バカで、無能で、生きている値打ちのない存在であるということを改めて確認しておく必要がある。

ああ、自分で自分を貶める ── 正確には「本来の自分」を直視することだが ──「言葉による自傷」は、時になんと快いのだろう。自分が最早これ以上落ちる(堕ちる)ことのない「どん底」の泥濘の如き存在であるという安堵感、最早人間ですらないという心の解放感。


わたしが

「サビシイデスネ・・・」と書こうとしたときに、こうさんの

「まことに さびしい ときがあり」という言葉に遭遇し、

言葉による自傷行為について、或いは自分を激しく罵る言葉を記そうとしたときに、
まさにわたしが書きたかった言葉がEさん経由で手に届いた。

そしてふたつさん独自のスタイルである、絵と、それに添えられた「詩のような題」から送ってくれた『かなしい ときは なきましょう』の中にある言葉、


この えの まえに いる ときだけはだれも あなたを
みすてないから

だから いまだけ
だまされなさい

昨夜わたしは「人間への信頼について」書こうとしていた。

結局は上手く言葉にすることができなかった。

過日わたしは自分のアート・ブログに




1955年にアムステルダムで撮られたこの写真を使って、そのタイトルに
”Can I trust you ?" 「信じていいのか?」と書いた。

わたしは、彼らが、「なーんちゃって」といって一斉に手を放しても仕方がないと思っているところがある。
自分のいのちが、自分の存在が、羽毛のごとく軽いことを知っているからだ。

何故わたしは下でわたしを助けてくれる人たちを信じられないのか?
ひとつには、自分が無価値であると思っているから。自分が「救うに足る」存在だとどうしても思えないから。


ふたつさん、そしてEさん。

いまのわたしにはこれ以上深く物事を考えることができません。

お二人の気持ちに感謝します。

よかったらまた声を掛けてください。適切な言葉をお返しする頃はできないかもしれませんが。


ー追記ー

欧米では、手紙の結びにXOXOと書きますね。

わたしが残念に思うのは、この国に、HUG &  KISS の文化がないことです。

アメリカの、カントリー&フォークシンガー、ルシンダ・ウィリアムスに”Are You All Right ?” という歌があります。

その歌詞の中に


Do you have someone to hug & kiss you?
 Hug & kiss you
 Hug & kiss you 
Are you all right?


今、わたしが、I'm all right と言うためには
わたしを抱き締め、キスしてくれる存在が必要なのかもしれません。


アリガトウ・・・


[関連投稿] 

ピーター・メイ / Peter May. 








 



ふたつさんからのメッセージ



『グッド・ラック フォー ハード・ラック』

ハード・ラックな じんせいを おくっている あなたに
グッド・ラックを おくります
ことばだけでも

ハード・タイムな じだいに うまれてしまった あなたに
グッド・ラックを おくります
ことばだけでも


おくれるものは ことばだけ
でも
くちで いってる わけじゃない
たましいを つかって いいましょう


いま ダブル・トラブルの なかに いる あなたに 
グッド・ラックを おくりましょう

あなたの じんせいに なにひとつ いいことが ないとしても

グッド・ラック フォーエバー



Otis Rush- Double Trouble


*

『かなしい ときは なきましょう』
なみだを ながして

うれしい ときは わらいましょう
こえを だして

そうすれば 
きっと だれかが いっしょに なって
ないて くれるでしょう
そうすれば
きっと みんなが あなたに つられて
わらい だすでしょう



そんな ことは うそ ですか
そんな ものは まやかし ですか

あなたは 
そんな ことばには だまされませんか



それならば
しょうじきに いいましょう
それならば
ほんとの ほんねを はくじょうしましょう



あなたの わらいごえは ちゅうに うき
だれにも きづかれずに ただ きえるだけ
あなたの なみだは みすてられ
ふりむきも されずに ただ ゆかに おちるだけ

たとえ あなたが 
まっかな なみだを ながしている ときでも

だれも たすけては くれない 


それが ほんとの ことですが 
それこそ まぎれも なく 
ほんとうの はなし なのですが


それならば
わたしは うそを いいましょう
それならば
あなたに まやかしを きかせましょう
それならば 
いま わたしが あなたを だましましょう



かなしかったら なきなさい
おぼれる くらいの なみだを ながして

うれしかったら わらいなさい
はりさける くらいの おおごえを だして


この えの まえに いる ときだけは
だれも あなたを
みすてないから

だから いまだけ
だまされなさい



Skip James- Hard Time Killin' Floor Blues





最初のGood Luck Forever、

あなたの じんせいに なにひとつ いいことが ないとしても

グッド・ラック フォーエバー

この部分は「ブルース」好きのふたつさんらしさを感じます。
オーティス・ラッシュ、いいですね。

『かなしい ときは なきましょう』

ここにはやはり物事の「本質」を捉えるふたつさんの詩の力を感じます。

ともにふたつさんらしい詩とBluesを、ありがとうございます。










まことに さびしい ときがあり・・・

 
こうさんのブログを読んでいたら、新しい詩が書かれていた。
冒頭から引き込まれた。
日頃の彼女の投稿と違い明朝体で書かれていたのもよかった。

以下こうさんの許可を得て、引用させていただく。



【詩】朝


まことに さびしい ときがあり

それは 人がいても

若いときでも このように年長けてもおなじである


ひとによくないことを 言ってしまったとき

うれしすぎたとき

こころに

稲妻のようなものが走る


姪が朝の仕度をしている

よい匂いが漂ってくる

それでも

こころが沈む


からだをうごかして 振ってみる

かなしみを 振ってみる

それでもやはり

こうべは下に垂れ


起きがけに 母の名を呼んでしまった

あ、まちがえた、と思い、妹の名を呼ぶ

だけれど、階段をとんとん上がって来たのは

洗濯物を干しに来た姪である


さびしいのは

わたしではなく

ちりちり言う眼

点かなくなったスマホの充電ランプ

若い人達に追いつけなかった 夜道



この詩を読んだのは、今朝だったのか。昨夜だったのか。
最近は曜日、日付、そして時間の感覚も曖昧になってきている。

いづれにしても、一行目の

まことに さびしい ときがあり

という言葉が、わたしのその時の気持ちそのままだった。

よい匂いが漂ってくる

それでも

こころが沈む


それでもやはり

こうべは下に垂れ


というのもよくわかるのだ。

もちろん、さびしさ、悲しみの質はこうさんとは異なる。

わたしのさびしさ、かなしみは、こうさんの詩に描かれているようには明確に言葉にできないもののような気がする。無論人は誰でも、具体的に指し示すことのできない「存在の悲しみ」を背負って生きているのだろうけれど・・・

新宿のTSUTAYAが閉店するらしい。あそこにはもう20年以上前から通っていた。
確かめたわけではないが、おそらくはDVDにはなっていない、古くて、日本ではほとんど知られていない名作のビデオはどうなるのかと電話で尋ねてみた。それらはすべて渋谷店に移動するようだ。
それを聞いてひとまず安心した。それにしてもわたしにとっては渋谷店以上に愛着のある店であった、「・・・やっぱりコロナの影響でしょうか・・・」と尋ねると、電話の向こうで、「えっと、ご用件は何でしたっけ?ビデオは渋谷店に移動しております・・・」

言葉が通じない。通いなれた店が何故閉店するのか?そんな会話も遮られる。
たまたまその店員だったからではない。わたしのことばは、通じない・・・

まことに さびしい ときがあり


それは人と、言葉が通じないと感じるとき・・・


点かなくなったスマホの充電ランプ


誰もが当たり前のようにスマホをもっているということに、こころは沈み、肩より深くこうべを垂らす・・・

それは最早この世界、この時代に追いつけなくなっている自分。
追いつくことをはじめから放棄している自分。


まことに さびしい ときがあり


それはこの世の誰とも繋がり合うことが出来ず、
この世界のどこにも属していない自分を見つめる時・・・


そして

まことに さびしい ときがあり

それはこうさんと同じさびしさを共有できないさびしさであり・・・

喜びも分かち合うことが出来ず、さびしさすら分かち合うことが出来ず・・・













2020年10月5日

わたしのブログ・・・

 
このところ、何にも熱心に取り組むことができない。

先日の投稿に書いたように、今、わたしの目はほんとうに見えているのか、或いは盲
いているのかすら、わからない。今年になってからほとんど本を読んでいない。
昨年から、見える方の目が白内障で、楽に本を読むことが出来なくなり、今年4月の手術以降も、「読まない習慣」がついてしまったのか、或いはもっと別の理由かはわからないが、定期的に図書館にリクエストした本を母に借りに行ってもらっては、返却期限になったらまったく一ページも読まないまま返すということを繰り返している。

白内障の手術が失敗したわけではない。しかし目が良くなったという実感がまるでない。無論20代前半の時の緑内障で損なわれた視力・視野が回復することはない。けれども少なくとも、昨年からの白内障は「良くなった」はずだ。それでも本を読む気になれない。映画を観る気になれない。パソコンの画面は、現在は普通に見ることが出来ている。このように文章も書ける。けれども、本が読めないうちは、映画が観られないうちは、ほんとうに「目が見えている」という実感が掴めることはないだろう。
またひとつ、「目が見える(見えている)とはどういうことか?」という形而上学的な疑問が加わったわけだ・・・


今日届いた『シナプスの笑い』にラグーナ出版の書籍目録が同封されていて、中に、『勇気をくれた言葉たち』という一冊があった。本の紹介には 「全国の精神障害体験者から寄せられた、精神病の絶望から救ってくれた言葉を収録。一言で孤独や絶望から救われてゆく体験者の姿は、病を問わす、人生に迷い傷ついた人の心も癒してくれる。人生を変える言葉の力を感じよう」とある。

いつか機会があれば読んでみたい。

けれどもわたしは所謂「明けない夜はない」「止まない雨はない」といった言葉には少しも心を動かされない。「前方」「未来」「希望」といったものにどうしても反発を感じてしまう。

過去にわたしの人生を変えた言葉などあっただろうかと振り返ってみても、何ひとつ思いつかない。
つまり不特定多数に向けられた言葉、本の中の言葉や映画のセリフ、歌詞などに、知的な次元で、感心し啓発され、刺激を受けることはあっても、それらによって勇気づけられるということは、わたしに関してはないようだ。

言い方を変えれば、わたしが励まされるのは所謂「名言」や「前向きで希望を語った言葉」ではなく、他ならぬこのわたしに向かって放たれた言葉によってなのだ。

わたしはこのブログにあまりにもコメントがないので、先日紹介したブログの筆者に、どうすれば「コメント」をもらえるブログが書けるかと、本気で訊こうと思っていた。それほどまでにわたしの書いていることは無意味なのか、やはり「化け物」の言葉は通じないのか・・・と。

そんなことを考えていたところに、前回のコメントから久しぶりにふたつさんからコメントが届いた。

冒頭に書かれていたのは

>どうも、最近、ぼくのコメントはかなりの率で削除されてしまいますね。いや、それをどうこう言うつもりはありませんが、どうやら、ぼくのいう言葉や作品がTakeoさんをイライラさせるようです。

わたしにはこの言葉の意味がよくわからない。
先日頂いた画とそれに添えられた「詩のようなタイトル」、それから「差別」に関しての記述は、わたしの「差別主義者に抗す」という投稿ごと削除した旨、10月4日の「ふたつさんへ」という投稿の冒頭でお伝えしている。(それはわたしの投稿に頂いたコメントなので、投稿そのものを削除すれば、そこに寄せられたコメントも一緒に消されることになる。だからわたしは新たに「ふたつさんへ」という投稿をした。)

それ以降は誰からもひとつのコメントもない。つまりブロガーによると、今日のふたつさんのコメントの前に最後にもらったコメントが、わたしが削除した「差別主義者に抗す」に頂いた2件のコメントだ。


わたしはよく母にここの文章を読んでもらっている。そしてまるで反応がないことをボヤくと、母は、こういう極めて個人的な文章に何か言葉をかけるってことはマア難しいでしょうね、と。

わたしにはていめいさんのような名文は書けない。そして母の指摘するように、極めて個人的な言葉しか発することができない・・・


昔日は知らず、現在のこのブログには無用・・・という以上に有害なものとおもわれますのでコメント欄を閉じます。
今のわたしにはたまさかコメントを頂いても、その言わんとしていることを正しく読み取る能力が失われているからです。









2020年10月4日

「こころのやまい」について

 
川畑さま。

本日「シナプスの笑い」が到着しました。ゆっくりと拝読させていただきたいと思います。
ただ、最後に書かれていた「投稿募集」に関しては、わたしは投稿はできないなと感じました。
既にわたしのブログの幾つかの記事をご覧くださった川畑さんならお気付きだと思いますが、わたしには「こころのやまいの回復に役立ち」「人に希望を与えるような」文章を、いかなる形式であっても書くことができません。

その一例が川畑さんが読まれた「心の病との闘い 雑誌に」という東京新聞の見出しに対する「違和感」にも表れていると思います。

関連投稿としてリンクを貼った「まっとうに狂う」ということ」で引用したように、高村智恵子や島尾ミホは、心がより自然であるがゆえに、「空のない」東京で、精神のバランスを失ったのではないでしょうか?

わたしは「正常であることが即ち精神の「異常」乃至「失調」を意味する現代社会・・・」という辺見庸の言葉に共感するものです。

「空のない」東京で、「良くなる」「元気になる」ということは、とりもなおさず「空がない」という「不自然さ」に順応することに他ならないとわたしは考えます。逆説的ですが、「空のない東京」で「正気ではない」「正気でいられない」ということが、正に智恵子の「まっとうさ」を証していると思うのです。

そしてわたしもまた、「まっとうに狂った者」のひとりだという自覚を持つのです。
ですから(わたし個人に関して言うならば)少なくともこの東京という場所に於いて、「元気になる」ということは、逆に「不健康になる」ことだとすら思うのです。

もちろんすべてがわたしのようなケースではなく、現実に「心の病」に苦しんでいる多くの人々がいるということもまた事実です。

わたしは「心の病」及びそれとの「闘い」を否定するものではありません。


全ては当人がどう思い、なにを優先させるかだと思います。「空のない町」に順応することで楽になれるのなら私はそれを選ぶ、という選択があってもいいと思います。無理をしてまで「まっとうに狂って」いる必要はありません。

ただわたしは「わたし」として生まれてきた以上、「わたしの本能」「わたしの感受性」「わたしの美意識」に殉じるつもりなのです。

繰り返しますが決して「元気になる」ことを否定はしません。


なんだか重苦しい文章になってしまいましたね。

わたしの言ったこと、(「孤立と、独特の認識の化け物」としての)わたしの存在、わたしの考えは、ありのままにラグーナ出版の仲間たちと共有し、考えてもらって一向に差し支えありませんが、それはあくまでも、わたしのことばで傷つく者がいないという前提がなければならないと思います。無論この文章も、川畑さんの仲間たちと共有してもらって皆で考える一助になれば幸いです。

いつも気に掛けてくださりありがとうございます。

残りの休日を穏やかに過ごされますように。


追伸

「自明性」ということに関してわたしが思うのは、「心の病」=「治癒すべきもの」という考えが自明のものであるとしたら、それを先ず疑ってみるということでしょうか。
「発熱」「発汗」「寒気」「痛み」等が生体の「自然の反応」であるように、「こころの病」も、それに伴う「症状」もそれ自体を「解熱・鎮痛」的な方法で「治す」ということに、懐疑の目を向けるという考えをわたしは持っています。何故ならまさにそのような「鎮痛・解熱」的な対処こそ、他ならぬ「心の悲鳴」に耳を塞ぐ(或いは心を黙らせる)ことになるのではないかと思うからです。









ふたつさんの作品

 
数日前、過去に投稿した種村季弘氏に関する記事と、「生体の悲鳴が聞こえるか」という文章を読んで、いまさらながら、いったいわたしは誰を相手に話をしているんだと、つくづく嫌気が差し、先日の記事を削除しました。久しぶりにふたつさんがコメントを寄せてくれた投稿でした。



ほんとうの おくりもの

いま きみに おくりものを おくろう
そう きみに ほんとうの おくりものを おくろう


あまっている ものを あげて 
それを おくりものと いえるのか

ぼくは それを おくりものとは よばない

いらない ものを わたして 
それを おくりものと いえるのか

ぼくは それを おくりものとは よばない

それならば
ひとが よろこぶ ものを おくれば
それを おくりものと いえるのか

いや それでも ぼくは それを おくりものとは よばない


たしかに よのなかは うまくいく
いらない ものを あげて
もらった ひとは よろこぶ
すべて まるく おさまるに ちがいない

でも それは ほんとうの おくりものでは ない

なぜなら 
よろこびだけが おくられて
かなしみが おくられて いないから

だから その おくりものが ひとの こころを うごかすことは ない
だから それは ほんとうの おくりものでは ない


いま きみに
ほんとうの おくりものを おくろう

いま きみに

それを うしなえば ぼくが いきて いかれなく なるような 
そういうものを いま きみに あげよう

いま きみに

それを おくれば ぼくが きみに きらわれ ときには にくまれて しまうような
そういうものを いま きみに おくろう


そう きみに 

ぼくの なかみを そっくり きみに てわたそう



おそらく きみを よろこばせることの ない
この 『かなしみの ギフト』を

はたして きみは うけとって くれるだろうか