2020年2月13日

「違い」Ⅲ


インターネット、コンピューター、端末機器とは、人間からその身体性をものの見事に剥奪してしまう装置である。だからこそ、「高速」で、「遠く」まで行ける。

「身体性の捨象」という点で、本との相違はどこにあるのか、考えてみたい。


*いかなる観点に於いても、わたしは「電子書籍」を「本」であるとは考えていない。





日向の縁側に腹ばいになった子供が、お祖父さんを教師にして、口うつしに絵本を読んでいく光景はほほ笑ましい。行燈に胴服を着せてこっそり勉強する金次郎さえ今となってはほほ笑ましい。しかし誰がその時、今から五百年前に活字を発明したドイツ人グーテンベルクに感謝の心を持つだろうか? まして誰がひとり、グーテンベルクの発明のおかげで、やくざな本が世界中いっぱいになり、人間の言葉が劣等な混乱を招いたことに気づくだろうか? ギリシャ人どもがあんなに美しい言葉を遺したというのも、彼らの時代には活版印刷術がなく、したがって彼らは、猫も杓子もいつ何時でも本の著者になるということがなく、弁論が大事な政治生活であったことにもよって人と議論したり語り合ったりすることが多く、そのうちのすぐれた言葉、美しい議論、おもしろい話だけが口から口につたえられ、そのうちの優れたものだけが貴重な紙の上に書きとめられ、それらのうち最もすぐれたものだけが写しとられ、それらのうち最もすぐれたものだけが今日まで伝わってきたためではないか?

ー中野重治(本は何で出来ているか?)『中野重治全集第二巻』1959年
長田弘 選『本についての詩集』(2002年)より








「違い」Ⅱ


ある人のブログをランダムに読んでいて、改めてわたしは、「スノッブとは、長距離列車の向かいの席にとびっきりの美女が座っていても、彼女が読んでいる本が気に入らないからといって声を掛けようとしない者のことである」というジョークに当てはまると感じた。スノッブとは「知的俗物」のことだが、わたしは「知的」ではないし、「俗物」というのがどのような人物であるのかもはっきりしない。ただ、その人に限らず、気に入ったブログを少し読み進めると、自分との「違い」ばかりが目についてくる。これを裏返せば、人がわたしのブログを読み、またコメントでやり取りし、「違い」に気付いて離れてゆくということも自然なことだと思えるのだ。

一方で、デイケアで体験した中で強く感じたのは、あるテーマについてのディスカッションで意見が真っ向から対立しても、帰り際、彼/彼女に笑顔で、「おつかれさまでした」「お先に失礼します」と言われたり、次に会ったときに「こんにちは」と、やはり笑顔であたりまえに挨拶されると、「論の相違」など二の次三の次に感じられる。

そのような体験を踏まえて考えると、どのように濃密なやり取りをしていようと、(少なくともわたしには)彼/彼女、そしてわたし自身の実質=身体性の伴わないインターネット上の交流というものがいかに希薄であるかということを改めて思う。



[関連投稿] 1  美意識と妥協・・・    反故








2020年2月12日

過去と思い出・・・


わたしは気にしなかった。彼女が私をどのように罵ろうが、誰が私をどのように罵ろうが、知ったことではない。しかしこの部屋は私がこれからも住んでいかなければならない場所なのだ。私にとって我が家(ホーム)と呼べるものは他にはない。ここにあるものはすべて私のものだ。私と何かしらの関わりを持ち、何かしらの過去を持ち、家族の代わりをつとめるものたちだ。たいしたものはない。何冊かの本、写真、ラジオ、チェスの駒、古い手紙、その程度のものだ。とくに価値はない。でもそこにはわたしの思い出のすべてがしみ込んでいる。

ー レイモンド・チャンドラー『大いなる眠り』『フィリップ・マーロウの教える生き方』’Philip Marlowe's Guide To Life' マーティン・アッシャー編 村上春樹訳(2018年)より



何冊かの本、懐かしい写真、古い手紙、昔よく聴いたレコード・・・そんなものがあればどこでも我が家になるのかもしれない。

「そこにはわたしの思い出のすべてがしみ込んでいる。」

人間は自分の過去と繋がっていなければ生きられない。仮に生きることが出来たとしてもそれは空疎なものだ。





この Philip Marlowe's Guide To Life (2005) という本は、しばらく前からぼくの家の本棚に置いてあったのだが、まさかこんなささやかな、そしてきわめて趣味的な本が日本で翻訳出版されることになるとは思ってもみなかった。

村上春樹「訳者あとがき」



 








2020年2月11日

過去について、癒しについて


友人である底彦さんのブログに、彼自身が今現在も苦しめられている「PTSD」(心的外傷)についての投稿がある。

読書: ディビッド・マス/大野裕・村山寿美子訳『トラウマ ── 「心の後遺症」を治す』


底彦さんにとって、そしてわたしにとって、この生の苦しみの源泉は「過去」にある。

彼にとっては、苦しい過去が現在も継続していること。
わたしにとっては、懐かしい過去が既に消え去ってしまったこと。

一方は「ありつづける」ことに苦しみ、
一方は「なくなった」ことに心を痛めている。
一方は「消え去る」ことを願い、
一方は「残り続ける」ことを希んでいた。

確かに、底彦さんの「過去」は、彼の内部に起こったできごとであり、わたしの「過去」は、わたしの外部の世界の変化変貌であるという相違がある。
それでも彼は「過去の記憶」に呻き、同様にわたしは「過去の記憶」による「外出困難」ー「引きこもり」で苦悩している。

彼は過去に受けた言葉の暴力(それは文字に書き起こせる「言葉」に限定されず、非・言語的なものも含む。表情、口調、相手の(無根拠な)優越感等)を忘れることができない。

一方で、わたしが感じる「世界の醜さ」を果たして「暴力」と呼ぶことができるのか、わからない。けれどもわたしは、わたしの生まれ育った街/町が跡形もなく消え去ってしまったことに耐えられない。「わたしをわたしたらしめている(た)」外部が悉く失われてしまったことに耐えられない。

「わたしの生まれたパリの街がドイツ軍の支配下にある限り、わたしの人生にはなんの意味もありません……」
と、シモーヌ・ヴェイユは戦中の手紙に認めている。パリは、いまでもシモーヌの愛した当時のパリの面影を残してるだろうか? ── わたしはパリに、ロンドンに行くことが出来るかもしれない。そしてそこで往年の町並みが残されているのを目の当たりにするかもしれない。
けれどもわたしはパリでもロンドンでも異邦人であることに変わりはない。わたしの故郷は既に失われた。



わたしの親友だった女性は、幼いころに主に言葉の虐待を受けた。その傷口は、わたしと一緒だったころ、60代の彼女の心にも屡々血を滴らせていた。

彼女の肩を抱いて銀座や渋谷を歩いた。手を繋いで都内の公園を歩いた。けれども一度でも心の底から彼女を、その癒えることのない悲しみとともに抱き締めてあげたことがあったか・・・


言うまでもなくわたしと底彦さんとは同じではない。底彦さんの「治癒」には希望がある。少なくとも彼の苦しみが、PTSDによるものであるという事実も分かっている。
しかし過去が蘇ることがない以上、時間が遡行不能なものである以上、わたしの苦しみは癒えることはない。それは死者の復活を待つことに等しい。その事実を認めながら、尚、友人の快癒を心から祈ることができるのか?わたしはそれほど優しく、懐の深い人間であるのか?・・・しかし底彦さんの平癒を心の底から祈ることが出来ないことを、すべてわたしという人間の心の狭さに帰することも安易な卑下だろう。そこにはわたしの狭量以外に、インターネットでの友人、という枠組みが存在している。わたしは底彦さんの顔も知らなければ声を聞いたことも、その微笑や沈痛な面持ちすら目にしたことがない。それがわたしの共感と感情移入を限定的なものにしている・・・

またわたしは、今でも、もう何年も連絡を取っていない嘗ての親友の安否を気に掛けながら、電話をしたり、手紙を出す勇気がない。なにかを怖れている。
それはわたしが、嘗てと同様に、いまの彼女に何もしてあげることが出来ないという負い目からくるのだろう。わたしはただ、彼女の・・・わからない。彼女に対して何を祈ればいいのか?

わたしじしん誰かに「Takeoさんの健康を祈ります」と言われて、それが真実「わたしの願い」と一致するのかがわからないように。

親しいものが死を願うのなら、ためらうことなく「彼に/彼女に、安らかな死が訪れますように」と心から願うだろう。5年ほど前、最後の電話で彼女から重い病気であることを聞いた。元気な時の彼女しか知らず、今の彼女の現実を知らないわたしが、いったい何を祈ることが出来るだろう?

すべての病める心優しき人に、一秒でも長い心のやすらぎを・・・という以外に・・・









2020年2月10日

語法



「アウトサイダー」とは、自らの内側にのみ法を認める「Insider」であり、
逆に「インサイド」にいるものは、常に「自らの外部」に行動の規準を求める「Outsider」である・・・





あらゆるものがフェイクになる時


東京新聞の書評コラム(?)「大波小波」に、ニック・ドルナソという作者による「グラフィック・ノベル」(所謂アメコミ)『サブリナ』という作品が紹介されていた。
(日本では昨年10月に早川書房から藤井光訳で出版されている)

それによると、「この作品の中心にあるのは「フェイク」という概念だ。あらゆる事実がフェイク(虚偽)として相対化され、人間は行動や判断の基準を失ってゆく。その時人が必要とするのは、憎悪し、打倒すべき敵である・・・云々」

なんだかわかりにくい。あらゆる既存の価値が「フェイクとして相対化される」というのならわかりやすいのだが、あらゆる事実が・・・といわれるとわかりにくい。

いずれにしても、「客観的な拠り所」のない世界というところに強く惹かれる。「客観的な」とは、言い換えれば、「わたしの外側に」と同義だ。

「あらゆる価値が相対化され・・・」ああ、なんという蠱惑的な響きだろう。

わたしが最も嫌うのは全体主義=ファシズムだ。そこには唯ひとつの、絶対的な価値=拠り所しかない。それは例えばヒトラーであり、天皇であり、毛沢東であり、スターリンのような。

わたしはみなが(全体が)同じ価値観に則り、同じように考え、同じように行動することに生理的な嫌悪感を覚える。わたしの「スマホ嫌悪」も結局はそこに行きつく。「スマートフォンの価値」というものを誰もが認めている。(無論稀に例外はあるだろうが)そんな世界が息苦しくてたまらないのだ。

あらゆる価値が相対化されるということは、なんという風通しの良さだろう。スマホの価値も、オリンピックの価値も、憲法九条の価値も、テクノロジーの進化という価値も、すべてが相対化される。無論「殺してはいけない」「盗んではいけない」というモラルさえも。それでもわたしは全体主義・絶対性よりも、相対主義を採る。「殺すなかれ」「盗むなかれ」という価値が絶対的ではなくなるということは、「殺すべし」「盗むべし」ということを意味しない。

早速図書館に『サブリナ』を予約しようとしたら、生憎地元の図書館には所蔵がない。
都内の区市に何館か所蔵があったが、どこも、10~20人待ちだ。
ひとまず『サブリナ』は措いて、早川文庫JAから出ている牧野修の Mouse(マウス)でも読んでみようか。


ー追記ー

「スマートフォンの価値の相対化」── スマートフォンというのは、単にハードウェアに過ぎない。スマホの価値の相対化とは、即ちGoogleの価値の相対化であり、Amazon.comの相対化であり、SNSの相対化だ。成程ツイッターではあらゆる言説が飛び交い、全ての価値は相対化されているように見える。けれども、誰が何を投稿しようと、彼らは自分が「諾」といい「否」という場=「Twitterの価値」だけは疑わない。── 彼らはSNSの空虚をツイッターに呟く。

わたしはいまこうして、パソコンからブログに拙い文章を投稿している。けれども、それを「IT産業の崇拝者」として唾棄し否定する者がいたら、わたしは彼の言い分を認めるだろう。


















月曜日



汽車よりも悲しいものはあるだろうか?
決められた時刻に出発し、
発する声は一つしかなく、
走る道も一つしかない。
汽車より悲しいものはない。

それとも荷車引きの馬だろうか。
ながえの間に挟まれ
脇を見ることさえできない。
生きることはただ歩くことだ。

それでは人間は? 人間は悲しくはないのか?
もし長い間孤独に生き
時の円環はもう閉じていると信じているなら
人間も悲しい存在だ。

ー プリーモ・レーヴィ「月曜日」 『プリーモ・レーヴィ全詩集 予期せぬ時に』竹山博英 訳(2019年)より


もし長い間孤独に生き、時の円環はもう閉じていると信じているのなら・・・