2020年4月25日

4月25日


府中市の全図書館の休館は4月11から5月7日までの予定だった。
今日、次に何を借りようかと図書館のHPを見ると、休館期間延長のお報せが表示され、
休館は6月2日までということになった。

無論何もかもが来月の7日に収まるとは誰も思ってはいないので、8日から数日開けて、また暫く休館という形になるのかと思っていたが、既に今日の時点で6月までとは。

この決定は現在の状況では仕方がないともいえるけれど、本がないと困る人も少なくないのだ。

デジタルコンテンツ云々というが、何のことかわたしにはわからない。
例えば「青空文庫」のようなもののことか?

「電子書籍」なるものは、本の「代用品」に成り得るか? 馬鹿々々しい。
あんなものは本ではない。

そしてまた、今の時点で、「終わった後」のことを考えられる人とはどのような人たちなのだろうか? わたし個人は生き残っていれば、それは奇蹟だと思っている。








2020年4月24日

断章


暫く更新が途絶えていた底彦さんのブログをまとめて読んだ。

今月の11日から図書館が休館になっているが、それ以前から既に2週間ほど借りている本もまったく手を付けていない。中井久夫も、木村敏も。つげ義春、業田良家のまんがは借りては読まずに返しの繰り返しだ。

目の手術から1か月経っていない、ということもあるのかもしれないが本に手が伸びない。『八本脚の蝶』も、しばらく訪れていない。

なんというか、これまでになく生きている実感がない。

繰り返しになるが、仮にこの疫病の流行が収まった後も生き延びていたとしてもわたしにはもう何もないのだ。

Tumblrは、「距離を置く」といった中途半端な態度だったが、やはり現在のダッシュボードで再びあそこに投稿することは今の時点ではもう考えられない。現在のブログが「エロ・グロ」を超え、「エロティック・アート」などという紛らわしいカテゴリーからも外れ、「ポルノブログ」になった時点で、わたしの現在の居場所を友達、そしてフォロワーに報せる最後の投稿も昨日削除した。

「ポルノブログ」というのも、それがあまりにもそのものであってもなくても、当然ながら人は集まってくる。けれどもわたしはポルノならポルノに徹することができない。
それこそピーター・ビアードの「日記」ではないが、ポルノ写真の上下に平気で、ヴィクトリア朝の水彩画を投稿するのだ。このどっちつかずの態度がタンブラーに於いても、結局フォロワーの数が一定数=(2万人)を超えられなかった原因でもあろう。

コロナは災厄ではある。けれども辺見庸が夙に指摘しているように、安倍政権そのものが災厄なのだ。とはいえそれは降ってわいた災難ではなく、日本人が主体的に選択した「厄災」だ。

けれども、けれども、安倍政権が倒れ、コロナが無くなっても、わたしの居場所はどこにもないことに変わりはない。

いまわたしは死んではいないようではあるが、本当に生きているのかすらよくわからない。

そしてわたしが生きているのか?に対する答えを誰も持たないということがわたしの絶望でもあるのだ。




2020年4月23日

本性を現わす・・・


「ブロガー」には、閲覧前に、「このブログにはアダルト・コンテンツが含まれているので閲覧を止める」或いは「了解の上閲覧する」という表示を出す設定がある。

これまでは「エロ・グロ」のブログももちろん、もう一つのブログにもそのような表示を出したことはなかった。けれども、今日思うところあって、双方のブログに「警告」表示を出すことにした。

おそらく5~6年前にタンブラーでフォローしていたフランスの女性と同じ人物だと思うが、当時彼女のブログをフォローしていて、最近になって、往時フォローしたそのブログを見直してみると、彼女のブログには「成人向け」表示が出されている。

以前からドロローサのブログが何故そのような表示を出さないのかと訝っていたが、やはり絵と写真とでは違うと感じた。

そしてわたしは最近になってそのフランスの女性の、もうとうの昔に更新を止めているブログの影響を受け(?)「成人向け」としか言いようのない内容を投稿し始めたからだ。

わたしが惹かれるブログは大抵女性のものだ、ドロローサ、オーファン、そしてタンブラーの時からそのセンスの良さに舌を巻いていたそのフランスの女性。彼女もまたマイスペースでわたしがドロローサやオーファンと「友達」であったように、Tumblrでわたしのブログをフォローしてくれていた。

わたしのTumblrを知っている人は、わたしがあのような「あからさま」なポストをするような人間だとは到底思わないだろうが、そうではないのだ。

もともとがドロローサやオーファンに惹かれる人間である。わたし自身にそのような「あからさま」さが無いはずがない。

加えて、Tumblrで始まった「検閲」への反発反動もある。

いずれにしても、これからは(あたりまえだが)自由にやらせてもらう。
これまでのTumblrやClock without hands をずっと見てきた人たちは離れてゆくだろう。
これがTakeo (poboh)か!?と。

フォローしていたブログを見直すと、驚くほど「アダルト系」のブログが多く、「キレイ系」はほとんどない。

最期もちかいことでもあり、今更本性を隠しても仕方あるまい。

尚「猫額洞」とはさまざまな点で「違い」があるが、彼女の書いた、「私たちが死ぬのが安倍の無能のせいであることが無念だ・・・」という言葉に全面的に同意する。

いずれアジア各国からも憐れまれ、ちゃんとしたマスクが寄付されるかもしれませんね。




2020年4月17日

すべてが終わっても・・・


猫額洞の日記にこのように書かれていた。

「夜、友人と電話で話す。生き延びたら、また会って喋りたいが。
 バラードではないけれど、風にさよならをいおう、って気分。」

バラードとは、歌の「バラード」ではなく作家の名前。正しい名前は忘れたが。

仮に生き延びたとしてもわたしには会って話せる友人も、話したい人もいない。

「すべてが終わった時に」まだ生き延びていたとしても、わたしには最早どこにも所属するところはない。繋がる人もいない。

ただそれにしても、病院で死ぬのだけは御免だ。

コロナにかかって入院を強制されるくらいなら、その場で射殺してもらいたい。

母が多摩総合医療センターに入院した時に、「もしも患者が暴れるようなことがあったらその時は拘束をする」という同意書にサインを求められた時に随分迷った。わたしなら確実に暴れるからだ。それで拘束されるくらいなら舌を噛み切るか?しかしそれでは死ねないだろう。そのような非人間的な扱い=「虐待」「拷問」を受けてまで生き延びる意味とは何か・・・












2020年4月16日

「すべてが終わった時、本当に僕たちは以前とまったく同じ世界を再現したいのだろうか」


ここのところ、また小賢しい言葉に対する嫌悪感が強まって来ているような気がする。

気が向くとごくたまに覗きに行くブログがある。元古書店主夫婦の妻の方が書いている「猫額洞の日々」という。書いていることはいちいちもっともで文句のつけようもないのだけれど、どうしても波長が合わない。その「波長の合わなさ」について今は考える気になれない。

「リツイート2本」-ここで猫額洞が引用している記事も、著者が1982年生まれ、つまりわたしよりも約20歳若いという時点で熱心に読む気になれなかった。
もうこれは山田太一の『男たちの旅路』の鶴田浩二が、「俺は若い奴らが嫌いだ!」というのと同じ生理的なレベルの拒否反応なのでどうしようもない。

「戦争」と「疫病」のアナロジーについても、言いたいことはあるが、今は考えがまとまらない。ごく簡単に言うと、確かに数十万、数百万単位で人が死んでも窓ガラスひとつ割れない「戦争」というものはない。「戦争」とはいわば「都市を破壊する行為」に他ならない。戦争の勝ち負けは如何にして敵国の首都を制圧するかにある。

しかし一方で、常に死の危機にさらされているという点に於いて、比較できるのは「戦争」以外にはない。コロナに対する「戦争」の比喩は完全に的外れということはできない。

◇


「すべてが終わった時、本当に僕たちは以前とまったく同じ世界を再現したいのだろうか」

そのように問うまでもなく、世界は以前と全く変わらぬ状態で再び動き出すだろう。
少なくとも、戦争に伴う「都市の壊滅」という目に見える喪失が存在しないかぎり。
そして無論わたしはそんなことを望んではいない。「現代」が如何にわたしにとって生き難く、生きているのが苦痛であったとしても。


もしも、僕たちがあえて今から、元に戻ってほしくないことについて考えない限りは、そうなってしまうはずだ。まずはめいめいが自分のために、そしていつかは一緒に考えてみよう。僕には、どうしたらこの非人道的な資本主義をもう少し人間に優しいシステムにできるのかも、経済システムがどうすれば変化するのかも、人間が環境とのつきあい方をどう変えるべきなのかもわからない。実のところ、自分の行動を変える自信すらない。でも、これだけは断言できる。まずは進んで考えてみなければ、そうした物事はひとつとして実現できない。(下線Takeo)

「現代」が「現代」である以上「どうしたらこの非人道的な資本主義をもう少し人間に優しいシステムにできるのかも、経済システムがどうすれば変化するのかも、人間が環境とのつきあい方をどう変えるべきなのかもわからない。」のは当然だ。

少なくとも我々が進歩とか成長とか便利さとか、効率という発想を棄てきれないかぎりは・・・そしてそのような発想を棄てるということは限りなく不可能に近い。否。絶対に不可能だ。

「人にやさしい現代」というものがそもそも撞着語法なのだ。

彼は今回のことから何かを学ばなければならないと書いている。

彼にバイロンの言葉を贈る。

「我々が歴史から学んだ唯一のことは、我々は歴史からなにも学ばない、ということだけだ」


ー追記ー

今日母が病院にいつもの薬を取りに行った。処方箋をもらうだけだが、人が多く、処方箋を出してもらうのにも、そしてその後の会計にも結構な時間がかかったという。
その点「多摩総合医療センター」や御茶ノ水の眼科は自動会計で、機械でやるので、手間が省ける。
そこで「戻ってほしくない世界」というものが、人の手で何でもやる、いわば「手間と時間のかかる世界」のことを言うのだとしたら、わたしはその考えに到底与することはできない。

全国の図書館の休館によって、「デジタルコンテンツの充実をおろそかにしてきたことが悔やまれる」と図書館協会(?)の長か誰かが言っていたが、それもおかしい。休館前にそのことを地域住民に知らせる方法が拙かったことを、これを奇貨としてデジタル書籍への大幅な転換を図っているとしたら。

スピルバーグが近未来を描いた映画、『マイノリティー・リポート』はCGを多用していることもあって稚拙な、見るに堪えない作品であったが、未来を予測できる能力を持った者たちが「解放され」人里離れた村で、ログハウスのような家に住み、暖炉の火で暖を取りながら、昔ながらの「紙の本」を読んでいるラストシーンで終わる。
稚拙な比喩だが、スピルバーグは、我々が「戻るべき世界」はこういう世界ではないのか?と言いたかったのではないだろうか。或いは我々が夙に「喪ってしまった世界」とは・・・

取って付けたような幼稚なラストシーンも含めて、わたしはこの映画を全く評価しない。ただただ、近未来都市のグロテスクさを、これでもかというくらい見せつけられる。
その点で、トウキョウのグロテスクさを余すところなく描いたソフィア・コッポラ監督の『ロスト・イン・トランスレーション』と双璧を成す気味の悪い、そして気の滅入る映画である。
「気が滅入る」というのは、それが1つは現在の東京という「現実」を映し出し、もうひとつはこれから来(きた)るべき世界の様子を、ほぼ正確に描き出しているという点に於いてである。唯一そこに救いと希望を見出すとすれば、「今の現実」「すぐ目の前の現実」の醜さに、「生への執着」が薄らぐ、ということだろう。











2020年4月12日

なんだか人が恋しくて・・・


現実から逃避するということは現実を見ないということ。それについて考えないということ。

このブログをいつ再開するのか、今はわかりません。再開?どのように?

今わたしはアートブログにいます。

Myspaceが崩壊した後、Tumblrを始める前から投稿しています。

その後2011年3月から2020年3月まで、タンブラーでおよそ2万2千点の絵や写真を投稿してきました。現在はTumblrから距離を置いています。Tumblrが今風に仕様変更して、なんとなく気分が乗らなくなってしまったからです。

Junkoさん、先程先のコメントをメールでも読みました。こちらに残してくれたコメントに書かれている以上の大事なことが書かれていました。今は人のちょっとした気遣いが身に沁みます。

目の状態以前に、今のわたしは書けないし、話せません。
フォロワーもいず、「いいね」もない旧式なブログで、静かにアートで心慰めています。

◇

今日の新聞の歌壇の欄に

「死にたいと思ったことのない人のこころを家宅捜索してみたい」

という歌が選ばれていました。

気持ちは全く同じですが、現代短歌はやはりわたしには情緒に欠ける気がします。

このブログを中断することで、Junkoさん、底彦さんとの音信が途絶え、9年間続けてきたTumblrからも距離を置いて、今、とても孤独です。



仮初の 人の情けの身に染みて まなこ潤むも 老いのはじめや






2020年4月9日

断想


4月2日に御茶ノ水の眼科で右目の白内障の手術を受けてきました。
そのことを後悔しているか、といえば正直わかりません。ただ言えることは、
そもそもわたしには御茶ノ水まで行って手術をし、その後の1週間に3回通院すること自体が無理なことだったと思っています。

この間、厭世観・厭人観はいやまして強まりました。

けれども、今はもう少し元気になりたいと思います。

もっとちゃんと引きこもるために。ちゃんと「外界」「現実世界」から「逃避」するために。