2019年12月10日


デイケアの担当者と約1時間半話した。結局彼女の結論も主治医と同じ。
弟が生活保護なり現在の家の貯金を使って、近くに家を借りる。
けれどもそれでは何ら本質的な解決にはつながらないし、わたしもそんなことを望んではいない。
わたしが望むのは、そしてただ一つの解決方法は、弟が「ここ」に戻ってくること。

主治医との意見の相違を踏まえての今回の面談だったが、このデイケアの担当者との話し合いを踏まえてまた主治医と話をしても、もう意味が無いように思える。

◇

デイケアに6月から参加している60代くらいの男性がいる。
一体どこが悪いのかと思うくらい見かけもまともだし、話せば理路整然としている。
最初は好感を持っていたが、ディスカッション系のプログラムで顔を合わせる機会が重なるにつれ、彼との相違が目立つようになってきた。

彼は明らかに良くなることを目指している。そのためにデイケアに来ている。無論デイケアの参加者とバンドを組んだというくらいだから、単に医療機関としてのみの利用ではないだろうが、そもそも、その1時間なり2時間なりを生身の人間と言葉を交わし、意見を交換すること、それ自体が目的であって、その先に「よくなる」も「社会復帰」という言葉も存在しないわたしとは明らかにスタンスが異なっている。

彼の中では、「良くなった自分」「元気で健康な自分」と「現代社会」は、当然のように「地続き」なのだ。

けれどもわたしという人間と、外界との間には、なんの繋がりも存在していない。


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それにしても、わたしが弟を避ける理由のほぼ半分が彼の喫煙だということは母も主治医も承知しているはずなのに、誰もがそのことに一言も言及しないのはどうしてだろう?











2019年12月8日


これからひと月前後の間にわたしはなにをすればいいのか?身辺整理?

ここは3部屋あって、わたしと父がいなくなれば、母と弟の部屋は確保されるので
この部屋が整理されていなくてもさしあたって困ることはない。

本は今残っているのは、ミカンの箱一箱分ほどの画集、写真集、図録など。
古本屋に売るくらいなら捨てた方がいい。どこかに寄贈したいが、当てもないし送料も馬鹿にならない。それ以外の本は捨ててもいいものばかり。

CDは10年ほど前には、かなりの値段で売れたが、今はそれこそ二束三文だろう。
それは構わない。欲しい人の手に渡るなら金は問題じゃない。古本屋は「高価買取」と真っ赤な嘘をつく薄汚い商売人なので奴らに売るくらいなら、寄贈先が無いのなら。棄てる。

数年前、約100冊段ボール箱3箱分。わたしは新刊を買わないので、(読まないので)
殆ど古本だったが、それら買った時の総額にすれば10万を超す本を高価買取りの店に売って、4千円にしかならなかった。その4千円は現金書留で店に送り返した。手数料を払って。

机や本棚は、弟が粗大ごみに出してくれるだろう。

残った僅かな貯金。出てゆく時にいくら持ってゆけばいいだろう?

10万もあれば充分だろうか?多すぎるかな?

そういうことは誰と相談するのだろう?

古本屋はわたしを人間として扱わなかった。あのブログのあいつや、あいつらと同じだ。





2019年12月7日

Closed!






Rafael Yaghobzadeh Near-General Strike in Paris Today Dec 5, 2019




Nearly 500,000 workers took to the streets today throughout France. This is a real, near-general strike, not the weird, one day strikes the unions in France often call. The French working class is showing that they’re not willing to accept Macron’s cutting their pensions, making them work longer for less. The largest federation of unions in France, the CGT, is the main organizer of the strike. Public transit is largely closed. Trains, which are a major means of transportation in France and throughout Europe, are largely closed. Mail is not being delivered, garbage collectors are on strike, public school teachers are on the line, airline staff (Air France) and air traffic controllers, energy workers as well as those in assorted public services, road transport, oil refineries, the justice system and university employees (professors and other staff) are all on the line. Even doctors, nurses and ambulance drivers are supporting the strike (even though they’re not yet walking out due to the nature of their jobs). Right now, the strike is limited to public employees, but that could change. Press interviews indicate that the public, which is heavily dependent on the public metro subways and train system, is massively supporting the workers, because they know their pay and pensions are on the line as well.

American unions and workers could learn from our sisters and brothers in France. Solidarity! Vive la CGT!

https://kvetchlandia.tumblr.com/

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これはTumblrでフォローしているアメリカのジェフのポストですが、わたしは新聞を読まないので、今この時、フランス国民はマクロンの年金削減政策に反対し、事実上のゼネスト状態にあるようです。

数日前はドイツで、これを上回る60万人規模の環境破壊反対(?)デモがありました。
日本では年金や生活保護費が削減されても数千人単位のデモすら起きない。
いったいどういう国民でしょう?

「生かすべからず 殺すべからず」

「民は愚かに保て」

この政策が、そしてふたつさんの重視する「教育」が見事に奏功している。

日本は韓国にも香港にもなれない。ましてヨーロッパなど山のあなたの空遠く・・・

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ふたつさんは今日頂いたコメントに、

「本当の意味で熱烈に支持している人などほとんどいないような人たちが国を動かしているというのが現状です。
しかも、それをすべて国民が選択したことにされてしまうような仕組みに成っています。

それが、「大規模社会における多数決」と言うシステムの致命的な欠陥です。」

と書いておられる。しかし、社会の仕組みとしては、韓国も、香港も、ドイツ、フランスも、選挙によって代議士を選ぶという根本は違わないはずです。集会・結社の自由も現行の憲法で認められています。

香港の首相は言いました。「毎日がスムーズに運ぶことが最も重要」「デモは社会のスムーズな活動の妨害になっている!」と。けれども香港市民は圧倒的にデモを支援しました。
昔日ほどではないにせよゼネストはフランスの、フランス市民のお家芸です。
お前たち(政治屋のやり口が)気に入らなければ社会を止めてやるぞ、と。

電車は止まる。郵便物は配達されない。医者も救急隊員も仕事を放棄することはできないが、労働者たちを支持する。公立学校の教師、大学教授もデモに参加している。ゴミの収集もストップだ。ゴミの山があちこちに在るのが「パリ」だ。

アメリカ人のジェフは俺たちにだって、フランスの兄弟たちと同じことができるはずだと言っています。そしてアメリカは現に、ゼネストはともかく、時に100万単位のデモを行います。

日本が先進国だなどと世迷言を一体誰が言っているのか?


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野牛は家畜牛に、イノシシは豚に、狼は犬になって野性は失われた。
だが、それは牧人を喜ばせたに過ぎず、
動物自身にはなんのいいこともなかった。
人は人にすぎず、混ざりけなしでいられるに越したことはない。
しかしそれが叶わぬなら、いくらかの獣性を帯びる方がまだましだと思う。
次のような算式にあてはまるようでは、興醒めである。
人+家畜性=社会人
ー 魯迅『而巳集・中國人の顔、略論』一九二七年













2019年12月6日


父がいなくなって、自分の中で何かしら感傷というか、後悔のようなもの、そんな感情が芽生えるかと思っていたが、何も感じない。感情がすっかり鈍麻してしまったのか、或いは父のことどころではなく、次は自分だという意識が感傷に浸ることを妨げているのか・・・

先日、「遅くとも来年の3月には弟は戻ってくる」と書いた。3月どころではない。弟は来月にはここに戻りたいと言っているらしい。
部屋が空いた。金はない。還りたい者がいる。これで、何故2月だ3月だなどといっているのか理解できないのは当然かもしれない。

そうなると、あまり時間が無い。無論弟がここに戻ってきて母と暮らすことも、それが来月であっても、わたしに異論はない。ただわたしは、「試してみる」と言ったものの、やはり弟とは暮らせないだろう。それが分かっていて、尚且つ主治医やデイケアのスタッフが反対しても、わたしの気持ちは変わらない。

弟が戻ってくるということは、高い確率で、わたしがここから出てゆくことを意味する。無論行く場所はないし行く場所を探すつもりもない。

急だったので、主治医には今年中に、これが最後の受診になるかもしれないということを、またデイケアも、来られても1月いっぱいになるかもしれないということを伝える必要があるだろう。

何もお暇乞いなどという大袈裟なものではない、主治医には長い間、デイケアには丁度一年間、お世話になりましたとあいさつをするだけだ。

母にできる唯一のことはわたしが我慢をして弟と暮らすこと。
けれども、親不孝なわたしにはそれができそうにない。

生まれてきた罪、そして「わたしという人間である罪」・・・

ふたつさん、Junkoさん、底彦さん。お別れの挨拶もなしに突然消えるかもしれませんので、ここでさようならを言っておきます。

わたしのような者に親切に接してくださったこと、わたしの狂気を真正面から受け止めてくれたこと、いつも変わらぬ誠実なメッセージを頂いたことに心から感謝します。

これが最後ではないかもしれませんが、現状をお伝えしておくとともに、万一の時のためにお礼を認めておきます。

どうもありがとうございました。

武雄


2019年12月5日


今日はいつになく気分が沈鬱だ。

生きているのが苦しい。

孤独・孤立・疎外・・・ひとりぼっち

もう元気になることはないだろう・・・などといって元気になったらいい笑いものだが、
そもそも元気になる要素なんて何もないじゃないか?

1月6日9時からの眼科の初診には行けそうにない。
単に朝が早いからという理由だけではない。都立の多摩地域の総合医療センターということで、大学病院と変わらぬ人手が予想されるからだ。
片目が見えないのは不自由だが、それ以上に寝ていたい。

デイケアで、生きること、良くなることに前向きな発言を聞くとイライラする。

いずれにしても、春にはわたしは居場所がなくなる。無論弟がここに帰ってくることは
主治医の意見に反しても、わたしの希望でもある。

そしてわたしは、今の時点で想像しても、どうしても弟と同居はできない。

前にも書いたように、金の問題を抜きにしてもわたしも、弟も、ひとりで暮らすことはできない。弟は一日中母と一緒に居たいのだ。

疲れてこれ以上書けない。デイケアに行ってこれほどまでに疲れたのは初めてだ。

デイケアのスタッフも、また利用者も、笑顔の裏で、わたしを・・・・






2019年12月4日

反・社会的であること


「反・社会的な表現者」という矛盾を孕んだ存在について書こうと思ったが、その元気がない。
わたしがいま言えることはこれだけだ

「純粋であること」「繊細であること」これはいつの時代も反・社会的態度である。








2019年12月2日

何のために書くのか?


はじめまして。

都内郊外在住の50代男性です。精神障害者兼(所謂)引きこもりです。

辺見庸さんのこと、辺見さんの著書について、日々悶々と悩んで、誰に伝えたらいいのか。勿論あんな大物に一介の読者の思いのたけを伝えることなどできません。けれども、どうしても、吹っ切れません。
どうしたらいいのか。もしこの狂人の問いかけにアドバイスなどありましたらお聞かせ願えれば幸いです。

「悩み」の内容は「大雑把に」書くと以下のようになります。

◇

「一般に、長生きの革命家や芸術家ほど我々をいたく失望させるものはない」と述懐したのは他ならぬ、辺見庸氏でした。

わたしは一部を除き、ほとんどの辺見氏の著作を愛読してきました。特に、脳の病で倒れてからの著作は、お守りのように、いつでもカバンの中に入れていました。殊に愛読していたのは、『自分自身への審問』『水の透視画法』『今ここに在ることの恥』『たんば色の覚書』・・・エト・セトラ。

けれども、昨年の『月』出版に際してのドタバタ劇にまさに「ブルータスお前もか!」という幻滅を見せつけられました。

あのような内容の本を出版しながら、講演会場で著者によるサイン本即売会とは・・・

わたしは精神障害者で、所謂引きこもりでもあるので、なかなか外出はままなりませんが、中央線一本で行けるということで、昨年12月の紀伊国屋での講演会のチケットを、早々に母と二枚分手に入れました。けれども、その後の、なりふり構わぬ販促活動の様子を見て、結局無理をしてまで行く価値を見出すことが出来なくなりました。

◇

辺見さんはご自身のブログで、朝日新聞からNHKまで所謂大手マスコミを撫で切りにしてきました。けれども、いざ新刊の出版となると、A新聞のマークは「旭日旗みたいだ」と揶揄していた新聞社のインタヴューに微笑を湛えて応じる。NHKもご自分の作品に関連する作品のスタッフ及び作品の出来は褒めあげる。

わたしは精神に障害がありますので、発言と行いにとの間に乖離があるということが理解できません。
(一般にそれを「大人の世界」というのでしょう)

◇
これからは書きたいことだけを書かせてもらう。作品評価も本の売れ行きもどうでもいい。
百人支持してくれればいい。いや、五十人でいい。百万人の共感なんかいらない。そんなもん浅いに決まってるからね。
— 辺見庸 『記憶と沈黙』(2007年)より

そんなことを書きながら、一方で、「(『月』に)200冊サインさせられた」とボヤいでいる。
人はここまで変わるのかという想いで彼のブログを読んでいました。

日頃散々こきおろしておいて、いざとなると本の売り上げに一役買ってもらうのなら、彼らの(大手出版社を含むマスコミ)の援けが必要なら、日頃から悪口など謂わない方がいいのです。

「万物の物象化」──「著者のサイン本」は付加価値があるからこそ「売れる」。そんなことは百も承知だ。だから「イヤイヤながらも」「サインさせられた」。ここに言行の不一致があります。

心底辺見氏の考え方、そして文章に心酔していただけに、彼との訣別は悲しい出来事でした。

更にわたしをガッカリさせたのは、辺見氏が、『月』販売以前から執筆期間の様子、講演会の告知、その報告など、昨年初夏から、ブログに書かれた『月』出版関連の記事をそっくり削除したことです。

何故?

何故糊塗するのか?

ちなみに『月』は精力的な販促活動の甲斐あって、わが市でも、全12館ある図書館で11冊が購入されました。けれども、今現在、在庫11冊。借り手ナシ。
これまでも、11冊中2冊以上が貸し出されていたことを見ません。

『純粋な幸福』は1冊購入され、たまに貸し出されていることもあるようです。
無論わたしはどちらも読んではいません。

『純粋な幸福』図書館に予約を入れて、先日順番がきました。けれども、どうしても、どうしても、手に取ることが出来ません。今日、キャンセルの電話を入れました。

◇

昨年12月24日のわたしのブログの投稿を読み返してみました。

「もし仮に、18日の講演会に行って、質疑応答の時間があり、発言のチャンスがあれば、何をおいても訊きたかったのは、『月』という障害者の殺戮をテーマにした小説を書き上げる際に感じたであろう「痛み」。そして、この本に込められているであろう「悼み」と、「会場での著者によるサイン本即売会」とは、辺見さんの中で、どのような地平で地続きなのか?と・・・」

辺見さんの本は、『自分自身への審問』も『水の透視画法』も『今ここに在ることの恥』も『たんば色の覚書』も『しのびよる破局 生体の悲鳴が聞こえるか』も、全て処分しました。

けれども、なかなか想いが断ち切れずに困惑しています。




追伸

『本書(『抵抗論・国家からの自由へ』)の上梓により、『永遠の不服従のために』にはじまる論考・エッセイ集は『いま抗暴のときに』をはさみ、3冊目となった。タイトルの”つよさ”からか、これらを”抵抗3部作”と呼ぶ向きももあるようだが、著者にはそうした大仰な意識はまったくない。
ー(中略)ー
「不服従」「抵抗「抗暴」の字面は、いわれてみればたしかに穏やかでない。しかし穏当を著しく欠くのはむしろ世界の情勢のほうなのだというのが、私の言い分である。
「不服従」や「抵抗」といった、いささか古式でそれ自体の正当性をいいはるたぐいの言葉は、よくよく考えると私の好みでもない。アグレッシヴなこれらの言葉と人の内面の間には、しばしば到底埋めがたいほど深い溝があるからである。
それなのに敢えてこれらのタイトルを冠したわけは、決して私の衒いや気負いではなく、おそらく喫緊の状況がそうさせているのだ。と、申し上げておく。
世界は今、「不服従」「抗暴」「抵抗」を”テロ”という名辞で暴力的に一括して完全に消去しようという流れにあるように見える。わたしの考えでは、しかし、「不服従」や「抗暴」や「抵抗」がさほどまでに忌み嫌われているのとまったく同時に、これほど必要とされ、求められている時代もかつてないのである。』
— 辺見庸 『抵抗論・国家からの自由へ』 あとがき 2004年

この三部作ももちろん熟読しました。

けれども、「世界規模」ではなく、辺見さんは、自分の著書を出してくれる出版社に「不服従」することが出来なかった。或いは「しなかった」

結局、食べるために金を稼がなければならない「人間」が、「表現者」となるのは言語道断との命題は、かのリラダン伯以来、今なお問い続けられるべき問題です。ボクサーの殴られ役によって得る僅かな稼ぎで生き延びたリラダンが、かくまで高貴なコント・クリュエルを著したのは悲壮を通り越して、言葉の真の意味での「気高さ」です。

辺見さんはわたしの行かなかった講演会で「行旅死亡人」について語る予定だったと。演台から聴衆に向かって「野垂れ死に」について「説く」よりも、
「野ざらしを こころに 風の沁む身かな」(芭蕉)
という心根をわたしは持って欲しかった。




精神病理学者木村敏は、臨床医だった頃、自分の患者である「分裂病者」に対し、
「結局わたしも単なるひとりの「正常者」に過ぎなかった」と「詫びて」いる。

辺見庸も結局はひとりの「正常者」だった。そして「正常ではないわたし」に「言行一致」という無理難題を押し付けられている。

作品を読んでもらいたければインターネットという方法もあったろう。
「不服従」を言うなら先ず隗よりはじめよ。
辺見庸は講演会で「野垂れ死にという生き方」について、いったい何を語ったのだろう・・・