2019年7月8日

適切な形容


母が借りている武田泰淳の評論集『滅亡について』をパラパラめくっていたら面白い箇所に出会った。

小林秀雄氏の訳によると、『テスト氏』の中には、悪の問題についてわかりやすくふれている部分が少なくとも一箇所あります。テスト氏の夫人に向かって、夫人の敬愛する牧師が、テスト氏のひととなりを批評するくだりです。彼はテスト氏にくらべては鈍くても、なかなか頭の良い牧師であり、かつ牧師であることによって、我々知的弱者に親しい言葉を口走ります。
牧師の考えでは、テスト氏はまず「孤立と独特の認識の化け物」であります。そしてテスト氏の所有している倨傲が、彼をそんな不可解な物にしてしまったというのです。その倨傲は、実際の生きたもの、ただ現在生きているものばかりでなく、永遠に生きているものを悉く除き去ろうとするような倨傲だそうです。・・・・云々

これはフランスの文学者ポール・ヴァレリーの『テスト氏』について書かれたものだが、
わたしも大田区にいたころ、近くの馬込図書館からせっせとヴァレリー全集を借り出していた時期があった。同じような断章形式で書かれていても、わたしはシオランやニーチェよりも、ヴァレリーの方が好きかもしれない。

いずれにしてもこの「孤立と独特の認識の化物」という表現を見た瞬間、「あ、わたしのことだ」と思った。

無論この箇所が納められている「勧善懲悪について」という文章全体を読めば、泰淳の思い描くテスト氏と、単なる「孤立と認識の化物」であるわたしとの違いは一目瞭然だが、それにしてもこの形容は、まさにわたしだといって差し支えないだろう。
これは「事実」であって、わたしがこれを自分だという時、そこには一片の否定的なニュアンスも含まれてはいない。

『評論集 滅亡について 他三十篇』武田泰淳 岩波文庫(1992年)より




2019年7月7日

外界とは何か?









写真はまたスコティッシュのブログ Fragments of Noir から。

彼のブログには、'Big Lonely City' というタイトルで、屡々このような「古き良き時代」のストリート・フォトが掲載される。彼のブログでも人気のシリーズだ。

使われるのは主に50~60’sのニューヨークやパリなどの街の風景だが、
こういう写真を見るたびに、今現在、外の世界がこのようであったなら、わたしは明日の朝からでも外に出かけるし、電車にもバスにも乗れるだろう、そのことは自信を持って言い切れる。それだけこれらの街にはその空気に身を包まずにはいられない魅力がある。

ずっと一人ぼっちだったわたしは、40代で親友を持つまで、毎日、どこかしら、東京の街をひとりで歩いていた。人間の友達はいなかったが、街が友達だった。

そして人間の友達もなく、唯一の友であった街さえも姿を消してしまった今、
わたしには「外に出る意味」というものがわからない。

以前だって、図書館に行くとか、公園に行くと言った「目的地」はあったが、
そこに着くまでの時間にも意味があった。味もあり色もあった。

今日(こんにち)外に出るということは、妙な表現だが、「ドア・トゥー・ドア」の距離が引き伸ばされたものに過ぎず、このドアから目的地のドアまでの間には文字通り何もない。ただ無意味な時間と虚ろな空間以外。

外に出ることが、「ドアからドアへ」の場所の移動でしかないとすれば、目的の「ドア」のない外出というものは当然なくなる。何故なら外出とは場所Aから場所Bへの身体の「移動」に他ならないのだから。

芭蕉たちの「奥の細道」とはいったい何だったのだろう?
俳聖は「旅を棲み処とす」とは記さなかったか?ただ江戸から奥州の地まで、わき目も降らずに「移動」したのであったか。最早旧来の「外界」は存在せず、ただ数千・数万のドアのみが存在し、それが「外界」と呼ばれる世界で、「旅」とは、「旅を棲み処とす」とは、果たして如何なる概念か?



多くの所謂「引きこもり」が、「外界」の在り方、その景観、美醜についてほとんど話題にしていないことは何を意味するのだろう?

彼らにとっては、それがどのようなみすぼらしい姿であっても、乃至は田舎のお大尽のような趣味の悪さであっても、「外」とは結局物理的・空間的な、「家」「部屋」の外=「外部・外界」以外何らの意味をも持たないのだろうか。そして「彼ら」の価値観では、あくまでも「鬼は家(内) 福は外」であって、あくまでも内(家)は(-)「外」イコール(+)なのだろうか。

「外に出られない」人たちにさえ、「街の醜さ」を訴えても、彼らにはその意味が、わたしの言っていることがまるでわからないとしたら・・・仮に「まぁ言わんとしていることはわからないではない」・・・けれども、何にも増して優先されるのは、その「外」で生きることだとしたら・・・

であるならば、わたしはまたぞろいつもの疑問を独り言ちなければならない。

「では、「生きる」とはどういうことだ?」













2019年7月5日

蛇足的補足的追記


下の投稿「複雑な彼」の中で、わたしはこう書いた。

「いつものことだが今回も選挙に行くつもりはない。
誰にいれたにせよ、それはわたしの一票をドブに棄てたことになると考えるからだ。」


これはよく聞く「俺が選挙に行ったところで世の中よくなるわけでもないし・・・」というのと同じ意味ではない。


安倍首相の言葉で唯一頷く言葉がある。それは「膿を出し切る」ということだ。

棄権がけしからんというのなら、母のように「白票を投じる」というのも手だろう。
とにかく、わたしは仮にどの政党が政権を取ったにせよ、世の中がよくなるとは思えない。
更に言えば、わたしは「膿を出し切る」ために、今後5年10年と安倍政権が続き、辺野古に基地が完成し、憲法が改正され、消費税は無目的に無制限に引き上げられ、社会保障は容赦なく削減され、30年以内の大地震の予測を尻目に原発もどんどん稼働すればよいと思っている。つまり「行きつくところまで行かせる」ことがわたしの望みでもある。
変な言い方だが、真に日本を滅ぼせるのは安倍政権しかないと思っている。


『大人のひきこもり』などの本を読んで驚くのは、


我が家に精神病患者がいることは「家の恥」
我が家に引きこもりがいることは「家の恥」
我が家に生活保護受給者がいることは「家の恥」「親族の恥」・・・

そう思っている人の存在の多さである。

また、同時に「何故一生懸命働いている人の給料が生活保護受給者の受給額より低いのか」と憤る人の多さ、このような声程政府にとって力強い味方はない。

セーフティーネットを利用することを恥とする。それを利用するものを白眼視する。蔑視する。
この論理を辿ってゆけば、行きつくところは「税金」というものの否定に繋がるのではないか。
日本人は未だに税金を「上納金」乃至「年貢米」と同一視してはいないか。

わたしは「勉強が嫌い」で満足に授業も受けなかったので、いつ皆が「精神を病むことは恥」であり「様々な理由から外に出られなくなったことは恥」であり、「働けなくなった者が、これまで納めてきた税金を自分のために使うことは恥」であると習ったのか、まったく知らないのだ。

わたしはこのような発想がすなわち「膿」だと思っている。
そしてこれは小手先の政策の改革で改善できる類のものではない、いわば日本民族の宿痾だと考えている。

他国のように、言い方は乱暴だが、気に入らなければすぐさま百万人単位のデモ、暴徒化、ゼネストの発生するような国でない以上、あとは政治家のやりたい放題にさせて、「なしくずしの死」を待つ以外に「膿を出し切る」方途はないと思っている。

そういう意味ではわたしは間接的に安倍政権の支持者ということになる。

何故なら、繰り返すが、安倍政権以外に日本を滅ぼす力を持つ政権はないと思っているからだ。

上に書いたことは皮肉でもなければ反語でもない。
本気で、早くとどめを刺してやれよと思っている。





2019年7月4日

複雑な彼


以下に書くことは相互に全く脈絡のない文字通りの独立した「断想」だ。
これまでも幾度となく「断想」という形で書いてきたが、それら個々の短い文章は、か細い一本の糸で貫かれていて、それは繋がれた数珠玉のように、空に放り上げても、決してバラバラに四散することはなかった・・・

先週、6月29日の土曜日に、久しぶりで主治医の元を訪れて以来、わたしの中で何かが変わってしまった。7月に入ってから3つの投稿をしたが、それらを読んで、わたしはもう文章が書けなくなっていることに気付いた。

何故「まともな」(適当な表現が見つからない)文章が書けなくなってしまったのか、何故これら「7月の投稿」が、過去に書いたものに比べて際立って「まともな文章ではない」と「感じるのか」ということを考えることさえ、最早ひどく物憂く億劫なのだ。


◇◇


● こんな夢を見た。

夢の中でわたしは「自室」にいた。(今の自室ではない)そこに若いころの斉藤由貴が遊びに来ていた。その部屋は六畳~八畳くらいの大きさで、室内はかなり乱雑だった。斉藤由貴とはどうやら昔からの気の置けない友人のようだ。そのほかに、いつの間にか中学時代の友人で、秀才でならした「ゲバちゃん」こと伊藤クンがいて、更には、おとなしそうな、無口な六十代くらいの男性が3人、乱雑な部屋の真ん中に並んで座っていた。

何がきっかけかわからないが、わたしはひとりで、自分はダメな人間だとまくし立てている。なにが「ダメな人間」なのかというと、どうやら「ものを知らない」ということらしい。由貴も、ゲバ夫も、3人のひきこもり当事者の家族も、ただ黙っていた。由貴だけは人の言葉も聞かずに盛んに部屋の中を物色していたようだった。
「ディランのアルバム」を探しているようだったが、わたしはボブ・ディランに関心がないし、彼のアルバムがあるはずがなかった。ところが何故か彼女はレコードの山の中から、わたしの見たことのないディランのアルバムを見つけ出した。しかしわたしはそんなアルバム見たことも聴いたこともない。そのことがきっかけになり、更にわたしの自己への罵倒は激しくなった。
「自分は何にも知らない」ゆえに「無価値な存在である」ということを頻りに言っている。居合わせた5人は相変わらず何も言わない。肯定もしない。否定もしない。ただ、ひきこもり当事者の父親と思われる男性が、わたしを憐れむように、(蔑視の意味ではない)見つめていたのが印象的だった。

おそらくわたしの最大のコンプレックスは、「無智であること」だ。それは例えば
6月の投稿「断想」に書かれているようなことと言っていい。

わたしは考えることが好きだ。考えることは無智でもできるからだろう。
その証拠に、わたしが考えることは、答えー正解のないことがらについてばかりだ。
「何故生きるのか」「孤独とは何か?」「自殺は悪か?」──「考える」というよりもむしろ「空想」「白日夢」に近いかもしれない。

わたしはそもそも「この世の中に生きる」こと自体に全く熱心ではなかった。勉強が嫌いだったので、家で勉強をした記憶というものがない。ゲバ夫こと伊藤正雄君が、都立日比谷と同レベルの九段高校に行った時に、わたしは、最もランクの低い都立高校にいた。(そのことは結局はわたしにとってよかったのだが)その後彼は慶應大学に進んだ。

わたしは勉強ができないことを恥だと思う感覚を持っていない。また所謂秀才に対する劣等感も感じない。寧ろ「秀才=馬鹿」だとさえ思っている。

わたしの一番苦手で、どうしてもかなわないと思うのは、独自のテイスト、独自のセンス、独自のスタイルを持っている人だ。わたしは学校の勉強に不熱心だったのと同様に、自分の趣味の世界を持ち、それを展げることに対してもまったく関心がなかった。音楽であれ映画であれ漫画であれ、その時周囲ではやっているもので事足りていた。
と同時に、世の中で流行っていることにも関心を持たなかった。ゲバ夫たちと遊んでいたころ、巷では「インベーダーゲーム」というのが爆発的に流行していた。無論ゲバ夫も、そのほかの友達も夢中になっていた。しかしわたしは、2~3回やっただけで飽きてしまった。なにがおもしろいのか?と。
テレビに関しても同様で、ドラマであれコメディーであれアニメーションであれ、流行っている番組を熱心に視たという記憶がない。
わたしの青春時代、中学ー高校ー大学と、わたしがもっとも時間を割いていたのは、学校の勉強でも、趣味の世界に没頭することでも、世の流行を追いかけることでもなく、「寝ること」だった。

実際に付き合ってみればすぐにわかることだが、本当に驚くほど物を知らない。
例えば、変な例だが、「AさんとBさんと、足して2で割れば理想的だよね」などという。「AさんとBさんを足す。」のはわかる、それぞれのいいところが合体するのだから。でもそのあと何故「2で割る」のだろう?

わたしの劣等感の根幹は、自分というものがないことに尽きるのだと思う。
成程、確かに「あれが嫌い」「これが厭」というものはいくらでも挙げることができる。
けれども、これによって世界と、或いは社会のどこかと、或いは誰かと繋がっているというものが、ない。「世界のなかに好きな部分を見つけることができなかった」

「ものぐさ」「ぐうたら」「無精者」と言うことも出来るだろうし、「この世の中にほとんど興味を持てなかった」ということも事実だろう。



● 「愛されざる者」ということに関心を持っている。「神でさえ抱擁することを躊躇う者」とはいかにして生み出されるのか?
「何故わたしは愛されざる者」であるのか?「愛」という言葉が強すぎるなら、何故わたしは人間に好かれないのか?逆に言えば、好かれる人はわたしの持たない「何」を持っているのだろうか?そこまで人をして嫌悪せしめる何をわたしが持っているのか?

「何ら独自のものを持たない自分」と「誰からも好かれない「特別な何か」を持つ自分」
それはどのようにわたしのなかで共存しているのか?



●『ドキュメント ひきこもり -「長期化」と「高年齢化」の実態』池上正樹(2010年)で、引きこもりを主に診る精神科医の言葉として、引きこもる人の共通した特徴として、「傷つけられた万能感」ということを言っていた。つまり自分の万能感が何らかの挫折や失敗により傷つき、そこから立ち直ることが困難になり引きこもる、と。

嘗て、当時「人格障害専門医」として第一人者と言われていた町沢静夫医師はわたしを「自己愛性人格障害で間違いない」と断定した。

本人が出向くことができないため、時々ブログを読んでもらっている主治医は先日の診察室で、わたしのブログを読んだ感想として、「相変わらずナルシスティックで」と・・・

「万能感」「自己愛性人格障害」「ナルシスティック」という一連の言葉と、その主治医自身が驚くほどの自己肯定感の低さの間にどのような屈折した相関関係があるのだろうか?

わたしは自傷行為の代わりに言葉で徹底的に自己を貶める。
魂と人格を否定する。しかしそれはダメな人間をダメな奴と言っているだけであって、厳密には「人格の否定」とか「自己を貶める」ということにはならないのではないか。
わたしはわたしの価値観からすれば「ダメな奴」であり、それを受けとめる度量はわたしにはない。

ではその「わたしの中の」「ダメな奴」の規準というものは何に根拠を置いているのか?
わたしは「勉強ができること」にも「高学歴」にも価値を見出していない。「世俗的な成功」というものをせせら笑う。極端な物知らずだが、博識と言われる人を崇めもしない。

上記に挙げた本と同じ筆者による『大人のひきこもり 本当は「外に出る理由」を探しているひとたち』(2014年)の中で、様々な形の「大人の」引きこもり当事者たちの9割以上の最終的な目標が「(自分に合った)就労」であり、また現在(長期に亘って)働いていないことへの「罪の意識」が多くの当事者及びその家族に共有されていることに関しても、わたしは「働くこと」が大嫌いだし、そもそも自分にできる仕事はないということは、23歳の時に新卒で入社した会社を3か月の試用期間を俟たずして馘になり、35歳で社会から完全に撤退するまで、行く先々で極めて短期間(数日~何週間単位)で馘になり続けてきたことからも明らかだと思っている。だからというわけではないが、「働いていないこと」が「ダメな人間」であるとも思っていない。80年代。バブル全盛の頃だった。

わたしの考える「ダメな奴」の規準はあくまでもわたしの価値観に依るものであって、わたしの外部にその根拠を見出すことはできない。



● わたしは他者から愛された、自分という存在を丸ごと肯定されたという経験がない。
(無論そんな経験を持つ者は圧倒的少数だろうが)
つまりその肯定の裏付けが不在であるがゆえに自分を責め立てるのだろうか?

わたしが丸ごと受け容れられない理由として最も考えられるのは、わたしの極端な二面性だろう。わたしは場合によっては売春も殺人も暴力もテロルも肯定する。
いつものことだが今回も選挙に行くつもりはない。
誰にいれたにせよ、それはわたしの一票をドブに棄てたことになると考えるからだ。

天使を愛する者がいて、悪魔を崇拝する者がいる。しかし天使でもあり悪魔でもある人間を人はどのようにして愛し得るのか?とはいえ、「人間」とはそもそもが天使であり同時に悪魔でもある存在ではなかったのか。

わたしが「ダメな奴」であることと、わたしが「愛されざる者」であることは別々の問題だ。わたしはダメな奴だから愛されないと思ってはいない。わたしが「愛されざる者」であるのはそんな表面的な理由で説明できるとは思わない。

















2019年7月2日

想像力というもの


6月29日付け、東京新聞夕刊「土曜訪問」に、新作『つみびと』を刊行した山田詠美のインタヴュー記事が掲載されていた。

そこから抜粋引用する



大阪市で2010年、当時23歳の母親が自宅マンションに3歳と1歳の姉弟を放置し、餓死させた事件。子供たちを置いて遊び歩いていた母親の身勝手さが明らかになるにつれ報道は過熱し、世間の非難が集中した。山田詠美さんの新刊『つみびと』はこの事件から着想を得て書かれた小説だ。

 (中略)

「確かに同情の余地がないほど悲惨な事件でした。どのコメンテーターもキャスターも、勧善懲悪というように母親を糾弾していた。」その報道に違和感を覚えたという。「分かれ道で選択を誤り、転落するように人生がどんどん狂っていくってことって、誰にでもあることだと思ったんです。そうした想像力を働かせて物を言っている人は見当たらなかった」

 (中略)

育児ストレスから夜遊びを繰り返す蓮音が、自らを責め立てる父親や義父のことを〈正論の人たち〉と呼ぶシーンが印象的だ。「こうした事件の裏には、良識を振りかざし、親を虐待へと追い詰めてしまう人々の存在がある。その良識というものが幸せには全くつながらないことに彼らは気づかず、事件の一端を担ったという自覚もないことが多い」
ならばこうした事件に接し、義憤に駆られたように犯人を吊し上げる私たちもまた〈正論の人たち〉なのではないか。その疑問に作家はうなずく。「『この人たちは自分には関係ない』と思うことは簡単です。そうやってたやすく他人を糾弾してしまう人は、自分もそうした立場になる瞬間が来るかもしれないという想像力がまったく働いていないんだと思う」



このインタヴューを読んで、今読んでいる『永山則夫 封印された鑑定記録』堀川惠子(2011年)を思った。
この実際にあった事件の母親同様、永山則夫の母親もまた、むごたらしい虐待の被害者であった。
山田詠美は「どうしてあそこまで行ってしまったのか、それをかくのはノンフィクションよりも小説の仕事だと思った」と語るが、上記の永山則夫に関する著作は読み応えのある「ノンフィクション」である。

「自分もそうした立場になる瞬間が来るかもしれないという想像力がまったく働いていない・・・」云々以前に、われわれはいったい罪を犯した者の現実の何を知っているのか?「自分もそうした立場になるかもしれない」の「そうした立場」とは如何なるものか?

わたしは永山則夫自身の語る言葉と、鑑定医が聞き取ったそのすさまじい成育歴を「事実」=「ノンフィクシン」として読んで、これでは無差別殺人が起きない方が逆に不思議だし不自然だとさえ思った。それは「人が一人も死なない戦場」という魔訶不思議な状況を想起させる。

少なくとも「彼」「彼女」の生きてきた現実 ── 即ちその生い立ちと現在の状況を知らない以上、安易に「そういう立場になるかもしれないという想像力の欠如」とは言えないのではないか。
例えばわたしはどう想像力を働かせても、彼、永山則夫の犯した「罪」以前に、はたしてこのような境遇・環境のもとで人間が生きてゆけるのか?と呆然と自問するのが精一杯だった。

わたしは、永山則夫や、この小説の主人公のモデルになった女性が、「極めて特異な例」「絶対的に異質の他者」であるといっているのではない。人間どのような些細な契機で、「どん底」に落ちるかもしれない。
それは「眞實」ではあるけれども、そこまでの「想像力」を人間に求めることは無い物ねだりではないかと思うのだ。所詮我々は縁日の露店で遊ぶおもちゃの鉄砲か紙飛行機くらいの射程・飛行距離の想像力しか持ち合わせてはいない生き物なのだ。

自分自身を顧みても、例えば、わたしは生きている限り、決して幸せになることはないし、人から愛されることも、こころから関心を寄せられることもないと断言できる。
だとすれば、それをぺらりと裏返して、自分は決して不幸にはならないし、人生で躓くこともないという確信も、矢印の向きが違うだけで、「自分の現状(幸・不幸)は未来永劫変わることはない」という信念(信仰?)を持つという点に於いては何ら変わるところはないのではないか。
だからこそ、わたしは安易に「想像力の欠如した人たち」と一方的に非難することはできない。その言葉は容易に自分に撥ね返ってくる。

「人間に起こりうることで、自分にかんけいのないというものは一つもない」という
先哲の言葉があるが、わたしは人間の幸福とは無縁だし、「彼ら」は人間の不幸や苦しみというものと無縁なのだろう。

想像力の欠如を嘆く前に、もう一度原点に立ち返り、われわれは人間に何を求め得るのか?人間に何を期待し得るのかという根源的な問いを発するべきではないだろうか?

答え ー 「何も」



ー追記ー

この小説がどの程度事実に基づいて書かれたものであるのかはこのインタヴューには明記されていない。しかし、仮に主要な事実をベースにしているとしたら、この事件で、子供を放置し死に至らしめた母親(小説では蓮音)の母親琴音は、実父から暴力を、義父から性的な虐待を受けている。これは上にも書いたように、永山則夫の母親がやはり虐待の被害者だったことと重なる。

言葉尻を捉えるようだが、引用したインタヴューの中で作者は、「分かれ道で選択を誤り、転落するように人生がどんどん狂っていく」と語っている。

「選択を誤った」のは彼女(蓮音)だろうか?永山だろうか?またそれは、「人生の岐路で選択を誤った」と表現され得るものなのだろうか。

『永山則夫 封印された鑑定記録』によれば、当時欧米ではすでに、母子関係がその後の人格形成にいかに大きな影響を与えるかの研究が進んでおり、「母親またはその代理者の愛情喪失による対象関係形成の失敗は、人格のすべてにわたる全体的な発達を停滞させる。」R・A・スピッツ。
「人間は出生直後から親によって豊かな愛情を与えられ、依存欲求が満足され、保護・安定感を得なければ、他の人間を深く愛し尊敬することができず、良心も健全に発達せず、人間全般に対する不信感と攻撃性が発展するのである」K・ローレンツ、W・ハラーマン

つまり「愛されざる者」は、極論すれば、「人間になり切れなかった者」「人間になれなかった者」を意味することを示唆している。

およそ「人間になる機会を奪われた者たち」に、人生の岐路に於いて、「適切な判断」が下せるのか、ということである。そしてそれは「彼」あるいは「彼女」の「責任」なのか?ということだ。

インタヴューで語った言葉というのが、往々にして、実際に語った言葉と異なるということは決して珍しいことではないが、この発言通りであるとすれば、山田詠美の「選択の過ち」という表現は、軽率の誹りを甘んじて受け入れなければならず、「このような意味の発言」ということで、一言一句正確でないとすれば、新聞の質・レベルを疑われても致し方ないだろう。















「不謹愼であれ」


不謹愼であれ 小熊秀雄


わたしがはげしい憤りに
みぶるひを始めるとき
それは『あらゆる自由』
獲得の征途にのぼったときだ、
不德でも
また貪欲でもなければならない。
惡い批評を歓迎する、
下僕共は主人の規律を守らうとして
過去の調和と道德とを愛する

 『人間が犯しうるあらゆる不善
 いづれも皆公然と聖書に記されたるもののみならずや?』-ブレイク

聖書もまた喰ひたりない
私が犯す不善は
聖書の中に書かれていないから、
聖書は私の母ではない
彼は私を抱きしめることができない、
歴史はまだまだ聖書に
かかれない偉大な不善を犯すだらう
しかもその不善は
あくまで獨創的で
我々のものでなければならない。


『本についての詩集』長田弘 選(2002年)より


私が犯す不善は
聖書の中に書かれていないから、
聖書は私の母ではない
彼は私を抱きしめることができない、

嘗て「引きこもりは人生に対する罪であり、また罰である」と言った人がいた。

わたしをわたしたらしめているもの。それはわたしの「不善」であり、「聖書に書かれざりし」「不德」ではないか。

その不善は
あくまで獨創的で
私のものでなければならない。










2019年7月1日

「蠍が蠍を癒やす」


「傷を舐め合う」という言葉がひどく意味深長に聞こえて、嫌いではない。
つまるところ、非(乃至(反))人間的な大都会で人間が人間らしくいるためには、動物的本能に身を任せるしかないのだ。早い話、「愛し合う」ことだ。「生きていくうえで負った傷を舐め合うこと」だ。

ブラッサイの撮った夜の女たちが好きだ。
種村季弘は、「娼婦はすべての男を愛するが故に一人一人に対してはゼロだ」というようなことを、『幻想のエロス』の中で語っていた。種村氏がそんな単純なことを考えているわけはないだろうが、所謂公娼はともかく、ブラッサイの写真の中、暗い路地のガス燈の下で男(客)を待つ女たち(私娼)には深い孤独を感じずにはいられない。
仮に、所謂通俗的な意味での「愛情」というものが不在であっても、それが所詮はゆきずりであり、いくばくかの金が手渡されたにせよ、真の孤独と孤独が触れ合えば、そこに束の間でも「愛情」に似た感情は生まれないだろうか。
肉体そのものに「Soul」はあり得ないだろうか?



久しぶりにスコティッシュのクールなブログを覗いていてこんな絵を見つけた。


ブコウスキーの、これはなんだろう?本のカバーでもなさそうだし、映画のポスターにも見えない。


ここに書かれている文句がいかにもブコウスキーらしい。

"I don't like jail ; they got the wrong kind of bars in there."
「俺は刑務所は嫌いだね。やつらは間違った「バー」をそこに作りやがったからさ」

これはBar(s)=「酒場」と、「鉄格子」を掛けたジョークだが、それにも増して
この何やらチープなイラストがいい。
Mauro Mazzaraというイタリアのアーティストの作品らしい。




仮に売買春というものが「社会の害毒」云々と言ったところで、ならばその「毒」を以て毒を制する以外に生きる途はないのではないか。

生きる?少なくとも鎮痛剤を飲むよりは遥かに「人間的」だろう・・・

嘗て女郎屋に身を売ることを「苦界(海)くがい)」に身を沈めると言った。
どんなに厭な客でも客は客だ。一方で、真に情(じょう、なさけ)のある客もいたはずだ。厭な客の相手ばかりさせられる中で、そういう男に出会うことは真の歓びであり安らぎであり、恋であった。古来そのような場所を嫌悪した文学者、詩人、歌人、画家がいただろうか。

廓が苦界であるなら、客はひと時の安息を求めて、またよその苦界から女の元を訪れるのだ、そもそも人が生きていくうえで、「苦界でない場所」などあるだろうか。

嘗て開高健は「森羅万象に多情多恨たれ」と言った。
わたしはその言葉は「苦界」の中でこそ花開くように思えてならない・・・



'Body and Soul'  Sonny Stitt

「ボディー・アンド・ソウル」ソニー・スティット(テナー)