2019年1月11日

教養嫌い


「教養とは、人間がすべてを忘れ去った時にまだそこに残っているものである」

というエドワール・エリヨの言葉がある。難解な定義で、正直言って意味がよくわからない。

こう言うことはできるだろうか、

「すべてを忘れ去り、すべてを喪った時に、まだそこに残っているもの、それが人間の尊厳である」と。


ムッシュー・エリヨの言葉をまだ幼い娘たちにおしえたなだいなだ氏は続けて曰く、

「身につけるものは、教養ではなく、虚栄だ」

そしてまた曰く、

「愛というものは、そもそも、何々であるから、という理由があって生れるものではない。
何々であるにもかかわらず、という、運命的な生れ方をするのだ。
相手が、すでに結婚した奥さんであるにもかかわらず愛する。愛は、それ故、打算を越えたものになるのだし、ただ、惜しみなく奪って行く。」

「パパは女性に、たったひとつのことしかのぞまない。それは人間味というものだ。不完全さ、それが、人間味をつくる。パパもそうであるように、男というものは馬鹿で、女性に人間味さえあれば、簡単に愛してしまう。そうであるから、今まで、人類は滅びないですんできた。」
『なだいなだ全集第九巻』「片目の哲学」第四章「女性についてー美徳のかたまり」
(1967年)より


「すべてを忘れ去った時に、まだそこに残っているもの、それが教養である」

「キョウヨウ」なんて尤もらしい言葉を使わずに、また、「尊厳」なんていかめしい言葉を使わずに、

「すべてを忘れ去った時、そしてすべてを喪った時に、まだそこに残っているもの、それが人間味である」といいたい。

言うまでもなく馬鹿なわたしは、男性・女性を問わず「教養」よりも「おろかしい」そして「(ちょっと)おかしい」人間味を愛する。









2019年1月10日

ポーランドの冬物語


Baśń zimowa / Winter Tale, 1904, Ferdynand Ruszczyc. Polish (1870 - 1936)


Pat Metheny & Anna Maria Jopek - Piosenka Dla Stasia (A Song For Stas)

パット・メセニー(ギター)とポーランドの女性シンガー、アンナ・マリア・ヨペックのコラボレーションです。

2008年のアルバム Upojenie / Intoxication=酩酊(でしょうか?)のカバー・アート、いいですね。




10年ほど前にやっていたSNSに、ポーランドで宝石店だったか、アンティークショップだったかを開いていた女性がいました。わたしが彼女の国を「東欧東欧」というので、「ポーランドは東欧じゃなくて中央ヨーロッパ(中欧)!」と叱られてしまいました。
(お店をやっているせいか、彼女は英語も上手でした)

ポーランドやチェコ(スロバキア)そしてハンガリー等の東欧・・・じゃなかった、中欧のアートは、ロシアとも、また北欧とも違った、非常に独特な幻想的な世界を持っていて好きですね。
上の絵もポーランドの画家の「冬物語」という作品です。残念ながら画家の名前(Ferdynand Ruszczycは読めません。







2019年1月9日

内側と外側の不一致…


自分の「性自認」=「心の性」と「身体の性」が、異なっていることによって苦しんでいる人たちがいる。
トランス・セクシュアルー「性同一性障害」と呼ばれる人たちだ。
ある人は、「自分は女性である」という「性自認」を持ちながら、男として振る舞うことを要請される。何故なら男性の身体を持っているから。
また「彼女」と呼ばれる人は、男性の心を持ちながら、女性の身体を持つが故に「おんな」であることを求められる。
社会から、周囲から。

わたしは日本という国に、「日本人」として生まれた。けれども、自分の内面の性向と、所謂「日本的」なメンタリティーとの間に大きな齟齬と乖離を感じている。苦痛を感じている。

「性同一性障害」が'Sexual Identity Crisis'とよばれる、自己同一性の危機であるなら、わたしのアイデンティティ・クライシス、または「生き辛さ」は、日本人として生まれてきた自己と、日本的なるものを嫌う精神性との相克に因るものと言えるかもしれない。

民族性=精神性、そして性別・・・自己の内面のそれと、偶々与えられた人種、偶々与えられた肉体・・・その不一致。

「彼」「彼女」「わたし」の中に「自己を形成する相反する二つの構成要素」があって、それによって自己が引き裂かれている。

cfセクシュアリティ関連用語集


2019年1月8日

今日の天野はん再び


「夕日」

古い大きなお寺の境内で
素人相手の
古本のせり市が開かれた。

「世界の旅」端本九冊
「現代の名局」欠本あり
「まんが どらえもん」美本全揃
「東洋思想叢書」五冊だけ
「信仰の友」全揃、少々汚れあり
「吉井勇歌集」その他十冊一くくり……

そのあとから
エロ雑誌ばかりの薄汚れた一束が出てきた。
──こいつはお買い得、安いぞ、エーッと
  三百円からいこう、エ、三百円、三百円、
  これだけドーンとあって三百円……
うしろの方から小さく
三百五十円と一声あったきりで
あとが出ない。
ザワザワと笑い声ばかり。
──これだけ読んでごらん
  若いもんでも鼻血出して堪能するよ、全く、エ、もう一声、
  もう一声ないかッ
よしッという声がして
小柄な老人が前列に居て叫んだ。
──四百円だッ
ほんのり上気して生徒のように手を挙げている。
──四百円でおじいちゃんに落ちました。
  老後のおたのしみで結構やねえ……
若いせり係が呟くと
皆ドッと笑った。
陽が翳った。

眼鏡の小柄な老人は
エロ雑誌の一束を重たそうに抱えて
ソロソロと帰って行った。
お寺の本堂の前で
ちょっと頭を垂れてから……。


『詩集 古い動物』(1983年)  

ちょっとの幸せ・・・
いい一日・・・









2019年1月7日

正気の必要



「あ~あ、いっそのこと完全に狂ってしまえば苦痛も悩みも無くなるのに・・・」
というと、母が「でもいざという時に正気じゃないと困るよ」
「何いざという時って?」
「正気じゃないとちゃんと自殺できないよ。」







復元不能…


一般に「引きこもり」は「状態」であって「病気」ではないとされているようだ。
しかしわたし個人は「引きこもり」は充分に「病気」と見做され得ると思っている。

ところで、健康とはその人の「常態」であり、「治療」とは、「常態」から逸脱したものを元の状態ー常態へ「復元」させることだと木村敏は述べている。
血液検査で、「正常値」を上回ったり下回ったりしたものを、「元の状態に」復元させることは、薬物療法によってある程度可能だろう。けれども、その高い数値や様々な心身の不調が、「引きこもり」による運動不足等に起因するものであった場合はどうだろう。

健康とは、またその人の「常態」とは、あくまでも、彼と外界との融和・調和であると思っている。つまり「彼個人」の「真空状態での健康」というものはあり得ない。即ち、外界が変化し、最早復元不能の状態になった時、つまり「個体と外界との均衡」が成立し得なくなった時、彼の「常態」も復元されることはない。



以前は、10年前=40代の頃にはできていたことができなくなったと言っていたが、
最近は2年くらい前にはできていたことが・・・去年出来たことが、できなくなったと呟くことが多くなった。
そして次第に、出来ていたことができなくなったと考えるよりも、何故あんなことができていたのだろうと訝るようになった。
ちょうど『山月記』の李徴が、虎になった当初は、何故虎になどなったのだろうと考えていたが、時が経つにつれて、何故おれは以前人間だったのだろうと思うようになったのと似ている・・・






2019年1月6日

人間の証明


木村敏の分裂病患者が、
「皆も自分と同じ人間なんだということが実感としてわからない。」
と言っているが、今のわたしの感覚を正確に言えば、
「自分が皆と同じ人間なんだということが実感としてわからない。」

わたしにとっては、「わたしは人間である」というテーゼさえ、最早「自明の事」ではない。

いったい誰が「あなた=わたしは人間である」と立証できるだろう。
何故木村氏は、彼を「人間である」として疑うことがなかったのだろう。

誰かを「人間たらしめているもの」それは、単に、生理学的・解剖学的なものだけではないはずだ。
それとも、わたしは既に分裂病であるということなのだろうか・・・

わたしが高校時代友人の家で読んだ永井豪のマンガで、仲間のうち、一人だけ人間ではなかったという短篇があった。「彼」が人間ではなかったことは、周りも、そして彼自身すら最後までわからなかった。あの作品のタイトルを知りたい。あれをもう一度読みたい。
なぜわたしは、あの短編集の中で、「人間でなかった男」の話だけを憶えているのだろう?