「教養とは、人間がすべてを忘れ去った時にまだそこに残っているものである」
というエドワール・エリヨの言葉がある。難解な定義で、正直言って意味がよくわからない。
こう言うことはできるだろうか、
「すべてを忘れ去り、すべてを喪った時に、まだそこに残っているもの、それが人間の尊厳である」と。
◇
ムッシュー・エリヨの言葉をまだ幼い娘たちにおしえたなだいなだ氏は続けて曰く、
「身につけるものは、教養ではなく、虚栄だ」
そしてまた曰く、
「愛というものは、そもそも、何々であるから、という理由があって生れるものではない。
何々であるにもかかわらず、という、運命的な生れ方をするのだ。
相手が、すでに結婚した奥さんであるにもかかわらず愛する。愛は、それ故、打算を越えたものになるのだし、ただ、惜しみなく奪って行く。」
「パパは女性に、たったひとつのことしかのぞまない。それは人間味というものだ。不完全さ、それが、人間味をつくる。パパもそうであるように、男というものは馬鹿で、女性に人間味さえあれば、簡単に愛してしまう。そうであるから、今まで、人類は滅びないですんできた。」
『なだいなだ全集第九巻』「片目の哲学」第四章「女性についてー美徳のかたまり」
(1967年)より
(1967年)より
「すべてを忘れ去った時に、まだそこに残っているもの、それが教養である」
「キョウヨウ」なんて尤もらしい言葉を使わずに、また、「尊厳」なんていかめしい言葉を使わずに、
「すべてを忘れ去った時、そしてすべてを喪った時に、まだそこに残っているもの、それが人間味である」といいたい。
言うまでもなく馬鹿なわたしは、男性・女性を問わず「教養」よりも「おろかしい」そして「(ちょっと)おかしい」人間味を愛する。
言うまでもなく馬鹿なわたしは、男性・女性を問わず「教養」よりも「おろかしい」そして「(ちょっと)おかしい」人間味を愛する。