2018年12月19日

昔話した言葉…(Hさんとの対話)2


こんばんはHさん。

「読書」ということですが、私ほど本を読まない人間はちょっと稀なんじゃないでしょうか。

そうですね、20代の頃までは「人並み」に(あくまで人並み以上ではありません)
読んでいたようですが、もう10年以上本を読んでいません。
読んでもせいぜい2年に1冊とか・・・

「読書」ということに限らず、活字が苦手なんですね。
ですから新聞も読みませんし、雑誌、週刊誌の類も手に取ることはありません。

常々、わたしの弱さ、弱点は「本を読まないこと」に発するのだろうと薄々感じていはいるのです。
良書を読むということは人間にとって絶対に必要なことですからね。

しかしまた一方で、これほど読書人口が多いにも関わらず、あまりそれが世間の人間の質に反映されているという感じを持てません。

無論読書を「修身」「徳育」の道具とみなしているわけではありません。
わたしの考える読書とは、寧ろ常識や通俗モラルや、ありきたりで深い検証を経ない価値観を揺さぶり、覆すほどの・・・ある種の危険物・・・という意識があります。

目先の現実や既成の価値観、既成事実を追認、補強するものであれば、読書の意味などないと言いたい気持ちです。

読書の醍醐味は、武術の達人に、ものの見事に畳に身を叩きつけられ、脳天に真一文字に打ち込まれる・・・そんな快感を味わえるものだという思いもあります。

また読書人口の割に、
人間(ヒト)の「機微」に疎い世の中であるナァという感じも強く受けます。

ヒトの心の機微を知るに読書に勝るものはないのですが・・・

私自身いつになったら本読むヒトになれるのかという感じです。

「読書というものをもっと気楽に考えれば・・・」というご指摘も予想されますが、

これは読書というものに、敷居が鴨居という感覚を抱いていない人には、やはり理解しづらいものなのでしょう・・・

みなさん、今年もよい読書をなさってください・・・

え?映画好き?「芝居は無筆の早学問」

お粗末・・・

Posted by BLUE_MOON at 2008年01月04日 17:26



BLUE_MOON さん、こんばんは。

お若い時にはそれなりに読書されていたわけで、本嫌いということではなさそうですね。
私も年代によってジャンルの変化はあるかなあという気はしますが、小学生が趣味は読書と言う以上に親しんでいるわけではありません。
Mさんなどは、私が後ずさりするような大著にも果敢にチャレンジしていくタイプらしく、件の哲学カテでの回答をご覧になればBLUE_MOON さんもそれは納得されることでしょう。

私も一時期殆んど読まない時期がありました。(今にしても日に数ページほどですが)
私が読書に求めるものはただひとつ、面白さです。
何を面白いと思うかはその時々で違いますが、今は専らミステリー系ですね。
業界主導の評価を信用して落胆する時期は卒業しましたが、その中で本当に面白いものと出会える喜びはあるようです。
「敷居が鴨居」というのは非常に面白い表現ですね。
う~む。実に気に入った!感動した!(古い?)
というぐらいの、人間心理を巧みに捉えた表現ではありませんか。
機会があれば絶対使ってみるぞ、と固く決心したところです。
いずれにせよ、BLUE_MOON さんの芸術全般に関する造詣の深さには感心します。
また、色々教えてくださいね。

蛇足ですが、読書人口が多いと言ったって、芸能人の世迷言が(しかも相当の高確率で)ベストセラーになるご時勢ですよ。
何らかの因果関係が存するとして、論ずるほどの意味がそれにあるはずもないでしょう。

芝居がお好きなんですか。
私はテレビで見た杉村春子の桜の園ぐらいしか知りませんけど、面白いと思うことも案外ありますよ。
あれは、チェーホフの戯曲が好きなのでたまたま見ただけなんですけどね。
かもめも見たような気はしますが忘れました。
BLUE_MOON さんの好きなこと、これからも教えていただけると嬉しいです。
それでは、良い年でありますように!
 
Posted by hakobulu at 2008年01月04日 20:13



Hさんがミステリーをお好みとは。
これまた意外というか・・・

いや、拓郎の時もそうでしたが、なんとなく、
学究の徒という勝手なイメージを抱いているものですから・・・

私はJ・Jこと植草甚一氏や殿山泰司さんなんかに憧れるんです(笑)

JAZZと映画とミステリー・・・
ジャズと映画はマァマァこなしていますが、
読書がネックです・・・

私のアートへの感性は、今つきあっている友人の影響が大きいです。

お芝居は、彼女はほんとにいろいろ観ていますが、私は20代の頃、マイナーな劇団の幾つかを観たくらいで・・・門外漢です。

私はもっぱら映画派です。

チェーホフがお好きなんですね。
Hさんらしいという気がします・・・
(根拠はありませんが)

ドストエフスキーやトルストイとなるとさすがに聳え立つ山という感じで身構えてしまうところですが、チェーホフやツルゲーネフなどは、ちょっとした散策の小路といった風情です・・・
短くて味のあるものが好きですね。

Hさんのお薦めのミステリーなどもお聞きしたいところですが、聞いても無駄です(笑)
私はたとえ誰であっても人から薦められて観たり聴いたり読んだりは出来ないんです。

だからいつも遠回りですけど・・・
自分の中でそこに辿り着く道のりを経ないとダメみたいです・・・

・・・おっしゃる通り、本を読むのは楽しいから以外にありませんね。

それで人間が豊かになり心が潤えば一石二鳥ですね。

Posted by BLUE_MOON at 2008年01月05日 02:51



BLUE_MOON さん、こんにちは。
今年の北海道は雪が少なくて助かります。
そのうちまとめてドカッと来るのでしょうが・・。

>お薦めのミステリーなどもお聞きしたいところですが、聞いても無駄です(笑)
:ヨカッタ~、ビンゴ。(^^;)
実は2、3お勧めしようと思ったのですが、虫の知らせか、「ま、やめとくほうがいいだろうな、多分」という心理状態になりまして・・。

>私はもっぱら映画派です。
:映画館で見ることはまずありませんが、私も映画は好きです。
本と似ていますが、見てみなければ良し悪しが不明という点が困ります。
しかし、世の中どうしてつまらない本や映画のほうが多いんでしょうね。^^;
仕方ないっちゃー仕方ないんですが、時間を無駄にしたような気がしますよね。
BLUE_MOON さんあたりはそのへんの勘のようなものが働くんだろうなあ、という気はしますけども。
お勧めの映画ありましたらぜひ教えてください。
(私はゲオかツタヤ専門です)

>私はたとえ誰であっても人から薦められて観たり聴いたり読んだりは出来ないんです。
:これもわかるような気がしますよ。
私の場合は、ベストセラーとか、巷で大人気となると、もうそれだけで見る気がしなくなります。
お互いひねくれ者でしょうかね。^^;

訪れていただきありがとうございます。
またぜひお越しください。

Posted by hakobulu at 2008年01月05日 14:27



Hさん、こんばんは。

>しかし、世の中どうしてつまらない本や映画のほうが多いんでしょうね。^^;
仕方ないっちゃー仕方ないんですが、時間を無駄にしたような気がしますよね。

・・・漱石の随筆の中にこういう個所があります・・・

「病中の日記を検べてみると、『午前、ジェームスを読み終える。よい本を読んだと思う』と認めてある。名前や標題に欺されて下らない本を読んだ時ほど残念なことはない。この日記は正にこの裏を言ったものである」

いわんや我々凡夫に於いてをや・・・です。

>BLUE_MOON さんあたりはそのへんの勘のようなものが働くんだろうなあ、という気はしますけども。

そうですね。
昔、本を読んでいた時など、不思議と疑問に感じている事に関する答えやヒントになるような言葉や一節に出会うということが度々ありました。
こういうのは映画でも同じようで、親しんでいる世界では不思議とそういう予定調和のようなものがあるようです。

芥川がその辺を(心理的?)に言っています
「我々が歯医者の看板を見つけるのは目ではなく、我々の歯痛である」と。

>お勧めの映画ありましたらぜひ教えてください。

なんだか自分の趣味の押し売りみたいになってしまうかもしれませんので控えめに(苦笑)
何しろこういう話題をさせれば歯止めが利きませんからね(笑)

非常に無難なところですが、
今私がはまってるのは『刑事コロンボ』シリーズです。昨年から図書館でとっかえひっかえです。シリーズ全22巻(DVD1枚に2話)

勿論私も昔NHKで放送された時にリアルタイムで観ていましたが、見直すとまたいいもんです。何と言ってもこれは小池朝雄さんの吹替えでないといけません。
先ずお薦め(笑)

あとは、良質の人間ドラマなら、
英国のマイク・リー監督の『人生は、時々晴れ』をお薦めします。
クラシックで必見なのは、もうご覧になられたことがあるかとも思いますがフランク・キャプラ監督の作品・・・『オペラ・ハット』『スミス都へ行』『或る夜の出来事』もお薦めですがやはり『素晴らしき哉、人生』でしょう。(多分もうご存知かと思います)

好きな映画と言われれば洋邦それぞれ50本はその場で挙げられます( ̄^ ̄)ふふ!

>私の場合は、ベストセラーとか、巷で大人気となると、もうそれだけで見る気がしなくなります。

ご同様(笑)
本でも映画でも音楽でも、一生かかっても食い潰すことの出来ない遺産が既にあるのにという感じでいます。

そういう意味では私は頗るConservativeでしょうかね(苦笑)


今日はちょっとペダンチックに(苦笑)

Posted by BLUE_MOON at 2008年01月08日 03:09



BLUE_MOON さん、こんばんは。

漱石はいいですね。ありきたりですが、あの朴訥としていながら妙に勘所を掴んだ表現が、本来の和食という感じでどうしても捨てきれません。
コロンボですか。そういえばあの独特の声、思い出しますねえ。小池朝雄さんと言う方でしたか。
一時はテレビで物足りなくて、文庫でも全巻そろえたことがあります。
読み終わってすぐ古本屋行きになりましたが。(^^;
あれはドラマに限ります。

『人生は、時々晴れ』
『オペラ・ハット』
『スミス都へ行く』
『或る夜の出来事』
『素晴らしき哉、人生』
ですね。
タイトルを知らない映画は多いので見たことがあるのも含まれているかもしれませんが、今のところ内容の思い浮かぶものはありません。
いずれにせよBLUE_MOON さんのお勧めとあっては何度見ても損はしないでしょう。
そのうちぜひ見ます。
これで楽しみがひとつ増えました。

「ペダンチック」というのは今調べてみたら「学識をひけらかす」といったような意味でお使いでしたか?
軽い揶揄のおつもりでしょうが、そんな雰囲気は微塵も感じられませんよ。
生き生きとしていて大変清々しい印象を受けました。
まためぼしいものがあったら教えてください。

Posted by hakobulu at 2008年01月08日 23:32



今日もまた2008年初頭のHさんとのやり取りから。

人はともかく、わたしはどのようなことにせよ変わることは無いと思っていたが、
上の
読書の醍醐味は、武術の達人に、ものの見事に畳に身を叩きつけられ、脳天に真一文字に打ち込まれる・・・そんな快感を味わえるものだという思いもあります。
というような考えは今は持っていないし、Hさんに紹介した映画がフランク・キャプラだなんて・・・懐かしい。もちろんこれらのキャプラ作品は「古典」と呼ばれるにふさわしい
名作ばかりだが、結局最後には、それまで孤立無援だった「正義」と「愛」の主人公が、その信念に相応しい勝利と愛を手にするという、いかにもアメリカ的な筋書きが、捻くれ者のわたしには最早合わなくなっている。

ところで、『素晴らしき哉、人生』は、アメリカではクリスマスに『34丁目の奇蹟』と共に家族そろって観た映画だと言うが、今でもそうなのだろうか?
『34丁目の奇蹟』は幼いナタリー・ウッドが出演しているお伽噺で、「サンタクロースはいる!」という子供たちと、「そんなものは作り話さ」という大人たちの論争が国を挙げて行われるという、これもまた古典の名作だ。








2018年12月18日

昔話した言葉…(Hさんとの対話)


こんばんは Hさん。

Hさんは人間の「蓄積」ってなんだと思いますか?

以前もお話したことがあるかもしれませんが、
区の社会教育主事さんと話したときに、
「人手も足りないし雑務に追われて自分のための時間がナイ。今はほんとうにこれまでの貯金を食い潰しているような感じだ・・・」

それを聞いたときに「食い潰す」だけの蓄積があるなんてすごいなあと感じました。

・・・私はいつも自分の中に空虚を抱えて生きています。頭も心もまったくのがらんどうだという感覚が常にあります。

「宵越しの銭は持たない!」と江戸っ子は言いましたが、まさに私には歳月によって蓄積された何物もありません。

蓄積とは・・・経験であり、知識であり、知恵でありするのでしょう・・・

人は誰も多少に関わらず、何がしかの蓄積を備えているものなのでしょうか?
それとも「人による」のか・・・

私個人に関して言えば、何を観、何を聴き、何に触れてもそれが私の血となり肉となっているという実感はまるでありません。

無論蓄積というようなものがなくても、
目覚めたときにこれまでの経験がまったく真っ更になっていたって、人は生きていけます。

けれどもやはり蓄積と呼べるほどのものがある人は羨ましい。

年だけ食って蓄積のない人を
「徒に馬齢を重ねた・・・」と言うのでしょう・・・

今日も「仕事センター」のカウンセラーに
「口が巧い」と言われました。

しかし昔から言いますよね。

「江戸っ子は、五月の鯉の吹き流し。
 口先だけではらわたは無し」

・・・これは本来江戸っ子は口調はゾンザイだが悪意はないという意味で使われていますが、

この言葉は、私の実感を巧く表現しているのです。

自分に重心がない、
碇なく漂流している感じです・・・

Posted by BLUE_MOON at 2007年10月24日 01:53



BLUE_MOON さん、こんばんは。

本質的には蓄積よりは先に変革かなという気もしますが、難しいですね。
何らかの変革がなければ、蓄積さえ意味が果たしてあるのか疑問に感じます。

その上で蓄積されるものがあるとすれば後から気づくものなのでしょう。
長く漂っているうちに船底にいつの間にか藻や貝が付着するように。
つまり軌跡の集積でしょうから蓄積の無い人はいないと思います。


「江戸っ子は、五月の鯉の吹き流し。
 口先だけではらわたは無し」
がBLUE_MOONさんの実感を巧く表現しているとすれば、「はらわた」は自我意識の象徴ということになるのでしょうか。
仮に自我の弱さがあるのだとすれば、それは以前にも触れたことがあったかもしれませんが、それは超自我としての錘が大きすぎるからのような気がします。

「>自分に重心がない、
碇なく漂流している感じです・・・」
とおっしゃっていますが、超自我という錘が海底深く降ろされているために、自我としての船は同心円上をグルグル廻らざるを得ない、といったような印象も受けるわけです。
漂流しているように見えて、実は捉われているのではないか、ということです。

渡辺淳一の鈍感力が売れているそうですね。
すでに鈍感な私には不要そうなので読んだことはありませんが、評判は良さそうです。
自我力とでも言いますか、あるいは本能力といったようなものを、この愚かしい文明社会と対峙するためにもっと復活させるべき、とでもいったような内容かな、などと推測しています。

目の前のひとつひとつをつぶしていくしかないと思われますし、それが振り返ってみれば蓄積という形にいつか知らぬ間になっているのでしょう。
泥水を飲まざるを得ない場合もあるかもしれませんが。

話は違いますが、少し前にNHKスペシャルで兵士の証言を中心に編集された戦争記録をやっていました。
あれほどリアルな表現が一貫性を持って語られた番組は初めてで非常に興味深く見ていました。
良いにしろ悪いにしろ人間というのは何でもできるものだな、ということを最認識させられました。
南方戦線での退却路で力尽きた仲間を何人も見たという元兵士は、その中には両頬の肉を削がれていた人も多かったと証言していました。
人肉を食って飢えを凌いだという話は知っていましたが、「頬肉だけ」が削がれていたという点が気持ちがわかる気がして何ともリアルでしたね。

それでは、また。

Posted by hakobulu at 2007年10月24日 23:37



Hさんこんばんは。


昨日今日とNスペの再放送を観ました。
昨日は特攻隊の生還者の実話、
今日は100年前にフランスの天才数学者ポアンカレが遺した「ポアンカレ予想」が、
その後100年かかってやっと証明されるまでの数学者たちの苦闘を描いたものでした。

私は自分自身の繰り返しの検証で、否定すべき自己という結論に辿り着いたわけですが、
残念なことは、このような結論も、数学や物理学と違って、
誰も客観的な証明を示すことが出来ない事です。

私がいったい何者なのかは、私自身も、また他者も、誰も証明することはできない。

人はなぜこの「未知なる自己」なるものとして、日々生きていけるのでしょうか・・

・・・昨日「仕事センター」で「蓄積」に関する話が出たときに、カウンセラーは、
人間一人の中には約800年間、20~30世代分のDNAが組み込まれているらしい、あなたは生まれたときにもう既に「0」ではない・・・

しかし現実にはそのようなDNAの蓄積、生命の連鎖、本能によって私は翻弄されています。

私一個の頭や心で「諦めるべき」と結論付けた事柄について、本能は抵抗します。

 いまさらに 死なば死なめと 思へども 心に添はぬ 命なりけり
 この世になにか 思ひ残さむ・・・)

・・・本能とは煩悩であって、私にとっては要らざる蓄積なのです。

Posted by BLUE_MOON at 2007年10月25日 02:52



BLUE_MOON さん、こんにちは。

>本能とは煩悩であって、私にとっては要らざる蓄積なのです。
:永遠の青年といったところなんでしょうね。
それはそれで素晴らしいことでしょう。
自信を持って突き進むしかないのかもしれません。

しかし、「本能とは煩悩であって」というのは事実ですが、どうも肝心のことをお忘れではないかという気がします。
つまり、「煩悩といえども本能」ということです。
本能とは生命力そのもののことです。

>私一個の頭や心で「諦めるべき」と結論付けた事柄について、本能は抵抗します。
:これはわかりますね。
人間というのは誰しもそんなものではないでしょうか。
いずれ何らかの選択をせざるを得ないわけですが、形がどうあれ、それは個人の納得したこととして捉えられることでしょうし、それが真理だろうと思います。

本能が抵抗するのは、むしろ健全な証拠のような気もします。
仮に(執拗に)抵抗するのであれば、それは理不尽に抑圧されている可能性もあるでしょう。
「~すべき」と「~したい」は超自我と本能の葛藤として人類普遍のものですが、そこはやはり自我の自己責任による選択(決定)が求められるわけで、いわゆる自前の自己(自己アイデンティティ)の確立を期することによって視点の転換が可能になる場合も往々にしてあるように思われます。

>そのようなDNAの蓄積、生命の連鎖、本能によって私は翻弄されています。
:無論、連鎖は存在しますが、意思も意識も存在することもまた事実でしょう。
翻弄されるかされないか、というのはあくまで相対的な捉え方にすぎません。
自己以外のものによって制御されているという面は誰しもある程度は持っているはずですが、それだけではつまらない、と私などは感じてしまいます。

変革が求められるというのは特に大げさなものではなく、そういった意味だったのですが、バランスをとりつつ、もう少し我儘であることが誠実さ(自他共に対して)の証になるような印象を何となく私は受けます。
 
Posted by hakobulu at 2007年10月25日 13:04



カラバッジオの「ナルキッソス」です。
水に映った自分の姿に見とれているというよりも、

私には「お前は何者だ?」と、問い掛けているように見えるのです・・・

Posted by BLUE_EYES at 2007年10月27日 04:19



もしかしてギリシアの美少年ナルチスのことでしょうか。
「ナルキッソス」というのは何となく本格的な響きですね。
ギリシア読み?になるのでしょうか。

確かに自らに見とれているというよりも、お前は何者だという風情ですね。
腕に力が入りすぎていますから。

ナルチスは精神分析的には自己保存本能の象徴として、人類共通の要素とされていることはご存知かもしれません。
さらには、物質でさえも形状を維持(保存)しているのはナルチスムの現われとする人もいます。
それでいくと、地球は生きているとみるべきか、単なる物質とみるべきか難しいところです。

それにしてもBLUE_EYES さんは良い絵をたくさんご存知ですね。
羨ましいです。
また教えてください。
いつもありがとうございます。

Posted by hakobulu at 2007年10月27日 04:43









2018年12月17日

エミール&エミリー


● 最初の思想家は、最初のなぜの偏執狂だったにちがいない。これは世の常ならぬ偏執であって、まったく伝染の心配はない。事実この病に苦しみ、質疑の魔に身を嚙まれ、生まれながらに自失状態にある故に、いかなる既知項をも受け入れることの出来ない人間はきわめて少数なのである。


● 忘れるという能力がなくては、私たちの過去はたいへんな重みで現在にのしかかり、その結果私たちは、一秒といえども新しい時間を迎えることができず、ましてやその時間の中に入ってゆくことはできないだろう。生はただ皮相な人々にのみ、思い出すことをしない人々によってのみ、耐えやすいのではあるまいか。


● 魔羅(マーラ)、すなわち<誘惑者>が、仏陀の地位を奪い取ろうとしたとき、仏陀が吐いた言葉に次のようなものがある。
「いかなる権利があって、おまえは人間を支配し、宇宙に君臨しようと企むのだ?いったいおまえは、認識のために苦しんだことがあるのか?
任意の人物について、とりわけひとりの思想家についてその真価を尋ねようとするのなら、この問いこそが肝要な、おそらくは唯一の問いであるはずだ。認識のただの一歩にさえ応分の代償を払った者と、手ごろな、どうでもいいような、苦難ぬきの知識を分配された者たち、数の上では圧倒的に多い連中とを、峻別しなければならない。
(下線は本書では傍点)


● ある種の人間たちには、すべてが、掛け値なしにすべてが、生理学に由来する。彼らの肉体は思想であり、思想は肉体なのだ。


●言葉を交わせる相手がついにひとりもいなくなったとき、人間は、固有の名前を持った存在へと失墜する以前の状態に戻る。


● 堕落した動物、「動物の屑」というものを想像することは不可能だ。


● あらゆる思想は損なわれた感情から生まれる。


● ヘーゲルの説くところでは、人間が完全な自由を得るのは「ことごとくわが手で創り上げた世界に取り囲まれたとき」だけだという。
しかし、まさにそれが人間のやったことであり、しかもなお人間が現在ほど鎖につながれ、奴隷と化したことは一度たりともなかったのだ。

エミール・シオラン『生誕の災厄』出口裕弘訳より(1976年)



シオランのいうことはいちいちもっともだと思うが、わたしは彼を一人の人間として好きになれない。
実際、著者の人間性云々を言い出したら、世界中のほとんどの本は読むことができなくなる。
しかしその人間性を愛せない者の著作を読むということ、それを養分とすること、それこそが、自己という一個の人間存在に対する「冒瀆」ではないのか?

わたしはそもそも出版をするような人間を好きになることができない。そして彼のように、生誕を、世を、存在を呪いつづけながらも、生涯、ニーチェのように狂うこともなく、プリーモ・レーヴィのように自死することもなく、ワイルドのように獄に繋がれることもなく天寿を全うしたような人間を、どうしても愛することができないのだ。



シオランはエミリー・ディキンソンが好きらしいが、彼にディキンソンの詩を贈る。


出版は 人間のこころの競売
貧乏こそ正しい態度だ
そんな卑しい事柄には

私たちの雪を投資するより
むしろ屋根裏部屋から
白いまま白い造り主のもとへ
ゆくほうがいい

思考はそれを恵まれた神のもの
だからその肉体を与えられた神にこそ
気高い調べを売るべきだ
ひとまとめに

天の恵みの商人になっても
決して人間の魂を
貨幣の恥辱に貶めてはいけない…




Publication – is the Auction (788)
BY EMILY DICKINSON
Publication – is the Auction

Of the Mind of Man –

Poverty – be justifying

For so foul a thing


Possibly – but We – would rather

From Our Garret go

White – unto the White Creator –

Than invest – Our Snow –


Thought belong to Him who gave it –

Then – to Him Who bear

It's Corporeal illustration – sell

The Royal Air –


In the Parcel – Be the Merchant

Of the Heavenly Grace –

But reduce no Human Spirit

To Disgrace of Price –


Here



わたしはディキンソンのこの詩(言葉)が特に好きだ
I’m Nobody! Who are you?” (260 / J288) 

「わたしは何者でもない!あなたは誰?」


わたしは誰でもないひと! あなた 誰?
あなたも――わたしと同じ――誰でもないひと?
だったら わたしたち ふたりでひと組ね?
口には出さないで! みんなに知られてしまう――いいわね!

退屈なものね――[ひとかどの]誰かである――っていうのは!
よくご存じの――カエルみたいに――
六月のあいだはずっと――うっとりする沼地にむかって――
自分の名前を告げている!

『対訳 ディキンソン詩集』亀井俊介編(岩波文庫)



I’m Nobody! Who are you?
Are you – Nobody – too? 
Then there’s a pair of us! 
Don’t tell! they’d advertise – you know!

How dreary – to be – Somebody! 
How public – like a Frog – 
To tell one’s name – the livelong June – 
To an admiring Bog!























2018年12月16日

議論好きが嫌われる国で・・・


きのうわたしは、

「世界がわたしに与えることの出来るものは、予めわたしの持っていたもの以外にはない。」

読書とは、また他者との出会いとは、すべからく自己との出会いに他ならない。」

と書いた。

今日、母が借りている木村敏の『人と人との間』ー精神病理学的日本論ー(1972年)
をめくっていたら、こんな箇所にぶつかった。

「個人が個人として、つまり自己が自己として自らを自覚し得るのは、自己が自己ならざるものに出会ったその時でなくてはならない。自己がこの世で、自己以外のものに出会わなければ、「自己」ということがどうしていえようか。自己はあくまで自己でないものに対しての自己である」(第一章「われわれ日本人」)(下線は本書では傍点)

わたしは(おそらく)モノローグ(独白)よりもダイアローグ(対話)が好きなのだ。
わたしは反論を厭わない。何かしら「答え」らしきものを見つけることは二義的なことで、「対話」それ自体に「愉しみ」があると思っている。

わたしは所謂「権威」と呼ばれる人であろうと、疑問は疑問としてぶつける。違うのではないかと思えば、そのように伝える。けれどもそのような機会は、一般には、講演会の質疑応答の時間くらいしかない。

上記の「自己」と「非・自己」の問題についても、木村敏氏に直接疑問をぶつけることはできない。だから、日常的にこのような議論が出来る環境が望ましいのだ。

この本の第一章「われわれ日本人」は、このように書き出される・・・

「数年前、ドイツに住んでいたころ、友人のドイツ人がこんな話をしてくれた。彼がごく親しくしていた日本人の哲学者といっしょにレストランで食事をしていたとき、この日本人は料理が気に入らず、「これはわれわれ日本人の口には合わない」と言った。そこでドイツ人の御多分に洩れず議論好きの彼は、変なことを言うなよ、味覚ってのはまったく個人的な好みのものなんだぜ、「われわれ日本人の口には」なんて言い草があるかい、といってこの日本人哲学者に喰ってかかったというのである。」
(下線Takeo)

フランス人は議論好きとよく聞くが、ドイツ人はなんとなく寡黙で実直、どちらかというと、不言実行という日本人的なタイプかと思っていたが、なるほど、言われてみればドイツ=哲学の国である。(日本は「アンチ・哲学」の国)議論好きと言われればそうかとも思う。



最近とみに思うのは、なぜ「彼ら日本人」は、議論を好まないのか、なぜ議論好きを「理屈っぽい」「グダグダと屁理屈ばかり」「ああ言えばこう言う」・・・etcと、ある意味敵視さえするのか?
わたしはどちらかというと「ああ言えばこう言う」のが好きでたまらないタイプである。

日本人は議論が嫌いであり、だからこそ、当然議論が下手である。
昨日紹介したHさんのように、和やかにどこまでも対話ができる人はほとんどいない。
自分を棚に上げて言うのだが、先ずすぐに感情的になる。これはおそらく、太宰治の言う「確信の強さ。自己肯定のすさまじさ」に由来するのだろう。彼らは反論されることの快さを知らないのではないか。確かに「理屈っぽくてイヤだな」と感じることはわたしにもしばしばある。その主張の背後に、自信、確信のようなものが匂ってくると厭になる。
何度も言っていることだが、わたしは自信のある人が嫌いである。迷いのない人、自己を疑うことのない人が苦手である。

加えて、「われわれ日本人」はどうしたって悪い意味での田舎者である。わたし自身を含め、ユーモアのセンスというものに決定的に欠けている。
ユーモアの欠けたところに上質の議論・討論(対話)は生まれない。

「ユーモア」というのとは違うかもしれないが、Hさんは飄々としている。自説に固執しない。相手の意見(反論)をおもしろがれる余裕がある。相手を言い負かそうという気負いがない。毒々しさも刺々しさもなく、あくまでも柔和で柔軟であった。現実にわたしを含め彼を慕う人は多かった。

Hさんは夙にブログから離れてしまったが、ひょっとしたら、彼のブログはある意味わたしにとって理想的なブログであったかもしれない。ああでもないこうでもないというやりとりのないブログのある種の不毛さを感じさせられる。



議論好きが嫌われる傾向にある文化・・・とはいえ、わたしが人から好かれないのは、単に「口の減らないやつ」という理由ばかりではないだろうということは感じている。

何故わたしは嫌われるのか?

実はそんなことを2007~8年当時、Hさんのブログでそれこそ延々と語り合った。
そして今でも相も変わらず、そのことを考え続けている。

わたしのことは措いて、「議論が嫌い」な「彼ら日本人」は、人生の大きな愉しみのひとつを摑みそこなっていると思えてならない。

以下、Hさんの2007年のブログから、当時のわたしとHさんのやり取りを抜粋して紹介する。

◇    ◇


T:Hさんは北海道にお住まいだったんですね。
直に紅葉の時期でしょうか・・・

うらやましいな・・・

どのようなところにお住いか存じませんが、
自然の豊かな場所だったら、
夕刻、沈み行く太陽と雄大な自然を肴に一献傾けて、諸々のお話をしてみたいです・・・
人生や、芸術や、文学について。

BGMは私の好きなJAZZでもいいし、
オペラのアリアでもいいかもしれません。

バックグランドミュージックなどなくてもいいかもしれない・・・
風のささやき、木々のさざめき、虫の音だけで。

・・・そういう同性の友を持ったことのない私には憧れです。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。


「自分らしさ」とよく口にします。
「自分らしく生きる」

でもその「らしさ」のモデルっていったい何でしょう?
とても曖昧な言葉だと思います。

先日あるドラマを観ていて、
老いた今、ある男性と知り合ってときめきを感じている。そして過去の自分を振り返って、
「・・・自分じゃないみたい・・・」というセリフが何故か印象に残っています。

私は私であったのか・・・
私は私であり過ぎていたのではないか・・・

嘗て「まるで自分じゃないみたい!」なんて体験をしたことがあるだろうか・・・

私の求めている「自分らしく」「私らしく」
というのは、
これまでこれが自分だと思い込んで、そのように作り上げられてしまった「自己」からの解放なのかもしれない。

「自分じゃないみたい」な感覚を味わった時に初めて本当に自分を実感することが出来るんじゃないか。

・・・そんなことをぼんやり感じています。

Hさんと一杯やってるつもりで、
無駄口を叩きました(苦笑)


P.S

king Of Blue もいいですね。

Posted by Kind of Blue (LB) at 2007年09月28日 04:00



H:KBさん、どうもこんにちは。
なかなかいける口みたいですね。
私もかなり好きなほうですが、若い頃と比べると格段に酒量は落ちています。
北海道というと自然というイメージを喚起される方が多いのですが、どこにでも熊が出るわけではありません。^^;

>私の求めている「自分らしく」「私らしく」
というのは、
これまでこれが自分だと思い込んで、そのように作り上げられてしまった「自己」からの解放なのかもしれない。
:まさにおっしゃるとおりでしょうね。
結局は納得できるか否かということだと思います。
自然のままに伸びる生命には不満はあっても納得できないことは無いと思われますし、納得できないには必ずそれなりの環境が作用しているわけでしょう。
「自分らしさ」は色々な解釈ができるのでしょうが、
本来的な自己とは、過剰でもなく過少でもなく、「ただ在る」というだけのものだったはずで、しかもそれで十分ではなかったのかという気もしますね。
次第に日本酒のうまい季節になってきます。
Kind of Blue さんはウィスキー党のような印象も受けます。
パソコンの向こうで一杯酌み交わしながら語り合える。
便利な時代になったものです。
くれぐれも飲みすぎにはご用心を。
お越しいただきありがとうございました。

Posted by hakobulu at 2007年09月28日 13:58


ー追記ー

Hさんのブログに出入りしていた頃の自分の言葉を読み返してみると、
おそらく今でも変わっていないであろう、ある「かたくなさ」を強く感じる。


最後にもう一度、木村敏の文章を引用する

ハイデガーも言うように、われわれは自分自身がこの世の中に存在するという事実の根拠を、決して自分自身の手に引き受けることができない。われわれがこの世の中にあるという事実は、われわれ自身にとっては、実は一つの負い目に他ならない。われわれは、自分自身の存在を負わされている。

「かりそめのこの存在の時をおくるには / 他の全ての樹々よりもやや緑濃く / 葉の縁(へり)ごとに(風のほほゑみのやうな)さざなみをたててゐる / 月桂樹であることもできようのに / なぜ、人間の存在を負ひつづけなければならぬのか ──」とリルケは歌う(『ドゥイノの悲歌』第九 手塚富雄 訳)そしてまた、「地上に存在したといふこと、これは取り消しやうのないことであるらしい」(同)と言い、「それゆえわれわれはひたむきにこの存在を成就しようとする ── 地上の存在になりきらうとする」(同)と言う。

われわれは常に、取り消しのつかない事実としてこの世に生きており、しかもこの存在の「成就」には後れをとっている。つまり自己を完全に自己のものとして引き受け、本来の自己自身の存在になりきろうとして、果たせないでいる。われわれが人間として存在するということ自体が、すでにまったく未済的性格を帯びている。
『人と人との間』(第二章「日本人とメランコリー」)





2018年12月15日

求めるもの


Hさんとの過去のやり取りを眺めていると、論理的に、ジェントルに、且ユーモアを持って「反論」されることはある種の喜びであることがわかる。

わたしがこのブログで、A=Bであると主張することは、誰かにそれを穏やかに反論してもらいたいという気持ちの表れであるのかもしれない。
自分は正しいなんて思うほど傲慢でも愚かでもないつもりだから・・・


世界がわたしに与えられるのは、予めわたしの持っていたもの以外にはない


来週火曜日、18日に新宿紀伊国屋ホールで行われる、作家辺見庸の講演会に行けそうにない。今回の講演は、相模原の障害者殺害事件に想を得た長編小説『月』の出版に合わせての講演で、主なテーマは「障害とは」「健常とは」/ 「生きていていい生」と「生きていてはいけない生」があるのか? / 死刑制度とは国家による「生きていてはいけない生」の選別ではないか / オウム事件と死刑=国家による殺戮について・・・など、興味深い内容ばかりだが、体調はおもわしくなく、年の瀬の寒さは、文字通り「秋霜烈日」という厳しさで、肌身に堪える・・・

わたしは中央線の立川から数駅のところに住んでいるが、快速で約1時間。特快で約40分。現在の心身のコンディションで、この区間を往復することを思うと尻込みしてしまう。

Q&Aサイトで、「中央・青梅ライナー」などを含む「特急」を利用してはどうか、新宿の次が立川で、料金はどれも510円だと教えてくれた。
講演の内容を想えば、乗車券と合わせて、片道約1000円。往復2000円は惜しいとは思わないが、それでも尚、出られそうにない。



本を読めなくなって、もう数カ月が経つ、その間に『月』も出版された。地元の図書館にも6冊入った。早速借りたが、既に予約が入っていた。とても2週間では読めないので、ページを開くことなく返却した。
普段は誰も辺見庸の本など借りていないのに・・・

辺見庸の本は、小説、詩集を除いて殆ど読んだ。本は借りて読むことにしているが、気に入ったものだけ、5冊ほど購入した。ほとんどアマゾンで1円で売っていたものだ。(送料250円)

本を読んで世の中を見る深度が深まる、茫漠とした物の輪郭が鮮明になるということはあっても、それによって世界の見方(見え方)が変わるという体験をしたことが無い。
辺見庸がわたしに与えた影響は少なくないが、それは彼の著作を通じて、もともとわたしの内側に潜んでいたものに形を与えられたという点にある。

読書とは、わたしにとって、己の内面深く沈んでいたモノの発見であって、決して、外側から手渡されるものではない。
世界がわたしに与えることの出来るものは、予めわたしの持っていたもの以外にはない。
本は、わたしの中にあるが、自分では手の届かない泉から掬い取った水をわたしに与えてくれる。
本が与えてくれるのは「鍵」であって、宝の箱は与えてはくれない。

・・・言い換えれば、読書とは、また他者との出会いとは、すべからく自己との出会いに他ならない。



昨日の投稿を読み返すと、昔やり取りのあった人のブログに書きこんだコメントの引用部分以外の記述がどうしても生煮え・・・熟考されていないように感じられる。
これはやはり本が読めなくなっている状態と思考力の低下が連動しているのかもしれない。
今のような状態の時こそ、研ぎ澄まされた白刃のような思考力が必要とされているのだが・・・

このような時に思考の手掛かりとなり得るであろう講演に参加できないことがいかにも残念だが、これ以上体調を崩しては元も子もない。



=追記=

このようなやりとりがない独り言というものは虚しいものだな・・・
こういうのを読んでると、また「それは違うよ」と言ってくれる誰かが欲しくなる。








2018年12月14日

明るい未来(その他断想)


考えが漠然としてまとまらない。このところ、人のブログを読んでこころを乱されることが多い。
これは偶然だろうか?
それとも、"Everybody Is Normal Until You know them Well..."
「深く知り合うまでは誰でもマトモだ」の言葉に従えば、今ちょうど、彼らの真の姿が見え始め、わたしの感性にとって、どうしても氷炭相容れざる「異質の他者」の姿が現れてきたのだろうか。

「余りに早くわたしを理解するな」とは、アンドレ・ジッドの言葉だが、片言隻句によって、その人の本質が透けて見える場合が少なくない。直観的に、「合わないな」と感じた人は、後に見方が変わるということはほとんどない。



弟はよく母に、わたしももっとTVを視れば今の世の中がわかるのにと言っているらしい。確かにわたしは「今の世の中」のことをほとんど知らない。テレビはもともと持っていないし、これから購入する予定もない。新聞も既に半年ほど前から手に取らなくなっているし、インターネットでニュースを見る習慣もない。意識的に「外界の情報」を遮断している。

全くの無智な者が、たまさか外に出て感じることは、世の中は決して暗くはないということだ。
再来年の東京オリンピック(嘗て加藤周一が「4年に一度の世界的見世物」と称し、松山巌は「健康の祭典」と・・・)そして2025年(?)には大阪での万博が決まったらしい。「一億総活躍社会」「人生100年時代」「女性が輝く社会」・・・世の中右を向いても左を見ても明るい話題ばかりで、日本の行く末には一抹の影すら差してはいないようだ。

そんななかで、わたしをふくめたごくごく僅かな者が、病み、躓き、転倒して、明るい未来を約束された社会から零れ落ちた。しかしそれは象が蚊に刺されたほどの微小な、在るか無きかの、取るに足らない出来事でしかない。

現実に外の世界を歩いていても「暗い世相」などという言葉は全く似合わないほど、人々の顔に翳りはない。スマートフォンのガイドに従っていれば、決して道を踏み外すことはないという確信があるようだ。無論Google Mapが誤るはずがない。だから人々は道を過たないように齧りつくようにスマートなガイドに見入り、聴き入っているのだろう。



「引きこもり」と呼ばれる人の多くは、「このような状態」になってしまったことを自ら恥じ、社会に向かって詫びている。それはとりもなおさず、障害への、病への、ひいては「人間という生体」への蔑視に他ならない。「自分が間違っていたから病んでしまった。外に出て働くことができなくなってしまった」と。しかしそれは裏を返せば、人間は病まず、過たず、転ばず、途を失うことのない万能者であるというある種の信仰を前提とする。
だからこそ、万能者で無くなり、愚かにも病んでしまった自分をそこまで貶めることが出来るのだ。
からだが、こころが病んでいても、せめて意識は強者と共に在りたい。
弱い者、それが自分自身であっても、それを蔑みたいのだ。強者と同じ位置で。



「人のことはともかく・・・」とは言えまい。他者あっての自己なのだから。

最近はとみに社会との、つまり他者との不協和音が際立って来ているように感じられる。
最早誰とも「わたし」を共有できないという、絶対的な孤絶感・・・

そう言えば、人のブログに心乱され・・・と書いたが、偶然にも、その3者のブログに、それぞれ違った文脈ではあるが、同じ言葉が記されていた。それは「甘え」。
自分自身をも含め、誰かに向けて「甘え」という言葉を用いる以上、その者は「甘え」の対極に位置していることになる。甘えの対義語といえば「厳しさ」だろうか。「私は自分に厳しい(甘くない)のだ」と、だから他者にも厳しくできる(する)のだという意識があるのだろうか?
自分が「甘え」と対極に立つ存在であると任ずる者とはいったい如何なるものなのだろう?
また「甘え」が「弱さ」の同義語乃至類語であるなら、それを指弾することは「それにひきかえ自分は(強い)」と言外に公言していることに他ならないのではないか。
われは強者也と思えるものの心性とは如何なるものか・・・



最近久しぶりに某Q&Aサイトで言葉を交わした人の過去のブログに、いくつかコメントを残していたのを見つけた。2007年のことである。
当時は「親友」と呼べる人がいて、自由に外を闊歩していたが、わたしの孤立は当時も今も、そしてそれ以前も変わってはいなかった。

その人(仮にHさん)のブログから11年前のわたしの発言をいくつか書き写す。


●Hさんの全ての回答の中で一番印象に残っている言葉は、わたしの「無能」という言葉を「卑下」と仰ったことです。そのような卑下は不要だし、不毛であると。

何故わたしの「無能」を否定するのか、
最後まで謎でした・・・
無能なものと言葉を交わすことは不快ですか?


●Hさん。お返事ありがとうございました。
・・・掲示板からの退会に続いて、
7月から付けていた無料のレンタルブログに「あそこで」お馴染み(?)のMINTWALLさんが訪れてくれて、何回か書き込んでくれたのですが、彼女とも意見の相違で決裂。

ブログ閉鎖。

明星大学心理相談室も2回目でカウンセラーに「続けていく自信がない」と言われてお仕舞い(苦笑)

・・・所詮融和することのない人間関係を求めてウロチョロすることに本当に疲れてきました。

・・・19歳のときに堰を切ったように溢れ出た悲しみ・・・
Hさんは「論理的な飛躍」と仰いますが、これはもっと「神秘的な体験」といえるようなものかもしれません。

掲示板を出たり入ったりしても、
カウンセラーを探して東奔西走しても、

私の疑問は打ち寄せる波とともに届けられ、尽きることがありません・・・

いずれにしても私は19歳の不思議な体験は、遥か25年後の今振り返って、やはり嘘ではなかったと思えるのです。

あれが私の「原点」でした。


● 夢で見たイメージ・・・

自分の手にしっかり握られた鎖。
その先を辿っていくと、
首輪に繋がれた自分の首・・・

(Hさんの返信)
>私の疑問は打ち寄せる波とともに届けられ、尽きることがありません。
:そうですか。むずかしいですね。
浜辺に寄せた波の尻尾を掴みきれないうちに沖に戻ってしまい、また別の波がやってくるというようなことになるのでしょうか。

思考の船を大洋に乗り出し、果てしなく連鎖する波を営々と追い求める手法もあるようですが、どちらにしても簡単に答えは出ないかもしれませんね。
船とは何らかの自信なのでしょうが、気づかないだけで誰しもが自分の船は持っているような気がします。


● >思考の船を大洋に乗り出し、果てしなく連鎖する波を営々と追い求める手法もあるようですが、どちらにしても簡単に答えは出ないかもしれませんね。

>船とは何らかの自信なのでしょうが、気づかないだけで誰しもが自分の船は持っているような気がします。

私の船は「謎」に飲み込まれてしまうでしょう。

最早、私自身が謎と同化してしまうでしょう・・・

この絵のように・・・


●・・・昔からあるおはなし。

病院の待合室にて数人のお年寄りが

「おや?今日はLBさんの姿、見えないね」
「ああ、なんだか最近具合がよくないらしいよ・・・」

相談をする、手を差し伸べる。
口を開き声を発する・・・
それも元気のいることなんだと思います。

心が足元まで沈んでしまった時、
人は自己の躯をも重力に任せるのだと思います。

或いは線路に、或いは地面に、或いは湖底に・・・

(※LBとは当時わたしが彼(ら)とやり取りをしていたQ&Aサイトの「哲学」カテゴリーで用いていたハンドルネーム、Loser Blue から来ている。ルーザー・ブルー(=敗残者の憂鬱)


● いまさらに 死なば死なめと 思へども 心に添はぬ 命なりけり


・・・この世になにか 思ひ残さむ