今日はなんだか、わたしの生涯のひとつの分岐点になるような気がする。
母に付き添ってもらって、最寄駅からふた駅、そこから歩いて10分ほどのクリニックに行ってきた。
今日の受診前に、ここ数日間、せめて過去1週間分くらいのブログ(コメント含む)を読んでおいて欲しいと主治医に伝えていた。
先ず、「ここ」でのやりとりについて、医師は「それぞれの言い分はわかる」としながらも、「普通の人はここまでやらない。途中で止めるだろう」=「長々と議論しない」という感想を漏らした。それはつい先日「いのちの電話」で、相談員がわたしと話していて、「ああ言えばこう言う。こう言えばああ言う」「理屈か屁理屈か、屁理屈なのか理屈なのか?」「単純に真っ直ぐなモノを無理に捻じ曲げ捻じ曲げて・・・」云々と評したのと通じる。
青梗菜さんにとっては甚だ迷惑な話だろう。深くお詫びします。
しかしこれに関しては、わたしはQ&Aサイトの「哲学カテゴリー」で、議論好きが、それこそ「ああ言えばこう言う」というやりとりを延々と繰り返しているのを知っているので、ある事柄について、ある主張や意見について、どこまでも掘り下げていくのが好きか、適当なところで終わらせるか、結局は「趣味の問題」(そして「時間の問題」「暇の問題」)であると思っている。
ただ、これはわたしの主観的な印象に過ぎないと断っておくが、主治医自身は、「いのちの電話」の相談員と同じように、こういうタイプの人間は、どちらかというと苦手・性に合わないと感じているという印象を受けた。「こういうタイプの人間」・・・つまり彼の目の前にいるわたしのようなタイプである。
そしてこれも主治医にとっては全くの誤解であり極めて不本意であると思われるかもしれないが、今日のやり取りで、わたしのような人間は、どちらかといえば人から敬遠されるタイプであると言っていたように、わたしには聞えた。
自分が人から好かれない人間であることは、今更誰に指摘されるまでもなく、当人が最もよく認識している。けれども改めて、長くわたしを診てきた主治医から「敬遠されるタイプ」と、念押しされると、流石に落ち込む。それが単に一医師の意見ではなく、おおよそその通りであることは理解していても・・・
しかし繰り返すが、これらのやり取りでのわたしの印象・感想は、あくまでわたしの偏見を通した主観的なものであって、決して「医師がそう言っていた!」というのではないということを改めて確認しておく。
◇
さて、どちらかというとこちらが本題なのだが、
一連の「スマホ問題」について、コメントを寄せてくれた人たちが口々に、「なぜそこまで「スマホ」にこだわるのか?」「嫌いなら無視すればいいじゃないか?」と言い、外界と内面の区別だとか境界線などと言っているのがわたしには全く理解できなかったが、そのことを伝えると、「ふつうの人は、外界の情報を全て取り込んでいるのではなく、無意識に取捨選択しているんです」「嫌いなものは無視。これは心理学でいう「フィルタリング効果」といって、殆どの人はそれが見えていても、内面まで取り込まないようなフィルターを持っています」「ごく稀に、特に発達障害などを持っている人に、外界の情報を全て自分の内面に取り込んでしまう人がいますが・・・」
という説明をしてくれた。
外界と自己の境い目とか、嫌いなものは見なければいいという意味がまったく理解できないどころか、「嫌い=無視」なんてことがそんなに都合よくできりゃ苦労しないよと、反撥さえ覚えていたが、医師によると、殆どの人はそれが当たり前にできるのだと。わたしのように、目の前でスマホをいじっている人々の姿=醜悪さが濁流のように自己の内面まで浸水してくるということはないのだと。
つまりわたしは、ほとんどの人が当たり前に備えている自己防衛機能を持たずに生まれてきた。嫌なものから自分を防御する扉を、楯を、壁を持っていない人間なのだ。
であれば、嫌いなモノのイメージは怒涛の如くわたしの「内側に」押し寄せてくる。防ぐものがないのだから。
わたしが何故嫌いなものにそれほどまでに拘るのか、無視できないのかのメカニズムが解明されたような気がした。
無論これはあくまで主治医の判断であり、実際にレントゲンで調べて、「なるほど。確かにありませんね」「いや、小さいけれどもあることはありますよ」と言えるものではないのだが、この説明はわたしには合理的に思えた。
先に紹介した、わたしの過去の投稿に書いたこととも符合する
『「田舎者」と「都会人」、あるコラムをめぐって』
わたしはこの診断は、ほぼ正しいと思っている。
前に、ある統合失調症の女性のブログで言われた、「Takeoさんて嫌いなものがすごく沢山あるんですね」という言葉の意味も、今はわかる気がする。
これは先天的な障害で、生涯治ることはない。つまりわたしのスマホ=外界嫌悪も・・・
「人から避けられるタイプ」「嫌なものをシャットアウトする機能を持っていない」
ひとに好かれず、また、柵もフェンスもない無防備故、キライなものたちは、自由にわたしの内面に侵入してくる・・・
その上で、尚。尚。生き続ける意味とは?
つまり、苦しみ続ける意味とは・・・?
ー追記ー
この投稿でご迷惑をお掛けした方々。わたしの主治医、そして青梗菜さんはじめコメントをくださったみなさまに改めて深くお詫び致します。
しかし同時に、もう誰に嫌われようが同じことという気持ちもあるのです。ご理解いただければ幸いです。
きみはぼくの死だった──
きみをぼくはひきとめておくことができた
すべてがぼくから脱落したときも。
ー パウル・ツェラン「きみは」『パウル・ツェラン詩集』 飯吉光夫訳より(1975年)
