2018年10月5日

死に場はあるが逃げ場はない。ならば死こそ逃げ場だ。



Loch Coruisk, Isle of Skye, 1876, John MacWhirter. Scottish (1839 - 1911)



わたしは「精神病」でも「ココロノヤマイ」でもない。
ただひたぶるに、ひたすらに孤独なのだ。
「心の病」でないものを精神科医やカウンセラーが「治せ」るはずはない。

10月下旬に辺見庸の新刊『月』が出版される。
相模原の重度障害者殺害事件に着想した小説らしい。
いづれ図書館で借りて読むだろう。

彼のブログ
「11月と12月に、『月』刊行関連の講演を都内の書店でおこなう予定です。
 たぶん、八重洲と新宿。詳細は後日。」とあった。
以前から辺見庸の講演は一度聴いてみたいと思っていた。新宿。紀伊国屋ホールならいけない距離ではない。
八重洲も新宿も、かつてはよく行った場所だ。

わたしは人は怖くはない。仮に紀伊国屋ホールで、満員の聴衆を前に30分何か話せと言われれば話すことはできるだろう。
けれどもわたしは講演会には行かないだろう。

それほどわたしは幸せではない。ひとりで街を歩けるほど、幸福でも、強くもない。

同じ金を使うのなら、
同じ外に出るのなら、

ホームレスのおじいさんと安食堂であったかいめしを一緒に喰う方がいい。
一人暮らしのおばあさんと、彼女の手料理を一緒に食べる方がいい。


もうこれ以上「与えられる」惨めさは御免だ・・・

上の絵のような場所に行ってみたい。
前に、絵を観るのは「死に場所を探しているんだ・・・」と書いた。実際の死に場所ではなく、こんな場所で死ねたらと思うことによって心安らぐのだ。
これもそんな「絶好の死に場所」のひとつだ。心穏やかに死ぬことができるように思える。

死ぬことを
持薬を飲むがごとくにも われは思へり
心痛めば (啄木)

(いったい何度この歌を引用すればいいのか・・・)










2018年10月4日

まとまらぬままに…「まともである」ということについて


昨日、1年前のブログはこんなじゃなかった、というようなことを書いたが、昨年とて、わたしの文章の通奏低音は「孤独」であり、それゆえの「外出困難」には違いなかった。
それでも、今よりはもう少しオブラートに包んだ(?)直截的ではない表現を用いていたように思う。ところが今はもう、「狂気」を隠そうともしていない。

随分前に観た映画なので、粗筋もディテイルも、ほとんど忘れているのだが、市川雷蔵主演の『炎上』という、確か水上勉原作の、金閣寺炎上に材を取った映画のシーンで、後に金閣に火を放つ雷蔵が、たまたま寺を訪れていた高位の僧、中村鴈治郎(実は生臭坊主なのだが)に、「どうかわたしを、わたしを見抜いてください!」と懇願する場面があり、そこだけが何故か強く印象に残っている。僧は酒と女に夢中で、彼の願いなど黙殺されていたが。

大学時代から常に孤独と二人連れであったわたしは、自分がナニモノカを知りたいと思っていた。わたしという人間がどういう存在なのかを、誰かに見抜いて欲しかった。

犯罪者の精神鑑定などが時に話題になるが、たとえば、木村敏と中井久夫両氏がわたしを「鑑定」したら、どのような人物像が浮かび上がってくるだろう?
仮に木村判定と中井判定が大きく異なるようなら、それは何に因るのか?

・・・そんなことを考えるのは、今でもわたしは誰かに「わたし」という存在を「定義」してもらいたいという欲求があるからだろうか?
そして鑑定の結果、わたしという人間は、木村あるいは中井鑑定に基づく存在となるのだろうか?

「わたし自身」或いは「彼」という「わたし」、「彼女」という「わたし」・・・それらはいったいどのように「定義」され「規定」され得るのか?
或いはあらゆる「わたし」は、いかなる定義を下すことも能わざる存在なのだろうか?



ところで、わたしがインターネットですることといえば、海外のサイトでアートを渉猟し、You Tubeで古い音楽を聴きつつ、それらの絵や写真の美にため息をつきながらTumblrに投稿すること、そして主に、心を病んだ人、引きこもりの人たちのブログを読むこと、自分のブログを書くこと。それだけである。

いろんな人のブログに綴られた様々な考え方、物の見方に接していると、当然ながら、自分のそれと、合う、合わないが出てくる。この考え方はおかしいと感じることがある。
では、いったい「まともである」「まともじゃない」という選別は何を基準に行われているのだろう?

広くは、この国の首相及び、首相2号はまともであるか?それに対立する野党の何某とかいう人はまともであるのか?アメリカ合衆国大統領はまともか?ロシアの大統領は?中国の国家主席は?
そもそも「まともな政治家」=「まともな権力者」なんて存在するのか?

ヴィンセントはまともか?彼の画業がなくともマトモか?逆に彼の遺した絵があるから、マトモと見做されているのか?
ヴァージニア・ウルフはどうか?シルヴィア・プラスは?ダイアン・アーバスは?ジャクソン・ポロックは?
すべて自殺したアーティストたちだ。「自殺」とは、マトモな人のすることなのか?
ホームで、電車の来る方角を見ることもなく、見事に揃って下を向いている人たちはマトモか?
今の社会でマトモでいられることはマトモか?

「まとも」とされていることと、個人的、主観的「好悪」とはどのような関係にあるのか?



わたしには、なにがまともで、なにがまともではないのかの判断はできない。それは、もとより「まともであること」の客観的基準が存在しないからだ。
ただ、僅かに言えることは、わたしは「正統」よりも「異端」、「正気」よりも「狂気」に、より親近感を覚えるということだ。

そして少なくない「狂気」は世の「常識」「社会通念」「正気」によってもたらされていると感じている。
何らかの理由に因って働くことができない人たち、彼らが、もし、「自己責任」という、一見「正気」を装った狂気または錯誤に染まって自殺したとしたら、彼を死に追いやったのは「狂気」ではなく「正気」に他ならない。

「狂気」とされているものはまともではなく、「正気」イコール「まとも」という考えに与することはできない。どころか、今は正に、その逆こそが真っ当な状態であるような「さかしま」な世界であるという認識が必要に思われる。

ある考え方が一般に「正気」と見做され、多数の支持を集めている場合、ひとまずそれは疑ってかからなければならない。幅5~6メートルの横断歩道を渡るとき、右を見ても左を見ても車の影ひとつ見えない、それでも「赤信号」だからと信号が替わるまでじっと待つ。これは「正気」であろうが、しかし、「まとも」だろうか?

わたしには今の若者が、嘗てなかったほどに、体制に、そして既成事実に、現状に、従順であるように見える。その、思考力を失ったかのような「真面目さ」「疑うことなき順応性」に慄然とする。

「個の内面」乃至「自己」というものがない場合、人は「狂う」ことはできない。
何故ならそれは、今、目の前の現実との確執葛藤の故であるから。
彼らはひたぶるに「正気」であることしかできない。
「自己責任」という罪名で自らを断罪すること、それは畢竟「過度の正気」に他ならない。(蛇足乍)


不悉










2018年10月3日

けふもまたかくてありなん…


なにより口惜しいのは、自分が本当に書きたいようなブログを書けない・・・書くことができなくなってしまったことだ。
昨年暮れ頃からわたしのブログを読んでくれていた人たちは、最早現在のわたしの、代わり映えのしない日々の陰鬱な述懐を読んでくれてはいないだろう。
それほどまでに過去に書いていたものとは違ってしまっている。
そして、またいつか、前のようなものが書けるようになれるとも、少なくとも今は思えない。

現在のわたしの頭の中、胸の内、そして生活のすべてを覆っているのは、あのハムレットの独白だ。「生きる 生きない それが問題だ…」
頼るところはない。市役所や地域の保健所の保健師であろうと、都の精神保健福祉センターの相談員であろうと、きょうびこのような非効率極まりない(言い換えれば「人間的な、あまりに人間的な・・・」)ハムレット的な問題は避けて通る。

彼らは口々に言う
「生きる? 生きない?ですって?なんで『生きる』ということにクエスチョンマークがつくのかわかりませんねぇ・・・」
「あなたがね、ほんっとうに、「生きる!」「生きたい!」と決心したときにまた連絡してください。ここは「生きること」に「?」を付ける人の面倒までは見られないんですよ」

精神科医、カウンセラーとてさして変わりはしない。
「生きる意味が解らない」「何をする気も起きない」「何をしてもつまらない」そのような訴えは、たちまち「鬱」と診断され、わたしのカルテは「うつ病」の棚に投げ込まれるだろう。

けれども、生きることへの疑問、その意味の喪失、楽しみを見いだせないということ、それらが、「病んだ状態」であるとされるのは、この世界が、現代社会が、生きる価値に溢れ、たのしみに満ち、退屈や倦怠などあるはずがないという前提が無ければ成り立たないはずだ。
生きることが厭になることが「異常」であり「病気」と見做されるほど、この世は素晴らしいところなのだろうか?
「生きること」は、問答無用で「死ぬこと」よりもいいことなのか?



けれども、このようなことを書けば書くほど、自らを「死地」に追いつめているような形になってしまう。
書くほどに、語るほどに、「さあ!どっちだ。生きるか死ぬか!」「白か黒か!さあさあさあ!」と、否応なしに二者択一を迫られているような気持になってくる。
しかしそれはわたしの本意ではない。「生きる」に対しても、「生きない」に対しても、わたしは同時に、双方に、クエスチョンマークを差し出している。それが、「生きること」が自明である世界や人びとにとっては、短絡に「(自)死」というイメージに結びついているだけだ。だがそれでは生きている間に、「生きることについて(立ち止まって)考える」ことはできなくなってしまう。

現代社会を軽蔑し、蛇蝎のように忌避することと、それゆえわたし自身のいのちを軽んずることとは、必ずしも地続きではない。

「現代社会に生きる意味」を見出すことも、また自裁することも、同程度に極めて、極めて困難なことだろう。
それを知りながら、尚、生きている。

「生きることの破綻と全き不首尾・・・」そんな言葉を苦く噛み締めながら・・・











2018年10月2日

New Normal 「新たなる常態」への不適応


わたしには「対人恐怖」というものはない。厭人観はあるし、人間は本質的にはとてつもなく恐ろしい生き物ではあるが、一般的な意味での対人恐怖はない。

けれども、駅で、店で、電車やバスの車内で、そしてもちろん歩きながら、いたるところでスマートフォンに憑依されている人間たちの姿は、ゴヤの「影」以上に醜く薄気味悪く見える。

とてもではないが「ニュー・ノーマル」「ニュー・ワールド」などには染まれないし、染まる気もない・・・



ふと、あることばを思い出しひどく気が滅入る。
「死に場所はあるかもしれないが、逃げ場はない」

死ぬことはできるが、逃げることはできない・・・

'NO WAY OUT' ー「出口なし」
食事と寝床を与えられたホームレスと変わるところはない。
その内面の空虚、存在の虚無に於いて。

もう一度言う。逃げ場はない。いま引きこもっている場所は、決して逃げ場でも隠れ家でもない。そして「外」には「素晴らしき新世界」・・・

孤独・・・とてつもなく・・・こころ千々に乱れて已まず・・


Muchacho espantado por una aparición, ca. 1825, Francisco de Goya.

フランシスコ・デ・ゴヤ「影におびえる男」(1825年)





引きこもり雑考Ⅱ


● 外出困難(引きこもり)については、既にあらかた書きつくしてしまった。
何故外に出ることができなくなるのか?そのメカニズムを知りたいと思うけれども、
なかなか参考文献が見つからない。
そもそも「引きこもり」という概念自体が極めて曖昧なもので、「外に出られないこと」を精神病理学的な視点から考察した本がどの程度存在するのか。また同時に、「引きこもること」と「哲学的見地」は分離不能なはずだ。
わたしが知りたいのは、その「原因」であって、外に出られるようになるならないは必ずしも問題ではない。

● ウディー・アレンの『ラジオデイズ』に、「神は「個人」に関心を持たない」というマルクスの言葉が引用されていたと思う。

「心理学」「医学」とは純粋な科学なのだろうか?
そもそも「科学」とは如何なるものなのか? 
科学にとって「個体」とはどのようなものなのか?
科学にとって「例外」という概念は存在するのか?それはどのような位置づけをされていて、どのような意味を持つのか?
医学は「個体」を診るか?

●「見たくないモノ」に対して目を瞑る。
 「聴きたくない音」に対して耳を塞ぐ。
 「厭な匂い」に鼻をつまむ・・・

わたしの外出不能も、その拡大した現象に他ならない。外界=世界は醜い。だから見たくない、聴きたくない・・・出たくない。世界が変わらない限り外に出ることはできない。
或いは急に世界が醜く思わなくなるような魔法にでもかからない限り。

では何故世界が醜く感じられるのか?わたしが知りたいのは正にそのメカニズムだ。
よしそれを知ったところで、世界の醜悪さは1ミリも変わりはしないが。

●「外に出られない」「出たくない」というのは「病気」の「症状」がそうであるように「自然な生体反応」だ。風邪を引いて熱が出る、頭が痛い、咳やくしゃみが出る、洟水がでる。これは「症状」であって「風邪」そのものではない。生体が自己防衛のためにそのような「症状」を発している。症状は身体が病気に抵抗することで示されているものだ。
肝心なのは、「出られない」という「症状」を解消することではなく、出られなくしている「根本原因」を究明することだ。

ー追記ー

世界が醜く見えなくなる「魔法」のひとつに例えばフレッド・アステアやメル・トーメが歌っている ' A Foggy Day ' に代表されるようなある種の「秘密」もある。ただその「奇跡」も、今では既に賞味期限切れのような気もするが・・・




A foggy day in London Town
Had me low and had me down
I viewed the morning with alarm
The British Museum had lost its charm

How long, I wondered, could this thing last?
But the age of miracles hadn't passed,
For, suddenly, I saw you there
And through foggy London Town
The sun was shining everywhere.

A foggy day in London Town
Had me low and had me down
I viewed the morning with alarm
The British Museum had lost its charm

How long, I wondered, could this thing last?
But the age of miracles hadn't passed,
For, suddenly, I saw you there
And through foggy London Town
The sun was shining everywhere.

◇◆◇

A Foggy Day (in London Town) Music by George Gershwin. Lyrics by Ira Gershwin.Song by Mel Torme.





2018年10月1日

狂気を感じるということ


わたしは正気のまま狂いたい。

「狂う」とはどのようなことか、「狂気」を通じて世界がどのように見えるのか、正確に感じ、記録したい。

或いは現にそうであるのかもしれないが・・・



The vision of Catherine of Aragon, 1781, Johann Heinrich Füssli. (1741 - 1825)

「キャサリン妃の幻視」ヨハン・ハインリッヒ・フュースリー(1781年)




「懐かしい風景」の「書き割」感…


先月海辺の町へ引っ越していったKさんから便りが届く。多分訪ねて行く事はないだろうが、イラスト入りの手書きの地図が同封されていた。
駅の改札を出て、踏切を渡り、商店街を抜けて少し歩くと、Kさんの新居・・・(といっても2DKのアパートだが)があるらしい。
駅前の商店街のとっつきに揚げ物屋、というのだろうか、コロッケやカツ、アジフライ、サラダなどを売っている店があって、夕方になると、下校途中の中・高生が、ファストフード店感覚で立ち寄り、「チーズ入りカツください」と、白い割烹着を着た店のおばさんに声をかける。「持って帰るの?今食べるの?」「今食べます!」
そんなやりとりがあるという。そこでは焼き鳥も売っているらしく、先日Kさんが焼き鳥を二本頼んだら「ハイ。焼き鳥二本ね!二本!」と大きな声で言われて恥ずかしい思いをしたと書いてあった。

わたしが大田区の馬込に住んでいたときにも、「馬込銀座」という商店街の入り口に「天勝」という揚げ物屋があって、時々揚げたてのコロッケやメンチカツを買った。串カツもおいしかった。しかしその店も、わたしが10年前に郊外に引っ越してから数年たたずに店仕舞いしてしまった。

わたしがKさんの便りを読んで感じたのは、そんな店がまだ残っているんだ、という懐かしさではなく、なんというか、もっと不思議な感覚だった。
わたしは外に出ることはないが、仮にそういう昔ながらの風景をどこかで目にしたとしたら、わたしはきっと「うれしい」「懐かしい」とは感じないだろう。
かつてわたしが、その風景の中で生きてきた世界は、とうに失われてしまっている。そんななかで、突然当時のままのような街並みや、店、建物に出くわせば、真っ先に感じるのは、おそらく強い「書き割感覚」だろう。
仮にその店一軒だけではなく、昔ながらの商店が並んでいたとしても、その一帯がすべて書き割り染みて見えてくるはずだ。

わたしは自分のブログに 'A man with a past ' 「過去と共に生きる男」或いは
'Clock without Hands ' 「針のない時計」=時が止まっていること・・・などというタイトルをつけるくらい、「今の時代」に適応できない人間だ。
けれども、好むと好まざるとにかかわらず、今・現在に存在しているわたしが、「むかしのような店」や「時が止まったような場面」に出会った時、奇妙な「演出感」を感じるのは不思議ではないだろう。

そしてそのような、かつては庶民の日常生活とまったく地続きであった店や場所が
特別視されることに強い抵抗を覚える。一昔前、どこにでもあったような喫茶店や食堂、蕎麦屋、ラーメン屋、そして木造住宅が、なにやら貴重なアンティークのように扱われ、もてはやされているのが、ひどく軽薄に思え、不快なのだ・・・

極めて端的に言えば、昔ながらのものが今尚残っているというのは、何処か奇妙で、不自然で、芝居めき、書き割り染みていて、馴染めないのだ。
骨董品など、時代がついていることが第一の価値である品物以外の、あらゆる種類の有形無形の「古さ」・・・それは最早「現在の現実」にはありえないはずである。「過去」と「現在」が同一の次元(同じ時空間)に共存し得る筈はないのだから。

ところで、昨日の内科での健康診断で、風邪をもらってきたのだろうか、それとも滅多に外に出ることがないのに外気に触れたので体調を崩したのだろうか、風邪気味である。
すると母が、温かいうどんやおじやをこしらえてくれる。まるで昔の母親のように。
わたしはふと、この人は本物の母親だろうか?と思う。だってまるで昔のままだ・・・


◇◆◇


昨年、わたしはこのような感覚をショート・ショートに書いたことがある。
これが今のわたしの「現実観」なのだ。


「駄菓子屋さん」

「ただいまあ。」
元気のいい声とともに子供たちが小学校から帰ってきた。ランドセルを放り出すと早速妻のいる台所へとんでいき10円をねだる。天気のいい日はほぼこれが毎日の光景になっている。
「ほんとうにしょうのない子たちねえ・・・」と妻はいいながら、買い物かごからがま口を取り出して兄弟にそれぞれ10円づつ手渡し、玄関に向かって駆け出してゆく子供に「あわてて落としてももうあげないわよ!」と笑顔を見せる。

子供たちは帰ってきたばかりの小学校への道を引き返してゆく。目的は小学校の隣にある駄菓子屋である。そこは子供たちの間で「ばあちゃんち」── この場合「ばあちゃん」は、「おばあちゃん」のような発音ではなく、「ばあ」の、「あ」の字にアクセントがつく──と呼ばれている。
そこで子供たちは10円で買い物をしてから土手の方へ遊びに行くのだ。

おばあさんがいつもお店にいて品物を売っているので子供たちが勝手にばあちゃんちと呼んでいるだけで、この駄菓子屋に決まった屋号のようなものはない。木造の店の中にはおおきなガラスの瓶に入ったいろいろな色のお菓子やおもちゃが並べられている。タコ糸のようなものが付いた三角錐の形をしたあめや、麩菓子、薄くて丸いウェハースのような桃色のせんべいに、あんずのジャムをつけて食べるおかし、赤や青や黄色い色のセロファンにくるまれていて、口の中に入れるとシューっと泡立つラムネ菓子。その他にもめんこやビー玉、ベーゴマ、女の子たちがゴム跳びに使うゴム紐や、縄跳びのなわも売られている。店の奥には正月の売れ残りだろうか、埃をかぶった凧がぶら下がっている。

わたしは子供たちが出て行ったあと、なんとなく自分もその店に行ってみたくなった。

「こんにちは」わたしは駄菓子屋の店先に立った。
「へえ、いろんなものがあるんですねえ。懐かしいなぁ!」
ばあちゃんは「いらっしゃい」と言ったきり終始ニコニコしているだけで余計な愛想はなにも言わない。これがいいのだ。
「何かお探しですか?」とか「こちらが子供たちに人気の飴です」などというどこへ行っても聞かされる型どおりの接客は聞き飽きた。
わたしは店の奥にチラと眼をやる。奥は座敷で、店との仕切りになっているガラス障子の内側には、上に人形の置かれたテレビ、柱時計、○○酒店と書かれているカレンダーなどが目に入る。柱も、長押も、天井も、佃煮のような色をしている。座敷の向こうには小さな庭があるようだ。つつじや椿の木などが見える。

わたしは数枚の、今は無くなってしまったチームの野球カードと店の片隅の棚でやはり埃にまみれていた豪華客船のプラモ、そしてあんこ玉を買って店を出た。

小学校の校庭にすでに人の姿はなく、ばあちゃんはわたしが店を出ると店の前に出していたすっかり塗りの剥げた丸椅子を片付け、飼っているのだろうか、時々この辺りに見かける白黒のぶちねこの頭をなでながらガタガタと店の戸を閉てている。

町内のスピーカーから「夕焼け小焼け」のメロディーが流れる。

あんこ玉を口へ運びながらわたしはふと思う、もし、まだ十に満たない子供たちが「ばあちゃんち」が、「ジュブナイル Co. Ltd」という企業が、全国に展開しているチェーン店で、あの「ばあちゃん」も、「派遣社員」だと知ったらどうだろうか?おそらく彼らはキョトンとするだけだろうし、チェーン店や「ハケンシャイン」の意味も分からないだろう。だから夢が壊れるということもない。ちょうど毎年夏に近所の小川で採ってくる蛍が、わたしたちの住む市と、地方の自治体と連携して「養殖」しているホタルであることを知らないように・・・

わたしはジュブナイル株式会社製のあんこ玉を頬張りながら、プラモの箱に吹き付けられた、古道具屋の演出用に販売されている業務用「人工埃」を「フーッ」と一吹きして家路についた。
え?箱の中身だって?もちろん「ホンモノの模型」さ・・・