2018年5月9日

人を「助ける」ということ


同じようなことを書いているんだから、わざわざブログを替えなくたってよかったのに。そんな声も聞く。けれども、わたしの中では、以前と今とでは、なにかが大きく変わっているように感じている。



もう20年以上前、NHKで山田太一脚本の『風になれ、鳥になれ』というドラマが放映された。レンタル・ヘリコプター会社の社員たちと、そこを訪れる客たちとの物語で、一話完結の四話シリーズだった。どれも秀作だったが、中でも個人的に忘れられないのは日下武史主演の「山からの帰還」というストーリーだった。

脚の悪い老人(日下武史)が、ヘリコプターで山に登ってみたいという。昔は仲間たちとよく登山を楽しんだが、今は脚の自由も利かず、仲間たちもみないなくなってしまった。もう一度あの山の頂に立ってみたい、という依頼だった。

元航空自衛隊のベテランパイロット渡哲也と、整備士長山田吾一と共に、老人は山へ向かう。
午後の山頂で、老人は切り出す。すまないが貴方たちはいったん帰って、明日の朝、また迎えに来てはくれないだろうか、と。
とんでもないと整備士長は怒る。こんなところに老人一人残して行けますか、凍死しちまう!老人は落ち着いて、構わないじゃないか。わたしはもう一度、山の静かな夜の中で空に輝く満点の星空を見てみたい。朝になり、鳥たちが啼きだし、空の色が次第に変化してゆく様をもう一度この目で見たいのだ・・・仮にわたしが死んだってあんたたちの責任じゃない。なんなら、一筆書いてもいい。

何と言われてもダメなものはダメなんですと、はねつける整備士長。
老人は言う、自分は、喰うのに困っているわけではないが、孤独で、もう一緒に山に登る仲間もいない、何もすることがない。わたしが死んで悲しむ人間はおろか、わたしの死を聞いて心動かされる人間なんて、誰もいないんだ。

日は暮れてゆく、機長の渡哲也は、既に老人の希望を叶えてやってもいいじゃないかという気持ちになっている。老人と話しているうちに、年がそう離れているわけではない整備士長も、次第に老人の虚しさに共感を示すようになってくる。

一方、予定のフライト時間を大幅に超えているのに何の連絡も取れない状態を案じて、若手のパイロットと社長の娘の二人が、彼らの居る山へ向かう。
山頂に降り立った彼らに、スマンスマン、あんまり眺めがいいもんで、ちょっとサボっちまうかってね。と機長が言う、そして老人に向き直り、静かに「どうしますか、彼らに、人生は所詮虚しいと言いますか?」

結局老人はみなと一緒に飛行場に戻るのだが、帰りのヘリコプターの中で遣り切れない老人の嗚咽が響く。それは並行して飛んでる若者たちの機にも無線を通じて聞こえている。
二機のヘリが並んで、夕日の中を、都会へと帰還してゆくシーンで物語は終わる。



要約が下手なのでこんな風にしか説明できないが、ラストの、人目を憚らぬ老人の嗚咽と頬を流れる涙が胸を打つ。

また生きなければならない。なんにもない、だれもいない人生を。今日も明日も明後日も味気なさに堪え続けながら生きなければならない。そんな身も世もない悲しみ、絶望が胸を締め付ける。

自分が生涯愛し続けた山と自然の中で死にたいという老人の願いは叶えられなかった。何故なら彼は脚が悪く、誰か他人の力を借りなければ山に登ることができないからだ。



人を「助ける」「いのちを救う」とはどういうことか?
死を望むものを助けることほど残酷なことがあるだろうか?

人は誰も生まれた瞬間から生存する権利を有しているというのなら、死を選ぶ権利もまた同時に授かっていなければならない。
人は「生存する義務」を科せられてはいないのだから。

かつてジャン=ジャック・ルソーは言った。

「人の自由は欲することを行うことにあるのではない。それは欲しないことを決して行わないことにあるのだ」と。

「生きること」を欲しない自由というものがある。
そして生きることを止めるという自由も。

彼はこうも言っている

「ひとの不治の病を治せるのは緑の野山だけだ。」

自然のみが人を癒せるという。しかしその癒され方は、必ずしも、「生きる」こと、「生の継続」とは限らないのではないだろうか。
「不治の病」とは、ときに人間の「生の在り方」そのもののことでもあるのだから・・・










2018年5月8日

見つけた言葉・・・


そのとき、すでに彼らは、掌をとりまく指のように、静かにぼくのまわりに立ちふさがっていた
 ー サン=テクジュペリ


死をえらぶということも、息のたえるまでのあいだは、生き方のひとつではないか
 ー 松田道雄



『蒼い影』プロコルハルム

ぼくたちの世代にとっては知らぬ者のいない曲だが、今どきはこの歌を知らない人もいるのだろうか?
まさかビートルズの曲を知らない若者も・・・?


2006年デンマークでのライブ・バージョン



2018年5月7日

サン=テクジュペリの「ほほえみ」について

サン=テクジュペリの「ある人質への手紙」のキーワードともいえる「ほほえみ」について、どのようなことが書かれていたのかという質問をもらった。

先日『暮しの手帖』のバックナンバーを読んでいたら、たまたまある人が、この作品にでてくる「微笑み」について語っていた。「微笑み」というような陽性の言葉に、何故反応したのか、よく憶えていない。しかしわたしだって、なにも日暮れや廃墟の画ばかりに心惹かれているわけではなく、「同じように」とは言えないが、大地を照らす日差しの下で、汗を流して働く農夫や、きらきら輝く陽光の中、春の草原で花摘む子供たちの姿に思わず知らず微笑みを漏らしている時もあるのだから、きっとなにか心に触れるものがあったのだろう。
雑誌は図書館に返してしまったので、手元にある「ある人質への手紙」から、引用されていた箇所と「微笑み」にかんする部分を書き写してみる。



あの船頭たちや、きみや、ぼくや、あの給仕女などのほほえみの持つ或る独特の質、幾千万年もまえから刻苦して輝き続け、遂にぼくたちを通して、見事に花開いたほほえみの質にまで到りついたあの太陽の独特の奇跡、それらを救うためなら、ぼくたちは快く戦いに身を投じただろうなどと言ってみても、なんのことやらわかってもらえまい。

本質的なものは、たいていの場合、なんの重さも持たぬものだ。今の場合本質的なものは、見たところ、ひとつのほほえみにすぎない。ほほえみとは、しばしば、本質的なものなのだ。人はほほえみによってつぐなわれる。ほほえみによって報いられる。ほほえみによって生気づけられる。そしてまた、ほほえみの持つ質が、人に命を捨てさせることもできるのだ。また一方、この質は、ぼくたちを、現在の不安から充分に解き放ち、確信と希望とを与えてくれたから、ぼくたちの考えをなんとかもっとよく説明するために、ぼくは今日、もうひとつの別のほほえみの物語をも語りたいと思うのだ。
 
 (中略)

ぼくは、彼らのほほえみに身を投じた、ちょうど、昔、サハラ砂漠で、救援隊の人びとのほほえみに身を投じたように。あのとき、仲間たちは、幾日もの探索ののちぼくたちを 
発見すると、できるだけ近くに着陸し、よく見えるように腕の先に水の袋をふり動かしながら、大股でぼくたちの方へ歩いて来てくれたのだ。ぼくが遭難したときの救援隊員のほほえみ、ぼくが救援隊だったときの遭難者たちのほほえみ、ぼくはそんなものも今思い出すのだ、以前ほんとうに幸福を味わった国のことでも思い出すように。真のよろこびとは、共に生きるよろこびだ。救助は、このよろこびの機縁に他ならなかった。もし水が、なによりもまず、人びとの善意の贈り物でないならば、人を魅する力を持ちはしないのだ。

病人に注がれる心づかいも、追放者にさしのべられる歓迎の手も、また許しでさえも、この祝福を照らし出すほほえみがあってこそはじめて価値がある。ぼくたちは言語を越え、階級を越え、党派を超えて、ほほえみのなかで再び結ばれるのだ。ある人間にはその人間のならわしがあり、ぼくにはぼくのならわしがあるが、ぼくたちはそういう姿のままで、同じ教会の信者なのだ。



雑誌に引用されていたのは、上記の一部分だけだが、わたしは後半の部分により興味を覚えた。

新聞記者時代、あるとき彼は、内戦中のスペインで、アナーキストたちに捕らえられてしまった。スペイン語が通じず、カタルーニャ語が話せないサン=テクジュペリは、不審者として処刑されるかもしれない運命にあった。
静かな地下壕で、彼は民兵のひとりに煙草をもらえないかといってほほえんだ。そのとき、言葉の通じない相手も同じようにほほえんだのだ。「まるで朝日が昇ったようだった」と彼は記している。そしてそのほほえみが交わされたのち、「すべては変わったのだ」と。

人は微笑みながら処刑者たりうる。ほほえみながら鞭打つ者たりえる。
けれども同時に、ほほえみなくして人と人が結びつき、愛情と友愛を交わし、信頼と敬意を表することはできない。

あたたかいスウプも、清潔な寝具も、ほほえみと共に手渡されない限り、与えられた者の尊厳を傷つけず、その心を安らげることはできない。

わたしは常に微笑む者であることはできない。わたしは自らに憎む者、恨む者であることを禁じない。けれどもまた微笑む者であるときの多からんことを願う。

” 彼には彼のならわしがあり、わたしにはわたしのならわしがある。けれどもそのままの姿で、わたしたちは同じ教会の屋根の下に憩う ”

ー追記ー

わたし自身、こころから人の誠意、善意というものを無条件で信じることができない。
だから「ほほえみ」について考えるとき、与えるものの欺瞞や、内と外の二面性ー外面如菩薩内心如夜叉などというイメージの切れ切れが付きまとい、手放しで「ほほえみ」を称賛することができないのだ。



東京入国管理局前での抗議
[ Via ]

2018年5月6日

ムーンライト

River Landscape in Silver Moonlight, 1843, Petrus van Schendel. Dutch (1806 - 1870)  
「銀色の月の光に照らされた川の風景」ペトルス・ヴァン・シェンデル

書くことは自分との対話だが、アートや音楽は語りかけてきてくれる。
わたしは黙って耳を傾ける・・・

2018年5月5日

卒塔婆小町のたとえもあるぞ

プーシキンが南ロシアのキシェニフにいたころ、ある参謀将校とバカラ賭博のことで決闘になった。その場に臨んだプーシキンは、桜ん坊の一杯はいった帽子を手にしていた。そして、相い手が狙いをつけている間、帽子の中から熟した桜ん坊を選りだしてムシャムシャやりながら、パッパッとあたりに種をはき散らしていた。ピストルが鳴った。が、狙いは外れた。
プーシキンは「どうだ、得心がいったか?」といってカラカラと笑った。これが実話である。
しかるに、プーシキンの『その一発』という小説の中では、相い手はピストルを射たない。平然として桜ん坊を頬張りつづける男をみて、まるで命をおしがらないような人間を射ち殺したところで張り合いがないと考え、その一発を射つことを保留し、敵の生涯の最良の年のくるのを待つ。そしてその桜ん坊男が、絶世の美女と結婚して、幸福な蜜月をすごしている瞬間を狙って、突然、その眼の前に現れ、「お見忘れかね?」とかなんとかいいながら、おもむろに保留していたみずからの権利を行使しようとするのだ。敵が内心のロウバイを隠しかねたのも無理はない。ただならぬ雰囲気を察して、ふるえあがっている新婚の女房をみると、ますます、かれは、人生から足を洗うのがイヤになった。
「犬死礼賛」という文章の中で、花田清輝は、この小説の結末を書いてはいない。

さて、ではこの後事態はどのように展開したのか?
わたしも結末を知らない。
仮にわたしがこの決闘相手であったらどうするだろう?
元はといえば、たかが賭博のいざこざ。故郷はなれて幾星霜、草の根分けて瓦を起こして探し求めた仇敵ではないのだから、必ず仕留めなければならないという相手ではない。
いっそ彼の変わり果てた姿を見て、またしても射つ気を失くしてしまうかもしれない。
彼を射ち殺したところで得るものは何もないのだから。
周章狼狽し、醜態をさらすかつての豪胆不敵な桜ん坊男の姿を目にしただけで充分ではないか・・・
と思うような気がする。まぁこのあたりは人それぞれの心の内にひそむ残虐性によるのかもしれないが。

人が幸福の絶頂で死ぬのは果たして本当に不幸なことなのだろうか?
これ以上ないという幸せの頂点に立って、そのまま昇天してしまうことは悲劇だろうか?
奢れるものは久しからずといい、朝に紅顔ありて夕べに白骨となるという。幸せは永遠には続かない。いつ人は変わり果て、誰に狙われずとも自らの心臓に、こめかみに、銃口を押し当てる日が来るかもしれないのだ。

こ れ が ま あ 終 の 棲 家 か 雪 五 尺  
一茶晩年の句に呼応して、矢川澄子はこう詠んでいる
こ れ が ま あ 終 の 女 か お 澄 ち ゃ ん (1971年)

「誰もが夭折の幸運に恵まれているわけではない」 というシオランの嘆息を、くたばり損ないの自嘲として付け加えておこう。












2018年5月3日

関係性の中で、サン=テクジュペリ「ある人質への手紙」より


Flower Meadow in the North,  1905, Harald Sohlberg. Norwegian (1869 - 1935)  

先日の「アナタハ「ニンゲン」デスカ?」という投稿について、コメントを頂いた。それへの返信を書く前に、わたしの舌足らずの問いかけの意味について、自分自身、もうすこし明確にしたいと思い、以下、アントワーヌ・ド・サン=テクジュペリの「ある人質への手紙」から、少し長くなるが、抜粋、引用したい。


◇◆◇


港湾の商船にも、例の亡命者たちの姿が見られた。この船もまた、なにか軽い不安の念を辺りにふりまいていた。あの根のない植物たちを、大陸から大陸へと運んでいたのだ。ぼくは思った、「旅人にはなりたいが、亡命者にはなりたくないな。国で、多くのことを習い覚えたけれど、よそへ行けばなんの役にも立たないだろう」と。ところが、こういう亡命者たちは、ポケットから、小さな住所録や、彼らの身分を示す残片をあれこれと引っぱり出した。なおも、何者かであるようにふるまっていたのだ。なにか意味のあるものに、必死になってすがりついていたのだ。彼らはこんなことをいっていた。
「よろしいですか、私はこういう者なんです。こういう町のものです・・・こういう人の友達です・・・あなたはこういう方をご存知ですか?」
そして誰か或る仲間のことや、自分が背負っている責任のことや、失敗のことや、その他自分を何かに結びつけてくれそうなことを、手当たり次第に物語るのだ。だが、祖国を離れ去って来ているのだから、もはやそのような過去は、何ひとつ彼らの助けとはならないだろう。過去は、冷めやらぬ恋の思い出のように、まだ熱く、みずみずしく、なまなましかった。
 (略)
だからぼくは思うのだが、仲間も、責任も、生まれ故郷の町も、自分の家にまつわる数々の思い出も、もはやそれがなんの役にも立たなくなれば、色褪せてしまうのだ。

彼らもそのことははっきりと感じている。リスボンが幸福を装っているように、彼らも、近く帰れると信じているかのようにふるまっていた。放蕩息子の出奔など、なんと甘美なものだろう!彼の出奔は、ただ見かけだけのことにすぎない。背後には、彼の家が残っているからだ。隣の部屋にいて留守だろうが、地球の反対側にいて留守だろうが、そのような相違は重要なことではない。見たところ遠く離れている友人の存在が、現に眼の前にいる場合よりもひしひしと身に迫ることもある。それは祈りによる存在なのだ。ぼくはサハラ砂漠にいたときほど、わが家を愛したことはない。十六世紀ブルターニュの船乗りたちは、ホーン岬を廻ろうとしては、壁のように立ちふさがる逆風に行く手を遮られて年老いていったが、かつてどのようないいなづけも、彼らほどいいなづけの女のそば近くにいたことはないのだ。彼らは出発の時からすでに帰路を辿り始めていた。出航準備に帆を引き揚げるとき、その武骨な手は、帰還への第一歩を準備していた。ブルターニュの港からいいなづけの女の家へ行くための最短の道は、ホーン岬を通っていたのだ。だがぼくには、あの亡命者たちが、ブルターニュに待ついいなづけを奪われた船乗りのように見えた。もはや、彼らを待って窓辺のつつましい燈火の火を点けるいいなづけはいはしないのだ。彼らは放蕩息子でもなかった。立ち戻るべき家のない放蕩息子だった。このとき真の旅が、自分自身から放り出された旅が始まるのだ。

どのようにすれば再び自分を築き上げることができるだろう?どうすれば自分のなかに、重い思い出の「かせ」を再び作り上げることができるだろう?この幽霊船は、冥界のごとく、生まれ出るべき魂たちを乗せていた。この船に乗り組みながらも、真の仕事を持っているためにいかにも品位ある態度を保って、皿を運んだり、銅器の艶出しをしたり靴を磨いたりしている連中、こういう連中だけがじつに現実的だった。指で触ってみたくなるほど現実的だった。亡命者たちが乗組員のなんとはない侮蔑を招いているのは貧しさのせいではなかった。彼らに欠けているのは、金ではなく、中身の詰まった感じなのだ。
もはや彼らは、なにか決まった家や友人や責任を持った人間ではなかった。そのようにふるまってはいたが、もはやそれは現実のことではなかった。誰ひとり彼らを必要とはしなかったし、彼らに助けを請おうともしなかった。真夜中に人を動転させ、起き上がらせ、駅へ駆けつけさせる、あの「スグコイ!キミガヒツヨウダ!」という電報はなんとすばらしいものだろう。助けてくれる友人はすぐに見つかるものだ。だが、友人に、助けてくれと言ってもらえるようになるのは、なかなかのことなのだ。確かに誰ひとりあの亡霊たちを憎む者はいなかった。嫉妬する者もいなかった。うるさくつきまとうものもいなかった。だが、愛こそ重要なものなのに、誰ひとりそういうかけがえのない愛で彼らを愛しはしなかったのだ。
 (略)
それでぼくはこんなことを思った。「大切なのは、生きるよすがとなってきたものが、どこかに残っていることだ。慣習でもいい。家族のあいだの祝いごとでもいい。さまざまな思い出に満ちた家でもいい。大切なのは、再び立ち戻ることを目指して生きるということだ・・・。」

「ある人質への手紙」『サン=テクジュペリ著作集 第5巻』粟津則夫 清水茂訳(1966年)



人は関係性の中でしか「わたし」たりえないとわたしは思っている。

こうして人々は、おのれを引きつけたり突き放したり、働きかけたり抵抗したりする数々の磁力の場によって、緊張し、生気づけられるのを覚えるのだ。今や人びとは、しっかりと支えられ、しっかりと限定されている。基本的な諸方向の中心でしっかりとおのれの座を占めているのだ
ぼくにはあの人びとが、ぼく自身よりももっと堅固で永続きする存在だと感ずる必要があった、進むべき方向を定めるためには彼らが必要だったのだ。立ち戻るべきところを知るために、現実に存在するために、彼らが必要だったのだ。(同上)

「ねえきみ、ぼくには息のつける山頂の空気のように、きみが必要なのだ!」






2018年5月1日

アナタハ「ニンゲン」デスカ?


わたしが前のブログを中断したのは、現在わたしの書く物が、読み手にとってほとんど理解不能の領域に入り込みつつあるという感覚からだった。
そして相変わらずわたしは、自分の納得のいく文が書けていない。
つまり「聴き手」が耳を近づけチューニングを合わせようと努力しても、最早そこから流れてくるメッセージが、音としても、また意味としても明瞭に伝わらない状態になっていることを感じ始めている。

それはなぜか・・・

徒然にツイッターの投稿を覗いてみる。別にツイッターである必要はないのだが。
そこには日本の美しい風景が写された写真が掲載されている。
それらを見ながらわたしは訝る、「ではわたしはどこにいるのか?」と。

わたしはいったいどこに、どのようなかたちで存在しているのだろうか?
わたしにとって、世界はとうに滅びたはずなのに、相変わらずインターネット上では、
まるで世の中は昔からなにひとつ変わらずに、元のままの姿でそこにあるように見える。

「わたしはナニモノか?」という問いには、「あなたは○○である」と応答してくれる他者が必要になる。
そして現在、わたしが「ワタシハナニモノか?」と問う時、そこにはそもそも自分が「人間」(或いは「ヒト」)であるという前提すら欠いている。

誰であれ、人は外部との関係性を失った時に、自分をも失うのではないだろうか?
「わたしは誰々の母である」「わたしは誰々の夫である」「わたしは誰々の娘である」
「わたしは誰々の友人である」「わたしは誰々の上司である」「わたしは誰々の恋人である」「わたしは何処そこの社員である」「わたしは○○病院の患者である」・・・エトセトラ・・・

わたしとて、いくつかの関係、或いは肩書をもっている。けれども、それが果たして、わたしが人間であるという動かしがたい根拠になるのか?

よく憶えていないのだが、昔、永井豪のマンガで、ひとりの若者が、仲間たちにからかわれて、お前は人間ではなくどこか遠くの星から来た異星人だと言われ続け、それを否定し続けた若者は、最後には精神に異常をきたす・・・のではなく、みなの目の前でその姿がまったく異形の生物に変貌してしまうという作品があった。
それを見た時に、わたしは「彼」ははじめから地球人=人間ではなかったのではないかと思った。

「孤独である」という、「友達がいない」と歎く、しかしそれらはいずれも「人間として」という自覚が、暗黙の裡に前提されてはいないだろうか?その「誤った」前提を取り除いてみれば、人間でない者が、人間社会で孤独であることも、人間の友達を持てないことも特に不思議なことではなくなるのではないか。

仮にわたしが「ニンゲン」であるとして、わたしはしかし、どのように世界と接点を持つことができるのか?わたしはどのようにして、この窓の外に広がる「世界」に自分を位置づけたらいいのか?それが解らないうちは、わたしはこの世界に「人間」として存在しているとは言えない。

わたしは日本語を話し、このように日本語で書いている。日本のお金を使って買い物をし、店の日本人と言葉を交わす。たったそれだけのことで、わたしが人間だと特定できるのか?

それ以外のほとんどの部分で、所謂人間と呼ばれている存在と交流することができず、「世界」とも融和できずにいるわたしが、何故人間なのか?

わたしはあなたに問う、

「あなたは人間ですか?もしハイと答えるなら、その根拠はなんですか?」

人間と番っているから?
人間の子供だから?
人間の親だから?
人間の友達を持っているから?

けれどもそれは本当に「あなたが」人間である証明に成り得るのでしょうか?



数日後、わたしはまたそ知らぬ顔をして、あたかも人間が書くような文章を書くかもしれない。そしてもらったコメントに対し、人間であるかのような受け答えをするかもしれない。

けれどもわたしも胸の底流には、今にも氾濫しそうな勢いで、「わたしはいったい何だ?」という問いが渦巻いている。

自分が人間であるという実感がない?何を言っている?狂ったのか?

それもよかろう・・・