2020年5月20日

無題 


先程底彦さんの、4月23日以来久し振りにその間の日記を投稿したブログを訪れた。
書かれていること、内容やスタイルは特に変化はない。けれども、何故かこれまでのように身を入れて読むことができない。その背景について深く考察することはできないが、最近この時間帯は落ち着かない。

コメントで教えてもらった投稿、5月11日の「少しだけ持ち直す ── 昨日の鬱のこと」についても深く考えることができない。


以前, ある人から心の病は個性だと言われたことがある. その人の優しさが嬉しく自分でもそう思おうとしたが, 個性だと言ってしまうのにはどうしても無理がある.
一面では自分の鬱の発症は, 内向的で生真面目な自分の気質と大きく関係していて, その意味では個性の発現であるとも言える.
一方で, 昨日の苦しみが心の傷による痛みだとすると, それは個性とは大きく異なる.
心の傷は, 他者によって受けたものであって自分のパーソナリティーとは切り離して考える必要があると思うのだ.

(下線はわたしによる)

しかし、と朦朧としたあたまで考える。この世界は「このわたし」以外すべからく「他者」で出来ている。その中に存在して、他者のどのような言葉、どのような態度、有形無形を問わず、「他者の行為」乃至「他者の存在」の裡、何によって負傷するかは、その人の「個性」 に因ると言えるのではないか、などとも思う。

サルトルは「地獄とは他者である」と言った。けれども、他者を地獄たらしめているのは他ならぬ「私」の感受性ではないのだろうか?

故に「傷つけられる」ー「傷つく」ことは個性ではないだろうか。

わたしの苦しみは誰とも共有できない。何故なら「このわたし」というものが、完全なる一回性であり、代替不能な存在であるのだから。




"Much as I have no wish to hurt anyone’s feelings, my first obligation has not been to be nice but to be true to my perhaps peculiar memories, experiences and feelings."
ーEdward W. Said 'Out of Place'

結果として底彦さんを責めるような形になるのかもしれない。けれども、わたしは「わたし」 を通してしか世界を感受することはできない。

昨年の夏、この場で「スマホなんか大嫌い!」と題して書いているので繰り返さないが、食事スマホや排尿スマホが普通の光景となるなど、マナーは悪化する一方だ。「誰にも迷惑をかけていない。ほっとけよ」などと言うなかれ。少なくとも私の目は汚され、気分は害されている。

これは過去の投稿、「産経新聞掲載「モンテーニュとの対話」エリック・ホッファーについてを読んで、感じるままに
に書かれた桑原記者の言葉だが、この太字部分をいったい誰と共有できるだろうか?

わたしが「最近この時間帯は落ち着かない」と書いたのは、毎日飽くことなく繰り返される「警告」の放送に心身を穢されているからだ。

しかしそのような「傷の負い方」は、他ならぬ「わたし」や「桑原記者」や「西部邁」の個性以外の何ものでもないのではないだろうか。

わたしは底彦さんの心の傷を軽く見積もるつもりはさらさらない。彼は確かに心に癒しがたい「傷」を、深手を負っている。それは紛れもない事実だ。

「治すべきなのは, 心の傷なのではないか.」という言葉にもなんら異論はない。

一方で、わたしに底彦さんのような「傷」が、「治すべき傷」があるのかと問うたときに、そんなものはないのではないかという想いが強い。わたしにあるのは、ただ、わたしという存在=「個別性」だけなのではないか、と。













3 件のコメント:

  1. こんにちは, Takeo さん.

    Takeo さんへの返信, 満足な形にはならないかも知れませんが今頭に浮かぶことを書いてみます.
    ツイッターデモに関する文章は, 別記事へのコメントに分けました.

    > 嘆き詫び 世をそむくべき方(かた)知らず 
    >  吉野の奥も 住み憂しといへり

    この源実朝の歌, 美しいですね. 実朝の他の歌もいくつか見てみました. 世間から離れて叶わぬ美しい世界に閉じこもることを望んでいるように感じました. 私の表面的な印象に過ぎないでしょうが共感できます.

    他者無しにわたしは存在しない. 私もその通りだと思います. そして傷つくということはその人の感受性・受け止め方なのだから何によって「傷つく」かは結局のところその人の「個性」なのではないかという Takeo さんの言葉には同意できるところがあります.

    ただ, そのことを認められない自分も存在しています.

    傷ついた心がその人の感受性に依るとする点でその傷が個性によるものと言えるとしても, その感受性がその人の心に取り込んだものは他者からの暴力であり悪意です. その暴力と悪意という銃弾による記憶をも伴った「傷」なのです.

    私に銃を向けた望まぬ他者によって与えられた傷が, 生々しい痛みを伴って自分の中に存在していることに堪え切れません.

    「個性」という言葉をあえて使うならば, それは個性の中に入り込んだ「異物」です. 打ち込まれた銃弾の周りの組織が腐って壊死が進行していく痛みがあります.

    個性と言えるものは, あくまでその異物を打ち込ませてしまった私の心の在り方の部分であると思います. 内部に入り込んだ「異物」を私は嫌悪しており「個性」とは言いたくないのです.

    感情的, センチメンタルな文章になってしまいましたが私に書けるのはこの程度です.

    心の傷に関する私のこの記述とも繋がっていますが, 私が先の Takeo さんへのコメントで書いた「内在」という言葉は, 感性と悟性の在り方と言っていいと思います.
    そこからその人なりの性格とか気質, ものの考え方などが表われてくるのだと思っています.
    先の文章ではそのように考えて書きました.

    「外」と「内」の問題は簡単にどちらと判断することができないものだと思っています. 個々人の考え方・受け取り方があり, 私にもわかりません.

    私は Takeo さんのブログの文章から深い内省を感じます.

    例えば Takeo さんにとっての喪われた 70 年代以前の世界を, 私は Takeo さんのブログやアートの投稿から微かに共有することができていると思います.
    その美しい世界は過去と直接結びついている, というよりも Takeo さんという人間の極めて内的な情感や感性が無ければ此処まで届かなかったような気がするのです.

    残念なことに, うまく書き表わせている気がしません.
    思い付いたらまた書きます.

    返信削除
    返信
    1. こんばんは、底彦さん。

      >Takeo さんへの返信, 満足な形にはならないかも知れませんが今頭に浮かぶことを書いてみます.

      と、底彦さんが書いてくださいました。わたしも、到底「お返事」と呼べるような充分なものは書くことができません。けれども、今感じていることを断片的に綴ってみようと思います。結局底彦さんのコメントとは何の関係もないものになるかと思いますが。

      昨日の「ツイッター・デモ」に関して、わたしは、自分の「限界」であるといいました。わたしは、「何々についていけない自分」「何々を受け付けないわたし」「何々を好きになれないわたし」「何々ができない自分」という、自分の「限界」を大事にしたい、何故ならそれこそが「わたし」を形作っているのだから。世の移ろいにつれてどこまでも自分を展げてゆく(ゆける)ことは、何かひどく下品なことに思えるのです。

      昨日母がトランプ氏の話をしました。どこかのマスク製造工場に視察に行った時の事です。そこでは誰であれ、必ずマスクを着用すること、という「ルール」になっているのだが、トランプはマスクが嫌いなので結局最後までマスクをしなかった。その後工場長(?)から、「もう二度と来てくれるな」と言われたとか。
      母は「人間として欠陥があるんじゃないか?」と呆れかえっていました。けれども、わたしにはわかりません。「やりたくないことを決してしないことこそ真の自由だ」というルソーの思想を突き詰めてゆけば、トランプこそ、その具現者であるのではないでしょうか?だからこそ彼はいわゆる良識派と呼ばれるヴォルテールなどから嘲笑されたのではないか。

      この「限界」ということは、先のふたつの引用、エドワード・サイードと辺見庸の言葉にも重なるのではないか?
      サイードは、「自分のすべきことは、ものわかりのいい人間になることではなく、おそらくはひどく特異な自分の経験・記憶・感情に忠実であることだと思う」といい、辺見は、「いやだからしないこと、できないこと、無力であること、無能なこと、しないでいられること...に居直る方法があってよい。」と、アガンベンの言葉を敷衍して言っている。

      トランプのやっていることも、これではないのか?と思うのです。



      「限界」を大事にしたい、と書きましたが、限界とは壁でもあります。今のわたしは四方を壁に取り囲まれていると言っていい。身動きが取れない。外の世界はマスクをしなければならない世界だから、マスクができない、したくない人間は生きられない。
      繰り返しますが、「自分の殻を破った」時、その時それは同一の人物と言えるのでしょうか?



      わたしは感覚の世界に生きています。安倍が何を言ったか?黒川某という人間が何をしたか?それは知らずに済ませられるのです。「情報」というものを遮断しておくことによって。けれども、外に出れば、電車に乗れば、どうしたって、スマホバカたちの「群れ」から目を逸らすことはできません。「フヨウフキュウノ ガイシュツヲ ヒカエマショウ」という放送=音声も、窓を閉め、耳を塞ぐことによって、やっとなんとか遮ることができる。わたしは徹頭徹尾「感覚・感性」の世界に住んでいます。



      「傷を負う」ことと「性格・個性」との関係は、正直これもよくわかりません。よくわからないのは、わたしが「傷ついた」という、「傷つけられた」という経験をしたことがないからではないかと思います。

      なにかわたしには「他者からの暴力、悪意」「撃ちこまれた銃弾」「自分の中の異物」というものが感覚的にわからないのです。それはおそらく他者からの悪意や暴力を受けたことがないからでしょう。

      投げやりになっているのではなく、おそらくはそうなのでしょう。わたしは人に傷つけられたことがないのだろうと思います。少なくとも自覚的な記憶としては思い当たりません。

      分かりもしないのに適当なことを書いてしまいました。お詫びして撤回します。

      それこそ

      >残念なことに, うまく書き表わせている気がしません.
      思い付いたらまた書きます.

      という言葉を繰り返させてください。

      どうか心穏やかな週末を過ごされますよう。

      武雄





      削除
    2. 追伸

      先に引用した産経新聞の桑原氏の言葉

      「「誰にも迷惑をかけていない。ほっとけよ」などと言うなかれ。少なくとも私の目は汚され、気分は害されている。」
      にしても、「電車に乗ると「スマホ人」たちの「群れ」を見て吐き気を催すので何処へ行くのもタクシーを使わなければならなくなった」という西部邁。

      また、木村敏の患者で境界例の女性が、「あの時先生が言った言葉でどれだけ私が傷ついたかわかりますか?」

      このような疵ならそれこそ「しょっちゅう」「恒常的に」受けています。けれども、そこには先方の「悪意」は存在しない。すべからくわたし(たち)の感受性の在り方に因るのです。

      削除