2020年5月10日

ニッポン的なるもの


昨日「猫額洞」さんの投稿「スェーデン式対処法」にコメントを残した。コメント自体は承認され、公開されているが、返事はもらえなかった。
これはわたしの勝手な解釈だが、「優生思想」-「生きていてもいい」或いは「生きる価値のある生」と「生きていてはいけない」乃至「生きている価値のない生」といった「哲学的」な問題に対しては、人それぞれ考え方が違うので、ここでそんなことを議論したって仕方がないと思っているのだろうか?

わたしはここで瀬里香さん、ふたつさん、Junkoさん、底彦さんと、様々なテーマについてそれこそ延々と議論をして来た。無論なにひとつ結論など出てはいない。
けれどもそれなくてなんのブログか、とも思っている。

先日のJunkoさんの言葉ではないが、誰も本気で自分の言葉を理解してもらおうなどと思ってはいない・・・のかもしれない。その点でわたしのブログは、猫額洞さんのブログに最も多くコメントを残している人の書くブログと対極の位置にある。
わたしは「あの人」の書くものにまったく興味をそそられない。皮肉なことにJunkoさんと知り合ったのは「その人」のブログなのだが、わたしは早々に「飽きて」しまった。

猫額洞さんの最新の投稿についても、一家言あるが、猫額洞さんのブログは、以前一度だけ行ったことのある「発達障害の専門医」の言葉ではないが「ここ(わたしの診察室)は心の問題についてあれこれ話すところじゃないから・・・」と通じるのかもしれない。
しかし問題提起をしながら、それについて意見を述べても黙殺とはどういう意味があるのか・・・
無論わたしのコメントが、猫額洞さんの書いていること、言わんとしていることに対して、まったくピント外れであるということも十二分に可能性としては考えられるのだが。


わたしのブログの人気(ひとけ)のなさについて、わたしの趣味が悪すぎるのか?或いはみんなの趣味が悪すぎるのか?そんなことは全く無意味だと思った。そこにはただ「通じ合えていない」という事実があるだけで、どちらの趣味がいいとかわるいとか、そんなことは全く問題ではない。仮に、仮に、わたしの趣味が高尚過ぎるから・・・としても、「通じていない」という事実の前では、その「趣味の良さ」など「無」・・・ではないか?








9 件のコメント:

  1. Ciao Takeoさん
    ブログのコメント欄をオープンにしておきながら、いただいたコメントにあからさまにお返事しないのは、とても失礼な事だと思います。
    私も他のブログでですが、何度か無視されたことがあります。
    私が彼女の書いてることに対して、ちょっと突っ込んだり、深く掘り下げたり、つまり若干反対意見の臭いがするようなコメントを残すと、彼女の場合はひっそり気付いていないようなそぶりで無視します。
    ある日思い余って、コメント残してますが、お気づきになってないかも、、と返事を催促したこともあります。笑
    そう言う、自分が聞きたいことしか聞きたくないって人は、コメント欄なんて開けなければ良いのにと思いますし、自分が書いた事に責任を持つと言うことは、いただいたコメントがたとえどんなものであろうと真摯にお返事を書く、と言う行為で完結すると考えます。

    スウェーデン式対処法
    気持ち悪いですね
    一体誰が「生きるべきか」とか「子供を持つべきか」とか決められるのでしょうか?
    私は「神様」がこの世に送り込んだものは、虫一匹、椅子一脚無駄なものはなく、その意味と存在価値を持っていると信じています。
    まず、誰が決めるとか決めないと言う前に、この世に無くなってもいいものなどないのです。
    それをさ、えらそうにどこのどいつがあの人は子供を持つべきじゃあないとか、生きる権利がないとか、決められるのでしょうか?
    そう言うことを平気で容認できるのは、自分がその「子供を、、」とか「生きる権利が、、」と言うリストの中に入らないと信じてるから、って言うそれだけの理由ですよね
    おぞましいほど尊大で傲慢な考え方ですね
    私だったら、こんな危険な思想は、わざわざ人の目になど触れさせたくないと思ったはずです。

    Takeo さんのブログのひと気のなさ、いいじゃないですか?
    無意味にただ仲間「ぽい」人々と集うためだけに、彼らの考えやら感情やらがほとんど感じられない、どうやって感じた事を文字にしようかと四苦八苦もしていないだろう、ただ耳に心地よい (私には心地よくもなんでもないけど)「さすがですねー」「いいですね〜」「美味しそう〜」「かわいい〜」などと言うコメントなどで賑わられても、嬉しくもなんともなくない? 苦笑

    私は自分の趣味が良いとか悪いと言うより真っ当だと思っています。
    そして大半の人の趣味は「ダサくて我慢できない」と思っています。
    スマートフォンに依存してあんなものに自分の生活の主導権を与え、一生スマートフォンを見つめ俯きながら暮らす人々、電子辞書、電子書籍、、、
    たかが飲みもののタピオカドリンクなんかに平気で行列を作ってだらだら待てる人
    動物たちを平気でウインドウに押し込み、売買できる人々、そして動物園、水族館に行っても、そこに閉じ込められた生き物の苦痛などを読み取ろうともせずにアホ丸出しではしゃげる人々、ましてや、ハリネズミバーとか、猫バーなんかを作り、またそこに行って、なんだか癒された気分になってる人々
    木々をなんの躊躇いもなくただ自分たちの便利のために伐採する人々
    オリンピックやワールドカップで、「感動をありがとう」などと言ってエセ感動に浸れる人々
    どれもこれも私には「我慢できない」ことです。
    スマートフォンなんて、お金をもらっても持たないですもん
    そうそう、CDってやつも嫌いです。
    レコードにCDが取って替わってから、私はずーっと音楽を聴きませんでした。
    今は聴きます。
    レコードプレーヤーを買ったので、、。
    まあ、いろいろ羅列しましたが、この巷の悪趣味はもっともっと羅列できます。
    そう言う人たちの趣味に私の趣味がことごとく合わなかったとしても、なんの不思議もないし、むしろセイセイするし、
    、、て言うか、むしろわかった振りなどしてもらわなくて結構だと思っているし、、。
    元々人の共感など求めていないのです。
    無理だもの
    話が掘り下げられない、話が拡がらない、シンプルと言ったら聞こえはいいが、単に底が浅いだけの短絡的な人々と付き合うくらいなら、一人でいたほうが、よーっぽどマシだと思っています。

    そう言う人々にTakeoさんのブログを理解せよと言う方が不可能に近い、、でしょ
    だって彼ら難しい漢字は読めないし、読まないし、思考しないし、考えないから思考ってやつも育まれないし、
    考えない人たちにTakeo さんの指摘することはおそらく響かない。
    万が一読解できたとしてもそれに対する自分の見解など到底まとめられないでしょう。
    自分の考えなどまとめたことなどないでしょうから、。
    さらに、使っている言語が違うし、思考の(思考の切れ端が残っているとしたら)基盤になっているものが違う。
    最後になりましたが、ブログでさながら評論家のように、もしくは革命家のように吠えてるだけで何にもやらない人々も、、キ ラ イ。です。

    iPadから送信

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    1. 再びこんばんは。

      わたしはあまり多くのブログを読まないのですが、本文はしっかりした文章で、まともなことが書かれているのに、こちらが(そこに寄せられている他の人たちよりも)多少長めのコメントを残しても、数行の、上っ面の返答で終わるとがっかりします。

      猫額洞さんに関していえば、書いてあることに関して議論するつもりはないのなら、せめてコメントの返信にそのように書けばいい。でなければ、予め投稿の最後に。
      当人にそのつもりはなくても、書かれていることを読んで「問題提起」と受け止める読者もいる。そしてコメント欄があれば、書かれていることについて、「自分はこう考えるが・・・」と書く人もいるでしょう。そんなこと考えてもみない?
      「黙殺」「無視」というのは、明らかに礼を失しています。
      仮にわたしの意見が、自分の言わんとしていることとまるでズレていると感じたのならば、そのように返事をすればいい。
      わたしはこれを「言葉を惜しむ」としか感じられないのです。

      つづく投稿で、猫額洞さんは植松聖を、ただのキチガイ、サイコパスだと一言の元に斬って捨てています。そんなに単純なものなのか?そのように矮小化してもいいのか・・・「あいつはキチガイだから」それで終わらせていいのか、というわだかまりが残ります。

      植松がキチガイなら、わたしもまた、キチガイです。唯一の相違といえば、彼が安倍晋三の信奉者であったことくらいでしょうか。

      わたしは猫額洞さんを買い被っていたのでしょうか?

      「彼/彼女は、自分とは全く無関係の、ひとでなしのきちがいだから」でいつも終わらせてきた。「悪魔の所業」「狂っているとしか言いようがない」エトセトラ・・・それが日本の犯罪の歴史を、常に闇の中で忘れ去ってきた常套的なやり方ではなかったのでしょうか?



      わたしはね、Junkoさん、自分の考えが深いとか、真っ当であるとか、そのように、自分を「正当な位置」に置くことがとても居心地が悪いのですよ。そしてわたしがわたしの感受性に忠実であるということは、当然ながら、「外部」を基準にしている人たちと「合わない」という事実を意味します。
      彼ら/彼女らの判断の規準は自己の感受性ではなく、巷間・一般の感受性です。そのことは以前「語法」という短い投稿で書きました。



      わたしが植松とどこがどう違うのか?これはなかなか答えるのは難しい。それはわたしも、彼も、「同じキチガイ同士」だからでしょうか?そして世間のおよそほとんどの人は、キチガイであることから免れているのだとしたら、それは何故でしょうか?
      何故猫額洞さんは、彼を「所詮はキチガイ・・・」と「我」と、切り離すことができるのでしょうか?



      「??????」

      「何故?を言ったばかりに、生涯憎まれた男だった」これは長田弘がジャン=ジャック・ルソーについて書いた詩の一節です。

      「そして本当の自由とは、したいことをする自由ではなく、したくないことは絶対にしないという自由である」

      最近のわたしのブログはフランスからの閲覧者が群を抜いて多くなっています。

      いつものように長いメッセージをありがとうございました。

      レコードで聴く音楽はほんものです^^



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    2. P.S.

      「わたしのブログには・・・」というのは当然ですが、ここのことではなく、アートブログの方です。

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  2. Ciao Takeoさん
    再度 追記です
    上のコメントにI Padから送信と入っていることについて一言。
    Takeoさんには以前指摘されて、使っていた日本から持ってきたコンピューターがすでに2台とも使い物にならず、イタリアでは日本語設定のコンピューターを修理してくれるところもなければ、売っているところもなく、仕方なく唯一日本語のキーボードが使えるI Padを使わざるを得ないと説明しましたが。
    もしかしてそのことを知らない人が、なんだスマートフォン嫌悪しながらI Pad使っているじゃないかと思われるかもしれないので、誤解のないように再度説明のコメントを入れておきます。
    なお、私は多分スマートフォン民族が彼らの大事なスマートフォンを彼らの家の中でだけ使ってくれるのなら、これほど嫌悪はしなかったと思います。
    人が閉鎖された自分の家で何をしようが勝手ですし、私の目に触れることはありません。
    私は、外でも道でもどこでもだらだらだらしなく俯き、スマートフォンにかかりっきりになっている、まるで何かに取り憑かれたような、魂を抜かれたような、呆けたその姿をおぞましく見るに耐えないと思っているのです。
    よって私が病むに止まれず使用しているI Padを私が自宅以外のところで使うことはありません。

    そして上のコメントでこの世に送りだされたもので無駄なものはただの一つもないと言いましたが、追記します。
    私が嫌悪するあの安倍総理でさえ、彼がこの世に存在するなんらかの意味は持っており、激しく有害ではあっても、無駄とは私は言い切りません。
    嫌悪しているスマートフォンでさえ、発明されたのはなんかしらの意味があるのだろうと考えます。
    しかしながら、安倍さんにしろスマートフォンにしろ、それらをどうやって自らの智慧で使いこなし、もしくは拒否し、御するか、を問います。
    ここまで機械に翻弄されていいものか?と
    安部さんと国民の関係においては、以前Takeo さんがおっしゃった
    「日本での安倍政権がこれほど長期に亘って安定して政権の座についているのは、安倍政権というものがかつてないほど日本人の本質とピッタリと合うからではないかと。強い者にへつらい、一方で少しでも弱い者を見ると喜んで差別し、鞭打つ、それが病人であろうが差別する。安倍政権とはニッポンジンのエッセンスなのではないかと。」

    に全く異論なしです。
    この事は何かにつけて人の目に触れてもらいたいので、再度引用しました。


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    1. 今回Tumblrのデザインを変更する際に設定の中に、「モバイルでの閲覧を最適化する」というのがあって、それについて迷いました。

      このブログでも、タンブラーでも、スマートフォンやタブレットなどで閲覧されるくらいなら、閲覧者が3分の1・・・いやそれ以下になっても、そのような閲覧はできないようにしたいといつも感じています。わたしは彼らの思考の時間の邪魔をしたくない。またそれほどの価値のあるものを書いている覚えもない。

      そのように、所謂「モバイル」からの閲覧をできないようにさせたいと思う一方で、
      要はわたしが嫌悪しているのは、自宅・自室の「外」で読まれ、観られることなのだと思いました。おそらく「携帯」とは言いながら、外では使わない、という人もいるのではないかと思うのです。その人たちの「機会」を奪ってもいいのかという葛藤があります。

      例えば弟はスマホを持っていますが、外では使いません。瀬里香さんがわたしのブログを読むのはやはりスマホですが、これもやはりご自分の家の中でしょう。
      弟はわたしのブログなど読みませんが、瀬里香さんのような人をブロックすることに対しても、(外で)読まれることと同量の抵抗があります。

      現在は、わたしのすべてのブログは、可能な限り、モバイルからは「見づらい」設定にしています。そしておそらくそれは変わらないのでしょう。



      Junkoさんと違うのは、わたしは「刺客」というものを肯定し、或いは賛美するところがあるということです。つまり西部邁や辺見庸もそうであるように、「テロル」というものを肯定します。
      つまり「あれがいるから世の人たちが苦しめられている」という憂国の士に心を寄せるのです。
      磯部浅一含むニ.ニ.六の青年将校たち、朝日平吾、井上日召、難波大助、北一輝、野村秋介、三島由紀夫・・・といった人たちです。無論流血の革命も支持します。ゲバラやカストロを支持するように。

      つまり安倍、ヒトラー、スターリン、毛沢東、チャウシェスク、ポル・ポト、などは「いない方がいい」存在であるとわたしは考えるのです。言い方を換えれば「殺してもいい存在」がいるということです。

      そしてかくいうわたしもまた「生きていてはいけない存在」のひとりであるという自覚を持っています。




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  3. >最後になりましたが、ブログでさながら評論家のように、もしくは革命家のように吠えてるだけで何にもやらない人々も、、キ ラ イ。です。

    そうですね。
    世間では何やらツイッターでの署名(?)が数百万とかいって新聞などに書かれています。
    なんだか噴飯もの。
    今は時期が時期だけに「デモ」ができない?そうではなかろう。
    このような方法=身体性を伴わず、汗の一滴も流さず、ましてや頭から血を流すなどということ=身の危険を避けながら、「とりあえず」「形だけは」「抗議」する。これが上に書いたように、もっともニッポン的な「デモ」のやり口なのだと思います。

    北一輝は「日本には永遠に革命は起こらない」といいました。
    三島の檄に人々は失笑を漏らしました。

    ツイッターでなら何百万人か。楽ですからね。
    そして彼らは何故か「暴徒」と呼ばれることを嫌がりますね。
    寧ろ名誉なことなのに・・・




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  4. Ciao Takeoさん
    「彼ら」はいつもそうです
    隠れてでなら、なんでもやるくせに、正体が暴かれることを非常に恐れる
    つまり「卑怯者」
    こそこそ悪口を言ったり、陰で弱者を虐めたり馬鹿にしたりはできても、表立って暴れる気概なんてないんですよ

    あちらこちらで書いてますが、アベノマスクが最低だとネット上で不満愚痴で盛り上がってるだけじゃなくさ、(確かに恐ろしいほどの愚策だけど) 、そんなに嫌なら一人くらい送られたマスクを送り返してやろうじゃないか?!と言う人がいてもおかしくない?
    私ならやってる。
    みんなでやったらそれこそ面白い
    でもやらないし、誰も思いつかない
    それは送り返したら身元がバレるから

    日本に革命は起こりません
    ストさえできないんだから
    私はよくイタリア人に「日本人っておもしろいよね、スト中って腕章して仕事をし続ける」とからかわれます。
    確かにストは関係のない、むしろ市民に迷惑をかけるけど、それでも行動に表さなければいけない時もあるし、それを迷惑だ。ではなく、ストをせざるを得なかった人々の事情を理解して、むしろ応援するのが同じ市民としての立ち位置だと思うけれど、なんと言っても日本は誰か個人が国に、つまり政府に迷惑かけると、自己責任だと言って、個人を非難しちゃう国だからね

    この国は情も脳も壊死しかけてるとしか思えません


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    1. わたしはね、Junkoさん、ひょっとして「暴徒」と呼ばれることを極度に嫌う日本人たちは、例えば先日、長期(数週間?)にわたって「ゼネスト」をして、パリ市内にゴミが溢れたフランスや、警察隊と正面衝突して怪我人を出した香港のデモなんかは、「時代遅れ」で「野蛮」で「SNSという最強の武器を使わない原始人たちのやること」だと考えているのじゃないかとさえ訝ります。

      Junkoさんの友達(???)でもある(過去形?)ご隠居さんは、「数々の妨害にもめげず」とか気焔を上げているようですが、これこそまさに言葉の真正の意味での「噴飯もの」。これを噴飯と呼ばずになにをそう呼びうるでしょう?

      誰もが匿名でやっている訳じゃない。とりあえずこれだけの人数(仲間)がいれば安心だと「実名をだして意見を表明」している芸能人などもいるとか。でもそれはあくまでも、安心・安全を確認したうえでだと言明します。



      マスクということについて言えば、わたしはトランプが、マスクを嫌いだから俺はやらないという姿勢を崩さないことを高く評価します。

      どうでしょう。「大統領だから」そんなわがままが許されるのでしょうか?
      それとも「大統領だったら」自ら率先して範を垂れるべきでしょうか?
      安倍晋三がマスクをしなかったらどうでしょうか?或いはトランプ氏に、マスクをしなさいと、ご自慢のマスクを贈るのはどうでしょうか?

      チャラけたアンチャンがこんなことを書いていました。
      「コミュ力の半分は人の顔色を窺う能力だ」と。
      その伝で行けば、トランプはコミュニケーション能力はあまり高くないし、一般に欧米人・・・いや、日本以外の国の人たちは我が国の国民よりも総じて「コミュ力」が劣っているのでしょう。

      わたしはね。「ほかのみんながやっていても俺は嫌いだからやらない」という態度に無条件で喝采を送ってしまうところがあるのですよ。
      これこそルソーのいう「やりたくないことをしないということ。これが真の「自由」である」ということだと思っています。

      ついでに補足ですが、「莫迦」というのは必ず群れます、徒党を組みます。「一匹狼の莫迦」というものは存在しません。莫迦は同志がいるから莫迦足り得るのです。

      しかし真の莫迦はわたしです。ほんとうにツイッター・デモの賛美者や生粋のばかに積極的に関わり合う者をバカと呼ばずに何と呼べばいいのでしょうか。

      いい加減莫迦は卒業しないと・・・

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    2. 追記

      「同志」或いは「信奉者」


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