2020年5月21日

いわでものこと?


わたしがあくまでも「ツイッター・デモ」やら「ネット署名」に反対するのは、もしそのことで、容易に政治が、世界の様相が一変するのなら、最早マルクスも、ブレヒトも、シモーヌ・ヴェイユも、三島由紀夫も北一輝も、マルコムX、マーティン・ルーサーキング牧師も、ガンジーも、ゴルバチョフも、ゲバラもカストロもネッド・ラッドもお呼びじゃないということだからだ。

その代わりに、何とかジョブズとかいう人、なんとかザッカーマンとかいう人、世界中の富を半分に分けて、例えば一億円を5千万円つづに分けて、5千万円を数十億で分け合い、後の5千万円を高々五十人だか百人で分ける。その世界の富を独占する一握りの富豪たちの「発明」したものの力を借りて、「彼ら」の「功績」の恩恵に浴して「世界を変える!」という。おかしかないか?

嘗ての革命者たちは、同志はいたけれど、決して、決して、億万長者たちの力を借りるようなことはしなかった。貴族・王族ならいざしらず、資本主義の下で財を築いたものが自分たちが今日(こんにち)ある世界を変える?それに力を貸す?馬鹿な。

無論資本主義というものは、金にさえなれば、アマゾンを徹底的に批判し罵倒した本でも「アマゾン」で買えるという仕組みであることはわたしとて知っている。

彼らは「世界を変える」「政治を変える」と息巻いている連中を採りこむ。しかし最終的に自分たちの損になるようなことは絶対にしない。あたりまえだ。だから彼らはネッド・ラッドのような存在を決して認めようとはしないだろう。





「東京高検検事長の定年を延長する閣議決定を受けて、ファシストどもが
検察庁法改正案の審議を強行。これをきっかけに"ツイッター式抗議デモ"
がはじまり、500万件をこえる書き込みが殺到したよしいくぞう。だから
どうしたといふのか。

安倍、平気の平左、屁のカッパ。だいたい、奇妙なマスクをしたこのおと
こをここまでのさばらせてきたのはだれだ?「コクミン」とかいふ意思な
き遵法主義集団と猪八戒ら広義のファシスト補完勢力だろうが。

安倍の専制をゆるしてきた羊たちは、「安倍のジンギスカン」でパクパク
食われて当然。安倍は端からケンカ腰。改憲本気汁たらーりたらーり。猪
八戒など豚シャブでぺろりだぜよ。」

辺見庸ブログ 2020年5月13日 「祝ファシスト連戦連勝!」-「500万件の虚妄」


ー追記ー


この投稿についての「反論」は勿論受けつける。けれども、これだけのことを書いた以上、今後の完全なる孤立について考えないほどお目出度くはない・・・
















2 件のコメント:

  1. こんにちは, Takeo さん.

    ネットにおける, この場合は今回のツイッターデモについて私の感じていることを書きます.

    血を流さずには世界を変えられない. 殺すか殺されるかの覚悟が無くて何が成されるだろうか.
    おそらく, この言葉は正しいと思います.

    私はツイッターデモに参加しました. 現在この国を治めている人間たちの醜悪さ・知性の無さ・下品さに堪えられなかった.

    彼らの延々と続く醜い行為は私の心の平安・心の自由を妨げ侵食しています.

    それが恐怖さえ感じさせるまでになったために, 私はツイッターで投稿したのです.
    私は何より自らの内的世界の自由を望みます. それが脅かされつつあるためにツイッターデモに参加したのです.

    塵のようではあるにせよ, 私という一つの「個」の自由を求める意思が契機と言っていいと思います.

    ツイッターデモが闘いとは言えなかったとしても, これは個々の血を要求するものではありません. 殺すか殺されるか, といった切迫感も無いでしょう.

    私は自らの心の自由と引き換えならば抗って血を流すことも厭わないでしょう.
    「私」という「個」の心の自由のためです.
    それが無ければ生きていくことができないからです.

    ネットであったとしてもネットでなかったとしても, これが「我々に自由を」であったとしたならば, その流れには私は加わらないでしょう.
    それは根源的には私の中に「個」への暴力の恐怖があるからです.

    「私に自由を」は, それが大きな闘いのうねりとなれば「我々に自由を」になると思います. 私の人生の数少ない経験から, 私は「我々のために」という動きは必ず「私のために」から「皆のために」「組織のために」に変化するものだとほぼ確信しています. その究極の醜悪な形が「国のために」だと思っています.

    「個」が消えてしまうのです. 皆のためだから組織のためだから, 個は一端脇にどけろという流れに変質する.
    これは「個」を踏みにじる暴力です.
    そういうものが私は嫌でどうしようもありません.

    自らを信じて戦った者, 汗を流し血を流した者が斃れるのです.

    残るのは冷笑と共に傍らで傍観していた賢い者や, ただ声の大きいだけの指導者と呼ばれる者たちです.
    理想だった「自由」は姿を消し, 倒した筈の「権力」の新たなコピーが勝利の証になります.

    これは私の経験から言っていることです. かなり偏っているだろうと思います.

    本当の闘いでは, 私などは真っ先に駒として使い捨てられて早い段階で斃れるものと思われます.
    しかも自らの「個」の自由を守ったが故に斃れるのではなく, 「皆」のために使い捨てられるのです.

    私はこれを拒否します.

    少なくとも現在の私の考えでは, 血が要求される闘いは例外無く私の嫌悪する, 何処に居るかわからない「皆」のためのものであって「個」のためのものにはなり得ないとしか思えないのです.

    血を流したキング牧師, ゲバラ, シモーヌ・ヴェイユは現れません.

    私にできることは血を流さない「個」の世界を超え出ないやり方のみです. それすらも臆病な私には精一杯の気力を振り絞ることが必要だったし, 意味があったかどうかはわかりません. そこまで追い詰められていたことだけです.

    纒まりの無い文章になってしまいました. けれどもこれを書くことで自分の根底にあるものが再確認できた気がしています.

    雨が続き梅雨が近いようで, 私にとっては毎年体調を崩すので憂鬱です.
    どうか Takeo さんも体調など崩されませんよう祈っております.

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    1. こんばんは、底彦さん。

      ご自分の体験・経験、そしてご自身の感情のレベルから発せられたご意見にお礼を。

      さて、本題に入る前に別の話から始めさせてください。

      まずこのブログに書かれた記事は、すべてわたしの記憶に基づいて書かれています。一応書いた後、ざっと読み返しますが、「校閲」のような者・ことは存在しません。

      先のコメントで書いた実朝の和歌、あれは「金塊和歌集」ではなく、太宰治の小説の中に書かれていて、それで知ったのです。わたしはあのような歌の引用をたまにしますが、音(おん)として記憶しているので、文字で表記した時の仮名遣いはまったくいい加減です。それは啄木の歌に関しても同様です。
      同時に「世の中よ みちこそなけれ思ひゐる 山の奥にも鹿の鳴くらむ」という歌を書きました。有名な歌ですが、作者を知りません。そして最後の部分、「鹿のなくらむ」とかきましたが、ひょっとしたら「鹿のなくなる」だったかもしれません。

      そのようなことは、我々一般庶民にはごく当たり前の「間違い」であり「勘違い」であり「誤記」であると思います。

      アルカイダによる自爆テロも、10.11と書きましたが、或いは9.11だったかもしれず・・・

      わたしの記憶が常に正確であるはずがないし、また「常識」と呼ばれる範囲であっても、間違いは頻出しているし今後もそうでしょう。

      それから、わたしは毎日生きていること、存在していることが苦痛でならないのです。底彦さんのブログからは、その辺りの底彦さんのご自身の、「存在」に対しての想いが、なかなか読み取れません。これはわたしの勝手な憶測に過ぎませんが、底彦さんは、日々「鬱病」に、そして「過去の忌まわしい記憶に」文字通り呻いてらっしゃる。「自己譴責」にも苦しんでおられる。けれども、わたしが知りたいのは、それが、[・・・・]いや、止めましょう、そもそも自分の苦しみと人の苦しみとを、その質に於いても、量に於いても、比較などできようはずがないのですから。人はおうおうにして苦しみの在り方に「大・小」「上・下」といった判断をしがちです。
      先日底彦さんのデイケアの友人が漏らした、「自分には人生がない、あるのは人生の真似事だけだ・・・」という言葉に深く共鳴するのです。
      そして「自分には人生がない」と言えるのは本人だけであって、誰も「そんなことない」とは言えないのだと思っています。



      上記の「ツイッターデモ」に関する底彦さんの位置。正直わたしには今一つよくわからないのです。それはおそらくわたしの「限界」であると思います。

      例えば映画監督のフランソワ・トリュフォーという人は、内向的な人です。彼は「戦争を嫌うのは自分自身の時間を奪うからだ」というようなことを言っています。それは「彼の個の自由」といってもいいと思います。けれども、そんな彼でも、先日投稿した1968年(?)のデモには参加しました。(あれはたしかフランスでは「革命」と呼ばれていたように思いますが、例によって極めて不正確な記憶です・・・)

      簡単に言ってしまえば、わたしも、そして辺見庸も、20世紀の、上にわたしが名前を列挙したした人たちがやったような方法しか理解できない、と言うことです。つまり「連帯」ということ。

      「わたしの自由」は、「わたしたち」が勝ち取るほかにないのだという価値観です。
      「わたし」という「孤」が、「わたしの自由」わたしの「個・孤」を獲得、また死守するには、何よりも「わたしたち」という「連帯」という形を採らなければとても権力と闘うことはできない。そもそも「われわれの自由」ということ自体が撞着しています。「私」は「私の自由」のために「我々」という武装をするのだと・・・



      わたしはタンブラーで、' a man with a past' も'Clock without Hands'も、それは単にブログのタイトルではないし、またそれはわたしが主に20世紀、そして19世紀のアートを愛し、20世紀中葉のモノクロ写真や「ヴィンテージ」を愛するからではない。I am oldfashioned I'm living in the past... は決して古い歌の歌詞ではない、それらはわたしの存在そのものを現わしているのだ、と。

      わたしは「ツイッター・デモ」に対する違和感を払拭できないし、またその必要もないと感じます。それはつまり「わたし」という存在の「限界」であり、それぞれの「限界」こそが「彼/彼女」をその人たらしめているのだと思います。

      わたしの極めて狭隘な理解力では、到底「ツイッター・デモ」を理解することはできないし、同意も賛同も出来かねます。けれども底彦さんが、他ならぬご自身にとって、この方法の意味・意義を伝えてくださったことに改めてお礼を言います。

      残念ながら、いまのわたしは既に半ば廃人のように感じています。もっと底彦さんと対等に議論が出来たらと、お互いにとって、残念です。

      ここのところ、真夏日があったかと思うと、今は暖房を必要としています。

      底彦さんも、あまり調子のよくない中、ふたつの長いコメントを書いていただき、ありがとうございました。

      底彦さんも苦しみが少しでも和らぎますように。

      武雄

      追伸

      もうひとつ頂いたコメントへのお返事は、また改めてさせてください。






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