「猫額洞の日々」に書かれていた、例の10万円の件。詳しく読んではいないが、
「再交付(?)はインターネットのみとか。スマートフォンもパソコンも持たない老店主たちは死ねということだな」という発言には全面的に賛同する。
わが府中市は東京都内でも屈指の意識の低さである。
図書館は予定通り6月2日まで休む。まあこれは仕方がないにしても、
「その後の図書館の予定についてはHPまたはメールにてお報せ・・・云々と」
猫額洞の言葉を借りれば、例えば母のように、本好きではあっても、スマートフォンもパソコンも持たないものは知ったことか、ということだ。
「きょうびネット環境を持たない者が悪い」と、日本国政府も、府中市も言っている。
無論行政だけではない。市民(この場合の「市民」とは「あくまでも「府中市民」のこと。日本にコクミンはいても「市民」はいない)とかコクミンとかいう行政に阿ることを無上の快楽とする「痴呆権力」も同断である。
◇
嘆き詫び 世をそむくべき方知らず
吉野の奥も 住み憂しといへり
この実朝の歌は太宰の短編「吉野山」という作品で知った。
憂き世をはかなんで出家遁世した若者が、山に住んでそこにある山菜や木の実を食べて人間関係に縛られず、自然の中で自由に生きたいと願って剃髪をしたのだが、現実にはどの山にも持ち主がいて、勝手に山菜や木の実を食べることなどできない。
「ここにきて俄かに憂き世の辛酸をなめ、何のために出家したのか・・・」
もしわたしたちがネット上の絵や写真を無断で「盗んでいる」のだとしたら、スマホで風景を撮ってそれを勝手に投稿することも同様に盗みであろう。
あの山、この川、この壁その空き地空き家今自分が立っているこの道にも、すべからく所有者があるのだから。
いったい何が違うというのか?
アートブログを辞めることは難しい。
「無視すること」を学ばなければ。確かに、無視も何も「同意しなければ見せません」というサイトは増えているようだけれど・・・
Ciao Takeoさん
返信削除確かに、ネットを使いこなせなかったり、スマートフォンのアプリを持っていなかったりすると、今や簡単に孤立します。
こちらでも大学の突然の休講のお知らせとか、試験に必要な情報とかWhats’s upで流れて来るのですね。 大学なんだから、全ての学生に行き届かせるべく、メイルででも流せばいいものをこうして手軽に済まされている。
今回も、去年の秋に手術をしたので、前期の授業も試験も私は全て棒に振り、クリスマス休暇後に復帰しようと思っていたら、コロナの自粛が始まり、そんなある日ふとオンライン授業を行なっていることを友人から聞きました。 なんで私の知るところとならなかったかは、私がスマートフォンを持っていないからで、再び、国立大学なんだから、メイルでも使って全ての情報、とりわけこう言った補習授業に関する事はあらゆる手段でもって、全学生に行き届かせるべきだと1人で毒づきましたが、まあ、そんな事を呟いてみても、大学に在籍している人でスマートフォンを持っていないのは、おそらく私だけではないか、?と、その1人の事情など関知しないに決まっている。
大学など国をちっちゃくしたようなもので、政治家の代わりに教鞭に励むよりも、むしろ自分の権勢振りかざし。威張っているばかりの教授が仕切ってるだけですから。
本当は最後の1人まで関知されるべきだとは思いますが、もはや私の道理など適用しろと言う方が無理難題な社会になっています。苦笑
今や世界中、スマートフォンを持っていない方が普通じゃないわけで、改めてそれって気持ち悪いなあと空恐ろしく思いました。
そして、万が一その事を事前に知っていたとしても、オンライン授業など受ける気はさらさらないので、ま、いっか。とこうして後期も棒に振る事にしました。
自分の考えを貫こうと思ったら、もはや便利など求めてはいけないのでしょうね。
多分私はますますこうして孤立していくのだろうな、と考えました。
それでいいんだけどね、
ネコも杓子も、お子様から高齢者までみんながガン首揃えて、ずらっと同じものを手に持ち、それを見つめているなんて、気持ち悪くありませんか?
クッキーってやつも、私はひたすら避けています。
クッキーに同意しますか?
「しません。」と、それで終わり
それで見せてくれないのなら、それまでの事です。
ただ、Takeo さんも仰っているように、今回の給付金のようなシステムがネットを通じてでないと申請できないと言うのは、問題です。
特に日本のような高齢社会、まあ、政府としてはこうして人数の多い高齢者の方からの申請を減らそうと企んでいるのかもしれませんが、今回のような公を対象にした申請の場合、あらゆる階層の人が簡単に使える手段を提示するべきだと私は思います。
そうでないなら、市役所、区役所にそう言う「お手伝い窓口」を設けるべき。
ところで、国民全員への給付金でしょ?
ホームレスの人たちだって立派な国民、彼らは貰えないのでしょうか?
、、こう書きながら、、べきなどもはや存在しない社会になっているのにな。
なんと私は無為な事を言っているのだろうと独り言ちりました。苦笑
こんな動画見つけました。
https://youtu.be/5DU1B_XkyIk
こんばんは、Junkoさん。
削除送ってもらった動画、知っています。確か数年前にフェイスブックで見つけたんだと思います。
誰かがYou Tubeにメントしていて、「みながこの動画をスマートフォンで視ている・・・」と。
差別とか区別とかに眉を顰める人は多いけど、わたしやJunkoさんの訴えなんか誰も耳を貸しません。
彼らが反対するのは「誰もが」「大勢が」反対しているものにたいしてだけ。「原発」とか「米軍基地とか」。「オリンピック」になると途端に数が減ります。
反対する人がそんなに多くないから。
しかし「大学生ならだれでもメールを見ることができる」という前提ですが、それは何故ですか?パソコンすら持っていない、ということはさすがに考えられませんか?
考えられないとしたら、それは何故ですか?
>もはや私の道理など適用しろと言う方が無理難題な社会になっています。
「道理」というのは「正しいこと」と同じように、数がないと「道理」にはならずに「無理」に成ったりします。「独りだけの道理」というものはそもそも存在しないと思うのです。
>多分私はますますこうして孤立していくのだろうな、と考えました。
わたしも同じですが、わたしはJunkoさんのように、「それでいいんだけどね」とは言えません。
瀬里香さんのよく言っていた言葉を使えば「世界の孤児(みなしご)」
実存主義の言葉で言うなら「世界にたったひとり遺棄された者・・・」それがどうして「平気」でいられるでしょうか?
瀬里香さんは続けて、「だから時々手を繋ぐ必要がある」という、どなたかの言葉を続けていましたが、孤立した者同士がどのように「手を繋ぐ」ことが可能なのか?わたしにはわかりません。
「手を繋ぐことができないから」「孤児」なのであり「たったひとり遺棄されし者」ではないのか、と。
>ホームレスの人たちだって立派な国民、彼らは貰えないのでしょうか?
確か「決まった住所のない人はもらえない」のだったと思いますが、正確な情報を知らないので。
>、、こう書きながら、、べきなどもはや存在しない社会になっているのにな。
なんと私は無為な事を言っているのだろうと独り言ちりました。苦笑
そう言うことなのです。
「あの人」や、「落語好きの善良な市民」はそんなことはないというかもしれません。だからせっせとツイッターに文句を吐き出しては満足してそれでおしまい。
アメリカ国民は、黒人たちは「差別を許さない!」とツイッターに投稿するだけだったでしょうか?日本ではたとえ沖縄の基地で誰かが強姦された上に殺されても、決して数百万単位のデモンストレーション(示威行為)は起きないと賭けてもいい。
スマホに向かってグズグズと文句を言うだけでしょう。
辺見の言う「人が数人死ななければ国は動かない」・・・しかし死んだって、クニもコクミンも動かないと思います。
丁寧な、気配りのある文章を書くことができません。気分を害されたら、申し訳ありません・・・
追伸。
削除送ってもらったビデオ、見直してみましたが、まったく「現実そのもの」で、最早「皮肉」にも「風刺」にもならない。
この頃思うのですが、わたしやJunkoさんや底彦さんの子供時代ー若い頃にはこんなものも、インターネットすらなかった。
いったいどれほど、途轍もなく不便極まりない世界だったように思いますが、ほんとうに「考えられないくらい不便な世界」だったのでしょうか?
以前、バンクシーも独裁者の批判は胸を張ってできるけれども、スマホ批判だけは絶対にやらない(できない)と書きましたが、やはりそう思います。味方がいないから。そしてそもそも何故それが批判の対象になるのかすらわからないでしょうし。
Ciao Takeoさん
返信削除少なくともイタリアの大学は日本のように学生課なるものがなく、ほとんど全てのことをネットで自分で調べてやり取りします。試験の予約も同じく、。
ですからコンピューターを持っていなくても街のプリントアウトとかをしてくれるお店で見ることはできますが、自分のメイルアドレスは持っていないと学生としての様々な作業ができません。時々課せられる小リポート然り、もはやタイプライターなどありませんし、メイルで教授に送らないといけない時が多々あります。
> わたしも同じですが、わたしはJunkoさんのように、「それでいいんだけどね」とは言えません
世界にたったひとり遺棄された者・・・」それがどうして「平気」でいられるでしょうか?
苦笑 私は「遺棄された」と思っておらず、自分で群れから出たと思っていますから、ですからむしろ放っておいてくれと言う気持ちの方が強いようです。
群の端っこにただ「便宜」のために交わるくらいなら、不便を迷わず選びます。
私とTakeo さんの違うところは、もしかして私がそれがたとえ表面的なものであったとしても、私はTakeo さんほど孤立していないと言うところから来ているかもしれません。
私はほとんどの時間を1人で過ごしますが、でも、ちょっと手を伸ばせば、、くらいの距離に人はいますから、だから、私には人恋しいと言う気持ちが湧かないのかもしれません。
前にも話しましたが、実際、私は私を完璧に理解してくれる人なども求めていませんし、、(不可能です) そうして、そう言う理解によって誰かとぴったりと触れ合うことをも求めていません。手を繋ぐことなども求めていないのです。
ですから、ま、それでいいんだけどね。と自然に言葉が出てくるのです。
病気をしてから、毎日1時間ほどの散歩をしています。
家の周りは、自然だらけで羊飼いの群れも通りますし、人通りもあまりないのですが、(あえて人通りの少ないお昼ご飯前を選びます。)
それでも時々人とすれ違い、挨拶だけ交わします。
そのいつもの散歩道で放牧と呼ぶには少し寂しい環境に暮らす雌馬と知りあいました。
こんなところに入れられて、一人でかわいそうだなぁ、とせめて食べ物くらいは、と毎日草を山ほど摘んで持っていくようになりました。
毎日決まって草を摘んで持っていき、馬と話をしている人間が珍しいのか、少しづつ道行く人と言葉を交わすようになり、私が彼女のところに行くために道を歩いていると、車で通り過ぎる人も窓から手を出して挨拶をしていきます。
互いの素性も問うことなく、電話番号の交換などもせず、今度どこかでご飯でもご一緒に、、などと言う、そんな話など一切せず、立ち止まりもせず、buongiorno と挨拶し、暑いわねとかリリー(馬の名前です)が待ってるわよ、とかその程度の会話を互いの歩を緩めることなく交わす。
Takeoさん、私にはこの互いの中に入り込んでいかない、この微かな接触で充分なのです。
それで充分どころか、逆にこのハグでなく、握手をするのでもなく、ただ袖擦れ合うだけのような関係が心地良くさえあります。
> 日本ではたとえ沖縄の基地で誰かが強姦された上に殺されても、、
沖縄では女性だけでなく、女の子も今までに何人も強姦され殺されています。
それでも何も動かない
誰も動かない
そんな人たちから孤立したところで失うものは何もないと私は考えています。
何人死んだって、クニもコクミンも動かないのです。
東関東大震災、福島原発事故、あれだけの人が亡くなって、その後何か動きましたか?
他人のために涙を流す事もなく、共感するわけでもなく、ただ能面のような、表情がまるで感じ取れないのっぺりとした顔のない顔で俯き、スマートフォンを見つめる。
こう言うコクミン性に、私はもはや疲れと軽蔑しか感じないのですね
自分だけは、ああ言う目には遭わない、とタカを括っているのでしょうが、そう言うご本人たちも一緒に堕ちていくのだと言うのに、、。
私たちが子供の頃を思い出してみても、不便と言う感覚が蘇るどころか、むしろあの頃の人の体温を感じられる、素朴でも長閑な暮らしを懐かしく思います。
今人々が夢中になっている大半のものなど無くても済むのです。
実際私は人々が便利と称賛するものをほとんど持っていませんが、その分人間としての労力を心地よく使っていると満足しています。
今の社会は再現のない浪費の連続で時間が流れていて、無駄にする。と言うことが最も嫌いな私には、ただ不快なのです。
皆さん、もはやスマートフォンに洗脳され、隷属していますから、当然私たちがスマートフォンを嫌悪するその真意など説明したとしても理解しないでしょうね
それなら、もう自分たちで勝手に使っていてくれればいいものを、(やめて欲しいけど、やめないでしょうからね)
最近このスマートフォン民族は自分たちの人口を増やそうと、勧誘してきますから、煩いしかありません。
私の嗜好からすると、昭和が終わってからの現在までの社会は、暮らしの質が完璧に低下しています。風味も輝きもない、よって魅力などかけらも感じません。
確かにバンクシーはスマートフォンの批判はしませんね
私は Steve Cuttsにより好感を持ち、共感します。