2020年5月14日

底彦さんへ


こんばんは、底彦さん。

ここしばらくブログの更新がありませんね。心配ということはあまりしていません。
ふたつさんもそうですが、わたしはもっと楽観的に、インターネットから距離を置いているのだろうと考えています。そしてそれは底彦さんにとって、またおそらくはわたしにとってもいいことであり、必要なことだと思っています。


昨日、デイケアのスタッフから電話がありました。母が電話に出たのですが、要件はデイケアはやっているということ、ただし、決まったプログラムがあるわけではない、人数は多くもなく少なくもなく・・・と、なんだか曖昧ですが、本人が電話に出ていないので仕方がありません。

仮にいま、いつもと同じようなプログラムでデイケアをやっていたとしても、わたしにはデイケアに何を求めているのか、また何を求められるのかが、わかりません。
「デイケアに行く意味」というものがわからないのです。





以前底彦さんのブログから自由に引用して構わないと許可をもらった気がします。
以下、4月21日の記述より


「認知療法を受けた.PSW さんには不安定な状態が続いていることを話す. 慢性的に鬱や無気力で部屋に引き籠もっていたいと伝えた.
それに対する PSW さんの意見としては, 底彦さんに適した引き籠もりの程度や方法があると思うので, 体調と相談しながら探っていきましょうとのことだった.
いずれにせよ, 話すことで随分気持ちは落ち着けたと思う.」


底彦さんにとってはこのような話の内容はごく自然だと思います。しかしこれをわたしに当てはめてみた時に、誰かに「Takeoさんに適した引き籠もりの程度や方法・・・」と言われても、正直なにを言われているのか分かりません。

「引きこもり」とは、外に出られない、或いは出ることが非常に困難な状態のこと。
そこに「程度」とか「方法」という言葉がどのように結びつくのかがわからないのです。
これについて底彦さんは、「タグ」で、「自分なりの引きこもり方法」と書かれています。

このような話の流れを見ていると、わたしには、「引きこもること」がある程度自分の意思によって、その形態を決められるようにも聞こえるのです。
繰り返しになりますが、これは相手が底彦さんだから言えることで、わたしに対して同じように言うことはできません。何故なら底彦さんは「引きこもり」ではなく、「引きこもりたいという欲求を感じているひと」であるから。

ほんとうの「引きこもり」は、たとえ誰かの助言があったとしても、「引きこもる程度やその方法」などの「人為」の入り込む余地などありません。

そして「話すことで随分気持ちは落ち着けたと思う」ということも、今のわたしにはわからないのです。わたしの話は最早誰にも通じません。話せば話すだけ徒労感を募らせるだけという絶望感があります。



ジャン=ジャック・ルソーは嫌われ者でした。そして孤独の裡に死にました。
『孤独な散歩者の夢想』は彼の嗚咽であり、また愚痴のようでもあります。
ではそのようなルソーにとって、嫌われ者で孤独なルソーにとって、「癒える」とは、どのような状態をいうのでしょうか?人に好かれ、社交的で、孤独ではないルソーとはなにものでしょうか?それはそもそもジャン=ジャックなのでしょうか・・・


これに対するお返事は特に必要ありません。いつかご意見を聞けたらと思います。
底彦さんにとって今は行き場所が悉く閉ざされ、非常に苦痛であると思います。
開いていても行く意味を見失っている者、行きたくても扉が閉ざされている者・・・

どうか心穏やかな日を過ごされますように・・・

今また、府中市の放送が始まりました。ほんとうに気が狂いそうです・・・

政治とは、本当に弱者或いは少数派をいたぶるためにあるのだと痛感します。

ツイッター・デモ(?)とやらが馬鹿げていると思うのは、投石も暴動もないデモって何だろうと思うからです。我々は政(まつりごと)を行う者に対して、夜叉に、鬼にならなければならないはずなのです。つまり憎悪であり怨念です。虐げられた者たちの虐げる者への反逆であり蜂起であり復讐なのです。

ツイッター・デモに仮に1千万人の署名が集まったとしてそれがなんでしょう?

デモとは殺すか殺されるか、そういうものだと思っています・・・

SNSのデモなど、所詮は「稚戯」だと断言しておきます。





4 件のコメント:

  1. こんばんは, Takeo さん.

    毎日 Takeo さんのブログを読んでいます. アートのブログも何処かで私の心の支えになっていると思います.
    数日前の投稿にプリーモ・レーヴィの写真がありましたね. 印象的でした. こういう表情をする人だったのですね. 写真というものの凄さを感じます.

    以前, 私が認知療法のときに PSW さんと交わした会話を引用していただいています.

    5 年前に入院する以前から, 私には世を捨てて隠者のように生きたいという願望が生まれていました. 私を苦しめる人間関係やお金の問題から逃げ出したいという思いがその源だったと思います.

    逃げ出した現在, 世の中から隠れるようにして生きていますが社会との接続は保たれていてあの頃に私が思い描いていた隠遁生活とは懸け離れています.
    私は社会の一員として機能しており, 人との交わりや言語の世界からの隔絶はありません. 瞑想するようなこともしていません.

    こういう状態が私にとっての「引きこもり」ということなのでしょう. Takeo さんが書かれているような「外に出られない、或いは出ることが非常に困難な状態」には当て嵌まりません.
    私の中の隠遁生活への願望と, 生きていく上で必要な社会との交わりに受動的に従った結果が現在の私の状態だと言えます.
    この点で私はそもそも社会に参加しており, 生や存在に関する危機はありません.

    私のそれが自身の人間関係や生活環境という外在的なものからの逃亡の結果であるのに対して, Takeo さんのそれは何か内在的な, 魂とか気質とかに関するものと深く結び付いていると感じます.
    それは Takeo さんの意思や嗜好などの以前に, Takeo さんの深い所に刻み付けられた真の意味での内向性の刻印の表われのような気がします. それが Takeo さん自身ではどうにもできないものであるところの Takeo さんの深刻な苦悩を生じさせているのではないでしょうか.

    機会があれば自己の内在への Takeo さんの考えを聴かせていただきたいと思います.

    次に「治癒」とは何か? という問い掛けについては思い至ったことを私自身のブログに少し書きました. 5 月 11 日の「少しだけ持ち直す ── 昨日の鬱のこと」という記事です.

    他者によって心に負わされた傷害を可能な限り元に近い状態に戻す. 気質や性格から生じる個の実存の苦しみについては個人に帰す.

    というのが現時点での私の考えになると思います. この前半が「治療」という行為なのではないでしょうか.
    後半は明らかに不完全ですが, それは私自身にもまだわからないのでこのような記述になっています. おそらく今後も長い時間をかけて考え続けていくことになると思います.

    「政を行う者に対して、夜叉に、鬼にならなければならない」

    という Takeo さんの言葉に同意します.

    私はツイッターデモに参加しました. ネット恐怖の私がこのようなことができたこと自体, 私自身にとっても驚きでしたが一度ではなく何度か投稿しています.
    それは半ば感情的なものであり, 現在の日本における「政府」というものの形をした異物の暗愚・知性の無さに嫌悪感・嘔吐感を覚えたことから発したものです.

    ルソーのように生きたいと思いますが, それは苦しいことでしょうね. でも理想です.

    また何か思い付いたら書きます.
    Takeo さんの魂が穏やかさの中にありますよう祈っております.

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    1. こんばんは、底彦さん。

      お返事を書く前に、このような躊躇いや迷いを感じたのは初めてです。これまでは、他の3人のどのようなコメントに対しても、書くことにある種の苦痛を感じたことはありませんでした。それは決してここに書かれている底彦さんのコメントの「内容」に対しての抵抗ではありません。これが別の誰かのコメントであっても、おそらく同じような「けうとさ」を感じるのでしょう。

      わたしのブログを読んでくださっていると仰る。
      底彦さんにとって、わたしのブログと、二階堂奥歯のブログとの共通点があるとすればそれはどのようなことですか?また、『八本脚の蝶』との大きな違いは?

      以前から書いているように、わたしは彼女を「メンヘラの女王」と呼んで崇拝(?)することに違和感を覚えます。例えばアマゾンのレヴューで、東大教授である(あった?)小谷野敦は、彼女を「ただのメンヘラ」と一言で切って捨てています。
      崇拝するにせよ、嫌悪するにせよ、いったい彼女のどこが「メンヘラ」(という言葉の意味も実はよくわからないのですが)=「心を病んだ人」であるのかがわかりません。
      一方わたしはこれも繰り返し書いていますが、「気狂い」ではありますが、例えば底彦さんや、デイケアで会った人たちのように、「心を病んだ人」ではありません。
      わたしの中では、「心を病んだ人」マイナス「心の病」イコール「普通の人」という公式があります。
      「キチガイ」とはどういうものかを定義することは難しいのですが、わたしはどうしても、自分が底彦さんやデイケアの人たちのような「心の病を持った人」であるとは思えないのです。



      「障害者は不幸しか生まない」というテーゼは、今、わたしの中で、プリーモ・レーヴィの「人間であるということの恥」と同様、エミール・シオランの「生まれてきたということの不都合」と同様に、揺るぎない真理となっています。
      無論、このなかのどれひとつとっても、普遍的な真理であるとは言えません。そして真実とは人の数だけあるものであって、普遍的な、誰にでも真理であるような真理など存在しないと考えています。



      わたしの引きこもりは明らかに外側の世界に起因しています。これも繰り返し言っていることですが、今仮に外の世界が1970年代だったら、或いは20世紀であるなら、明日からわたしの引きこもりは完治していると明言できます。

      「関係としての自己」── 木村敏の言葉を俟つまでもなく「わたし」とは関係の函数です。つまり独立した固体(実体)ではない。治癒ということも同じで、わたしが治癒するということは、わたしが、わたしを取り巻く世界=外界と友好的に融和できるということに他なりません。その点で、底彦さんも、また二階堂奥歯も、特に外の世界と敵対・対立関係にあるとは思えません。底彦さんの引きこもりたいという感情は、大きく「外の世界」への不適応ではなく、底彦さんの病、そして過去の心の傷というものがしからしめているのだろうと思います。その点に於いては、「心の病」を患っておられる底彦さんよりも、所謂健常者であるJunkoさんの感性により近いと感じます。

      わたしが「いま」に生きている以上「治癒」ということは永遠にあり得ないことです。例えばスマホ人の「群れ」を見ると吐き気を催すので電車に乗れなくなった西部邁が、電車に乗れるようになったら、それはやはり同じ西部邁なのでしょうか?
      わたしの中の答えは「否」です。

      繰り返しますが

      >私のそれが自身の人間関係や生活環境という外在的なものからの逃亡の結果であるのに対して, Takeo さんのそれは何か内在的な, 魂とか気質とかに関するものと深く結び付いていると感じます.

      わたしの引きこもりも、まったく「人間関係や生活環境という外在的なものからの逃亡の結果」に他なりません。言い換えれば「外が変われば私も変わる」と言えるということです。そして外の世界が変わるということは絶体にありえないことである、とも。



      今のわたしにとって、書くことは、どうしようもない自分の現状現実を再確認するだけの作業であって、苦痛以外のなにものでもありません。それはおそらく「話すこと」も同様に思われます。書くことによって自分が生きているということを再認識させられるという苦痛です。

      書くということに何か積極的な意義があるとはどういうことなのでしょう。



      わたしは如何に反対していることであっても、インターネットでそれに賛同の一票を、ということはしません。仮に世界が、政治が、指先を動かすだけで、一滴の汗もかくことなく変えられるようなものであるのなら、そのような軽い世界に生きているとういうことです。わたしはそのような世界に可能な限り関わり合いたくはないのです。

      辺見庸や坪内祐三は「インターネット(SNS)で世界を変えられると思っているアホたち」と言いますが、これからの時代は、確かにゼネストや、傷を負うかもしれない大規模デモなどの時代ではなく、SNSで実際に世界を変えられる時代なのかもしれません。

      だとすれば尚更、わたしは、流血も負傷者も死者も出ないで有様が変えられる世界になど居たくはないと思うのです。



      これを書いた時点で、4月23日以降の底彦さんのブログはまだ拝見していません。
      後程ゆっくり読ませていただきます。

      また、上記に書いてあることを読まれてもわかるように、なにもかも「前に言ったこと」「前から繰り返し書いてきたこと」ばかりです。今それに加える何ものも持ってはいません。

      書くことが苦痛であると書きましたが、何か感じたこと、意見などあればこれまで通り気軽に書きこんでください。お返事はするつもりです。

      率直なご意見をありがとうございました。

      なにやら投げやりな気配のお返事になってしまいましたが、それが今現在のわたしなのです。





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    2. 追伸

      アートのブログに関しては、以前からそうですが、外の世界からの逃避であると同時に、自身からの逃避という性格も持っています。言葉を換えれば、「この穢土に明らかに属している自分」からの逃避。

      世界からの逃避は自分からの逃避と同じです。
      「引きこもり」とは「外から内へ」と考えている人も少なくないように見えますが、外界と自己とは不可分です。何故ならわたしの身体わたしの感覚は明らかにどうしようもなく、この地上に縛り付けられているのですから。

      ですから個人的には底彦さんの心に訴える何ものもないと考えます。

      しかし不思議なもので、自己から離れても、好き嫌いというものはあるものですね。

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    3. 再追記

      底彦さんのお尋ねになられた「引きこもり」と「内在」ということ。実はお尋ねの意味がよくわからないのですが、こんなことを考えます。
      わたしは20代の頃から

      嘆き詫び 世をそむくべき方(かた)知らず 
       吉野の奥も 住み憂しといへり

      という源実朝の歌が好きです。

      この歌にもあるように、「外界から内面へ」・・・ということは不可能であると思っています。

      同じように

      世の中よ みちこそなけれ思ひゐる 
       山の奥にも鹿の鳴くらむ

      も。

      つまりひとは自己から逃れることはできないのだと・・・内在とはなんでしょう・・・

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