2020年5月21日

辺見の肩を持つ


先程新聞で読んだ(見出しだけ)。渦中の人物、黒川某という検事局のひと(その程度の知識しかない)が「辞職した」よし。それがどうした。

辺見庸はわたしが知る限り常に闘ってきた。安倍以前、小泉純一郎政権の時からことあるごとに異議を申し立ててきた。アメリカの10.11テロへの報復戦争に徹底的に反対を表明し続けてきた。そして講演会でわめき、おめきつづけ、遂には講演の最中に脳出血で倒れ、その後遺症として右半身マヒが残った。
政権が安倍政権になってからも、彼の為すことごとくに講演で、著書で、ブログで、反対をし続けてきた。その余りの苛烈さに、常に彼は所謂「リベラル」と呼ばれる人たちから遠ざけられてきた。今現在でも、(わたしの知る限り)彼の文章を乗せる新聞は首都圏には存在しない。
わたしは彼のコラムを読むために「河北新報」を取り寄せた。

今日の報道では、黒川某にまつわる安倍政権のやり口に「著名人らのツイッターでの批判が相次いだ」と。では訊くが、嘗て今回のような「批判」を「著名人」らは辺見庸と同じ程度にやってきたのか?少なくともツイッターで、実名(芸名・ペンネーム)で?
また今回に限っても、このことに怒り、ひとりでも安倍政権からもらった勲章・褒章を突き返したものがあったか?



「辺見辺見と言ってるそういうお前自身はどうなのだ?」と訊かれれば、
わたしは嘗て、たしかJunkoさんへの返事の中で書いたことがある。
わたしは選挙には行かない、と。デモにも参加しない。そういう意味ではわたしは間接的に安倍政権を支持している。何故なら安倍が言ったことを実行してもらいたいからだ。そしてそれができるのは安倍政権以外にはないと思うから。それは「膿を出し切る」ということ。ニッポンジンの膿を出し切るのは安倍しかいない。そして日本を滅ぼすことができるのも安倍政権以外にはないと信じるからだ、と。

現実に安倍政権は、これでもか、というほど日本人の膿を絞り出して「ほれ」と、見せてくれる。見事なほどだ。わたしは辺見庸のように「反対」はしない。彼との共通点は、「安倍政権」と「日本国民」「ニホンジン」を分けては考えていないという点に於いてだけだ。

韓国は違う、フランスも、香港も違う。けれどもこの国に関していえば、日本政府すなわち日本人で、間違いはない。

わたしの意識の根底にあるもの、以前書いた投稿を引用する。



と、その投稿を探していたらこんな記事を見つけた。

以下全文引用


『いまやあらゆるひとびとが順応性という流れにのっている。市場も権力もひたすら順応を強いている。こんにち、国会議員のように生き生きと生きるのが一種の精神の失調か異常である時代には、いやだからしないこと、できないこと、無力であること、無能なこと、しないでいられること...に居直る方法があってよい。手に持った120円のハンバーガーを半時間も見つめ、さまざまなおもいを巡らすこと。すばらしい。だが、権力は(Aだけではない。民衆や市民という痴呆権力も)彼女をいつまでもそうはさせておかないだろう。反社会的不作為かサボタージュか施設に収容すべき患者と見做すだろう。しないでいられることから、人間を引き離そうとする。凝視を止めさせる。思索と妄想を遮断する。
「こうした無能力=非の潜勢力からの疎外は、何にもまして人間を貧しくし、自由を奪い去る」(「しないでいられることについて」『裸形』)。そうなっている。』

ー辺見庸 「もう戦争がはじまっている」より

辺見庸の特筆すべきところは、敵は単に権力のみではなく、愚昧なる市民(国民)でもあるとしていることだ。
だから彼は暴動を起こさない、暴徒化しない従順なデモ(パレード?(笑))にいそしむ「善良なる市民」たちを嘲弄する。当然だ。

以前、国会前でデモをしたという若者たちのネット上の書き込みに、何故日本のデモは暴れることをしないのかと疑問を投げかけたところ、反安倍の方々から轟轟の非難を浴びた(苦笑)

権力・メディア・国民の三位一体の愚昧である。

(ここに書かれている『裸形』とはイタリアの哲学者で、特に辺見庸が好むジョルジュ・アガンベンの著作のタイトルである)




「わたしが夙に半ば以上狂っていることはわかっている。どうしても「今」という時代を受け入れ、その中で生きてゆくことができない。
そして、だからこそ、当たり前のように「フェイヴァリット・プレイス」などを口にできる人たちがわからない。非難ではない。ただ彼らはわたしにとって、絶対的な「他者」であると思うだけだ。

『傑作絶望シネマ88』には、わたしの知らないいくつもの「最近の」(?)映画も紹介されている。
興味をもったのは、ラース・フォン・トリアーの、『メランコリア』。
巨大な隕石の接近ー激突によって、この地球が消滅する物語らしい。
「地球滅亡というこれ以上ないハッピーエンド」。と、この映画の紹介をする中井圭という人は書いている。

『 つまり、この映画は、地球が滅亡することそのものを肯定しているのだ。ぼくたちの多くにとっては、地球が滅びること=人類が絶滅することは、とんでもない不幸なのだが、この映画の監督、ラース・フォン・トリアーにとってみれば、それこそが幸せなのだ。この映画の結末がこれ以上ないハッピーエンドである、と公言している彼からすれば、この汚れた世界は一掃されればよいという価値観の表れなのだ。 』

「地球滅亡というこれ以上ないハッピーエンド」ほんとうにそうだなぁ、と頷く一方で、人類だけが滅びればいいのに、とも思う。

「真逆」という耳障りな言葉を連発する中井圭という人の文章は苦手だけれど...」

[2015年11月投稿]




これがわたしが間接的に安倍を支持する所以であると思う。
「全的滅亡」をしばしば口にする辺見庸と左程変わりはないか・・・







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