2020年5月31日

アートブログについての断想


人気が出るということはどういうことだろう?
ブログの閲覧者数が増え、それとともに、スマートフォンやiPadでの閲覧も増えているのなら、寧ろ人気(ひとけ)など少ない方がいい。
このブログよりも、自分の好きなアートを誰かが、「外で」「スマートフォン」で見ているかもしれないと想像するだけでもおぞましい。
きょうび、「インターネット上で人気がある」ということがそのようなことを意味するのであれば、真っ平御免蒙る。



このような国に住んでいると、何かに「感動する」ということが、ひどく安っぽいこと、してはならないことのように思えてくる。
「感動」というのはおそらくもっとも日本人的なメンタリティーのひとつであるのだろう。



ブログは可能な限りシンプルにしたい。
先日ちょっと使ってみた、過去30日で最も訪問が多かった投稿トップ10とか、先週の閲覧者数などは、ブログの紹介になるかとおもったが、観るものに予断を与えるのではないかという想い。そしてなにか「誘導」しているような気持ちがあったので、すべて削除した。「このような投稿がよく読まれています」それと「わたし」とどういう関係があるのか?



「なんだ最近エロの投稿がないじゃないか」といわれても、
「なんでこういうエロ・グロの投稿をするのか?もっと上品なブログかと思った」
そのように言われても(思われても)困るのだ。
一番避けなければならないのは媚びているということを見透かされることだ。




エロならエロ、綺麗なアートならそのように統一した方が読者も安定するだろうし、投稿もその方がラクなのだ。どちらでもやろうと思えばできないことはない。
けれども、どちらもなおざりにすることだけはできない。







2020年5月28日

I admit


For all these years, I have been storing 'ARTS'. However, does anybody tell me how to collect these images without stealing ?
My old MySpace friend said to me, "No one Has nor Owns Arts. No one!"
There is something in my mind which against accept their asking. ' Cookies'.

If I have to pay some money for use these images, maybe I accept to pay for my art blogs. And yes, they may have a right for asking for paying. But I cant help wonder if they have a right of collect and keep and use my private taste or styles ?

In Japan, I can hardly find ' Art blogs' like Tumblr or those who I 'm following on blogger or wordpress etc... Because they think it is crime, thief, with no permissions or having no rights for these paintings/ photographs at all.
My old Myspace friend dolorosa, she has around 80 thousands of followers on Facebook. I'm also wondering how to get all those images? did she accept them ?

And how about you? how to get images ? 



上記、Tumblr に拙い英文で投稿した「疑問」を再掲します。

いつも感じることですが、英語(充分不満足なものですが)で書く(話す)のと日本語で話す時とでは、キャラクター・人格が多少変わるように感じます。

英語で書いている方が、素の自分に近いと屡々感じます。








憂き世 is Not 浮き世・・・ 


「猫額洞の日々」に書かれていた、例の10万円の件。詳しく読んではいないが、

「再交付(?)はインターネットのみとか。スマートフォンもパソコンも持たない老店主たちは死ねということだな」という発言には全面的に賛同する。

わが府中市は東京都内でも屈指の意識の低さである。

図書館は予定通り6月2日まで休む。まあこれは仕方がないにしても、

「その後の図書館の予定についてはHPまたはメールにてお報せ・・・云々と」

猫額洞の言葉を借りれば、例えば母のように、本好きではあっても、スマートフォンもパソコンも持たないものは知ったことか、ということだ。
「きょうびネット環境を持たない者が悪い」と、日本国政府も、府中市も言っている。
無論行政だけではない。市民(この場合の「市民」とは「あくまでも「府中市民」のこと。日本にコクミンはいても「市民」はいない)とかコクミンとかいう行政に阿ることを無上の快楽とする「痴呆権力」も同断である。



嘆き詫び 世をそむくべき方知らず
 吉野の奥も 住み憂しといへり

この実朝の歌は太宰の短編「吉野山」という作品で知った。

憂き世をはかなんで出家遁世した若者が、山に住んでそこにある山菜や木の実を食べて人間関係に縛られず、自然の中で自由に生きたいと願って剃髪をしたのだが、現実にはどの山にも持ち主がいて、勝手に山菜や木の実を食べることなどできない。
「ここにきて俄かに憂き世の辛酸をなめ、何のために出家したのか・・・」

もしわたしたちがネット上の絵や写真を無断で「盗んでいる」のだとしたら、スマホで風景を撮ってそれを勝手に投稿することも同様に盗みであろう。
あの山、この川、この壁その空き地空き家今自分が立っているこの道にも、すべからく所有者があるのだから。
いったい何が違うというのか?

アートブログを辞めることは難しい。

「無視すること」を学ばなければ。確かに、無視も何も「同意しなければ見せません」というサイトは増えているようだけれど・・・














追記


昨日、高校時代の友人で、昔から「友人」というよりはAV機器及びコンピューターに関するアドバイザーといった方がいいくらいの友人に「クッキー」とはなにか?と訊いてみた。なんてことはない。要するに簡単にいえばクッキーとは、先日底彦さんが(まったく異なった文脈に於いてだが)言っていた「個人の内面の自由への干渉及び監視」に他ならない。「クッキー」に「同意」するということは、内面を明け渡すことと同じだ。
それと引き換えに「アート・ブログ」及び「Tumblr」を続ける意味とは・・・?

しかし欧米や諸外国の人たちが当たり前のようにアート・ブログを継続しているのは、これまで日本の常識は世界の非常識と考えていたが、今日、世界中が「日本化」しているということなのか?

無論「抜け道」はまだある。現実にほぼすべてのサイトがクッキーを求めているとはいえ、皆がみな「同意しなければ閲覧もさせない」というサイトばかりではない。

しかしこのような潮流になにか割り切れなさを感じることを抑えきれない。









何も知らない 何もわからない


アートのブログとTumblrを再開して、次第に投稿数が増えるにしたがって、これまでにない壁にぶつかっている。ブログの方はともかく、タンブラーに関しては1年間も間が空いているわけではないというのに、その間にネット上ではいろいろな変化があったようだ。

わたしはブログでも、Tumblrでも、絵や写真を投稿している。自分の描いた画ではないし、自分の撮った写真でもない。であれば、当然その画像をどこからか取ってこなければならない。ふつう、このようなアート・ブログやタンブラーをやっている人は、オークション・ハウスのカタログ、各国のギャラリー&ミュージアムが、それぞれのサイトにUPしている画像を使う。2007年だかに、MySpaceを始めた時から、わたしは世界中のそれらのサイトから画像を渉猟してきた。皆も同じだろう。
けれども、最近になってそれが難しくなってきている。
それらのサイトのほとんどすべてが、サイト閲覧に際して、Cookieというものを求めてくるようになった。中には露骨に、Accept なりAgreeのボタンを押さないと、まったくページが観られないようにしているサイトも少なくない。

わたしはこの「クーキー」だか「クッキー」というものがどういうものであるのか全く知らない。けれども、世界中のほぼすべてのオークション・ハウス、ギャラリー、美術館がそれらを強行に求めるということは、それなしに閲覧され、画像を利用されてはサイトにとって非常な不利益になるからだろう。

商いの原則として、売り手にとって利益になることは買い手の損であり、買い手が得をするということは、売っている方が損をすることになっている。

つまり、これに「同意」するということは、画像が見られる代わりに何かしらのデメリットが必ずある。それがなにか。

白状しよう、これまでTumblrだけでも、約2万2千点の画像を投稿してきたが、一度としてコピーライトの持ち主の許可を得たことも、また金を払ったこともないということを。
しかし例えばドロローサは彼女自身優れた画家であるのだが、フェイスブックに毎日投稿している絵が、仮にそのほとんどがパブリック・ドメインのものであったとしても、どのように入手しているのだろう?

辺見庸に指摘されるまでもなく、日本人とは意思無き「遵法主義者たち」の集団である。彼らの言い分は「悪法もまた法也」である。
だから、わたしは日本で、タンブラーのような「人の画を使った」アート・ブログというものをほとんど知らない。日本人にしてみれば、それがゴッホであれ、モネであれ、カラヴァッジョであれ、「自分のものでない絵」を「勝手に」「自分の」ブログに載せるなどということはほとんど犯罪行為に等しいのだ。
つまりドロローサもオーファンも、いってみれば犯罪者だ。
それで、数万人のフォロワーだなんてとんでもないことである。
日本の美術ファンてそういうものだ。

フェイスブックで約8万人のフォロワーを持つドロローサは、一体どこから画像を蒐めてくるのか?
毎日のように更新している無数のタンブラーのブログの持ち主たちは?
彼女ら/彼らは、みな唯々諾々とCookieとやらに同意しているのだろうか?

「ビッグデータ」とはいったいなんだ?
昔辺見庸がブログに、「ここに「アルカイダ」と書いたら公安が視ている」と書いていたことを思い出す。確か安倍政権が「新たな治安維持法」と呼ばれる何とかという法案を強行採決した時だった。その時ツイッターで、「著名人」たちはその悪法に反対したのか?
あるいはその当時はまだSNSというものが今ほど「流行って」はいなかったのだろうか?
そうではなく、辺見などの変人を除くほとんどの国民にとって、安倍政権の唯一にして無二の失策が今回の「黒川某」の事案だなのだ。

昔から「メディア・リテラシー」という言葉の意味が分からなかった。
今でも全くわからない。
そもそも「メディア」に限らず、「なにがよくてなにがわるい」というものがそんなに簡単にわかるものだろうか?
「植松聖のやったことは?」わたしには答えることはできない。あまりにも難解すぎる。
秋葉原事件の加藤智弘くんにしてもそうだ。「殺人は無条件に悪いに決まっている」とはわたしには言えない。
また一般論としても、売・買春のなにががいけないのか?さっぱりわからない。

いずれにしても自由は至る所で制限されつつある。











2020年5月24日

自己





Crowned Head, 1999, Ahmed Morsi.
 - Etching on zinc plates and Aquatint -







2020年5月21日

辺見の肩を持つ


先程新聞で読んだ(見出しだけ)。渦中の人物、黒川某という検事局のひと(その程度の知識しかない)が「辞職した」よし。それがどうした。

辺見庸はわたしが知る限り常に闘ってきた。安倍以前、小泉純一郎政権の時からことあるごとに異議を申し立ててきた。アメリカの10.11テロへの報復戦争に徹底的に反対を表明し続けてきた。そして講演会でわめき、おめきつづけ、遂には講演の最中に脳出血で倒れ、その後遺症として右半身マヒが残った。
政権が安倍政権になってからも、彼の為すことごとくに講演で、著書で、ブログで、反対をし続けてきた。その余りの苛烈さに、常に彼は所謂「リベラル」と呼ばれる人たちから遠ざけられてきた。今現在でも、(わたしの知る限り)彼の文章を乗せる新聞は首都圏には存在しない。
わたしは彼のコラムを読むために「河北新報」を取り寄せた。

今日の報道では、黒川某にまつわる安倍政権のやり口に「著名人らのツイッターでの批判が相次いだ」と。では訊くが、嘗て今回のような「批判」を「著名人」らは辺見庸と同じ程度にやってきたのか?少なくともツイッターで、実名(芸名・ペンネーム)で?
また今回に限っても、このことに怒り、ひとりでも安倍政権からもらった勲章・褒章を突き返したものがあったか?



「辺見辺見と言ってるそういうお前自身はどうなのだ?」と訊かれれば、
わたしは嘗て、たしかJunkoさんへの返事の中で書いたことがある。
わたしは選挙には行かない、と。デモにも参加しない。そういう意味ではわたしは間接的に安倍政権を支持している。何故なら安倍が言ったことを実行してもらいたいからだ。そしてそれができるのは安倍政権以外にはないと思うから。それは「膿を出し切る」ということ。ニッポンジンの膿を出し切るのは安倍しかいない。そして日本を滅ぼすことができるのも安倍政権以外にはないと信じるからだ、と。

現実に安倍政権は、これでもか、というほど日本人の膿を絞り出して「ほれ」と、見せてくれる。見事なほどだ。わたしは辺見庸のように「反対」はしない。彼との共通点は、「安倍政権」と「日本国民」「ニホンジン」を分けては考えていないという点に於いてだけだ。

韓国は違う、フランスも、香港も違う。けれどもこの国に関していえば、日本政府すなわち日本人で、間違いはない。

わたしの意識の根底にあるもの、以前書いた投稿を引用する。



と、その投稿を探していたらこんな記事を見つけた。

以下全文引用


『いまやあらゆるひとびとが順応性という流れにのっている。市場も権力もひたすら順応を強いている。こんにち、国会議員のように生き生きと生きるのが一種の精神の失調か異常である時代には、いやだからしないこと、できないこと、無力であること、無能なこと、しないでいられること...に居直る方法があってよい。手に持った120円のハンバーガーを半時間も見つめ、さまざまなおもいを巡らすこと。すばらしい。だが、権力は(Aだけではない。民衆や市民という痴呆権力も)彼女をいつまでもそうはさせておかないだろう。反社会的不作為かサボタージュか施設に収容すべき患者と見做すだろう。しないでいられることから、人間を引き離そうとする。凝視を止めさせる。思索と妄想を遮断する。
「こうした無能力=非の潜勢力からの疎外は、何にもまして人間を貧しくし、自由を奪い去る」(「しないでいられることについて」『裸形』)。そうなっている。』

ー辺見庸 「もう戦争がはじまっている」より

辺見庸の特筆すべきところは、敵は単に権力のみではなく、愚昧なる市民(国民)でもあるとしていることだ。
だから彼は暴動を起こさない、暴徒化しない従順なデモ(パレード?(笑))にいそしむ「善良なる市民」たちを嘲弄する。当然だ。

以前、国会前でデモをしたという若者たちのネット上の書き込みに、何故日本のデモは暴れることをしないのかと疑問を投げかけたところ、反安倍の方々から轟轟の非難を浴びた(苦笑)

権力・メディア・国民の三位一体の愚昧である。

(ここに書かれている『裸形』とはイタリアの哲学者で、特に辺見庸が好むジョルジュ・アガンベンの著作のタイトルである)




「わたしが夙に半ば以上狂っていることはわかっている。どうしても「今」という時代を受け入れ、その中で生きてゆくことができない。
そして、だからこそ、当たり前のように「フェイヴァリット・プレイス」などを口にできる人たちがわからない。非難ではない。ただ彼らはわたしにとって、絶対的な「他者」であると思うだけだ。

『傑作絶望シネマ88』には、わたしの知らないいくつもの「最近の」(?)映画も紹介されている。
興味をもったのは、ラース・フォン・トリアーの、『メランコリア』。
巨大な隕石の接近ー激突によって、この地球が消滅する物語らしい。
「地球滅亡というこれ以上ないハッピーエンド」。と、この映画の紹介をする中井圭という人は書いている。

『 つまり、この映画は、地球が滅亡することそのものを肯定しているのだ。ぼくたちの多くにとっては、地球が滅びること=人類が絶滅することは、とんでもない不幸なのだが、この映画の監督、ラース・フォン・トリアーにとってみれば、それこそが幸せなのだ。この映画の結末がこれ以上ないハッピーエンドである、と公言している彼からすれば、この汚れた世界は一掃されればよいという価値観の表れなのだ。 』

「地球滅亡というこれ以上ないハッピーエンド」ほんとうにそうだなぁ、と頷く一方で、人類だけが滅びればいいのに、とも思う。

「真逆」という耳障りな言葉を連発する中井圭という人の文章は苦手だけれど...」

[2015年11月投稿]




これがわたしが間接的に安倍を支持する所以であると思う。
「全的滅亡」をしばしば口にする辺見庸と左程変わりはないか・・・







The Wolfe Tomes -The Foggy Dew







いわでものこと?


わたしがあくまでも「ツイッター・デモ」やら「ネット署名」に反対するのは、もしそのことで、容易に政治が、世界の様相が一変するのなら、最早マルクスも、ブレヒトも、シモーヌ・ヴェイユも、三島由紀夫も北一輝も、マルコムX、マーティン・ルーサーキング牧師も、ガンジーも、ゴルバチョフも、ゲバラもカストロもネッド・ラッドもお呼びじゃないということだからだ。

その代わりに、何とかジョブズとかいう人、なんとかザッカーマンとかいう人、世界中の富を半分に分けて、例えば一億円を5千万円つづに分けて、5千万円を数十億で分け合い、後の5千万円を高々五十人だか百人で分ける。その世界の富を独占する一握りの富豪たちの「発明」したものの力を借りて、「彼ら」の「功績」の恩恵に浴して「世界を変える!」という。おかしかないか?

嘗ての革命者たちは、同志はいたけれど、決して、決して、億万長者たちの力を借りるようなことはしなかった。貴族・王族ならいざしらず、資本主義の下で財を築いたものが自分たちが今日(こんにち)ある世界を変える?それに力を貸す?馬鹿な。

無論資本主義というものは、金にさえなれば、アマゾンを徹底的に批判し罵倒した本でも「アマゾン」で買えるという仕組みであることはわたしとて知っている。

彼らは「世界を変える」「政治を変える」と息巻いている連中を採りこむ。しかし最終的に自分たちの損になるようなことは絶対にしない。あたりまえだ。だから彼らはネッド・ラッドのような存在を決して認めようとはしないだろう。





「東京高検検事長の定年を延長する閣議決定を受けて、ファシストどもが
検察庁法改正案の審議を強行。これをきっかけに"ツイッター式抗議デモ"
がはじまり、500万件をこえる書き込みが殺到したよしいくぞう。だから
どうしたといふのか。

安倍、平気の平左、屁のカッパ。だいたい、奇妙なマスクをしたこのおと
こをここまでのさばらせてきたのはだれだ?「コクミン」とかいふ意思な
き遵法主義集団と猪八戒ら広義のファシスト補完勢力だろうが。

安倍の専制をゆるしてきた羊たちは、「安倍のジンギスカン」でパクパク
食われて当然。安倍は端からケンカ腰。改憲本気汁たらーりたらーり。猪
八戒など豚シャブでぺろりだぜよ。」

辺見庸ブログ 2020年5月13日 「祝ファシスト連戦連勝!」-「500万件の虚妄」


ー追記ー


この投稿についての「反論」は勿論受けつける。けれども、これだけのことを書いた以上、今後の完全なる孤立について考えないほどお目出度くはない・・・
















2020年5月20日

無題 


先程底彦さんの、4月23日以来久し振りにその間の日記を投稿したブログを訪れた。
書かれていること、内容やスタイルは特に変化はない。けれども、何故かこれまでのように身を入れて読むことができない。その背景について深く考察することはできないが、最近この時間帯は落ち着かない。

コメントで教えてもらった投稿、5月11日の「少しだけ持ち直す ── 昨日の鬱のこと」についても深く考えることができない。


以前, ある人から心の病は個性だと言われたことがある. その人の優しさが嬉しく自分でもそう思おうとしたが, 個性だと言ってしまうのにはどうしても無理がある.
一面では自分の鬱の発症は, 内向的で生真面目な自分の気質と大きく関係していて, その意味では個性の発現であるとも言える.
一方で, 昨日の苦しみが心の傷による痛みだとすると, それは個性とは大きく異なる.
心の傷は, 他者によって受けたものであって自分のパーソナリティーとは切り離して考える必要があると思うのだ.

(下線はわたしによる)

しかし、と朦朧としたあたまで考える。この世界は「このわたし」以外すべからく「他者」で出来ている。その中に存在して、他者のどのような言葉、どのような態度、有形無形を問わず、「他者の行為」乃至「他者の存在」の裡、何によって負傷するかは、その人の「個性」 に因ると言えるのではないか、などとも思う。

サルトルは「地獄とは他者である」と言った。けれども、他者を地獄たらしめているのは他ならぬ「私」の感受性ではないのだろうか?

故に「傷つけられる」ー「傷つく」ことは個性ではないだろうか。

わたしの苦しみは誰とも共有できない。何故なら「このわたし」というものが、完全なる一回性であり、代替不能な存在であるのだから。




"Much as I have no wish to hurt anyone’s feelings, my first obligation has not been to be nice but to be true to my perhaps peculiar memories, experiences and feelings."
ーEdward W. Said 'Out of Place'

結果として底彦さんを責めるような形になるのかもしれない。けれども、わたしは「わたし」 を通してしか世界を感受することはできない。

昨年の夏、この場で「スマホなんか大嫌い!」と題して書いているので繰り返さないが、食事スマホや排尿スマホが普通の光景となるなど、マナーは悪化する一方だ。「誰にも迷惑をかけていない。ほっとけよ」などと言うなかれ。少なくとも私の目は汚され、気分は害されている。

これは過去の投稿、「産経新聞掲載「モンテーニュとの対話」エリック・ホッファーについてを読んで、感じるままに
に書かれた桑原記者の言葉だが、この太字部分をいったい誰と共有できるだろうか?

わたしが「最近この時間帯は落ち着かない」と書いたのは、毎日飽くことなく繰り返される「警告」の放送に心身を穢されているからだ。

しかしそのような「傷の負い方」は、他ならぬ「わたし」や「桑原記者」や「西部邁」の個性以外の何ものでもないのではないだろうか。

わたしは底彦さんの心の傷を軽く見積もるつもりはさらさらない。彼は確かに心に癒しがたい「傷」を、深手を負っている。それは紛れもない事実だ。

「治すべきなのは, 心の傷なのではないか.」という言葉にもなんら異論はない。

一方で、わたしに底彦さんのような「傷」が、「治すべき傷」があるのかと問うたときに、そんなものはないのではないかという想いが強い。わたしにあるのは、ただ、わたしという存在=「個別性」だけなのではないか、と。













2020年5月14日

底彦さんへ


こんばんは、底彦さん。

ここしばらくブログの更新がありませんね。心配ということはあまりしていません。
ふたつさんもそうですが、わたしはもっと楽観的に、インターネットから距離を置いているのだろうと考えています。そしてそれは底彦さんにとって、またおそらくはわたしにとってもいいことであり、必要なことだと思っています。


昨日、デイケアのスタッフから電話がありました。母が電話に出たのですが、要件はデイケアはやっているということ、ただし、決まったプログラムがあるわけではない、人数は多くもなく少なくもなく・・・と、なんだか曖昧ですが、本人が電話に出ていないので仕方がありません。

仮にいま、いつもと同じようなプログラムでデイケアをやっていたとしても、わたしにはデイケアに何を求めているのか、また何を求められるのかが、わかりません。
「デイケアに行く意味」というものがわからないのです。





以前底彦さんのブログから自由に引用して構わないと許可をもらった気がします。
以下、4月21日の記述より


「認知療法を受けた.PSW さんには不安定な状態が続いていることを話す. 慢性的に鬱や無気力で部屋に引き籠もっていたいと伝えた.
それに対する PSW さんの意見としては, 底彦さんに適した引き籠もりの程度や方法があると思うので, 体調と相談しながら探っていきましょうとのことだった.
いずれにせよ, 話すことで随分気持ちは落ち着けたと思う.」


底彦さんにとってはこのような話の内容はごく自然だと思います。しかしこれをわたしに当てはめてみた時に、誰かに「Takeoさんに適した引き籠もりの程度や方法・・・」と言われても、正直なにを言われているのか分かりません。

「引きこもり」とは、外に出られない、或いは出ることが非常に困難な状態のこと。
そこに「程度」とか「方法」という言葉がどのように結びつくのかがわからないのです。
これについて底彦さんは、「タグ」で、「自分なりの引きこもり方法」と書かれています。

このような話の流れを見ていると、わたしには、「引きこもること」がある程度自分の意思によって、その形態を決められるようにも聞こえるのです。
繰り返しになりますが、これは相手が底彦さんだから言えることで、わたしに対して同じように言うことはできません。何故なら底彦さんは「引きこもり」ではなく、「引きこもりたいという欲求を感じているひと」であるから。

ほんとうの「引きこもり」は、たとえ誰かの助言があったとしても、「引きこもる程度やその方法」などの「人為」の入り込む余地などありません。

そして「話すことで随分気持ちは落ち着けたと思う」ということも、今のわたしにはわからないのです。わたしの話は最早誰にも通じません。話せば話すだけ徒労感を募らせるだけという絶望感があります。



ジャン=ジャック・ルソーは嫌われ者でした。そして孤独の裡に死にました。
『孤独な散歩者の夢想』は彼の嗚咽であり、また愚痴のようでもあります。
ではそのようなルソーにとって、嫌われ者で孤独なルソーにとって、「癒える」とは、どのような状態をいうのでしょうか?人に好かれ、社交的で、孤独ではないルソーとはなにものでしょうか?それはそもそもジャン=ジャックなのでしょうか・・・


これに対するお返事は特に必要ありません。いつかご意見を聞けたらと思います。
底彦さんにとって今は行き場所が悉く閉ざされ、非常に苦痛であると思います。
開いていても行く意味を見失っている者、行きたくても扉が閉ざされている者・・・

どうか心穏やかな日を過ごされますように・・・

今また、府中市の放送が始まりました。ほんとうに気が狂いそうです・・・

政治とは、本当に弱者或いは少数派をいたぶるためにあるのだと痛感します。

ツイッター・デモ(?)とやらが馬鹿げていると思うのは、投石も暴動もないデモって何だろうと思うからです。我々は政(まつりごと)を行う者に対して、夜叉に、鬼にならなければならないはずなのです。つまり憎悪であり怨念です。虐げられた者たちの虐げる者への反逆であり蜂起であり復讐なのです。

ツイッター・デモに仮に1千万人の署名が集まったとしてそれがなんでしょう?

デモとは殺すか殺されるか、そういうものだと思っています・・・

SNSのデモなど、所詮は「稚戯」だと断言しておきます。





承認欲求というものについて考える


仮にわたしのブログがスマートフォンで100万人に読まれるようなことがあれば、わたしは金輪際ブログを書くことはしないだろう。或いはスマートフォンを使わない、使っても家の(自室の)中だけという人たちのみの限定公開にするだろう。

今現在も、スマートフォンからの閲覧者が全体の20%近くになっているので、そろそろメンバー限定に戻そうかと考えている。


先日母に、ドロローサのフェイスブックのページのフォローワーが今現在7万9千人いると言ったら、「もしあなたがそうだったらどう思う?」と訊かれた。

わたしはそんなに「大勢」に「理解され」「好かれる」ほど凡庸じゃない、と答えた。


ー追記或いは補足ー

わたしにとって何人の閲覧者があった、何人のフォロワーがいる、ということは全く問題ではない。「誰が」そして「何処で?」「何(なに)で?」読んでいるかがすべてなのだ。仮にわたしに読者が30人いて、それらがみなスマホの読者であるならば、やはりわたしは上述したようにするだろう。














2020年5月13日

進んだ国より


毎日毎日流される市の放送に疲弊しきっている。これはコロナの二次災害といっていい。
ここでも何度か引用した、精神科看護師の宮子あずささんによると。

「ステイ・ホーム。家にいましょう」。コロナウィルス感染拡大防止のため、繰り返されている呼びかけである。私自身も外出は控えているが、この呼びかけにはどうしても違和感がある。そして、その違和感を大事にしていると言ってよい。それは、この言葉が、人の行動を制止する「スピーチロック」の意味を持ちうるからだ。
スピーチロックとは身体拘束のひとつ。私は看護師として、身体拘束を可能な限り行わないよう、常に求められ、それを自らにも課してきた。
「部屋から出ないでください」「危ないからベッドから降りないで」。危険を感じ思わず口から出る言葉も、スピーチロック。完全になくせなくとも、自覚して減らしたい。それが私が大事にしている看護師としての倫理観である。

そして
「ステイ・ホーム」を他者に強要することの怖さに、私は自覚的でありたい。

東京新聞11日付け「本音のコラム」より抜粋引用。





ほんとうにこのアナウンスは拷問に等しい、You Tube でも相も変わらず、「オクニのイヌ」たちが、「レッツステイホーム!」と身体拘束を強いてくる。それもまるで、いいこと、ただしいことをやっているかのように上機嫌で。




Carlo Bavagnoli Demonstrating Students and Striking Workers Fill the Streets, Paris May 1968




Uncredited Photographer “Il est interdit d’interdire” (It is Forbidden to Forbid), Graffiti Tagged on a Wall During Student Demonstrations, Menton, France May, 1968



Atelier Populaire La Beauté Est Dans La Rue (Beauty is In the Street), Poster from Demonstrations, Paris 1968



日本人曰く。

60年代か。まあ遅れたフランス人たちはいまでもこんな古臭い方法でデモやっているんだろうな(失笑)
なにしろ私たちにはSNSという最新にして最強の兵器がある。これで政治を、世界を変えられるということを未開の欧米人や香港人は知らないのかな。
まあこれからはジャパン・メソッドが主流になるだろうけど。

Japan is not 邪蛮 










2020年5月12日

愚かなる者・・・


猫額洞のツイッター・デモ礼賛、大阪のチャラけたアンチャンの「自警団こそこの国に住む僕たちの「抗体」だ!」発言は、ほんとうに身体に悪い。

そしてもっとも愚かしいのは、このような救いようがない(その分本人たちは、だからいつだって上機嫌)バカたちの発言を、いくら「いかもの食い」と言って、もわざわざ覗きに行くわたし自身に他ならない


死因は「馬鹿に中った」では洒落にもならない・・・


ー追記ー


ここは「ツイッター・ジャパン(?)」に一つ頑張って「デモ」を潰してもらいたいところ。






2020年5月11日

失笑まじりに・・・


今日ふと見たブログのタイトルが「不機嫌という作法」。
その内容とコメント欄でのやり取りを一読して苦笑交じりにひとこと。


「イヨッ!大将、ご機嫌だね!」









2020年5月10日

悪癖


わたしは現在2つのアートブログを持っているが、「このようなブログにはしたくない」、というブログを2つ紹介する。

基本的にわたしがケチをつけるのは、わたしの知る限りにおいて明らかにわたしのブログよりも「人気のある」「多くの人に支持されている」ブログに限定されている。「猫額洞」さんにしても、そもそも、その世界では名の知れた古書店の店主夫婦(書いているのは妻の方だが)であり、下の投稿で「あの人」とけなしたブログも、いうまでもなく、わたしのブログなど全く問題にならないほど人気のブログだ。

以下のタンブラーのブログにしても、一目瞭然だが、双方とも3万人以上のフォロワーはいるだろう。

わたしはどうしても「上位」のものに対して唾を吐きかけずにはいられない悪癖があるようだ。無論「下」などはないのだが。

これも双方に失礼な言い方だが、わたしは底彦さんのブログと同列だと思っている。そして、今はどうされているのか知らないが、Junkoさんのブログは「上位」であると。
「あなたは単に支持者の数で判断するのか?」と言われれば、そうだと答えるしかない。





https://catonhottinroof.tumblr.com/


https://laclefdescoeurs.tumblr.com/


わたしはドロロサーのファンとして、上のふたつのブログのような投稿はしたくないと思っている。上のブログは画像の下にリアクションの数が表示されている。
下のブログは、画像の上にカーソルを乗せると、リアクション数が現れる。

これをみてもわかるように、わたしごとき泡沫ブログなどとは比較にならない。
だからわたしは彼/彼女の悪口を言う資格があると思っている。

ただし、彼/彼女らのブログも、まんざらわたしにとって無意味というわけではない。
このように「趣味のいい」ひとたちが、まだタンブラーにいるから、わたしは安心して「悪趣味」に徹することができるのだ。

何故とくにこのふたつのブログに敵意を抱くのか?
それはこのふたりが、わたしを嫌っているからだ。
かつてわたしは、下のブログのいけすかないスターリニストと言い争った(?)ことがある。彼の鼻持ちならない自信家ぶりが我慢ならなかったのだ。そして上のブログの彼女が彼の肩を持った。遺恨ではない。とにかくわたしは「自信のあるやつ」というものが大嫌いなのだ。そしてそれに伴った支持者に囲まれていれば尚更である。

これを嫉妬と思うものが多いだろう。わたしはいつでもより弱い者、より少数派の側にいたいのだ・・・












ニッポン的なるもの


昨日「猫額洞」さんの投稿「スェーデン式対処法」にコメントを残した。コメント自体は承認され、公開されているが、返事はもらえなかった。
これはわたしの勝手な解釈だが、「優生思想」-「生きていてもいい」或いは「生きる価値のある生」と「生きていてはいけない」乃至「生きている価値のない生」といった「哲学的」な問題に対しては、人それぞれ考え方が違うので、ここでそんなことを議論したって仕方がないと思っているのだろうか?

わたしはここで瀬里香さん、ふたつさん、Junkoさん、底彦さんと、様々なテーマについてそれこそ延々と議論をして来た。無論なにひとつ結論など出てはいない。
けれどもそれなくてなんのブログか、とも思っている。

先日のJunkoさんの言葉ではないが、誰も本気で自分の言葉を理解してもらおうなどと思ってはいない・・・のかもしれない。その点でわたしのブログは、猫額洞さんのブログに最も多くコメントを残している人の書くブログと対極の位置にある。
わたしは「あの人」の書くものにまったく興味をそそられない。皮肉なことにJunkoさんと知り合ったのは「その人」のブログなのだが、わたしは早々に「飽きて」しまった。

猫額洞さんの最新の投稿についても、一家言あるが、猫額洞さんのブログは、以前一度だけ行ったことのある「発達障害の専門医」の言葉ではないが「ここ(わたしの診察室)は心の問題についてあれこれ話すところじゃないから・・・」と通じるのかもしれない。
しかし問題提起をしながら、それについて意見を述べても黙殺とはどういう意味があるのか・・・
無論わたしのコメントが、猫額洞さんの書いていること、言わんとしていることに対して、まったくピント外れであるということも十二分に可能性としては考えられるのだが。


わたしのブログの人気(ひとけ)のなさについて、わたしの趣味が悪すぎるのか?或いはみんなの趣味が悪すぎるのか?そんなことは全く無意味だと思った。そこにはただ「通じ合えていない」という事実があるだけで、どちらの趣味がいいとかわるいとか、そんなことは全く問題ではない。仮に、仮に、わたしの趣味が高尚過ぎるから・・・としても、「通じていない」という事実の前では、その「趣味の良さ」など「無」・・・ではないか?








2020年5月9日

Tumblrの外観を変えてみました


2011年春に初めてこれまで一度も変えたことがないのですが、今回ダッシュボードがひどくチープになったので、少しでも投稿のモチベーションを上げるためにブログのデザインを一変しました。

わたしはインスタグラムというものをいちども見たことがありませんが、少なくとも、フェイスックやツイッターは自分でデザインをつくる・選ぶことはできません。
タンブラーは所謂SNSではないので、各々がそれぞれの「ブログ」を持っています。

多分瀬里香さんは見たことがあるかと思いますが、底彦さんも、Junkoさんもよかったら、
「新しい」(苦笑)わたしのタンブラーのブログを覗いてみてください。

さすがにこのブロガーほどは細かいところまでの設定はできませんが、これまでは良くも悪くもシンプルだったのをすこし変えてみました。結構気に入っています。


Poboh.tumblr.com 



ー追記ー


「猫額洞」さんの昨日今日一昨日の投稿は読み応えがあります。
ただし今日の投稿について考察する元気はいまのわたしにはありません。
そしてこれらの投稿は素晴らしいのですが、わたしは今も、今後も、インターネットで情報を収集するということはしないでしょう。

タンブラーでは「リブログ」は一切しないというのがわたしのスタンスです。
絵や写真はすべて自分で世界中のアート系のサイトからハンティングしてきます。
ただし、「情報」は別。まったく別ものです。














2020年5月7日

繰り返される愚昧さ


ドイツでもお店がほぼ正常営業できるようになった。新聞には、再び患者数が増えるようなら再度外出禁止令を出すということ、6月2日までは外出時のマスク着用を「義務付ける」ということが書かれていた。

「どうして日本は韓国やドイツのようにできないのか!」といったところで、どだい無理なこと。そもそも戦後に築き上げてきた歴史と、そもそもの民族性が違うのだ。

前の投稿で、「過去」と「現在」との時間軸ー垂直方向での対比をしたが、同じ時代を生きるにしても、また或いはデジタル・ワールドの様子は韓国やEUの方が進んでいるのかもしれないが、日本ではGWが明けても、相も変わらず、「フヨウフキュウノ ガイシュツハ ヒカエマショウ ミナサマノ ゴキョウリョクヲ オネガイシマス・・・」と繰り返し放送が流れる。

中島義道のいう(日本の)「文化としての騒音」そして根生いの「パターナリズム」

これだけはドイツはもちろん韓国や中国にも存在しないだろう。

電車に乗れば「駆け込み乗車は危険ですのでおやめください」「ホームと電車との間に隙間が空いている箇所がございますので気を付けて・・・」「事故防止のため「やむを得ず」緊急停止することがございますので、お立ちの方は手すりや吊革につかまって・・・」「携帯電話はマナーモードにして車内での通話はお控えください」「優先席があります。妊娠中の方、身体の不自由な方におゆずり・・・」

バスに乗れば「走行中の座席の移動は大変危険ですので・・・」「バスから降りて道路の横断には気をつけて・・・」「爆発物の持ち込みはおことわり・・・」

商業施設では「エスカレーターにお乗りの際はベルトにつかまりステップの中央に。良い子のみなさん。エスカレーターの駆け下り駆け上りはたいへん危険ですのでやめませう・・・」

つまりなにもかも手取り足取りああしろこうするなと教えてもらわないと電車にもバスにも、そしてエスカレーターにさえ乗ることができない民族が、どうして突発的な危機に際して適切かつ迅速な行動に移せるだろうか。

これだけ街に騒音が溢れていても、誰も「ガキ扱いするな!」とは言わないし、おそらくはそんなこと感じてもいない。現に中島の本『うるさい日本の私』には、「アナウンスがないから忘れ物をしたじゃないか!」と怒鳴り込んでくる客がいるという。

これがまさしく「文化」である。

70余年をかけて成熟してきた国と、決して「成長」も「成熟」もあり得ない国と、同列に扱うことは不可能だ。

しかし「お前は国から「義務付けられ」たり「禁止命令」を出されるようなことは嫌う人間じゃなかったのか?」と思われるかもしれない。確かに日本は、ドイツや韓国のように、いざとなれば数百万単位のデモ行動を起こし、大統領でも引きずり下ろすようなことは決してしない。エスカレータの乗り方も毎日その都度教えてもらわなければ忘れてしまうようなこどもの国だから、すべて「親」=「お上」の言うがまま。皮肉なことに「自己責任」・・・言い換えれば「自分で判断して行動する」という観念から最も縁遠い国・・・そこに日本という国の、どうしてもアジアを含めた諸外国に追いつけない「限界」がある。














バンクシー、或いはあらまほしき世界と現にある世界との齟齬



Untitled, before 2003, Banksy. born in 1975 in UK
- Stencil, Oil on Canvas -


つまり、結局はこれなんだよな。


わたしにとってはドローンも、オスプレイも、スマートフォンもタブレットも、電子書籍もキャッシュレスもペイ・ペイもスイカもパスモもみな同列なのだ。

そういう意味でまさしくわたしは過去から未来(つまり「現代」)に紛れ込んでしまった異質の存在であることに間違いはない。



Ruiner i Riesengebirge, ca 1834, Caspar David Friedrich (1774 - 1840)

カスパー・ダヴィッド・フリードリッヒ、ドイツロマン派・・・わが心の源流