2019年12月30日
美意識と妥協・・・
書くことが覚束なくなった。これもまた、ここ数年の裡にできなくなったことのひとつだ。
筋道を追って考えるということが難しい。わたしがよく使う「つまり・・・」とか「即ち・・・」という言葉で話を繋げ、展げてゆくことが困難だ。
そして思考力の低下と共に、集中力の低下は更に著しい。
絵を選ぶことは瞬発力だ。この絵が好きか?感覚・感性、即ち非・言語的な領域だ。投稿した絵や写真についてあれこれ語る必要もない。しかしそれとても、だんだんと関心が薄れてきているような気がする。グラスの中の氷が解けだして、酒が次第に薄められてゆくように・・・
◇
スマホと妥協することも辞さないというほど、今の世の中は、生きるに価するものだろうか?
しかしスマホを含め、ほとんどのデジタル製品を拒絶して、嘗てのような「便利な」生活は望むべくもない。
デイケアの大きな部屋の窓際に、マンガや精神疾患関連、就労関連の書籍、新聞などが並べられている。その中に、女性誌もある。何の気なしにパラパラとページをめくってみる。
若くて(?)綺麗な女性モデルの写真が並んでいる。空想の世界とは言え、20年前なら、否、10年前でも、綺麗で、話が合えば、友達になるのに問題はなかった。というよりも、「ああ、こんな女性と知り合いになれたらな・・・」などという空想は自然だった(勿論、付き合ってみて、意外な面が見えてくるということは、いつだってあることだけれど)
けれども現在は、美しく、趣味のいい女性と、「はじめまして」とテーブルを挟んで椅子に腰を下ろして、次の瞬間、目の前の女性が、バッグからスマホを取り出して、手元に置く・・・それを見ただけで、「次回はない」。
家族会の年配の女性と話した時も、「そういうことが目の前の相手に対して失礼だという感覚がないのね・・・」と言っていた。
「失礼だという感覚が無い」そのことが全く理解できない。ということは、目の前の美女とわたしとは、所詮異世界の人間であったということだ。
現実にわたしは、まだ楽天のブログを書いていた頃だったと思うが、フェイスブックで知り合った70代の女性と数回会っている。最初は新宿のジャズ喫茶で、次はその翌月に渋谷のBunkamuraの展覧会に。その時に彼女に撮ってもらった写真を観た人もいるだろう。
その後わたしが新宿や渋谷などに行けなくなった時、彼女は約1時間の道のりを、電車を乗り継いで、わたしの最寄り駅まで来てくれた。この駅は国分寺と国立に挟まれた、喫茶店も、軽い食事ができる店もなにもない駅で、わたしたちは駅ビルの中のパン屋のイートインコーナーで、パンを食べおしゃべりをした。その頃既にインスタグラムに熱中していた彼女は、特別なものでも無いパンを、食べる前にスマホで撮影する。
彼女はいいひとである。優しい人である。アート好きであり、大学では美学を専攻していたひとである。けれども、わたしは彼女のスマホ好き、インスタグラム好きに馴染むことが出来なかった。つまり「妥協」できなかった。自分の価値観を押し通した・・・
その後彼女から2度ほどメールがあったが、わたしは返事をしなかった。
何故?わたしには彼女の趣味に干渉する権利も資格もない。「スマホをしまってくれませんか?」というのはこちらの我儘でしかない。「何故あなたにそんな指図を受けなければならないのか?」
今の時代、心根優しく、趣味が合い、わたしのような人間にも優しく接してくれる人・・・だけでは友達にはなれないのだ。「趣味が合うこと」と同程度にスマホに対するスタンスが似ていることが(わたしには)「必須条件」なのだ。
優しくとも、美しくとも、どんなにアートの趣味が、映画や音楽の趣味が似ていようとも、そしてそのKさんのように、「気が合っても」「スマホ」次第で、どちらにでも転びうるのだ。
◇
この先仮に(デイケアなどで)第二のKさん(年齢性別を問わず)が現れた時に、わたしは自分の美意識に蓋をできるか?
それともまたKさんのように、訣別か・・・
ちなみにわたしがKさんに対して左程心苦しく思っていないのは、彼女は友達も多く、頻繁に美術館に足を運んでいる人なので、わたしなどがいようがいまいが、大した問題ではない・・・全然問題ではないことを知っているからだ。
これから友達に成れそうかな?という人には、同じ轍を踏まないように、わたしのスマホ嫌いのことを伝えておく必要があるだろう。
誰もが怪訝そうな顔をするだろう。
もうとうに、わたしの時代は終わっているのだ。
2019年12月29日
メモ
タンブラーでフォローしているJeffのポスト。
以下全文引用
The World...
is just so fucked up. We have to deal with the racist ugliness of the utterly corrupt and criminal Trump in the United States, the Brits have to deal with the similarly disgusting Boris Johnson. The French working class has been in the streets for nearly a month, fighting against Macron and his trying to force working class people into working more for less, in the name of increasing the authority and power of business.. The Philippines has the violent lunatic Duterte; the Russians, the neo-Stalinist and corrupt Putin; the Italians are facing street mobilizations by a renascent fascist movement. The racism against black people in the United States continues unabated and now, we’ve just had another in a rapidly growing series of murderously violent attacks against Jews. To make matters even more grim, all of this shit is taking place against the backdrop of a planet that has been pushed to the very limit, that has passed the tipping point of environmental degradation in the name of ever-increasing profit for a handful of corporations and wealthy individuals, so that now we know the question isn’t stopping the catastrophe that is already upon us but whether we can limit it enough so that the world is still habitable and recognizable 50 years from now. I don’t know, somehow this shit makes me not feel particularly like posting my usual silliness. Someone, please tell me that I’m wrong.
Tumblrは所謂SNSではなく、厳密には、個々の「ブログ」をフォローし合っているコミュニティーで、最近になって、タンブラーにも、投稿に対する一言を書きこめる場所があることを知った。
わたしは拙い英文で、このように書きこんだ。
Very important post for me. Although you may not know Japanese politics is as same as French, China, and America, Just one thing difference is We never protest. Because it is our culture. "Never against upper people" why? Japanese think they are upper because they are correct. why poor people or weak people is miserable ? cos we were wrong. thats how we think. I am a Japan hater so I support your opinion.
英文としてまるでなってないが、大体このようなことを書いた。
「ジェフ、きみはトランプやジョンソン、フランスのマクロン、更には、フィリピンのドテルテ大統領のこと、プーチンのネオ・スターリニズムのことを述べているが、おそらくきみは日本のことを知らないのだろう。きみが挙げた国の政治とまるで差が無いことを。
ただ、一点だけ、重要な相違は、日本人は決して逆らわないということ。
何故かって?それが我々の「文化」だからだ。
上のものに逆らうな。何故なら、彼らは、「正しい」が故に今の地位に=「上」にいるのだから。
貧しいもの、弱い者は、「何かが間違っていたから」今、惨めな人生を送っているのだ。
つまり、豊かさや、貧しさは、「正しさ」の、そして「誤り」の結果なのだ、と。
それが日本人の思考様式だ。
わたしは生憎日本人が大嫌いでね。きみの意見を支持するよ。」
母によると(新聞によると)何とフランスでは、いまだにゼネスト状態が続いているらしい。
このジェフのポストが何故かわたしを勇気づけてくれたことを付け加えておく。
ブログが書けない。書かなければならないという気持ちもない。ただ唯一、底彦さんがわたしのブログに、僅かとはいえ、心の慰安を感じていてくれたこと、それにもう応えることができない。それが底彦さんに対してというよりも、自分自身にとって残念に、心残りに思う。
文章を読む意味がわからなくなってきた。書く意味もまた。何を「書く」のか?
「書くこと」とはどういうことか、わからない。
先日他の自治体から再び(三度?)借りた、『石原吉郎全集2』、結局一度もページを開くことなく、2週間が過ぎて、一文字も読まぬまま返却した。
つげ義春も、業田良家のマンガにも手が伸びない。
今日は絵を選ぶことにも気が乗らなかった。
今夜は繰り返しおなじCDを聴いていた。ルネサンス期の作曲家ジョヴァンニ・ピエルルイジ・ダ・パレストリーナのミサ(混声合唱無伴奏)と、パレストリーナと同時期のジョヴァン・レオナルド・プリマヴェラのマドリガル(器楽)
わたしは「キリエ」というラテン語が使われる曲をよく聴く。
先日の繰り返しになるが、わたしが例えば来年の3月、或いは、来年の今頃に、「まだ」生きていたとしたら、それはいったいどのような形での生だろう?
德富蘆花の「不如帰」、(この部分しか知らないのだが)病の床にある妻浪子が、「武男さん、どうして人は死ぬんでしょうね・・・」と問いかける場面がある。
同じ名前の武雄としては、それ以前に「人はなぜ生きるのか?」を知りたいのだ・・・
2019年12月23日
冬の夜は恐い。
窓を開けて身を乗り出して、陽の落ちた夜の冷気を感じただけで、震えてしまうほどに。
喉の奥で声にならない叫び声を上げてしまうほどに・・・
かつて自分が、こんな冬の夜に外に出ていたことがあったなんて。
それもひとりで。
それも電車に乗って。
何故人は平気で、夜、ひとりで、電車に乗ったり外を歩いたりすることが出来るのだろう・・・
これは底彦さんの訴える「人が怖い」「人混みが怖い」というものとは異質のものだ。
わたしが何よりも怖いのは「孤独」
明日も4時50分からの主治医の予約をまた母に行ってもらう。
母も疲れでいろいろと体調がよくない。
改めて、人の世話になるしか生きられない者の「生の資格」を考える。
人の命を喰い潰して生きている者の生の在り方を思わずにはいられない。
2019年12月16日
何も書けない。底彦さんのブログを読んでいたら、このようなことが書かれていた。
「頭の中が様々な情報で溢れて混乱しているということだ.それらをどのように考え, 処理したらいいのかがわからない.」
底彦さんの言われる、「頭の中が様々な情報で溢れて混乱・・・」という意味はよくわからないが、わたし自身同じような感覚を持っている。
自分は無価値である。
生きていてもしょうがない。
孤独。
さびしい。
誰とも通じ合うことができない。
いない方がまし。
(生きることが)こんなに苦しいのなら、酒やクスリに手を出すのは寧ろ自然なことではないか。
これまでは、底彦さんの呻吟がある種の救いでもあった。けれども、よく考えれば、底彦さんは呻きながらもやるべきこと・・・少なくとも出来る範囲のことはきちんとやっている。
そんな底彦さんに劣等感を覚え、自分自身に自己嫌悪を感じる。
底彦さんの投稿に残したコメントは今も短剣のようにわたしの胸を突く。
曰く
「「話が通じる」ってどういう状態(どういうこと)だろうと頭をひねります。そしてわたしは嘗て人と話が通じたことがあっただろうかと訝ります。
わたしは瀬里香さんと、ふたつさんと、底彦さんと、Junkoさんと話が通じたことがあったでしょうか?」
逆に言えば、「話が通じない」というのはどういう状態なのか?そして何故わたしは誰とも話が通じないのか・・・
気狂いだから? 化け物だから?
2019年12月15日
最初にふたつさん。お返事がなかなかできず申し訳ありません。
皮肉なことに、ふたつさんは、わたしの「ナニモワカラナイ!」という投稿にいつもながらの内容の濃いコメントをくださいました。でも今は本当に何もわからないのです。
少し時間をください。
目が片方見えないと、頭の半分が機能していないような感じです。
眼科、1月6日9時の初診は、とても行けそうにないので、午前の一番遅い11時に変えてもらうように電話しました。11時の初診で一番早いのは2月の7日。真冬です。風邪をひいていけないかもしれない。すると次は3月?
もう目は良くならないかもしれません。
◇
「人は失敗を通じて成長する」とよく聞きます。
けれどもこれはわたしには当てはまらない。
わたしは某サイトで、ある人を不快にさせてしまいました。
そのことに先程気付き、謝罪の言葉を遺して早々に退会しました。
ところが、文章を書いた本人がいないと、その投稿も反映されないようなのです。
わたしは「いやな気持ちになった」と指摘されて、黙って逃げるような形にはしたくなかったので、同じ名前で再度入会し、謝罪のコメントを投稿し、明日その人「たち」がその投稿を目にしたであろうことを願って、正式に退会するつもりです。
先刻その投稿に、上記の「人を傷つけたら謝ればいい、人は失敗を通じて成長・・・」という慰留のコメントが寄せられました。
仮にわたしがふたつさんを、底彦さんを、Junkoさんを傷つけたとします。
無論それが分かれば謝ります。口先だけではなく、傷つけたという事実に対して。
けれどもわたしは変わりません。いつも言っているように、わたしが人に嫌われ、疎まれるのは、わたしがどこまでもわたしであるからです。
わたしは人を傷つけるつもりもなければ、自分を変えるつもりもない。
第一変えられない。
自分の個性、自分の思考が好きでたまらないからか?
違う!
わたしはわたしを受け容れなければならないと思っています。
先程の慰留に関しては・・・無理ですとは言えない。だから黙って去ります。
居続けるということは、そこで言葉を発するということは、今回のように、どこかで、誰かを不愉快にさせることを意味します。
けれどもわたしは言葉を、思いを発信せずにはいられない人間です。
それも自分の言葉を。
合わなければ去る、別れる。失敗から成長というのはわたしとは全く無縁のことです。
つまりわたしは永遠に成長しない(成長することを止めた)オスカルです。
2019年12月13日
孤独
「話が合う」ってどういうことだ?
「孤独じゃない」ってどういうことだ?
成程ここを訪れてくれている3人は、わたしという人間のかなりの深いところまで知っている。1年間通ったデイケアの利用者、そしてスタッフの誰よりも。
「自殺肯定」「現実否定」「スマホ・タブレット・電子書籍(=語義矛盾)嫌悪」、「アル中、ヤク中、場合によっては殺人者をも肯定するが、名利(金と名誉)に敏い人間が大嫌い」「皆が好きなものは皆が好きという理由によって嫌い」「日本という国が大嫌い」「人類は(わけても日本人は)地球上から消滅すべき」・・・エト・セトラ・・・
これだけでも相当過激な変わり者だが、それをとりあえず受け容れてくれている。
けれどもわたしはあなたたちの顔を知らない。声を聴いたことがない。文字を見たことがない。それは逆さまにして、ふたつさんも底彦さんもJunkoさんも同じこと。
わたしの顔を知らない。わたしがどんな風に話すのかを知らない。どんな文字を書くのかを知らない。淋しい時、怒った時、どんな表情をするのか知らない。
だから「わたしは孤独ではない」ということができない。
それにしてもこの3人以外に上記のような「わたし」という人間を受容してくれる人間が存在し得るだろうか?
そしてみんなは、このアンチ・ソーシャルの権化のような存在を現実に目の当たりにした時にいったい何を感じ何を思うのだろう・・・
「めぐり逢い」
わたしは切実に出逢いを求めている。けれども、わたしの求めている「人との交流」というものが、いったいどのような形のものなのか?自分でもよくわからない。
今年一年間、月平均3回ほどではあったけれど、デイケアに通った。人一倍発言をしたが、親しい人はひとりも出来なかった、また、あの人と話してみたいと思える人も見つからなかった。
同性とのメールでの雑談のレベルでもいいのかもしれないと思ったり、SM系の風俗店に行ってみようかしらんと思ったりもする。
自分の心に率直に問いかける。「SEXがしたいのか?」と?
わからない・・・したいわけではないが、必要な気はしている。
「恋人が欲しいのか?」いや、特にそんな気持ちはない。
それなら身体だけの関係でもいいような気がする。しかし繰り返すがそれを心底欲しているのか、わからない。所謂「性欲」があるのかさえ、わからない。
ただひとつ確実に言えることは、「出逢い」を求めているということ。
どういう形の「出逢い」を求めているのか?
それをどうやって知ることができるのか?
いったい「出逢い」とはなんだ?
ー追記ー
この投稿は11月の「覚書」のつづきになるだろう。
2019年12月10日
檸檬 落ち葉・・・
Falling Leaves , 1877, Nadezhda Elskaya. (1947 - 1978) - Oil on Canvas - |
20世紀ロシアの画家によって描かれた「落ち葉」。
描かれたのが1977年。亡くなる前年です。31歳で亡くなっています。◇
明日返す(母に返しに行ってもらう)つげ義春の「近所の景色」という作品の中に、
ゴミを回収して生計を立てている人の多い朝鮮人たちの住む一帯があって、そこは当然貧しい人が多く、ボロ屋とゴミばかり目立つ場所なのですが、主人公は何故かそこに来るとほっとする。
その中で主人公の心中で思い出される梶井基次郎の「檸檬」の文章を孫引きします。
◇
何故だか其頃私は見すぼらしくて美しいものに強くひきつけられたのを覚えてゐる。風景にしても壊れかかった街だとか、その街にしても他処他処(よそよそ)しい表通りよりもどこか親しみのある、汚い洗濯物が干してあったりがらくたが転がしてあったりむさくるしい部屋が覗いてゐたりする裏通りが好きであった。雨や風が蝕んでやがて土に帰ってしまふ、と云ったやうな趣きのある街で、土塀が崩れてゐたり家並が傾きかかってゐたり ── 勢ひのいいのは植物だけで、時とするとびっくりさせるやうな向日葵があったりカンナが咲いてゐたりする。
時どき私はそんな路を歩きながら、不圖、其処が京都ではなくて京都から何百里も離れた仙台とか長崎 ── そのやうな市(まち)へ今日自分が来てゐるのだ ── という錯覚を起こさうと努める。
つげの引用はここまでですが、続けます。
私は、できることなら京都から逃げ出して誰一人知らないやうな市へ行ってしまゐたかった。第一に安静。がらんとした旅館の一室。清浄な蒲団。匂ひのいい蚊帳と糊のよくきいた浴衣。そこで一月ほど何も思わず横になりたゐ。希わくはここがいつの間にかその市になってゐるのだったら。錯覚がやうやく成功しはじめると私はそれからそれへ想像の絵具を塗りつけてゆく。なんのことはなゐ、私の錯覚と壊れかかった街との二重写しである。そして私はその中に現実の私自身を見失ふのを楽しんだ。
『ちくま日本文学全集 梶井基次郎』(1992年)より
上は『つげ義春全集8』(「近所の景色」「無能の人」他)(1994年)
◇
「檸檬」はわたしも好きな短編です。この本は、確かまだよく銀座界隈に行っていた頃、小説の舞台である「丸善」ではなく、「八重洲ブックセンター」で求めたものだったような気がします。あの頃は本当によく街を歩いた。
何もかもが変わってしまった・・・
デイケアの担当者と約1時間半話した。結局彼女の結論も主治医と同じ。
弟が生活保護なり現在の家の貯金を使って、近くに家を借りる。
けれどもそれでは何ら本質的な解決にはつながらないし、わたしもそんなことを望んではいない。
わたしが望むのは、そしてただ一つの解決方法は、弟が「ここ」に戻ってくること。
主治医との意見の相違を踏まえての今回の面談だったが、このデイケアの担当者との話し合いを踏まえてまた主治医と話をしても、もう意味が無いように思える。
◇
デイケアに6月から参加している60代くらいの男性がいる。
一体どこが悪いのかと思うくらい見かけもまともだし、話せば理路整然としている。
最初は好感を持っていたが、ディスカッション系のプログラムで顔を合わせる機会が重なるにつれ、彼との相違が目立つようになってきた。
彼は明らかに良くなることを目指している。そのためにデイケアに来ている。無論デイケアの参加者とバンドを組んだというくらいだから、単に医療機関としてのみの利用ではないだろうが、そもそも、その1時間なり2時間なりを生身の人間と言葉を交わし、意見を交換すること、それ自体が目的であって、その先に「よくなる」も「社会復帰」という言葉も存在しないわたしとは明らかにスタンスが異なっている。
彼の中では、「良くなった自分」「元気で健康な自分」と「現代社会」は、当然のように「地続き」なのだ。
けれどもわたしという人間と、外界との間には、なんの繋がりも存在していない。
◇
それにしても、わたしが弟を避ける理由のほぼ半分が彼の喫煙だということは母も主治医も承知しているはずなのに、誰もがそのことに一言も言及しないのはどうしてだろう?
2019年12月8日
これからひと月前後の間にわたしはなにをすればいいのか?身辺整理?
ここは3部屋あって、わたしと父がいなくなれば、母と弟の部屋は確保されるので
この部屋が整理されていなくてもさしあたって困ることはない。
本は今残っているのは、ミカンの箱一箱分ほどの画集、写真集、図録など。
古本屋に売るくらいなら捨てた方がいい。どこかに寄贈したいが、当てもないし送料も馬鹿にならない。それ以外の本は捨ててもいいものばかり。
CDは10年ほど前には、かなりの値段で売れたが、今はそれこそ二束三文だろう。
それは構わない。欲しい人の手に渡るなら金は問題じゃない。古本屋は「高価買取」と真っ赤な嘘をつく薄汚い商売人なので奴らに売るくらいなら、寄贈先が無いのなら。棄てる。
数年前、約100冊段ボール箱3箱分。わたしは新刊を買わないので、(読まないので)
殆ど古本だったが、それら買った時の総額にすれば10万を超す本を高価買取りの店に売って、4千円にしかならなかった。その4千円は現金書留で店に送り返した。手数料を払って。
机や本棚は、弟が粗大ごみに出してくれるだろう。
残った僅かな貯金。出てゆく時にいくら持ってゆけばいいだろう?
10万もあれば充分だろうか?多すぎるかな?
そういうことは誰と相談するのだろう?
古本屋はわたしを人間として扱わなかった。あのブログのあいつや、あいつらと同じだ。
2019年12月7日
Closed!
Rafael Yaghobzadeh Near-General Strike in Paris Today Dec 5, 2019
Nearly 500,000 workers took to the streets today throughout France. This is a real, near-general strike, not the weird, one day strikes the unions in France often call. The French working class is showing that they’re not willing to accept Macron’s cutting their pensions, making them work longer for less. The largest federation of unions in France, the CGT, is the main organizer of the strike. Public transit is largely closed. Trains, which are a major means of transportation in France and throughout Europe, are largely closed. Mail is not being delivered, garbage collectors are on strike, public school teachers are on the line, airline staff (Air France) and air traffic controllers, energy workers as well as those in assorted public services, road transport, oil refineries, the justice system and university employees (professors and other staff) are all on the line. Even doctors, nurses and ambulance drivers are supporting the strike (even though they’re not yet walking out due to the nature of their jobs). Right now, the strike is limited to public employees, but that could change. Press interviews indicate that the public, which is heavily dependent on the public metro subways and train system, is massively supporting the workers, because they know their pay and pensions are on the line as well.
American unions and workers could learn from our sisters and brothers in France. Solidarity! Vive la CGT!
https://kvetchlandia.tumblr.com/
◇
これはTumblrでフォローしているアメリカのジェフのポストですが、わたしは新聞を読まないので、今この時、フランス国民はマクロンの年金削減政策に反対し、事実上のゼネスト状態にあるようです。
数日前はドイツで、これを上回る60万人規模の環境破壊反対(?)デモがありました。
日本では年金や生活保護費が削減されても数千人単位のデモすら起きない。
いったいどういう国民でしょう?
「生かすべからず 殺すべからず」
「民は愚かに保て」
この政策が、そしてふたつさんの重視する「教育」が見事に奏功している。
日本は韓国にも香港にもなれない。ましてヨーロッパなど山のあなたの空遠く・・・
◇
ふたつさんは今日頂いたコメントに、
「本当の意味で熱烈に支持している人などほとんどいないような人たちが国を動かしているというのが現状です。
しかも、それをすべて国民が選択したことにされてしまうような仕組みに成っています。それが、「大規模社会における多数決」と言うシステムの致命的な欠陥です。」
と書いておられる。しかし、社会の仕組みとしては、韓国も、香港も、ドイツ、フランスも、選挙によって代議士を選ぶという根本は違わないはずです。集会・結社の自由も現行の憲法で認められています。
香港の首相は言いました。「毎日がスムーズに運ぶことが最も重要」「デモは社会のスムーズな活動の妨害になっている!」と。けれども香港市民は圧倒的にデモを支援しました。
昔日ほどではないにせよゼネストはフランスの、フランス市民のお家芸です。
お前たち(政治屋のやり口が)気に入らなければ社会を止めてやるぞ、と。
電車は止まる。郵便物は配達されない。医者も救急隊員も仕事を放棄することはできないが、労働者たちを支持する。公立学校の教師、大学教授もデモに参加している。ゴミの収集もストップだ。ゴミの山があちこちに在るのが「パリ」だ。
アメリカ人のジェフは俺たちにだって、フランスの兄弟たちと同じことができるはずだと言っています。そしてアメリカは現に、ゼネストはともかく、時に100万単位のデモを行います。
日本が先進国だなどと世迷言を一体誰が言っているのか?
◇
野牛は家畜牛に、イノシシは豚に、狼は犬になって野性は失われた。
だが、それは牧人を喜ばせたに過ぎず、
動物自身にはなんのいいこともなかった。
人は人にすぎず、混ざりけなしでいられるに越したことはない。
しかしそれが叶わぬなら、いくらかの獣性を帯びる方がまだましだと思う。
次のような算式にあてはまるようでは、興醒めである。
人+家畜性=社会人
ー 魯迅『而巳集・中國人の顔、略論』一九二七年
2019年12月6日
父がいなくなって、自分の中で何かしら感傷というか、後悔のようなもの、そんな感情が芽生えるかと思っていたが、何も感じない。感情がすっかり鈍麻してしまったのか、或いは父のことどころではなく、次は自分だという意識が感傷に浸ることを妨げているのか・・・
先日、「遅くとも来年の3月には弟は戻ってくる」と書いた。3月どころではない。弟は来月にはここに戻りたいと言っているらしい。
部屋が空いた。金はない。還りたい者がいる。これで、何故2月だ3月だなどといっているのか理解できないのは当然かもしれない。
そうなると、あまり時間が無い。無論弟がここに戻ってきて母と暮らすことも、それが来月であっても、わたしに異論はない。ただわたしは、「試してみる」と言ったものの、やはり弟とは暮らせないだろう。それが分かっていて、尚且つ主治医やデイケアのスタッフが反対しても、わたしの気持ちは変わらない。
弟が戻ってくるということは、高い確率で、わたしがここから出てゆくことを意味する。無論行く場所はないし行く場所を探すつもりもない。
急だったので、主治医には今年中に、これが最後の受診になるかもしれないということを、またデイケアも、来られても1月いっぱいになるかもしれないということを伝える必要があるだろう。
何もお暇乞いなどという大袈裟なものではない、主治医には長い間、デイケアには丁度一年間、お世話になりましたとあいさつをするだけだ。
母にできる唯一のことはわたしが我慢をして弟と暮らすこと。
けれども、親不孝なわたしにはそれができそうにない。
生まれてきた罪、そして「わたしという人間である罪」・・・
ふたつさん、Junkoさん、底彦さん。お別れの挨拶もなしに突然消えるかもしれませんので、ここでさようならを言っておきます。
わたしのような者に親切に接してくださったこと、わたしの狂気を真正面から受け止めてくれたこと、いつも変わらぬ誠実なメッセージを頂いたことに心から感謝します。
これが最後ではないかもしれませんが、現状をお伝えしておくとともに、万一の時のためにお礼を認めておきます。
どうもありがとうございました。
武雄
2019年12月5日
今日はいつになく気分が沈鬱だ。
生きているのが苦しい。
孤独・孤立・疎外・・・ひとりぼっち
もう元気になることはないだろう・・・などといって元気になったらいい笑いものだが、
そもそも元気になる要素なんて何もないじゃないか?
1月6日9時からの眼科の初診には行けそうにない。
単に朝が早いからという理由だけではない。都立の多摩地域の総合医療センターということで、大学病院と変わらぬ人手が予想されるからだ。
片目が見えないのは不自由だが、それ以上に寝ていたい。
デイケアで、生きること、良くなることに前向きな発言を聞くとイライラする。
いずれにしても、春にはわたしは居場所がなくなる。無論弟がここに帰ってくることは
主治医の意見に反しても、わたしの希望でもある。
そしてわたしは、今の時点で想像しても、どうしても弟と同居はできない。
前にも書いたように、金の問題を抜きにしてもわたしも、弟も、ひとりで暮らすことはできない。弟は一日中母と一緒に居たいのだ。
疲れてこれ以上書けない。デイケアに行ってこれほどまでに疲れたのは初めてだ。
デイケアのスタッフも、また利用者も、笑顔の裏で、わたしを・・・・
2019年12月4日
反・社会的であること
「反・社会的な表現者」という矛盾を孕んだ存在について書こうと思ったが、その元気がない。
わたしがいま言えることはこれだけだ
「純粋であること」「繊細であること」これはいつの時代も反・社会的態度である。
2019年12月2日
何のために書くのか?
はじめまして。
都内郊外在住の50代男性です。精神障害者兼(所謂)引きこもりです。
辺見庸さんのこと、辺見さんの著書について、日々悶々と悩んで、誰に伝えたらいいのか。勿論あんな大物に一介の読者の思いのたけを伝えることなどできません。けれども、どうしても、吹っ切れません。
どうしたらいいのか。もしこの狂人の問いかけにアドバイスなどありましたらお聞かせ願えれば幸いです。
「悩み」の内容は「大雑把に」書くと以下のようになります。
◇
「一般に、長生きの革命家や芸術家ほど我々をいたく失望させるものはない」と述懐したのは他ならぬ、辺見庸氏でした。
わたしは一部を除き、ほとんどの辺見氏の著作を愛読してきました。特に、脳の病で倒れてからの著作は、お守りのように、いつでもカバンの中に入れていました。殊に愛読していたのは、『自分自身への審問』『水の透視画法』『今ここに在ることの恥』『たんば色の覚書』・・・エト・セトラ。
けれども、昨年の『月』出版に際してのドタバタ劇にまさに「ブルータスお前もか!」という幻滅を見せつけられました。
あのような内容の本を出版しながら、講演会場で著者によるサイン本即売会とは・・・
わたしは精神障害者で、所謂引きこもりでもあるので、なかなか外出はままなりませんが、中央線一本で行けるということで、昨年12月の紀伊国屋での講演会のチケットを、早々に母と二枚分手に入れました。けれども、その後の、なりふり構わぬ販促活動の様子を見て、結局無理をしてまで行く価値を見出すことが出来なくなりました。
◇
辺見さんはご自身のブログで、朝日新聞からNHKまで所謂大手マスコミを撫で切りにしてきました。けれども、いざ新刊の出版となると、A新聞のマークは「旭日旗みたいだ」と揶揄していた新聞社のインタヴューに微笑を湛えて応じる。NHKもご自分の作品に関連する作品のスタッフ及び作品の出来は褒めあげる。
わたしは精神に障害がありますので、発言と行いにとの間に乖離があるということが理解できません。
(一般にそれを「大人の世界」というのでしょう)
◇
これからは書きたいことだけを書かせてもらう。作品評価も本の売れ行きもどうでもいい。
百人支持してくれればいい。いや、五十人でいい。百万人の共感なんかいらない。そんなもん浅いに決まってるからね。
— 辺見庸 『記憶と沈黙』(2007年)より
そんなことを書きながら、一方で、「(『月』に)200冊サインさせられた」とボヤいでいる。
人はここまで変わるのかという想いで彼のブログを読んでいました。
日頃散々こきおろしておいて、いざとなると本の売り上げに一役買ってもらうのなら、彼らの(大手出版社を含むマスコミ)の援けが必要なら、日頃から悪口など謂わない方がいいのです。
「万物の物象化」──「著者のサイン本」は付加価値があるからこそ「売れる」。そんなことは百も承知だ。だから「イヤイヤながらも」「サインさせられた」。ここに言行の不一致があります。
心底辺見氏の考え方、そして文章に心酔していただけに、彼との訣別は悲しい出来事でした。
更にわたしをガッカリさせたのは、辺見氏が、『月』販売以前から執筆期間の様子、講演会の告知、その報告など、昨年初夏から、ブログに書かれた『月』出版関連の記事をそっくり削除したことです。
何故?
何故糊塗するのか?
ちなみに『月』は精力的な販促活動の甲斐あって、わが市でも、全12館ある図書館で11冊が購入されました。けれども、今現在、在庫11冊。借り手ナシ。
これまでも、11冊中2冊以上が貸し出されていたことを見ません。
『純粋な幸福』は1冊購入され、たまに貸し出されていることもあるようです。
無論わたしはどちらも読んではいません。
『純粋な幸福』図書館に予約を入れて、先日順番がきました。けれども、どうしても、どうしても、手に取ることが出来ません。今日、キャンセルの電話を入れました。
◇
昨年12月24日のわたしのブログの投稿を読み返してみました。
「もし仮に、18日の講演会に行って、質疑応答の時間があり、発言のチャンスがあれば、何をおいても訊きたかったのは、『月』という障害者の殺戮をテーマにした小説を書き上げる際に感じたであろう「痛み」。そして、この本に込められているであろう「悼み」と、「会場での著者によるサイン本即売会」とは、辺見さんの中で、どのような地平で地続きなのか?と・・・」
辺見さんの本は、『自分自身への審問』も『水の透視画法』も『今ここに在ることの恥』も『たんば色の覚書』も『しのびよる破局 生体の悲鳴が聞こえるか』も、全て処分しました。
けれども、なかなか想いが断ち切れずに困惑しています。
追伸
この三部作ももちろん熟読しました。
けれども、「世界規模」ではなく、辺見さんは、自分の著書を出してくれる出版社に「不服従」することが出来なかった。或いは「しなかった」
結局、食べるために金を稼がなければならない「人間」が、「表現者」となるのは言語道断との命題は、かのリラダン伯以来、今なお問い続けられるべき問題です。ボクサーの殴られ役によって得る僅かな稼ぎで生き延びたリラダンが、かくまで高貴なコント・クリュエルを著したのは悲壮を通り越して、言葉の真の意味での「気高さ」です。
辺見さんはわたしの行かなかった講演会で「行旅死亡人」について語る予定だったと。演台から聴衆に向かって「野垂れ死に」について「説く」よりも、
「もし仮に、18日の講演会に行って、質疑応答の時間があり、発言のチャンスがあれば、何をおいても訊きたかったのは、『月』という障害者の殺戮をテーマにした小説を書き上げる際に感じたであろう「痛み」。そして、この本に込められているであろう「悼み」と、「会場での著者によるサイン本即売会」とは、辺見さんの中で、どのような地平で地続きなのか?と・・・」
辺見さんの本は、『自分自身への審問』も『水の透視画法』も『今ここに在ることの恥』も『たんば色の覚書』も『しのびよる破局 生体の悲鳴が聞こえるか』も、全て処分しました。
けれども、なかなか想いが断ち切れずに困惑しています。
追伸
『本書(『抵抗論・国家からの自由へ』)の上梓により、『永遠の不服従のために』にはじまる論考・エッセイ集は『いま抗暴のときに』をはさみ、3冊目となった。タイトルの”つよさ”からか、これらを”抵抗3部作”と呼ぶ向きももあるようだが、著者にはそうした大仰な意識はまったくない。
ー(中略)ー
「不服従」「抵抗「抗暴」の字面は、いわれてみればたしかに穏やかでない。しかし穏当を著しく欠くのはむしろ世界の情勢のほうなのだというのが、私の言い分である。
「不服従」や「抵抗」といった、いささか古式でそれ自体の正当性をいいはるたぐいの言葉は、よくよく考えると私の好みでもない。アグレッシヴなこれらの言葉と人の内面の間には、しばしば到底埋めがたいほど深い溝があるからである。
それなのに敢えてこれらのタイトルを冠したわけは、決して私の衒いや気負いではなく、おそらく喫緊の状況がそうさせているのだ。と、申し上げておく。
世界は今、「不服従」「抗暴」「抵抗」を”テロ”という名辞で暴力的に一括して完全に消去しようという流れにあるように見える。わたしの考えでは、しかし、「不服従」や「抗暴」や「抵抗」がさほどまでに忌み嫌われているのとまったく同時に、これほど必要とされ、求められている時代もかつてないのである。』
— 辺見庸 『抵抗論・国家からの自由へ』 あとがき 2004年
この三部作ももちろん熟読しました。
けれども、「世界規模」ではなく、辺見さんは、自分の著書を出してくれる出版社に「不服従」することが出来なかった。或いは「しなかった」
結局、食べるために金を稼がなければならない「人間」が、「表現者」となるのは言語道断との命題は、かのリラダン伯以来、今なお問い続けられるべき問題です。ボクサーの殴られ役によって得る僅かな稼ぎで生き延びたリラダンが、かくまで高貴なコント・クリュエルを著したのは悲壮を通り越して、言葉の真の意味での「気高さ」です。
辺見さんはわたしの行かなかった講演会で「行旅死亡人」について語る予定だったと。演台から聴衆に向かって「野垂れ死に」について「説く」よりも、
「野ざらしを こころに 風の沁む身かな」(芭蕉)
という心根をわたしは持って欲しかった。
という心根をわたしは持って欲しかった。
精神病理学者木村敏は、臨床医だった頃、自分の患者である「分裂病者」に対し、
「結局わたしも単なるひとりの「正常者」に過ぎなかった」と「詫びて」いる。
辺見庸も結局はひとりの「正常者」だった。そして「正常ではないわたし」に「言行一致」という無理難題を押し付けられている。
作品を読んでもらいたければインターネットという方法もあったろう。
「不服従」を言うなら先ず隗よりはじめよ。
辺見庸は講演会で「野垂れ死にという生き方」について、いったい何を語ったのだろう・・・
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