2018年4月29日

パンの味


あのころはパンはパンの味がした。葡萄酒は葡萄酒の味がした。
そして哀しみにはときにはまだ笑いの味があった。

              ー ジャック・プレヴェール


これは1954年に、1905年に亡くなった作家、アルフォンス・アレーの生誕百年を記念して催された集会で、プレヴェールがアレーに捧げた詩の一節です。

写真はエリオット・アーウィットの撮ったフランス、プロヴァンス。プレヴェールが、「あの頃はパンはパンの味がした」と詠んだ翌年、1955年の写真です。

おそらく近所の村から、朝の食卓に乗せられるパンを買いにおそろいのベレー帽をかぶって町まで自転車で出かけていった親子の帰り道でしょう。

当時詩人が毎日、パンの味のしないパンを齧り、水のようなワインを飲んでいたはずはありません。そんなもので胃袋を満たしながら『天井桟敷の人々』や「枯れ葉」のような詩(詞)が書けるはずがありませんから。


今日は「昭和の日」。昭和という長い長い時代が終わって三十年。
プレヴェールが、愛すべき男、人生と笑いを愛した男に捧げた詩を書いてから約六十年。アルフォンス・アレーが亡くなってから百年以上。

パンはまだパンの味がし、葡萄酒はまだ葡萄酒の味があり、そして人生はまだ深い味わいに満ちているでしょうか?


FRANCE. Provence. 1955. (© Elliott Erwitt. Magnum Photos).




2018年4月28日

板門店の奇跡

基本的に政治には背を向けているが、南北朝鮮首脳による板門店会談(宣言)には文字通り心動かされ、胸が熱くなった。

ベルリンの壁崩壊、ゴルバチョフ大統領によるペレストロイカ・グラスノスチ、そして大国ソビエトの消滅・・・

今回、欧米だけではなく、日本以外の国においては、人の力によって、また優れたリーダーによって、政治は、国の形は変わり得るのだという「奇跡」を目の当たりにした思いだ。

「感動」という言葉が素直に当て嵌まるような出来事は、フィクションの世界においても、ましてや現実に起こり得たことに遭遇するのは、いったい何年振り、何十年ぶりだろう。

けれども残念ながらこの国は変わらない。世界がどう変わろうと・・・




わたしのなまえ

詩人の石原吉郎が、「確認されない死の中で」という一文の中で、1967年のスウェーデン映画『みじかくも美しく燃え』のラストシーンについて語っていた。

心中を決めた男女が、死に場所を求めて歩きまわる。途中、偶然出会った男性に、男が相手の名を尋ね、その後自分の名前を名乗って立ち去る。

石原はこのように記す、

私がこの話を聞いた時に考えたのは、死に際して、最後にいかんともしがたく人間に残されるのは、彼がその死の瞬間まで、存在したということを確認させたいという衝動ではないかということであった。そしてその確認の手段として、最後に彼に残されたものは、彼の名前だけという事実は、背すじが寒くなるような承認である。にもかかわらず、それが彼に残されたただひとつの証しであると知った時、人は祈るような思いで、おのれの名におのれの存在のすべてを賭けるだろう。
いわば一個の符号に過ぎない一人の名前が、ひとりの人間にとってそれほど決定的な意味を持つのはなぜか。それは、まさしくそれが、一個のまぎれがたい符号だからであり、それが単なる番号におけるような連続性を、はっきりと拒んでいるからに他ならない。ここでは疎外ということはむしろ救いであり、峻別されることは祝福である。
私がこう考えるのは、敗戦後シベリアの強制収容所で、ほぼこれと同じ実感をもったからである。

けれども、「彼」がまさしく他ならぬ「彼」であるということは、そばに愛する人がいるという時点で、既に明らかにされているのではないだろうか?
「彼」は天涯孤独の身で、ひとりぼっちで死に場所を探しているのではない。 今彼が抱いているその愛に、すなわちその女性との関係に殉じようとしている者が、何者でもない訳はない。
存在の最後の瞬間まで、「何者か」であることができれば、死後のことは知ったことではないとわたしは考える。
先日引用した誰かの言葉、「肝心なのは、死後の生が存在するかではなく、死ぬ前に生が存在したかだ」に従えば、この映画のふたりは、命の灯が燃え尽きる瞬間まで「生」と共にあったのだ。

それに対して思い出すのは、セルジュ・ブールギニョン監督の『シベールの日曜日』という、やはり60年代の美しいモノクロ映画だ。

戦争で負傷し、記憶を失った若者ピエールと、孤独な少女シベールとの束の間の友情。
森の中で日曜毎にあって、散歩をし、話をする二人。けれども、記憶を失った若い男性であるピエールは、周囲の誤解と偏見によって、シベールと戯れているところを射殺されてしまう。ラストシーンで、この孤独な少女に名前を聞く警官に対し、ピエールの亡骸のかたわらで、シベールはひとこと、「わたしに名前なんかない」

わたしは石原吉郎のように、誰にでも名前がある、とは思ってはいない。
シベールがシベールであったのは、ただピエールとの交流においてのみであった。
そして彼の存在が無くなってしまった時、シベールという彼女の名前もまた、ピエールと共に消えたのだ。

「私は無名戦士という名称に、いきどおりに似た反撥をおぼえる。無名という名称がありうるはずはない。倒れた兵士の一人一人には、確かな名称があったはずである」
と石原は書く。

わたし自身を省みた時、わたしはまさしく「無名の者」であり、TAKEO という名前も、たんに番号ではないというに過ぎない。
「名前」というのはわたし固有のものではなく、誰かがわたしを呼ぶときに必要なものなのだ。つまり名前を必要としているのはわたしではなく、わたしを呼ぶ他者である。
とはいえそこに相互の敬愛が欠けている場合には、とりあえず、その人物を特定しうるものでさえあれば事足りるのだ。

「確認されない生の中で」わたしはそんな風に感じている。











2018年4月27日

ありがとうございました。

これがこのブログでの多分最後の投稿になると思います。

いまわたしは、いろいろな疑問に突き当たっています。

たとえば・・・

「人間」である条件とはなにか?

「なぜ言葉が必要なのか?」(この中には「なぜ読むのか?」「なぜ書くのか?」という問いも含まれます。)

「わたしを「わたし」たらしめているものは何か?」



先日「他人が存在するにもかかわらずわれわれは生きて行けるか?」という
トーマス・マンの言葉について考えていると書きました。

ひとつには、もし人がわたしと似ていたら、わたしの独自性はその分だけ損なわれるのではないか?という懼れ。

そして同時に、わたしが世界中の誰とも似ておらず、気持ちが通じ合うことができないとしたら、それは絶対的な孤絶であり、絶望ではないのか?という思い。



わたしの書いてきたもの、そしてこれからもどこかで書き続けるであろうことは、全てわたしという異形の者が、その全存在を懸けて発し続けた「必死の問いかけ」です。



日本では明日から大型連休が始まります。そしてこのブログは、この国以外の方の閲覧もあったようです。その方たちには、どうかよい週末をお送りくださいと申し上げます。


短い間でしたが、このような奇妙な文章にお付き合いくださった方々にお礼をいわせてください。

ド ウ モ ア リ ガ ト ウ ゴ ザ イ マ シ タ


Great regards

 Takeo









電車内での化粧は何故みっともないのか?


電車内での女性の化粧に眉を顰める人たちがいる。最近は年に数回、それもせいぜい20分程度しか乗る機会が無くなったので、そういう光景はごくまれに見かける程度だ。けれども、個人的には、女性の電車の車内での化粧姿に嫌悪感を感じたことはない。

以前雑誌で、肌が弱くて、口紅すら塗れないくらいなのに、あんなに惜しげもなく口紅やリップグロスを塗り、筆ペンの如きアイライナーをたっぷりと使うような化粧が羨ましくて、ついつい目が釘付けになってしまうという女性の記事があったけれど、わたしもまた、若い女性の盛大な化粧姿を見る機会というのはほとんどないので、「釘づけ」とまではいかなくても、ついつい目が離せなくなってしまう。

彼女たちの車中での変貌ぶりを苦々しく感じる人たちは、いったい何が不快なのだろうか?「化粧は公衆の面前で堂々とするものではない」ということなら、その根拠となっている意識はなんだろう。「恥の観念の欠如」であろうか。「いくら外見を美々しく粧っても、内面の美意識が欠けている」というのだろうか。

簡単にいえば、「恥」の観念というのは、「私的な空間で行われること」を「公の場で公然と行う」ことへの嫌悪感だろう。

わたしは電車に乗って、真向かいの座席で、或いは真横の席で、化粧を始められたとしても席を立つことはないが、隣でスマートフォンを取り出してチャラチャラといじくられると、それだけで不愉快になって席を移動してしまう。聞こえよがしに大きなため息をついたりして。無論彼らにはスマートフォンが嫌いな人間がいるということなど、想像もつかないだろうが・・・

仮に電車内での化粧が、私的な行為を大勢の面前で行う故に嫌われ、顰蹙せられているのなら、車内での、ホームでの、レストランでの、街中でのスマートフォンに関しては、「危険である」という点以外に、見てくれがよくないという声が皆無であるのは何故なのだろうか。

化粧も、スマートフォン(或いはその他モバイル、パソコン)の使用も、外界が瞬時に閉ざされた自室と等質になるという点で、その本質に於いては、なんら相違はない。

嘗ては電車やバスの中で、「大人がマンガ本を読んでいる」と冷笑された時代があった。
スマートフォンを操る人たちは、「俺は、わたしは、仕事のことで・・・」というのだろう。けれども、それが仕事のメールチェックだろうが、ゲームだろうが、SNSだろうが、傍から見れば同じことである。「公と私の壁の決壊」それが至る所に溢れている。

電車内での女性の化粧を揶揄するなら、そのナルシシズムに於いて、所謂「自撮り」なるものの滑稽さ、珍妙さは、化粧の比ではない。

「目は常に未開の状態で存在する」と、アンドレ・ブルトンは言ったという。これがどのような文脈の中で言われたものか知らないが、網膜に映ずるものを認識・理解すること、そしてその次にそれに対して独自の意味付けをすること、その時点で既に目は意識によって「開拓」された状態になっている。意味付けをすること=解釈をすることとは、主体の価値判断を伴う。

わたしにとってみっともなさとは、(ことの大小、善悪、美醜を問わず)人と違ったことをすることではなく、皆と同じ見てくれで、その挙措動作、行住坐臥に於いて、マス(みんな)に埋没していることを恬として恥じないことである・・・







2018年4月26日

朝のおつかい、 ロベール・ドアノー 1946年

Rue Marcelin Berthelin Berthelot, Choisy le Roi mai 1946 © Robert Doisneau.

2018年4月24日

生れたわけ


もう30年以上前に切り抜いた新聞の、読者の投稿を時々眺める。

いわき市 佐々木スミ
    (無職 79歳)


四月十五日付「読んで下さい娘の作った詩」を読みました。私は体まで揺れるような感動を受け涙が流れ、周藤勝彦様の親心が痛いほどわかりました。
実は私、脳性マヒの娘の親です。娘は言語障害の上車椅子に頼っており、重度障害者施設にお世話になって、先生方の教えと励まし、入所者たちの友情で元気に過ごしています。一生懸命に話をしますのに通じないので、どんなに悲しい思いをかみしめていることと思います。先生に励まされ、友だちと一緒にいたわり合い、思うことを詩に託して生きがいを感じているようです。
初めて書いた娘の詩を読み、この子がこのようなことを考えていたのかと、うれしく切なく、胸に抱きしめて泣きました。その時から下手なりに、身の回りのことを詩にして、自分の生きがいにしているようです。周藤さん、どうぞ娘さんを褒め、励ましてください。終わりに、わたしの娘の書いた詩を見てやって下さい。


敬老の日に七十を超えた母が面会に来た。

ふつうの年よりなら孫に肩をたたいてもらう日だろうに、

娘の好きなケーキを買ってきた。

そして三十になる娘の口に食べさせる母はどんなにつらいだろうに。

いつまでも苦労をかけてご免ねとつぶやく

母の目には涙がほほに流れた。


この時ご母堂は79歳、もう亡くなられておられるだろう。
娘さんも60代だろうか。

けれども、ただこの一瞬、ただこの一篇の詩のためだけにでも、
娘さんとお母さんは、ともに、生まれてきた幸福を持てたのではないだろうか。


シモーヌ・ヴェイユが、終焉の地ロンドンで、両親に宛てた手紙、

この地でも、春はじつにみごとです。ロンドンには、白い色、ピンクの色の花が咲く果樹がいっぱいあります。

・・・おふたりがご健康でいらっしゃり、お金のご心配もないようでしたら、どうぞ青い空や、日の出や、夕日や、星や、牧場や、花が咲き、葉がのび、赤ん坊が育つのを、心から存分に味わいたのしみつくしてくださったらいいのに、と何よりもねがっております。
一つでも美しいものがあるところにはどこでにでも、このわたしもいっしょにいるのだとお思いになってください。

「偉大な」と呼ばれる哲学者であれ、重度の脳性マヒをもつ者であれ、母にとって、その貴さと愛おしさは寸分の違いもない。彼女たちがいることこそがうつくしいのだ。

より弱い者にこそ美を見出したヴェイユのような高貴な精神が、現代人の心から夙に揮発し去り、一方で一部の者たち=自称知識人たちによって彼女が神格化されていることに居心地の悪さを感じる。
いま必要なのは、ヴェイユという偶像を仰ぎ奉ることではなく、かつて彼女の眼差しに映し出された弱き者、餓えた者、汚れてしまった者たちに、思いを馳せること、せめて心なりとも彼らの存在に寄り添うことではないのだろうか?それはとりもなおさず、この世界に僅かに残された美と(自分自身をも含む)人間性の残照に対する、人として為しうる最低限の表敬ではないのか・・・

老人、幼子、障害者、病者、弱者、また人生の敗北者、落伍者、故郷喪失者など、あらゆる孤独な魂は、その悲しみゆえに美しくはないか?

こぼれる涙よりも、美しいものはあるか?








2018年4月22日

生きる理由


政治的な信条はさておき、たまには、どこか異国の田舎町で、とくに目覚ましい出来事もなく淡々と生きている人の物語でも読んでみたい。

大学で哲学科に入学した頃から、わたしにとって第一義的な問題は、「どのように生きるか」ではなく「なぜ生きるのか?」であった。わたしはなぜ人間であるのか?なぜ今この時代、この国に「このようなわたし」として生を受けたのか?「どのように生きる?」という問題は」それらの問いに、ひとまず解答が与えられてから始まるものであった。

第一に、自ら望んで生まれてきたものはただの一人もいないということ。
第二に、ひとは生まれてくる国も、時代も、親も、容姿も、さまざまな属性も、能力も何一つ自分では選べないということ。
かように、望みもしないのに押し付けられた生である以上、それを放棄する権利は何人にも備わっている(いなければならない)。
わたしを産んだ親も、またその親も、どこまで遡っても、それは全く変わらない。
誰も望んで生まれてきた者はいない。
だとすれば、ほとんどの人間の存在理由は、生を擲つのが容易ではないという理由がもっとも多いはずだと考えられる。生を放棄する際に伴う苦痛さえなければ、世界中の8割以上の人間はとっくに死を、すなわち生まれてこなかった状態を選んでいるに違いない。

けれども、インターネット上で人々の意見を聞く限りでは、「生活が苦しいから」「仕事がきついから」などの理由から、「死にたい」と考えている人がほとんどのように見える。
逆に言えば、経済的に余裕があれば、或いは働かないでも喰っていけるのなら、死ぬ必要はないと考えているようだ。

「衣・食・住に困らなければ死ぬことはない」そこがわたしとの決定的な相違だ。
わたしは自分が生きている基盤、生きられる足場、存在し続ける理由というものを見つけることができない。そしてそれは決して「クウネルトコロニスムトコロ」の問題ではない。
言い方を換えれば、クウネルトコロニスムトコロ、すなわち「ゼニカネ」の問題さえなければ生きていられるという人と、わたしとは、まったく異質の他者であるということになる。

「なぜ?」を口にしたばかりに生涯憎まれて老いた男だった
ー 長田弘「孤独な散歩者の夢想」より(ジャン=ジャック・ルソーに寄せて)

2018年4月21日

リベラル嫌い

本書(『抵抗論・国家からの自由へ』)の上梓により、『永遠の不服従のために』にはじまる論考・エッセイ集は『いま抗暴のときに』をはさみ、3冊目となった。タイトルの”つよさ”からか、これらを”抵抗3部作”と呼ぶ向きももあるようだが、著者にはそうした大仰な意識はまったくない。
(略)
「不服従」「抵抗「抗暴」の字面は、いわれてみればたしかに穏やかでない。しかし穏当を著しく欠くのはむしろ世界の情勢のほうなのだというのが、私の言い分である。
「不服従」や「抵抗」といった、いささか古式でそれ自体の正当性をいいはるたぐいの言葉は、よくよく考えると私の好みでもない。アグレッシヴなこれらの言葉と人の内面の間には、しばしば到底埋めがたいほど深い溝があるからである。
それなのに敢えてこれらのタイトルを冠したわけは、決して私の衒いや気負いではなく、おそらく喫緊の状況がそうさせているのだ。と、申し上げておく。
世界は今、「不服従」「抗暴」「抵抗」を”テロ”という名辞で暴力的に一括して完全に消去しようという流れにあるように見える。わたしの考えでは、しかし、「不服従」や「抗暴」や「抵抗」がさほどまでに忌み嫌われているのとまったく同時に、これほど必要とされ、求められている時代もかつてないのである。
—  辺見庸 『抵抗論・国家からの自由へ』(2004年) あとがき

◇◇

既存の法律から刑罰を受けることを覚悟の上で、既存の法律体系を破壊するのが、軽率や野蛮の咎に当たる場合が少なくないのは確かだ。しかし、既存の法律を操る者たちが被支配の立場にいる者たちに対し、専横や抑圧に狂奔するなら、たとえばイラク侵略の如き「国家テロ」をアメリカが仕掛けるなら、それに「不法の武力行為」としてのテロで対抗する者たちが出てくるのは寧ろ自然の成り行きだ。

自由民主主義が自らをグローバリズムにまで仕立てて果てしなく堕落していくのにテロ(恐怖)を与えたいと夢想する、またその堕落を侵略にまで持っていく巨大な資本を有したキャピタリストに対しても、強大な武器を持ったミリタリストに対しても批判を与え、そして自爆を恐れずにテロ(不法の武力行使)で報復しようとしている人々に、場合によって強弱の差がいろいろあるが、ともかく応援する気持ちを隠したくない。その意味で、この老人確かにテロ支援者である。
ー 西部邁 「テロリストの味方と呼ばれるにつれ深まりゆくテロ(恐怖)への理解」-『ファシスタたらんとした者』(2017年)より

最近は愛読している辺見庸がなかなか新刊を出さない(出せない?)ので、代わりに、といっては変だが、西部邁の本をちょくちょく読んでいる。

テロリズムへの共感、日本及び日本人への絶望、自民党及び、リベラル各派への嫌悪、テクノロジーへの反発、等々、意外なほど辺見と通底する部分が多い。
わたしはともかく自殺の讃美者であり、大の受勲者(=権力に頭を下げ、媚びる者)嫌いという点で、これからも辺見庸、竹中労と共に読んでいく人になるだろう。

「この老人、たしかに(考え方の上で)過激でなかったことは、二十二歳になると同時に左翼に属することを辞めて以来、もっと正確には、三十三歳で連合赤軍事件をみてからずっと、一度もなかった」(同上)

という西部と、何かと「リベラル」左翼系から嫌われる「独立独航」の辺見庸。
そして「犬死にこそいいのだべし」と言い放った竹中労・・・
こういう人物たちがわたしは好きだ。





怒らないのか? 怒れないのか? 怒りたくないのか? 怒っているつもりなのか? 日本の限界について

本日四月二十日付朝刊に、哲学者鷲田清一氏の、「「いま」が閉じ込める - 繋がらない怒り」という論考が掲載された。

鷲田氏は、まず、「緩和ケア」について、かつてホスピス医療の先駆者と言われる医師に「何故痛みは緩和されなければならないか」、と問われたことを思いだし、その時に答えた自分の意見から書き起こす。

「激痛は人を「いま」という瞬間に繋ぎ止める。つまり人から過去と未来を奪うからではないか?」と鷲田氏は考える。
人の存在には今現在のみではなく、過去から未来へと流れゆく時間の持続・継続が不可欠である。それに対して、激痛は人の意識を「いま」そして「ここ」に縛り付ける。それは人間の尊厳を冒すゆえに、痛みは取り除かれなければならない。

要約すると鷲田氏はそのように医師に答えたという。

この話を思い出したのは、時間の「庭」が狭まるという同じことが、この時代、それと気づかれることなく人々の意識の中で進行しているように感じていたからだ。
かつての政権ならとっくに崩壊していて不思議ではない、そんな「疑惑」がぼろぼろ出てくるのに、それへの怒りは募っても、「うんざり」とはこぼしても、それが沸騰点に達するまでには至らない。「我慢の限界」というその限界が消失したかの感すらある。
 (略)
記憶を過去から引きずる、希望を未来へとつなぐということがなければ、限界の意識もまた生まれない。時間が、「庭」を失い「点」の連続になる。それは政治的な判断も、市場での決定も、そして「国民」の意識も、きわめて短いスパン、そして狭い場所で動くということだ。「またか」とため息をつくのは、いまだそれぞれの「点」の継起のままで、ひとつの出来事として繋がれていないからだ。
怒りと憎しみ(ヘイト)はその攻撃性に於いて似たところがある。違いはといえば、憎悪(ヘイト)が(比較的境遇の近い)特定の他者との比較に於いて最も激化するのに対し、怒りはこの社会への「義」が損なわれていることへと向かうところにある。怒りに今憎悪のような火が付かないのは、憎悪が自分(たち)の存在が蔑ろにされているところから発するのに、「義」が蔑ろにされているという感覚がまだ限界点にまで達していないから、つまりそのことに自分たちの存亡がかかっていると人々がまだ感じていないからではないのか。
憎悪は人々を分散する。それに抗して、「怒り」をいま、どのように意識し、表現するか、そこにデモクラシーに懸けようとするする「国民」への試練があると思う。

わたしはこの論考を読んで、なんとも腑に落ちない思いがした。

前半の「緩和ケア」について、「痛みは人を、いま・ここに閉じ込める」という点には同感だが、その話を後半につなげるにはどうも流れがスムーズではない気がするのだ。

鷲田氏の論考はあくまでも一般論に留まっていて、「日本人の特殊性」というもの捨象しているように思える。

「「我慢の限界」というその限界が消失したかの感すらある。」
というが、こと日本人に於いては、限界点や沸点などは、あたかも逃げ水のようにどこまでもどこまでも遠ざかって、決して辿りつくことの出来ない幻のようなものではないのか。

激痛は人を「いま」「ここ」のみの限定的な存在にさせる。そして現代人は専ら「現在(いま)」を生きる存在であることを以て自ら任じているのではなかったか?
四六時中携帯用端末と共にあり、常に今を確認し、一時間後、二時間後の「今」を確かめる。そのように「今日」(そして「明日」になればまた、新たな「今日」)という「継起する今の連続体」を生きるわたしたちに、いったい「追憶する過去」や「夢を見る未来」といった「流れを持った時間」などというものが存在し得るのだろうか?
「永遠とは、永遠に続く現在である」といった哲学者は誰だっただろうか。

 最早われわれ現代人の生は「点」の連続でしかありえない。

また鷲田氏は、あたかも日本が民主主義国家であるかのような前提に立って議論を進めている。

「義」が蔑ろにされているという感覚がまだ限界点にまで達していないから、つまりそのことに自分たちの存亡がかかっていると人々がまだ感じていないから・・・

社会の「義」が蔑ろにされているという意識は、そもそも社会には「義」が存在するという前提が必要になる。すなわち、民主主義や、良識、社会のあるべき姿というものが、市民の中に内面化され、暗黙裡に共有されていなければ、もとより「怒り」は発生しない。けれども現実に日本は真の民主主義体制の国家ではない。であれば、社会の「義」が危機に瀕しているという切迫した危機感が生まれるはずはなく、危機感のないところに当然それを破戒する者への「怒り」は生まれない。

先日ツイッターで、誰かが、国会前のデモを「暴徒」であると言っていた、それに対し、デモ派は、「暴徒が大人しく五時で引き上げまっかいな」と返答していた。
ここに端的に、日本人の「逆鱗の欠如」が露呈してはいないだろうか。

彼らは怒れないのか、或いは怒りたくないのか、それとも怒りを知らないのか、それはわからない。けれども国会を取り囲む人たちは「自分たちは決して暴徒ではないのだ」という。
ここに日本の民主主義の、別の意味での「限界」が垣間見える。


「不正のみ行われ、反抗が影を没していたときに。」

" When there was only injustice and no resistance." (英訳)

" Wenn da nur Unrecht war und keine Empörung." (独=原詩)

ー ブレヒト 「のちの時代のひとびとに」

嘗て辺見庸は「反抗」が「暴動」であったらよかったのにと書いた。

そもそも政治が法を蹂躙し、苛斂誅求を極める今この時でさえ、「彼ら」はあくまでも「法に則って粛々と」デモをするという。
「暴徒」呼ばわりは不愉快だと。

流れゆく時間も、存在している空間も無い「ただ今この時の怒り」に己の存亡、その全存在を懸け、この一点を無限に拡大することなしに、怒りの沸点は決して発現しない。
けれどもそれは無理というものだろう。「彼ら」にはデモが終わった後の予定があり、翌日の都合があって、週明けの仕事について準備しなければならず、そのために自分のスケジュールを遺漏なく管理してくれる便利な機械を手放すことはないのだから。

「今」が突き崩された時、明日はないのだということまでは、スマートな機械は教えてはくれない。





2018年4月20日

言葉からはなれて 


ヤン・ティルセン


かつて飯島耕一は「母国語」という詩の中に

「わたしは母国語で日々傷を負う」という一行を残した。

わたしに必要なのは水の流れのように清らかな旋律と、物言わぬ自然・・・

Girl with Lamb, Jean Baptiste Greuze 1767 - 1769)
「少女と子羊」ジャン・バティスト・グルーズ

そしておそらく、ときに、脈打ついのちを抱きしめること、その拍動と呼吸を直に感じることが必要なのだ。
他のいのちを抱きしめることが自己のいのちを抱擁することになるのだから。

春 / Spring, 1933, Leon Wyczólkowski, Polish (1852 - 1936)

2018年4月18日

無題


生きてあることの辛さ、苦しさ、存在していることのいたたまれなさ、身の置き所のなさについて語るとき、それについてのなんらの反応も、意味を含んだ無反応も、眼差しも、今は欲しくない。
書くことの究極的な状態は、おそらく、自分以外の一切の読み手を遮断することだ。









無題


「他人が存在するにもかかわらず、われわれは生きて行けるのか?」
 ートーマス・マン

20代にノートに書き留めたこの言葉にいまだに囚われている。


書くことについて Ⅱ

再びKさんの言葉

ときどき参加する小さな読書会で、なぜ人は書くのか、という話になった。
画家は言う。大学受験のとき、同じ芸大を目指す同級生に、観る人がいなくても絵を描くか?と訊かれた。画家は、描く、と即答した。同級生は、描かない、と断言した。観る人がいない絵を描く意味はない、と。
観る人がいない絵をなぜ描く?と訝られた画家は、世界に向けて描く、と答えた。この場合彼の言う世界とは、人ではないことを言うまでもない。
私は、企みを感じない、昂りのある文章に惹かれる。表現を企図せず、感情をも抑制した、しかし疾走するような文章。それは絵画でも映画でも変わらない。

誰も観るものがいなくともわたしは絵を描くといった者が画家になったのは、ある意味で当たり前と言える。

文章に関して言えば、わたしはたまたまこのような、不特定の人に見られる可能性のある形で書いているが、仮に「誰も読む人がいなくても書くか?」と訊かれれば、その愚問を一笑に附し、当たり前だというだろう。
そもそもわたしの書く物は一般向きではない。基本的にわたしは多数派と異なる立場を採る。 ゴッホと聞いただけで、拒否反応を起こしてしまうのは、全くヴィンセントの意に反してではあるが、彼が世界中の絵を愛する人達に愛されていて、これまでゴッホを嫌いだという人に出会ったことがないからだ。
ならばわたしはその数少ないひとりになろう、というわけだ。決して本当にゴッホの絵を嫌いなわけではない。けれども、意地でも、みなと一緒に「Me Too!」とは言いたくはない。

誰もが愛する人なら、わたしはその人物を嫌いなただひとりの者になろうと思い、
誰からも愛されない人がいるなら、わたしは世界でただ一人、その人を愛する者になろうと思う。
こういう人間が書く物が一般的に受け容れられるわけがない。

書くということは、なによりも、書かずにいられないから書くのであって、それは書き手本人の生存の必要から発するもので、「読者」の存在などは二の次三の次である。
今更言うのも恥ずかしくなるほど当たり前のことだが、書くということは自己との静かなる対話に他ならない。
観る人のいない絵、読む人のいない文など存在しない。
書き(描き)手が、最も重要な観る人であり、読む人なのだから。






書くことについて

フォローしているこうさんのブログに、とても興味深い記事が書かれていた。
元になったのは四月十六日付けの読売新聞に掲載されていたインタビューだと仰っていたが、うちは読売新聞を取ってないし、図書館で該当記事を探すことさえ今は億劫になっているので、こうさんの日記をそのまま引用する。



「小説家の角田光代さんは、文学賞を取ったあと、次の作品を書くときに
編集者から幾度も幾度も書直しをさせられたのだという。

まだ、彼女がオフィスで勤めていた頃で、昼休みに喫茶店でその編集者と会うと、赤を入れた原稿を渡され、ああだこうだと言われ、ほとんど書直し。それが幾度も幾度も続いたという。

しまいに、角田さんは書直しが苦どころか、好きになったのだという。

そして最後に編集者は、単行本になった彼女の作品を数冊喫茶店に持ってきて、そのうちの一冊を彼女に渡す。

いやあ、すごいなあと思う。今の作家ってこうなんですね。

それにしても、角田さんはすごいなあ。やはり力があったから、そして努力を惜しまなかった。
書き直すだけの力量があったのですね。」


わたしはここに書かれている角田(かどた?かくた?すみた?)という作家を知らないが、この記事を読む限りでは、出来上がった作品ははたして彼女のものだと言えるのだろうか?
言われるがまま(?)に何度も手直しをして仕上がった作品は、その時点で、自分の思う通りに書かせた編集者の作品に他ならない。角田氏は単にそれを筆写しただけだ。
なぜこんなややこしいことをするのだろう?
何故編集者が自分で書かないのだろうか?

仮にわたしが作家であって、このような状況に置かれたら、ものを書いて飯の種にするなんて仕事はさっさと打っ棄ってしまうだろう。
駄文であろうと、わたしはわたしの書きたいことを、わたしが書きたいように書く。
「編集者」というのは、元の作品を「商品」として「より多くの人に読まれる=売れるように加工する」職業なのだろうが、それは最早「わたしの」作品ではない。

インターネットのほとんど唯一の利点は、作家でも何でもない普通の人が、何の加工もなしに書いた「素のままの」文章を読むことができるということに尽きる。

それにしても、今日「作家」と呼ばれる人たちは、畢竟編集者なる商売人の傀儡(くぐつ)に過ぎないのだろうか・・・







2018年4月17日

Kさんの言葉 Ⅱ

Kさんが本の言葉を引く

"問うべきは死後に人生があるかどうかではなく、死ぬ前に人生があるかどうかである。"
フリオ・リャマサーレス 『無声映画のシーン』抜粋

わたしは再び反問する。

「死ぬ前に人生のない生」とはいかなるものか?

「あった」と言える生、「あったとはいえない」生、そのような分け方が可能だというのだろうか?

もとよりわたしの生は失敗だった。わたし自身に対して失敗だっただけでなく、わたしの周囲の人たちにとってこそ大きな失敗であった。

多くの人が自らの人生を自ら閉じ、今もなお、そのことばかりを考えて生きている人たちがいる。

「死ぬ前に人生があったかどうか」という疑問は、おそらくは幸福な者の発する問いであり、同時にまた傲慢な疑問だ。

この言葉にわたしは引用で答えよう。


「われわれが探しているのはわれわれの生ではない。
生はわれわれといっしょに探している」

ー ジョー・ブスケ『傷と出来事』






Kさんの言葉

Kさんは書く

それでも、絶望は考える先にあるのではなく、考えを放棄するところに芽吹く、と思いたい。
これは私見であり普遍性に欠くが、ひとり考え続けた鋭利な夜の尖端に、この結論が刺さっていた・・・」

けれども、と、わたしは思う。考えを放棄することは、最早誰でもなくなることに他ならない。絶望というものが、その人、その生に固有のものである以上、その人の実存と絶望は不可分だ。

リルケは言った「誰のものでもない死・・・」アノニマスとしての死。
考えることを放棄することは、「誰のものでもない生」を、アノニマスとしての生を生きることだ。
わたしがその固有の生を生きるとき、わたし固有の絶望が寄り添う。

















2018年4月16日

Nippon Cha Cha Cha!

連日政治絡みの鬱陶しいニュースばかりが流されているのを視たり聴いたりしているのにうんざりし、世界の檜舞台で脚光を浴びている日本人の活躍でも見て溜飲を下げようといういう人も少なくないのではないだろうか。
スケートのHや、野球のOなどの活躍ぶりを見ていると憂さを忘れる。「ガンバレー!」と、思わず叫ぶ。

スポーツ観戦して気分転換をするのはいい。しかしそれが日本人選手でなければならないわけでもあるのだろうか?
そもそも何故、身内でも親類でもない、単なる同国人というだけで、日本人が注目を浴びているのを斯様に無邪気に、まるで我ことのように悦ぶことができるのだろうか?



本日、四月十六日付け夕刊一面に以下のような見出しが躍る

「祝」羽生 沸く仙台

小見出しは

22日、故郷で五輪連覇パレード
Tシャツ販売に行列 / ホテル満室

記事によると、

祝賀パレードを二十二日に控えた出身地の仙台市が、早くも”羽生フィーバー”に沸いている。記念Tシャツは飛ぶように売れ、ホテルの予約は満室状態。
経済効果への期待が高まる一方、運営側は準備にてんてこ舞いだ。

四年前のソチ五輪冬季五輪のパレードは主催者発表で約九万二千人が集まった。
今回は十二万人を見込む。
警備も厳戒態勢だ。
・・・云々とある



作家中井英夫に「晴朗な殺人者」という短い文章がある。

毎年夏になるとマスコミは、七月末ごろから原爆の記事を出し始め、八月十五日をピークに戦争への反省が続き、それが過ぎるとピタリと口を閉ざすのが恒例となっている。
 (略)
加熱する一方の高校野球の、しかもたかが予選のために、四ページもの勝った負けた滑った転んだを連日大げさに扱うかたわらでとなると、事態はやはり異常過ぎるというしかない。
おそらく日本人一般は、高校野球何が悪いと眼をむくことだろう。若者の熱血、清らかな汗のすがすがしさといった美辞麗句の蔭に、どんなに生腥(なまぐさ)い薄汚なさが潜んでいるかに気づかず、ともども郷土愛を兼ねて酔い痴れる民衆は、かつての日、南京陥落に提灯行列をし花電車を出して祝い、太平洋戦争緒戦の戦果に狂喜し、戦後もまた古橋広之進の力泳に日本の勝利を重ね合わせて”ああ古橋よ涙流るる”などと歌ったブラジルの”勝ち組”の発想と自分とがまったく等質だとは、夢にも気づいていない。しかし、そこにあるのはただ力の論理だけであり、敗戦の記憶もまたその中では風化するしかないだろう。

その後朝日新聞紙上に掲載された、当時十二歳の在日朝鮮人三世の少年が自殺したことに触れ、それを「いじめによりむごたらしい他殺」と書く。

死んだのは林賢一、十二歳、小学校卒業時に級友たちから記念のサイン帖を贈られた。
だがその内容は世にも異様な呪詛の数々であったのである。
 (略)
著者の金賛氏がいうように、このいじめが民族差別と結びついていたことは確かだが、子供たちだけでそれを嗅ぎ分けることなど本来不可能であり、明らかにそれは彼らの親たちの暗黙の了解の下に行われた。”勝ち組”の遺志をなお烈々と伝え続ける親たちによって。

そして中井は、このサイン帖に、彼を自殺に追いやった言葉を綴った子供たちは、この先、こころに一点の染みも持たぬ、「晴朗な殺人者」として一生を過ごすことだろう。と記す。
「ちょうど戦犯に問われずに済んだ、多くの陸海軍指導者たちがそうだったように」

そして文章はこう結ばれる

しかし、絶望のあまり六月十八日、一度目の自殺を試みて果せず、汗びっしょりで帰宅したのにおどろいた両親が学校に届け出ると、それ以後ますますいじめはエスカレートしたという、このあっぱれな日本民族のエネルギーは、当然それなりの罰を受けることだろう。

海外で活躍する「同国人」「同胞」を応援し、その活躍に胸躍らせることと、「人種差別」と、いったいどういう繋がりがあるのかと不快に思う人もいるだろう。
では借問する。あなたがたは何故そんなに日本人の(海外での、或いは国際的な舞台での)勝利に歓喜するのだ?
新聞は何故、国の大事よりもオリンピックのメダル数をかくも気にするのか?
何故国の腐敗に憂い顔を見せ、同じ日、同じ顔で、日本人のメダル獲得の報に破顔一笑してしまうのか?
今この時、国政への「抗議デモ」の四倍にもなろうという人々が「祝賀パレード」に集まるというのはいかなるメンタリティーか?

わたしは中井英夫の言葉を繰り返す

事態はやはり異常過ぎるというしかない・・・









2018年4月15日

小さい春みつけた(青虫との出会い)

ひとりで公園に行った。
先日の国分寺界隈の散歩のときと同じような曇り空。風が心地好い。
相変わらずこころはふさいだまま晴れることはない。
雑木林にも、国分寺の方にも足をのばす気になれない。

アア ツマラナイ・・・

公園から裏山の雑木林に続く傾斜にシャガの花がいくつも咲いていた。
日蔭を好むという、白と青の繊細な花びら。わたしもまたひともとの隠花植物だ。
樹の下に立ち、葉の裏側を見上げる。誰かの絵を思い出す。

なんとなく気が鬱して帰ろうとしたら、小さな緑色の糸くずのようなものがフワフワと宙を浮いている。
なんだろうと顔を近づけてよく見ると小指の第一関節くらいの長さのちいなさ青虫が春の大気の中で遊泳を楽しんでいるのだった。どうやって浮いているんだろう?見えない糸でぶら下がっているのかと上を見ると、樹の枝が繁っているあたりまで十メートルはありそうだ。

腰をかがめて彼が宙を楽しそうに泳いでいるのを眺めた。
ときどきあたまの部分を傘の柄のようにクックッと丸めて。
空を飛んでうれしくてたまらない春の子供の、キャッキャッという声が聞こえてきそうだった

「たのしそうだね。」

以前尾崎放哉の

淋 し く な れ ば 木 の 葉 が 踊 っ て み せ る

という句を書いた。

今日は青虫がふしぎな踊りを見せて、わたしの淋しいこころを慰めてくれた。

ド ウ モ ア リ ガ ト ウ 。


 
 
新緑( New Leaves), 1915,  速水御舟 / Hayami Gyoshu. (1894 - 1935)   
 

書くこと、生きること


机の前に坐って書くために、立ち上がり、生きることをしない。なんという無駄なことだ。

ー ヘンリー・ダヴィッド・ソロー


生きさせてください。愛させてください。そしてそれを上手に表現させてください。

ー シルヴィア・プラス


書くことは生きること。そして観察することだ。
生きるということは、生の坩堝に飛びこむことであり、逆に観察することは、対象から一歩身を退くことだ。ちょうど絵を観賞するために数歩後ろに下がるように。
世界の内部に生きながら、渦中に埋没せず、消化されてしまわぬこと。

わたしの好きな女流カメラマン、ドロシア・ラングに、

' How To See The World Without A Camera '
「如何にしてカメラ無しで世界を観るか」というタイトルの本がある。
内容を読んだことはないが、いい言葉だと思っている。彼女は大恐慌時代のアメリカの貧しい農村の姿を撮った優れたカメラマンだが、この本もおそらくはかなり古い時代に書かれたものだろう。

いかにしてカメラ無しで世界を観るか?
察するにこの言葉は、当初は彼女の、カメラマンとしての写真論、芸術論を語ったものだったのではないだろうか?
彼女が生きた20世紀半ばまではそれほどカメラが普及していた時代ではなかっただろうから。

けれども21世紀現在。ほとんどすべての人が「カメラ」を携えながら世界中を歩きまわっている。そのような状況の中で、人々は「カメラ無しで世界を観る方法」を見失ってしまっているように見える。

「カメラ」をのぞき、写真を写すこと、けれども最早それは「観察」ではない。「彼ら」は世界とも、そして「カメラ」とも一定の距離を保ってはいない。世界は今やカメラの内側に存在しているかのように彼らは思っている。

観察には、(カメラをも含めた)対象との距離と、批評的な視点が必要だ。生きて、愛すること、そして同時にそれを客観視することが、書くことには必要だ。

現代人は、生きるため、そして書くために、もう一度、いかにしてカメラ無しで世界と向き合うかを学び直さなければならない時期に差し掛かっているようだ。


最後に、書くことは生きることの最適の例として、数年前の雑誌に掲載されていた記事から印象に残ったものを紹介しよう。

書いたのは末盛千枝子さんという編集者。

「アンコール」というタイトルのエッセイで、彼女が出逢った思い出深いコンサートの模様が綴られている。

1971年、仕事で行ったニューヨークのホテルのテレビで偶然見たパブロ・カザルスの92歳の時のコンサートの様子。

「彼は一人真ん中の椅子に座り、チェロを抱えて、「わたしの故郷、カタルーニャの鳥はPeace, Peace!と鳴きながら飛ぶのです」と言って、「鳥の歌」を演奏した。神聖な時間だった。スペイン内乱、そして第二次世界大戦をくぐり抜けた老音楽家からの心をこめたメッセージだと思った」

そして十数年前、ジェシー・ノーマンの来日公演の際、何度もアンコールに応えて出てきてくれた彼女が、ほとんどの観客が帰った後にひとりピアノの前に座り、「アメージング・グレイス」を歌い始めたこと。

「帰りかけていた人たちに、近くに来るように手招きして、舞台の下に集まった20~30人の人たちに一緒に歌おうと言ったのだ。」
「そしてみなうろ覚えの歌詞をジェシーに導かれるように、子供のように一緒に歌った。
" 私には、本当に沢山の過ちや恥ずかしいことがあるのに、こんな幸せを頂けるなんて " という歌だ。みんな泣いた。」

そして彼女が岩手に越した翌年に大震災があった。その年の暮れに、盛岡でモスクワ合唱団の公演があり、いろいろな懐かしいロシア民謡を聴いた後で、アンコールになった。

「きっと日本の歌「故郷」(ふるさと)を歌ってくれるのかなと思って待っていると、彼らは朗々と「浜辺の歌」を歌いだした。津波に奪われて哀しみの詰まった岩手で、いま、「あした浜辺をさまよえば、昔の人ぞしのばるる」という、あの美しく懐かしい歌をである。それを完璧な日本語で3番まで歌ってくれた。それは彼らからの心からのプレゼントだった。」
末盛さんは「アンコール」は演奏者からのプレゼントではないか、と。

蛇足は野暮だが、ふと「玩物喪志」という言葉を思い出した。「物をもてあそび、肝心の心を喪う」という中国の故事だが、彼女の貴重な一期一会の体験を認めたこれらの文章を読んで、ひとがこころを失った世界は生きるに価しないとしみじみ思うのだ。















2018年4月14日

追記・・・

Kさんの文章を読むたびに圧倒される。
自分の書く物のみすぼらしさに打ちのめされる。

醜いものが、至上の美に嫉妬し、憎むことは罪なりや・・・


男尊女卑の豚野郎(或いはある敗残者の弁)

豚野郎などというと、ブタに失礼に当たるので、男尊女卑の下衆野郎としようか。
わたしはやっていないが、ツイッターに、とてもうつくしく、透明な文章を書く女性がいる。わたしはしばしば彼女のページを覗きに行く。
「ああ、上手だなぁ」と思う。こんな風に書くことができたらなぁ・・・と嘆息を漏らす。
けれども、ひとたび自分の文章への嫌悪感、ひいては自己の存在への嫌悪感があたまをもたげ始めると、そんな殊勝な(?)気持ちはたちまち雲散霧消してしまう。
羨望が嫉妬に替わり、やがては激しい憎しみの対象となる。
男尊女卑の本性を現したわたしは、彼女のいちいちの言葉に悪態をつく。
「ケッ!ばっきゃろー、気取ってんじゃねえよ!何様のつもりだよ、お高くとまりやがって。オ・ン・ナ・ノ・ク・セ・ニ・・・」
傍にいればひっぱたいているかもしれない。
けれども、殴られても蹴られても、はたまた殺されても、彼女の才能がこちらに移ってくることはない。金品ならば、力づくで奪い取ることはできても、才能は決して奪うことはできない。

若く、美しく、聡明で、その人柄によって誰からも愛され、その才能によって敬われるような女性に、愚鈍で醜悪、臭気フンプン、才能の欠片もない男の悲しみなど分ろう筈もない。
彼女は踏まれても蹴られても、倒れて泥にまみれても勝者であり、わたしは殴ろうが唾を吐きかけようが所詮は敗者なのだ。

「彼女」のような文章を書く男性をわたしは見たことがないが、仮に相手が男性で、わたしが女性だったら・・・やはり同じだろう。わたしは「彼」を憎み、「男のくせに」と毒吐くのだ。

「天賦の才」と呼ばれるものが、この世の勝者と敗者を決定づける。
才能はいかなる富を以てしても、或いは力をもってしても、決してその持ち主から奪い去ることも、譲り受けることも出来ない。そして人間の思想(志操)・尊厳・内心の自由もまた同様に、いかようにしてもその主から引き離すことの出来ないものだ。だからこそ為す術のない惨めな敗者は怒り狂い、彼らに「肉体的」な苦痛を与えること以外、なにもできない。

勝者と敗者は生まれ落ちた時から既に定められている。
内容を持つ者、「(美質・美徳により)満たされた器」すなわち勝者である。









2018年4月13日

わたしはなぜいい文章が書けないのか?

しばらくひとつのことを続けていると、直に自分の無能さ加減がたまらなくなってくる。
わたしは35歳の時に社会から完全に離脱したが、それまでの十数年間、何をやっても満足に勤められたためしがない。こちらへ報せることなしに勝手に自給を下げられたり、配置転換はあたりまえ、ほとんどすべての仕事の終わりは、決まって「ああ、キミ、もう明日から来なくていいよ」
とにかくなにをしても自分で満足できたことがないし、当然ながら仕事ぶりを褒められたこともなかった。仕事に限らずどのようなことであっても他人から認めてもらったという経験がない。
もっともわたしという人間のどうしようもない無能さは、わたし自身が誰よりもよく知っているので、突然の馘切りを理不尽と感じたことはないし、逆に褒められるとどうしてもムキになってしまう。

2006~7年ごろからSNSを始めた。ここでも何度か書いたように、基本的に「アート」をやり取りする場だった。
自分がいいと思った絵や写真を、「友達」に「送る(贈る)」のだが、
次第に「なんて自分の送る絵はこうもつまらないんだ!」と絶望的な気持ちに囚われる。そんな感情は周期的な波のようにわたしを飲み込み、「友達」が何を言おうと聴く耳を持たなかった。送られた側が満足しているのならそれでいいじゃないかと普通は考えるのかもしれないが、わたしはわたしが満足したもの(だけ)を送りたかった。

或る時、例によって、わたしが頭を抱えているのを心配したアメリカの女性が、いつものように「Takeoの送ってくれる絵はいつも繊細でうつくしい」というようなことを言ってくれた。「そんなはずがない」というわたしの静かな叫びに、相手は困惑して、「いったいあなたはこれ以上何を求めているの?」と尋ねてきた。「・・・わたしだけじゃない。わたしやあなたの周りのみんながあなたの送ってくれる絵の素晴らしさにいつも驚いている。なぜあなたはそうまで自分を卑下するの?」

わたしは答えられなかった、「その時いいと思って」送った絵が、しばらく経つと、いかにもみすぼらしく色褪せたものに見えてきてしまうのだ。そしてそのように感じる自分の目、自分の感受性は欺けない。

MySpaceがなくなって、Tumblrに移ってからも同じようなことは続いた、フォロワーが増えても、わたしは定期的に、「これまでわたしが投稿してきたものはみんなクズだ!」という気持ちに苦しめられた。そしていつもきまって言うことは、「ああ、一度でいいから本当に自分の満足のいく投稿がしたい・・・」

わたしの文章下手、文章に対する劣等感はMySpaceやTumblrで投稿してきた「ツマラナイ」絵や写真の比ではない。
わたしの文章は全くダメだ。

日頃は新聞の読者投稿欄に掲載されている文章を「毒にも薬にもならない」とか「凡庸」などと貶したりしているが、なにを思い上がっているのか?少なくとも彼らは書くことの「基本」を知っている。
わたしは時々自分の書いたものを読み返して、「こいつは一体何が言いたいんだ?」と呆れてしまう。「もうちょっとまともな文章が書けないのか?」と。

嘗て「君には書く仕事は向いていない」=ものを書く能力はないといった複数の出版社の上司、先輩たちは正しかった。勿論そのことは当時からわたし自身、彼らの書く物と、自分の文章を比べて、充分に思い知っていたのだが。

わたしがいい文章・・・(「いい文章」とはなにかという定義も曖昧で多様だが)
を書くことができないのは、工場の流れ作業ひとつ満足にできぬのとおなじように、人間としての根本的な欠陥に因るのだろうか?
わたしにとってのいい文章とは、何よりもまず自分が納得できる文章であること。人に褒められるよりも、わたしはわたし自身が、それなりに形になっていると思える文を仕上げたい。そしてそれは嘗ていちども出来たことのないことだが。

これも定期的に考えることだが、やはりどこか「文章教室」というようなところに通って、わたしの文章のどこが具体的に悪いのか?そして「どこをどうすれば」それが改善されるのかを「文章のプロ」から教えて欲しい。

マズい文章は理由があるからマズイはずだ。そしてプロというのは、コーチというのは、その欠点を矯正できる人たちの事ではないのか?
それとも、それは才能のない子供に、レンブラントの絵を描かせるのと同じくらいの不可能事なのだろうか・・・

「文章に巧拙あり。容貌の如きものなり。致し方なし」

といった太宰の言葉が真実で、こればっかりは最早持って生まれたセンスの有無に帰着するのだろうか・・・

なぜわたしはこうも無能なのか?

『アマデウス』で、アントニオ・サリエリが何故モーツァルトを殺さなければならなかったのか。わたしにはよくわかる。

才能のある人間が憎い・・・










四月のある日 追記

サクラもすっかり葉桜になり、春真っ盛りです。

寝しなにパラパラとページをめくっていた雑誌に、面白い記事を見つけました。

詩人、草野心平に「冬眠」という詩があって、

その詩が紹介されていました。

それは 「

これだけです。

これが「冬眠」です。

どういう意味でしょう?

わたしは先日ここで使った、クマが丸まっている姿にも見えます。

そしてなぜか「レコード?」などという突飛なイメージが頭の中に浮かんできました。

わたしのレコードは、それぞれのジャケットに収められ、段ボール箱に詰め込まれたまま、もう何年も春の匂いを、四月の光を浴びていません。

早く冬眠から覚ましてあげたいと思っています。

「冬眠」という題を通してこの形を見ると、

「マル」というよりも、「丸くなっている」という印象です。

首と手足を引っ込めたカメの姿にも見えます。

あるいは目を閉じている瞼の裏。

蟻の穴の蓋?

そしてひょっとして放哉がみたら、こんな風に見えるのかも

小 豆 が 一 粒 落 ち て 居 た 朝 の 小 豆 を た か う 







2018年4月12日

四月のある日・・・


ああ、盗みを働かなくなってしばらくになる・・・

これはジョルジュ・ブラッサンスが歌ったシャンソンの歌詞の一節である。

わたしが図書館を利用し始めたころは、CDというものが出始めた頃で、まだレコードの貸し出しというものをやっていた。
蒲田にいたころに利用していた図書館では、内部を三十センチ四方に仕切られた棚が20くらいあっただろうか、木製(?)の書架のようなものがカウンターの傍にあって、そこにいろいろなジャンル(落語や浪曲などもあった)のレコードが収納されていた。

馬込に移ってから通っていた図書館では、棚を、腰の高さくらいで横に寝かせたような形で、収納ケースは平らに広がっている。奥の方のレコードは、からだをくの字に曲げて手を伸ばさないと届かなかった記憶がある。

このような説明は蛇足のようにも思うが、今どきは、そもそもレコード・ショップなどに足を踏み入れたことがない、という人がいないとも限らない。それにわたし自身も、10年位前までは、結構頻繁に、ビニールで出来た薄くて黒い円盤を求めて西へ東へと中古レコード・ショップを渉猟していたけれど、いろいろな店を見過ぎたせいか、それともレコードの溝のように、記憶が摩滅したせいか、かつて図書館でどのようにレコードが収められていたか、はっきりと思いだせない。



タイトルは忘れたけれど、若き日のジャン=ピエール・レオー主演のトリュフォーの映画のオープニングで、パリの中心部らしき場所にあるアパルトマンの2階(3階?)の、大通りに面した彼の部屋で、起き抜けに煙草をくわえながら、ポータブルのレコードプレーヤーにレコードを乗せ、それをBGMに朝の身支度をするシーンがやけにカッコよかった。
60年代当時のヌーヴェルヴァーグだから勿論モダンジャズだ。

わたしはパリへ行ったことはない。そして多くの人は、きっと小説=本を通してパリを知るのだろう。
わたしはドアノーの写真で、昼のパリ、元気な子供たちのパリ、そして恋人たちのパリを垣間見、ブラッサイの目を通じて、孤独な、大人たちのパリの夜をのぞいた。といっても、もちろんそれはいまのパリではなく、もう数十年前、ボリス・ヴィアンやジャック・ブレル、レオ・フェレやバルバラ、ブラッサンスが歌っていた「古き良き」パリのはなし。そして「動いているパリ」を知ったのは、もちろんトリュフォーやゴダール、ルイ・マルやシャブロルの映画によってであった。

なかでも好きなのはゴダールで、随分以前に蓮見重彦がゴダールの引用癖・・・というよりも、如何にゴダールが人から盗んだかを述べた文章を興味深く読んで、ゴダールの「盗み」の方法論に強く共感したのを覚えている。けれどもそれをどこで読んだのかは憶えていない。

わたしの好きなエピソードがある。

19世紀の英国。或る晩、上流階級のサロンで、画家のホイッスラーが、オスカー・ワイルド達の前で気のきいたセリフを吐いた。それを聞いていたワイルドは悔しがって、「ああ、今の君の台詞、ぼくが言ったのならよかったのに!」

ホイッスラーはにっこり微笑んで、「きっとそうなるよ、オスカー」





「盗む」ということはよいことだと、なだいなだは書いている。

盗みの中で最も楽しかるべきはヒョーセツである。あらゆる盗みの中でヒョーセツこそは、何度繰り返してもよいが、最も人間にふさわしい盗みである。
モリエールは悪びれずに盗んだ。シラノ・ド・ベルジュラックから盗んだのである。
日本の近代小説などというものは、外国の近代の代表的な小説を盗むことから始め、盗み通してきたと言ってもよい。
 (略)
パパはお前たちに「盗め」という。しかしこれは至極真面目な話なのである。死んだ人間からであろうと、生きた人間からであろうと、その胸から火を盗め。人間は、他の人間の胸の中に燃えている鬼火のようなものを盗むことによって、はじめて生命を得るのである。ここで盗みははじめて素晴らしいものになる。
 (略)
この地上に善人がいても、人類は滅びることをまぬがれぬであろうが、この種のぬすびとが絶えぬかぎり、精神は滅びぬであろう。
ー なだいなだ 『パパのおくりもの』(1962年)


引用は剽窃ではない。けれども、モリエールは、ゴダールは、その作品の中でいちいちこれは誰の言葉、誰の写真、誰の思想などという出自を明らかにはしない。

ワイルドもまた、ホイッスラーの言葉を、またいずれかで耳にした気の利いたセリフを、あたかも自分の言葉のようにして話していたのだろう。
そこまで行けば「本物」である。
そして「盗みを働かなくなる」ことは、とりもなおさず精神の停滞・涸渇に他ならない。
それはものの姿を映さなくなった鏡と同じだ。



ところで、わたしのレコード・プレーヤーはもう何年も壊れたまま。

ジョルジュ・ブラッサンスはじめ、シャンソンも含めてレコードは結構な枚数持っているし、『パリの四月(エイプリル・イン・パリス)』などはやはりレコードで聴きたい。もし買い替えるなら、ポータブルで手軽なものでもいいかなとも思っている。


鶯 の 啼 く や 小 さ き 口 あ い て (蕪村)


数年前までは、春になれば部屋にいても聞こえてきたうぐいすの啼き声が滅多に聞かれなくなった。公園に行くと、たまにそれらしい啼き声を耳にする。

蕪村のこの句以前は、うぐいすは、その音を聴くものだとされてきた。
蕪村がはじめて、うぐいすを、目で見る対象として詠ったのである。

レコードもまた、音楽を聴くだけでなく、それ自体、みつめるものでもあるのだろう。ゆったりと33回転で回っている姿は、流れる音楽とともに人の心を和ませる。
珈琲か、或いは好きなお酒と共に音楽を愉しみ、ふと窓の外からうぐいすの声が聞こえるようであれば、そして回転する円盤の上に、どこからか風に乗ってやってきた、ちいさな花びらが舞い落ちるようであれば・・・








2018年4月8日

故郷喪失者

わたしはロヒンギャやシリアの人々のような形で故郷を喪ったのではない。
足尾や水俣やフクシマや沖縄のような形で喪ったのでもない。

しかしここにひとりの故郷喪失者が、難民がいる。

あなたは東京オリンピック(1964年)のために、東京の川の上に高速道路が建設されてしまったことを知っているだろう。
なんと醜悪な風景なのだろうか。国は自らの環境まで食い尽くした。川に寄生しているどころか、川が生み出してきた文化も歴史も風景も破壊している。戦争は風景を一時的に壊すが、交通機関は次々と日常風景を壊し、それが最早日常の風景であるように人々を錯覚させる。
高速道路を作れば、駐車場が、インターチェンジが、その他の施設が必要となる。そのうえ早く便利な高速道路沿いには、さらにビルやマンションが寄生してゆく。すると車の量は増大し、車は渋滞する。そうなればさらに道路をつくる。すると道路の両脇には建物が寄生し・・・こうなればもう川を覆っている高速道路を壊すことはできない。
この際限のない寄生ゲームのなかで、建物は巨大化し、高層化を進め、道路もまた高層化し、大地どころか大気をも「むしゃむしゃ、がぶがぶ」と覆いつくしだす。
そして私たちはいつの間にか、私たち人間が大地に、大気に寄生した生物であることを忘れる。機械の中で人間本来の身ぶりを忘れる。人間の身体寸法を忘れる。人間が赤ん坊から子供になり、やがて老い、身体の自由さを失うことを忘れる。忘れるとは、心をなくすことであることさえ忘れる。
ー 松山巌 『住み家殺人事件 ー 建築論ノート ー 』

故郷喪失者とは、母国によって母国を奪われた者たちのことだ・・・故郷(ふるさと)を破壊するのは、戦争や空襲だけではない・・・





武蔵野を歩く


白洲正子の随筆集『余韻を聞く』(2006年)のなかに、河合隼雄と話をしたときのことが書かれている。
白洲が、患者とどういう風に付き合うのか?と尋ねると

昔は、自分が直してやる、という氣で一生けんめいでしたが、この頃わかったことがある。(先生は今年六十一才です)それは、放っといても、自然の空氣とか、樹とか、風とか、空とか、そういうものが直してくれるのであって、自分の力なんか一つも加わってはいない、ということに氣が付きました。
ただ、自分はそこにいなければいけない、いるということだけで、あとは空氣や風に任せとけばいいのだと。

今日、久しぶりに国分寺周辺を歩いてみた。風が強かったが、その分薄緑色に染まった木々が風に揺れる姿を見ることができた。
もう何年振りだろう?昔柿の木の畑が広がっていたところには建売住宅が建ち並んでいた。
多摩地域でも知られた旧跡であり、散策のコースでもあるので、緑はまだ多く、色とりどりの花が咲いていたけれど、わたしの心は晴れなかった。

この世になくて
くちおしいだろうもの、
武蔵野
キーツ 萬葉
わが子 わが妻
少年の日のおもひで
木 草 山

菊の花 桃の花
朝顔の花
そして しずかな空
ー 八木重吉 「しづかなるひは」

風の中、武蔵野を歩きながら、わたしの屈託は消えることはない

いったいなにが「いない」のだろう?


2018年4月6日

最期の残照を見た

新聞の外信欄の小さな記事。

北京の中心部にある名高い音楽ホールで、ニューヨーク・フィルハーモニー・オーケストラの演奏会が催された。記者が席に着くと、場内のあちらこちらを赤いレーザー光線が飛び交っている。なんだろうと思っていると、どうやら、場内で、カメラやスマートフォンで演奏会の模様を撮影する人に撮影禁止を伝えるためらしい。

「二時間余りの上演中、ホール内の至る所で、写真撮影を試みる人と、レーザー照射の「いたちごっこ」が繰り広げられていた。すぐに撮影機をひっこめる観客もいれば、照射が続いても全く気に掛けない強者もいた。
赤い光の乱舞に、すっかり興ざめした名曲鑑賞の夕べとなってしまった」
(四月五日付け夕刊より)



こんな演奏会ってあるだろうか?仮にわたしが観客のひとりとしてその場にいたら、たとえどんなに高いチケット代を払って手に入れた席であっても、ただちに会場を後にするだろう。連れがあったらその人もきっとわたしと同時に席を立って出てゆくだろう。(そんな場所にそれでも残りたいというような人とは、そもそも友達にはなっていないはずだから)

この記事を読んで驚くのは、演奏会の模様を撮影しようとする者が一人や二人ではないということ。そして予め、撮影をしようとする者に対して、レーザー照射で禁止を伝える専門の係員がいるということ。それはとりもなおさず、そのようなことが決して珍しいことではなく、最早傍へ近づいて行って小声で注意するなどという方法ではとても追いつかないほど「撮影者」が溢れているということだ。

コンサートや演奏会でのこのような光景がいまや日常茶飯事であるのなら、それでも尚、
演奏会に足を運ぶ人がいるのだろうか?
オーケストラの指揮者、或いは演奏者たちは、そのような環境の中でも演奏を続けるのだろうか?
これはひとり中国だけの現象なのだろうか?

人というものはそもそもがこのように愚かしい存在だったのだろうか?
それとも、ある時を境に急速に劣化してしまったのだろうか?

嘗て各家庭にテレビが普及し始めた時、評論家大宅壮一は「一億総白痴化」と言った。
しかしテレビはまだ家の中に固定鎮座しており、ひとはわざわざその前ににじり寄り、坐るなり寝そべるなりして視ていた。ところが今や、白痴化の元凶は自由に外の世界を跋扈している。
白痴化の自乗・・・

「必要は発明の母」とかつては言われた。
またある人は「発明は必要の母」と言った。そして今に至って、「発明は(  )の母」となった。
(  )の部分には「愚昧化」「滅亡」「醜さ」「堕落」等、適宜言葉を入れて頂ければいい。

かつてインターネットなどというものが、携帯用端末などというものが存在しない時代があって、わたしはそんな時代を生きてきた。それは人間が人間であった最後(最期)の時代であり、わたしはなんとかそこに間に合ったのだった。

人類が滅びること、人が人でなくなること、嘗てヒトと呼ばれていた生き物が絶滅するために、もはや「核」は不要だ。

科学技術は、「文明」は、「文化」を、「芸術」を、「美」を駆逐した・・・

パゾリーニに倣ってわたしは言う、

「人間よ、呪われてあれ・・・」


2018年4月5日

誰がために鐘は鳴る

「すべての物語は、その人たちだけの物語ではない、と思います。 」
そう彼女はわたしに言った。そして、ジョン・ダンの言葉を添えた。
No man is an island,
entire of itself;
every man is a piece of the continent,
a part of the main.


ー John Donne’s "Meditation 17"
「わたしたちは決して「孤島」 ではない。
それのみで「全体」ではない。
われわれはみな大きな大陸の一部である。
全体(本体)の一部である。」
それでも、とわたしは思う。わたしたちは各々に個別の物語を生きるのだと。
それは決してケーキやパイのように、仲間と切り分けることの出来ない固有の痛みであり、固有の悲しみ、煩悶であると。
人と代わることの出来ない、交換不能な痛みや悲しみや苦しみが含まれる生を持つからこそ、それぞれに固有の「死」が生れるのだと。

わたしは彼女の目を見つめながらそう言葉を続ける。

・・・でもダンはこう続けているわ
Any man’s death diminishes me,
because I am involved in mankind;
and therefore never send to know for whom the bell tolls;
it tolls for thee.
「誰の死であっても、それはわたしの一部の消滅である。
何故ならわたし自身が「人類」の一部なのだから。
それゆえあなたは「誰のための鐘がなっているのか?」と尋ねる必要はない。
弔いの鐘はあなたのための鐘の音でもあるのだから」 

わたしは続けて反問する。
わたしの弔いに鐘の音は不要であるにしても、仮にそれが鳴らされるのなら、それは誰のための鐘でもなく、わたし固有の鐘でありたい。

わたしの生涯の苦悩と悲しみを「人類(全体)」と分かち合うこと、それをその中に溶かし込むことををわたしは望まない。

誰もわたしの悲しみを悲しむことはできなかった。それは屹立した悲しみであった。
何者もわたしの痛みを感じることはできなかった。それは孤独な痛みであった。

わたしはかつて"Piece" や "Part" であることはなかった。
そして全体の一部であったことはなかったのだから。

その鐘は、わたしのための鐘ではない。

(人間の尊厳は、なにか自分より大きなもの、自分とは別のものに還元されることのない、「その人の存在」という厳粛な一回性の裡にこそあるのだと思う。
あなたの悲しみを「人間全体の悲嘆」の中に埋没させてはいけない)

わたしはそのように返事をし、彼女の肩に手を乗せて微笑んだ。



   









2018年4月4日

無題

「晴耕雨読」、それがもっとも人間らしい生き方のような気がする。
晴れた日には畑を耕し、雨の日には部屋で読書をする。
テレビも、勿論パソコンもなくていい。
ただ音楽が聴けて、映画が観られる環境は欲しい。
それでも大きなステレオや大画面のスクリーン(TV)などでなくていい。

「紅 旗 征 戎 吾 ガ 事 二 非 ズ」そんな気持ちで毎日を、残りの日々を、心静かに生きてゆきたい。

自分の口に入るものを自分の手で作り、数編の詩を読んで一日の疲れを癒す。
日記をつけてもそれは人に見せるためのものではなく、本を読んでもそれは知識を蓄えるためではない。



嘗ては文字の読めない人が多くいた。
けれども文字が読めずとも、空を飛ぶ小鳥の囀りを聴くことも、小川の流れに手を浸すことも、馬の背をやさしく撫でてやることもできた。
それはなににも勝る詩ではないか?

聴くことができ
視ることができ
香りを感じることができ
味わうことができ
触れること(触れられること)ができれば、
そこには詩が生れる。

わたしは時々思う、究極の詩とは、言葉を失ったところにあるのではないかと。
言葉がわれわれに教え得る最上のものは畢竟言葉の無力さではないかと。


そんな風に思いながらもわたしは今日も本を読む。


 淋 し く な れ ば 木 の 葉 が 踊 って 見 せ る (放哉)



あとは 沈黙 ・・・





2018年4月3日

「公共空間」について、鉛筆の芯と、さくらの花びらの危険性について

前にある人のブログで読んだことが強く印象に残っている。
その人は或る美術館で作品についてのメモを取っていた。すると、係員がやってきて、
鉛筆を使うのは遠慮してほしいという。理由を訊くと、「芯がとんで、作品を傷めると困るから」ということらしい。

以前、友達と三鷹駅前の美術館に行ったときのこと。のどの調子が悪いからと、友達がバッグからのど飴を取り出して口に入れた。すぐさま女性の係員がとんできて、「のど飴は困ります」わたしが「何故ですか?」と訊くと「咳などをして飴が飛び出して作品を傷める可能性が・・・」

鉛筆の芯が折れて作品を傷つけたり、咳やくしゃみをしてのど飴が口から飛び出して、作品を損なう確率とは、どの程度のものだろうか?
けれどもわたしはこれらの二つの例があくまで特殊で例外的なものだとは思えない。

今更言うまでもなく、わたしたちは生身の人間である、くしゃみやせきに限らず、立ちくらみを起こして、思わず壁に寄りかかってしまうかもしれない。うっかり人にぶつかり、その人が押されたはずみで展示品にぶつかってしまうかもしれない・・・「作品を毀損しうるあらゆる可能性」を考慮し、排除していたら、当然展示会など開くことはできはしない。
わたしは極端なことを言っているのだろうか?「鉛筆の芯が飛んで作品を傷つける可能性」というのは極端ではないのだろうか?



家の近くにある比較的緑の多い公園内の路が、いつも塵ひとつないほど掃き清められているということを以前書いた。
今日もその公園に行ってみた。散ったさくらの花びらをどうしているのか知りたいと思ったからだ。案の定、花壇のように囲われている場所以外の、人の歩く部分にこぼれたさくらの花びらを年配の男性たちがせっせと掃き集めてはゴミ袋に押し込んでいる。
仕事をしている男性に声をかけてみた。
「みなさんは、落ち葉やさくらの花びらをゴミだと思ってらっしゃるのですか?」
「ええ、ゴミですねえ・・・いや、子供さんたちやお年寄りがね、それを踏んで転んだりすると危ないでしょう。だから掃くのはみちのところだけでね。こういう花壇のようなところはそのままですよ」

わたしは「公共空間」について考える。
道路であれ、駅であれ、デパートであれ、図書館であれ、「私的空間」以外はすべてがパブリック・プレイス=共空間である。

たとえば公園という場所は一般的には休息のための空間とされている。
けれども、いうまでもなく、公園は自然の野山ではなく、自治体が作ったものであり、したがって自治体によって「管理される」。
ホッと息抜きをし、リラックスするための空間であると同時に、管理下に置かれた空間でもある。
そのため管理者である自治体が、花びらや落ち葉を踏んで転んでけがをする人が出たら困ると判断すれば、舞い散ったさくらの花は危険物として速やかに「処分」される。

バスの車内で執拗に流される「危険ですので走行中の座席の移動はお止めください」
或いは電車内で「危険防止のため急停車することがありますのでお気を付けください」
エスカレーターで、駅構内で。
公共空間とは恐怖の空間である。



たとえば美術館などでは、どこまでが危険な領域で、どこからが安全であるというその一線は、どのような判断に基づいて為されているのだろうか?
言い換えれば、人はどこまで人を信じ、どこまで人を疑うのか、それが「安全」と「危険」の一線を画する基準になるだろう。いやいや、信じる信じないの問題ではないだろう。鉛筆の芯が折れて飛ぶのも、のど飴が咳と一緒に飛び出すのも、どちらも不可抗力だ。そして人間は「ハプニング」を予知することはできない。


人ありて電車の中に唾を吐く
それにも
心いたましむとき (啄木)

電車の中はわたしの空間だろうか?あるいはみんなの空間だろうか?
たとえば電車の中で赤ん坊が泣き出したら、皆は迷惑だろうか?「ここはみんなの空間だから」うるさくする方が悪者だろうか?それとも、うるさがる方が悪いのだろうか?
或いは気分が悪くなって吐いてしまったら?それは明らかな迷惑行為だろうか?体調が悪いのに電車=公共の乗り物(そんなことを言えばタクシーだって公共の乗り物なのだが)に乗る方が思慮が足らないのだろうか・・・なにが適正で何が妥当なのだろう?そしてその基準はどこにあるのだろう?

公共空間即ち恐怖の空間であるとすれば、至る所に「監視カメラ」を設置すれば人は安心することができるのだろうか?ではその「安心感」は何に因るのか?

古来様々な思想家、哲学者が公共空間と私的空間、「公」と「私」について言及している。
けれどもそれは当然ながら一様ではない、ヨーロッパの哲学者と東洋の哲学者では主張が異なり、時代により、また文化の違いによっても公共空間をどう捉えるかは異なってくる。

公共空間に於いて安全が最優先されるのは言を俟たない。けれども、秋の落ち葉や、歩く人の足元をほんのりと染めるさくら色、或いは鉛筆の芯やのど飴が危険視され、至る所に監視カメラが道行く人を見つめている世界を思う時、「安全」こそ至上のものだとは思えなくなるのだ。

公共空間については更に考えていきたい。何故なら公共空間=世界に他ならないのだから・・・








2018年4月1日

夢ののりもの


いまどき日本のどんな辺鄙な村へいっても、乗りたいところで乗り、降りたいところで降りられるというバスに、お目にかかれるだろうか?
(略)
ぼくは東南アジアを旅したとき、とくにフィリピンではバスを利用して、ルソン島農村地帯を歩きまわった。(略)そのバスは百キロ、二百キロの行程を丸一日かかって走る長距離バスである。辺鄙な山岳部では一日一本のバスが朝三時に出発し、夜八時頃に終着の町に着く。

このバスはトラックの堅牢な車体に木のベンチをいくつも並べた素朴なもので、どこでも自由に乗れるし、降りたければ天井か車体のサイドを力まかせに叩くと止まってくれる。
子豚や鶏を抱えて乗り込んでくる村人は、自分の家の前でバスを止めて降りてゆく。しかも、昼食時と午前・午後のコーヒーブレークがあって、運転手と車掌と乗客が一緒に食事したりお茶を飲みながらおしゃべりをたのしみ、「さて、そろそろ出かけるか」という調子で発車しながら、驚くべきことに終着時刻は予定通り正確なのである。つまり、乗降自由、のんびり走る条件で時刻表が作成されているのだ。

これは佐江衆一が1973年に書いた、「貧しい」と見る目」というエッセイだが、(『裸足の精神』より)なんという夢のような、長閑な世界であることだろう。

高床式のニッパハウスに住み、のんびりと昼寝を楽しみ、近くの川で洗濯をしたり水牛と沐浴している東南アジアの人々を見るとき、「先進国」の日本人は、物質的豊かさのみを基準として、「なんと貧しい遅れた人々か」と思ってしまう。南の人々を「貧しい」と見る間違いには気づかない。
時間を征服しようという傲慢さや、大自然の恵み以上のものを入手しようとする果てしない欲望が近代化を進めてきたが、ぼくの東南アジア体験は、その「近代」への深い懐疑とアジア的価値感の誕生であった。
近代は長い年月かけて人間の築いてきた確実なものと、その周囲に築かれた生活を破戒しはじめている。その過ちに気づかぬ限り、日本人が恐ろしい人種としてアジアから異端視されるのは当然であろう。
田舎のバスでよく、貧しく見える暮らしでいいではないか。その心豊かにゆったりと生きる南の人々まで「進歩の論理」が侵略する権利はないし、北の人間こそ人類の滅亡へ全力で走りつづけている哀れな動物に違いない。

現在の日本人が、自分たちの暮らしが、ほんとうに「豊か」で「進歩した生活」であると感じているとは思えない。しかし人間という生き物は、決して立ち止まったり、引き返したりすることの能わざる生き物なのだろう。人間はただ「前に進むことしかできない」

いやいや、大仰な文明批判などは措いて、 わたしはここに描かれている、「どこでも乗れてどこでも降りられる」という乗り物、その中で人々がお茶を飲み、笑顔と会話を交わすという光景がなんと優雅な、そして貴族的ともいえる世界に見えて仕方がないのだ。








トトロをしばらく見ない


佐江衆一のエッセイ集『裸足の思想』(1979年)に興味深い一文が引用されている。

「・・・平和なる山の麓の村などに於いて、山神楽或は天狗倒しと称する共同の幻想を聴いたのは昔のことであったが、後には一様に、深夜狸が汽車の音に真似て、鉄道の上を走るというふ話があった。それは必ず開通の後間も無くの事であった。
また新たに小学校が設置せられると、やはり夜分に何物かが、その子供等のどよめきの音を真似ると謂った。電信が新たに通じた通じた村の狢(むじな)は、人家の門に来てデンポーと喚はった。」
柳田国男は『明治大正史世相篇』において「時代の音」をこのように誌した。 
たぬきの汽車、むじなの電報配達、そして深夜の学校での子供たちの声・・・

柳田民俗学を引いて、日本の近・現代批判をする佐江衆一の文章全体よりも、わたしは単純にこの描写に魅了された。
更にわたしがおもしろいと思ったのは、それが廃線になった鉄道や使われなくなり廃校となった学校の教室や、人気の少ない古びた町ではなく、新たに敷設された鉄道であり、新築の校舎、はじめて開通した電信であるという点だ。

生き物たちはここでは寧ろ「死んでしまった場所に姿を現す」「お化け」というよりも、人間の新技術を笑っているようではないか。いや。たぬきやむじなたちは「鉄道」や「学校」「電信」をもまた「人間の遊び」と考え、人間と一緒に遊んでいたのではなかっただろうか?

技術の進歩は「彼ら」を置き去りにしてきたのだろうか?
船が陸地から遠ざかるとき、果たして「取り残された」のはどちらの側に立つものだろう?

「妖怪変化」という。けれども、子供たちは、汽車の真似をして線路を走るたぬきや、デンポー!と門口で呼ばわるむじなと遊びたいのではないだろうか?
技術の進歩は、たぬきやむじなだけではなく、「人間という規格」に嵌った硬直した存在となる以前の、寧ろ動物により近い子供 =「変化」(へんげ)たちも一緒に陸地に、或いは大地から遠ざかる船の上に置き忘れてきてしまったのではないか?



松山巌は『住み家殺人事件 ー 建築論ノート ー』(2004年)のなかで次のように記す

かつて子供たちは自然の中で「あばれまわり、ひざ小僧をすりむいて血が出たり、虫にくいつかれたり、さされたり、ウルシにかぶれたり」しながら生きていたことを本当に忘れてしまったか、知らないかもしれない。
「自然がどのようなものとして、子供の前にあらわれるにしても、まず、からだで、感覚でそれを受け止める経験を、かれらにはもたさねばならぬ。人間の歴史の知識とことばとで、それを教える前に、五感や行動でそれをつかむ時代を経させなければならぬ。
そうでなくては第二の自然としての人間の幼い世代は健康に育たない。そういう時代を経させるために、子供たちには「ひまな時間」が存在するのである。いや、存在しなければならぬ。」
ー 国分一太郎『しなやかさというたからもの』
この国分の意見に納得する人は多いだろう。しかし現在の子供たちは、「ひまな時間」をもつどころか、自然と向き合うべき「ひまな場所」を家の近くに持っているだろうか。

ちなみに松山のこの『住み家殺人事件』は、「建築」という表象を通して、近・現代の社会の在り方、そして現代人の存在の仕方に対する徹底した批判の書である。

2016年のオリンピックに東京が落選したときに、彼は「これで東京ももう少し生き延びることができる・・・」と書いた。

この本にはこのような記述もある

正岡子規は、「根岸近況数件」と題し、「田圃に建屋の殖えたること」「某別荘に電話新設せられて鶴の声聞えずなりし事」「時鳥(ホトトギス)例によって屡々音をもらし、梟何処に去りしか此頃鳴かずなりし事」
(『病床六尺』1902年7月1日)と記している。
日本の近代は、子規を早世させた結核と、東京の片隅から鶴とふくろうの啼き声を消した。いや殺したことからはじまった。やがて「田圃」も「時鳥」も消され、「建屋」が増大し、と同時に、「電話」という新しい通信方法が人と人との関係を大きく変革したことからはじまったのである。

花がなければ

世界はさびしいか

ならば

それがないために

かく荒涼としている

というものは

なにか

ー 川崎洋 「花」


この問いに俄かに答えるのは難しい、近・現代の歴史は多く喪失の歴史でもあるのだから。けれども喪失の裏には必ず新たなるものの出現が伴う。
森が失われ、工場が建つ、或いは観光地になる、河川が埋め立てられ幹線道路ができる、山を切り崩し高速の鉄道が走る。空地に高層マンションが建設される・・・

「それがないために かく 荒涼としている」というよりも、わたしは寧ろ
「それがあるために」かくも荒涼とした世界になっているというものが多すぎると感じている。

今日は「エイプリル・フール」
'Fool'の仲間には 'Clown' (道化師)や 'Joker' (冗談をいう人、或いはトランプのジョーカー)と言った言葉たちがある。

子供たちを笑わせて一緒になって遊んでくれるたぬきやむじなは「高貴なフール」で、「スマート」を自認する玩具で悦んでいる人間たちよりも、遥かに純粋で美しい目をした生き物たちなのだろう。