詩人の石原吉郎が、「確認されない死の中で」という一文の中で、1967年のスウェーデン映画『みじかくも美しく燃え』のラストシーンについて語っていた。
心中を決めた男女が、死に場所を求めて歩きまわる。途中、偶然出会った男性に、男が相手の名を尋ね、その後自分の名前を名乗って立ち去る。
石原はこのように記す、
私がこの話を聞いた時に考えたのは、死に際して、最後にいかんともしがたく人間に残されるのは、彼がその死の瞬間まで、存在したということを確認させたいという衝動ではないかということであった。そしてその確認の手段として、最後に彼に残されたものは、彼の名前だけという事実は、背すじが寒くなるような承認である。にもかかわらず、それが彼に残されたただひとつの証しであると知った時、人は祈るような思いで、おのれの名におのれの存在のすべてを賭けるだろう。
いわば一個の符号に過ぎない一人の名前が、ひとりの人間にとってそれほど決定的な意味を持つのはなぜか。それは、まさしくそれが、一個のまぎれがたい符号だからであり、それが単なる番号におけるような連続性を、はっきりと拒んでいるからに他ならない。ここでは疎外ということはむしろ救いであり、峻別されることは祝福である。
私がこう考えるのは、敗戦後シベリアの強制収容所で、ほぼこれと同じ実感をもったからである。
けれども、「彼」がまさしく他ならぬ「彼」であるということは、そばに愛する人がいるという時点で、既に明らかにされているのではないだろうか?
「彼」は天涯孤独の身で、ひとりぼっちで死に場所を探しているのではない。 今彼が抱いているその愛に、すなわちその女性との関係に殉じようとしている者が、何者でもない訳はない。
存在の最後の瞬間まで、「何者か」であることができれば、死後のことは知ったことではないとわたしは考える。
先日引用した誰かの言葉、「肝心なのは、死後の生が存在するかではなく、死ぬ前に生が存在したかだ」に従えば、この映画のふたりは、命の灯が燃え尽きる瞬間まで「生」と共にあったのだ。
それに対して思い出すのは、セルジュ・ブールギニョン監督の『シベールの日曜日』という、やはり60年代の美しいモノクロ映画だ。
戦争で負傷し、記憶を失った若者ピエールと、孤独な少女シベールとの束の間の友情。
森の中で日曜毎にあって、散歩をし、話をする二人。けれども、記憶を失った若い男性であるピエールは、周囲の誤解と偏見によって、シベールと戯れているところを射殺されてしまう。ラストシーンで、この孤独な少女に名前を聞く警官に対し、ピエールの亡骸のかたわらで、シベールはひとこと、「わたしに名前なんかない」
わたしは石原吉郎のように、誰にでも名前がある、とは思ってはいない。
シベールがシベールであったのは、ただピエールとの交流においてのみであった。
そして彼の存在が無くなってしまった時、シベールという彼女の名前もまた、ピエールと共に消えたのだ。
「私は無名戦士という名称に、いきどおりに似た反撥をおぼえる。無名という名称がありうるはずはない。倒れた兵士の一人一人には、確かな名称があったはずである」
と石原は書く。
わたし自身を省みた時、わたしはまさしく「無名の者」であり、TAKEO という名前も、たんに番号ではないというに過ぎない。
「名前」というのはわたし固有のものではなく、誰かがわたしを呼ぶときに必要なものなのだ。つまり名前を必要としているのはわたしではなく、わたしを呼ぶ他者である。
とはいえそこに相互の敬愛が欠けている場合には、とりあえず、その人物を特定しうるものでさえあれば事足りるのだ。
「確認されない生の中で」わたしはそんな風に感じている。