2021年3月13日

土は土に 

 
先日に続き再び椎名誠、『ぼくがいま、死について 思うこと』(2013年)から引用する
 
イギリスに住む友人に目下の一般的な葬儀のあらましを聞いた。アメリカとも日本とも基本的に違うのは、人の死と、それをおくる葬儀は完全にプライベートなことであり、極端に言えばほんとうにその人の死を悲しみ、心からの哀悼とともに死者を天におくる人しか葬儀には参列しないという考えが徹底していることである。
 
だからその人の死は親しかった人などには連絡されるが、日本のように香典を持って急いで通夜と告別式にかけつける、というような大騒動にはならない。親族を中心に本当に親しかった人だけが少人数集まり、日本で言う通夜および告別式が行われる。親族や親族以外の人は葬儀には出ず花を贈って哀悼の意を伝える程度だ。
 
日本でよくあるように生前付き合いのあった人はもちろん、その人の関係した、あるいは取引していた会社の社員なども駆けつけ、たくさんの花輪を葬祭場にかかげ、そのスケールが大きければ大きいほど参列者が多ければ多いほど「よい葬儀、すばらしい葬儀」と評価されることもない。
このイギリス式葬儀などを知ると、日本のそうした大騒動の葬儀が大変幼稚なものに思えてくる。
 
イギリス人は自然を大切にし、ガーデニングなどがもっとも盛んなところだから、ひっそりとした葬儀が終わると埋葬になるが、七割が火葬、三割が土葬という。希望があれば柩をのせた黒い馬車を黒い馬が牽くという。火葬の場合は骨まで焼いて全部を遺骨にする。
 
土葬も火葬も自然に帰す、という思想のもと、土葬の柩はダンボールなど大地に同化しやすいものにし、土葬した場所に何かの樹木を植える。墓参りはそれ以降成長してゆくその樹木を愛でる、ということになる。遺灰もやたらに撒いてはいけない、などという法律はないので、公園の草や樹の根元に「こやし」のように撒く人が多いらしい。そのあたりの花がやがて大きく見事に咲けば遺族は満足する。
(太字・下線Takeo) 
 
 
黒い柩を馬車に乗せて黒い馬に牽引させる、という演出は好みではないが、それにしても、土葬の場合、早く大地に同化するように「段ボールの柩」を用いるなどというところは、さすがヨーロッパ、合理主義が行き届いている。
わたし自身、墓など無用と昔から思っているが、段ボール箱に入れられて土に埋められるのなら左程抵抗はない。



もう何年も前、ジャック・ケルアックがロバート・フランクの写真集に序文を寄せていることを、あるイラストレーターのブログで知った。彼女のブログには、フランスでは死者との結婚が認められているということも記されていた。それを読んで、これまた日本では到底ありえないなとつくづくこの国の永遠の後進性を感じた。
ところで、この「死者との結婚」については、わたしも同じ切抜きを持っていた。それはもう15年以上前の朝日新聞の「天声人語」であった。
 
その後新聞も含めた「マス・メディア」のあり方も大きく様変わりし、所謂三大紙は悉く東京オリンピックのオフィシャル・スポンサーになった。我が家では多摩に越してきてから『東京新聞』を取っているが、わたしはもう新聞を読まなくなって久しい。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

2021年3月12日

いつまで

 

いったいいつまで生きるのか? 

 

 

 




 

「若者の持つ幸福感」と「よりよい教育」

 
いつものように図書館で母に借りてもらった、『暮らしの手帖』2019年秋号に、いつごろから連載されているのか知らないが、武田砂鉄という人の「今日ひろった言葉たち」というページがある。見開きで2ページ。彼が本に限定せず、様々な場所で出会い、こころに触れた言葉たちを集めている。

わたしにとっては、心に響くというよりも、今の世相を知る上で興味がある。あくまでも「情報」として読んでいる。

今日たまたま目を引いた言葉は、社会学者土井隆義氏の2019年の著書『「宿命」を生きる若者たち』からの抜粋で、
 
砂鉄氏が引用した部分は、
 
今日の若者たちの幸福感の強さは、社会的に排除されていることの認識からも排除された結果といえるのです

 砂鉄氏のコメントが続く、

「所得の多い家庭の子のほうがよりよい教育を受けられる傾向をどう思うか、とのアンケートに、「当然だ」「やむをえない」と答える保護者は6割を超えている(ベネッセ教育総合研究所・朝日新聞社「学校教育に対する保護者の意識調査」2018年)。

自分の置かれた環境を客観的に見つめる視点を失うと、どのような環境にあったとしても、不満を抱かなくなってしまう。今、若者たちが持っている幸福感に危うさを感じるのは、彼らが自分たちの居場所を把握する機会を与えられないまま、「やむをえない」と納得させられているからだ。」

これを読んで先ず驚いたのは、「今日の若者たちの幸福感の強さ」 という言葉だ。
それも「今日の若者たちの抱く幸福感」 ではなく、「幸福感の強さ」とさえ強調している。
ここで言われている「若者」の定義を、仮に16歳から36歳としても、そして仮に話半分としても、現在、少なからぬ若者たちが強い幸福感を感じている・・・ちょっと信じがたいが何を根拠にそういうのか、興味本位で本を図書館にリクエストしてみた。出版元は「岩波書店」であり、著者はわたしより3歳年上である。

「若者の持つ幸福感の強さ」については措いて、上記引用部分のみを手がかりに、話をわたしなりに考えると、親たちの反応は驚くにあたらない。それは現在の社会を見ていれば容易に察しがつく。
寧ろ、「貧しい家庭の子供は教育を受ける機会が与えられなくとも仕方がない」と考える親がそれほど多くないことのほうに意外の念を受ける。(無論これは公表された数字のみに対する印象に過ぎないし、そのようなニュアンスを含んだ設問が為されたかどうかも不明だが)
 
そしてそれ以上に
 
「所得の多い家庭の子のほうがよりよい教育を受けられる傾向」 というときの
「よりよい教育」とはいかなるものかが知りたい。
「よりよい教育」─ いったい何を以ってそういいうるのだろう?
 
わたしはそもそも学校へ行く意味とは何か?というところまで遡って考えてみたい。
敢えて言えば「読み・書き・算盤」を習うこと。それで十分ではないかと思っている。
 
ここでは初等・中等教育の話をしているのだろうが、わたしの通っていた大学は、歴史もあり、創立の理念は「諸学の基礎は哲学にあり」という、それなりの理念も志操も持った大学だったが、今は創立当時どころか、わたしが通っていた(というよりも、一応籍を置いていた)当時に比べてすら、見る影もない醜悪な「ビジネス・スクール」に変貌してしてしまっている。京都大学で、「景観の問題」 とやらで、学内外の「立て看」が排除されたことは記憶に新しいが、わたしが行っていた大学でも全く同じ問題があった。


砂鉄は隣のページで

「何で先に言われたら30点なのか。
そもそも挨拶を点数化させていいのか」
 
という小学校教師の朝日新聞埼玉版への投書を取り上げている。
 
「小・中学校で道徳が正式な教科となったが、道徳に成績をつけるという矛盾した状態に、しっかりとした検証がないまま、子供たちの”評価”が始まってしまった。
ある小学校4年生の教科書では、あいさつを自己評価させる欄の記入例に、「あいさつを先に言われたから、30点」とあった。 
 (略)
人間を数値化する愚を避けるのが最低限の道徳だと思うのだが。」
 
繰り返すが、現在この国に於いて、はたして「よりよい教育」とは何を意味しているのか?
 
石原吉郎の文章の中に、はっきりとは覚えていないが、山の小さな小学校の教師が、「人をうらやむことのない子供に育てたいと思います」といい、とてもいい言葉だと、心に残っている、というようなことを書いていたが。 わたしの思い描く「よりよい教育環境」とは、都会に非ず、進学校に非ず、といえるだろう。
 
 
話を初めに戻して、 

今日の若者たちの幸福感の強さは、社会的に排除されていることの認識からも排除された結果といえるのです。
 
そして砂鉄氏は

自分の置かれた環境を客観的に見つめる視点を失うと、どのような環境にあったとしても、不満を抱かなくなってしまう。
 
 わたしはそうではないと思う。しばしば例に出すが、フランスでは一昨年暮れにも、マクロンの学費値上げに抗議する学生たちの大規模デモが行われた。それは彼ら一人一人の内側から発せられた怒りであり憤りである。彼らは自分たちの置かれた状況を「客観的に」「分析・検討」して街頭に繰り出し、旗を翻しているのではない。単純に「無能な政治家の政策が気に入らない」のだ。
 
一方で、日本の若者に欠如しているのは「自分を客観的に見つめる視点」などではなく、「主観」であり「強い自我」であり「エゴ」なのだ。換言すれば彼らは常に「主観」=「自分」ではなく「外側の目」=「客観的な視点」から自己を見つめている。「自己」の側から社会を見るのではなく、「社会」=「体制」=「大勢」の側に立って自分の思考・行動を制御しているように思われる。
 
手許の岩波の国語辞典にはこう書かれている
 
【客観】【─的】自分だけの考えではなく、誰が見てももっともだと思われるような立場で物事を考えること。

厳しい言い方をすれば「自分がない」のだ。
自己の考え、行動の規準は常に客観性を保っているか?
彼らの言動は、自己一身の内面から発せられたものではなく、自己の外側に、「私」とは無関係に存在する価値観であり、人生観であり、世間体であって、「他者の眼差し」が常に彼らの行動、思考を左右している。

石原吉郎の言うように、およそ「意見」とはすべからく「独断」である。主体性=良くも悪くも「独断」の欠如を支え、そのようなメンタリティーを量産しているのが、所謂、今日の「よりよい教育」であるのではないかと思われてならない。
 
最後にわたしは、若者の幸福感にケチをつけるつもりはない。身もふたもない言い方をすれば、「幸福」を感じているのならそれでいいじゃないかと思っている。
 
 

 

 

 

 

 

 

2021年3月11日

癩 友 美

 
最近中世からルネサンスそしてバロック時代の音楽を聴く機会が増えた。主に宗教曲である。それらの音楽の世界と「癩」ということばが、とてもぴったりとわたしの胸の中で融合する気がした。わたしにとって癩ということばは、ある種の宗教性を帯びている。
癩とは、「遠ざけられし者」と同義に思われる。
決して世の中に受け容れられることのない人たち。愛されざる者。
癩者と自分を同一視するのは或いは僭越でもあろうが、わたしの中では、何故か彼ら、彼女らが己の同類に思えてならない。 
癩の人の胸にこの身をもたせかけたいという静かなおもいを胸底に感じる・・・

わたしの信仰は「美」である、と前に書いた。 しかしそれは「天上」にはむかっていない。
美は弱さとかなしみの裡にこそ宿ると信じている。そして全能といわれる「神」に「弱さ」や「悲嘆」「涙」「絶望」を感じることはできない。
 
 

 
 
うつくしいもの


わたしみずからのなかでもいい

わたしの外の せかいでもいい

どこかに 「ほんとうに うつくしいもの」は ないのか

それが敵であっても かまわない

及びがたくても よい

ただ 在るということが 分かりさえすれば

ああ ひさしくも これを追うに つかれたこころ

『定本八木重吉詩集』(昭和49年)




 


 
 
 
 
 




 

静かに眠るために

 
知り合いで、中央アジアに生まれ、アメリカの先住民のもとで育った女性からこんな話を聞いたことがある。どこかで日本の墓参りを見たことがあるらしい。彼女は言った。
「日本人は墓参りのときに墓のまわりに生えた雑草をみんな抜いてしまい、かわりに切花を供えますね。自分らの祖先が埋葬されている墓から生まれてきた植物の新しい命を無造作に抜き取り、切り花という、つまりは”殺してしまった”花を供えるのは、意識としておかしいのではありませんか。わたしは逆であってほしいと考えます」

ー椎名誠 『ぼくがいま、死について 思うこと』(2013年)
この女性の意見にいちもにもなく賛同する。
 
 “From my rotting body, flowers shall grow and I am in them, and that is eternity.”
Edvard Munch
 
「わたしの腐乱したからだから花が咲き出す。わたしはそれらの中に息づいている。それは永遠だ」
 
とムンクは言った。
 
花ではなくとも、またその人のなきがらからでなくともいい。彼、彼女がねむっている場所から芽生え育った野草を無造作に引き抜くということは、ひいては、そこにねむるものへの冒瀆ではないのだろうか?

わたしなら立派だがよそよそしい切り花よりも、それこそ『お茶漬けの味』ではないが、「プリミティヴでインティメット」な雑草や素朴な野の花に囲まれて眠りたいと願うだろう。

草を引き抜き、美しい花を添える者たちは、自分もそうしてほしいと思っているのだろうか? 
 
 
 
Roots, 1943, Frida Kahlo  「ルーツ」 フリーダ・カーロ
 
 
仮に目の前の墓の中に彼が、彼女がいなくとも、その草花たちは、彼、彼女の魂から咲き出(い)でたものかもしれないという想いはないのだろうか?
 
 
 

 

 


2021年3月10日

戦争と平和

 

1945年3月10日、東京は大空襲による大量虐殺(ジェノサイド)に見舞われた。

以前、ネット上で、「あらゆることが相対的であったとしても「戦争」だけは比較を超えた「絶対悪」だといえないだろうか?」と記していた女性がいた。若い女性である。

その意見に全面的に賛同しつつも、なお、胸の底に澱のようなものが残る。
戦争は絶対悪であるという前提に同意しつつも、わたしはこの国で、75年以上戦争がなかったことが、現在の状態を生み出しているのではないかという思いを拭い去ることができない。
「平和」とは、「絶対悪」である「戦争」の対極であるといいながらも、実感として、「天国」と「地獄」のような、果てしない距離を、隔たりを感じられないのだ。
無論嘗ては「コールド・ウォー」=「冷戦」という銃弾を交えない戦争もあった。
しかしそれとも違う、なにかもっと重苦しい、鉛のような空気が常にこの国を支配しているように感じられてならない。

確かに「地上の楽園」と呼ばれるような国は存在したことはない。
問題を抱えていない国はない。

しかしこころの病、精神の障害を抱えて、あちこちで自らを「底辺」と呼び、全く彼ら、彼女らの責任ではない事柄について彼らを嘲弄する者がい、そして、嘲弄されたものはほとんどといっていいくらい、彼らを愚弄したものを恨まず、そのことばを引き受けて自らを譴責している。この光景は異常と言っていい。これはあくまでも仮説だが、戦後から現在に至るまでの数十年間は、とりもなおさず、日本人から、「憎む」「怒る」という感情を去勢し続けてきた時間なのではないか。厳密に言えば、「社会」から落ちこぼれること、欠けた歯車になることは、即ち「悪」であるという倒錯した価値観を日本人全体が内面化し続けてきた時代なのではないか。




なぜ私たちではなくあなたが?
あなたは代わってくださったのだ
代わって人としてあらゆるものを奪われ
地獄の責苦を悩み抜いてくださったのだ。

と神谷美恵子はハンセン病患者に対してこのような詩を書いた。

差別の根源は想像力の欠如にある。

「何故わたしではなくあなたが?」=「ひょっとしたらそれはわたしであったかもしれないのに」という、社会的な存在である人間として基本的な想像力の欠如といういわば悪性の疾患乃至障害である。

そして「平和な国ニッポン」は、「殴られ、唾を吐きかけられて、憎み、怒る」感情を去勢すると共に、
「ひょっとしたら私であったかも知れない」という人として最も大切な想像力さえも、断ち切ってきたのではないか。
 
わたしは、今の日本が、単に長きにわたって戦争がないというだけで「平和」であると主張しても、その主張は極めて空疎で、その「ヘイワ」と呼ばれるものの内実は「センソウ」とは別種の、人間の尊厳に対する蹂躙・冒瀆であり、精神の壊死を招く危機を内包していると考えざるを得ない。
 
MySpace 時代、わたしは友達にコメント=アートを送る際に、みなが'Have a good day!' と書く中、ひとり、'Have a Peaceful day/night'.と書き添えていた。わたしとしては、単純に、「よい一日を」というよりも「平穏な一日を」というほうがしっくり来るという理由からだったが、[Peace] には「平和」だけではなく、「平穏な」「穏やかな」という意味も含まれているはずだ。

戦争が絶対悪であるなら、そのアントニムはなにかと、もっと考えるべきではないか。
 
 
 
 




 

2021年3月7日

「何故?」と問うことの危うさ

 
馴れた階段をふみはずす

何故?

何故
 
と問うた時には
 
すでに日常の階段をふみはずしている
 
ー高橋喜久晴詩集「日常」(1973年)より
 
 
多くの人は「何故?」と問うことの危うさを本能的に知っている。或いは「目前の現実に従順であれ」という日本的心性乃至文化を内面化している。「何故?」と問うことが即ち、階段をふみはずすことであり、レールからの脱輪であることを知っている。
仮に何故と問いかけること、自問することが「哲学」の要諦であるとするなら。
「安全を確保された哲学(思惟)」とは何だ?
 
 「そこに「事実」があると受け取ってしまえば、それは一種の想像力の墓場になる」
とプリーモは書いた。
 
しかし逆に、「何故?」と問うことで、目の前の「その事実」を疑うことは「自明性への懐疑」につながり、何故と問う者に、階段をふみはずす以上の精神の危機を齎すだろう。