1945年3月10日、東京は大空襲による大量虐殺(ジェノサイド)に見舞われた。
以前、ネット上で、「あらゆることが相対的であったとしても「戦争」だけは比較を超えた「絶対悪」だといえないだろうか?」と記していた女性がいた。若い女性である。
その意見に全面的に賛同しつつも、なお、胸の底に澱のようなものが残る。
戦争は絶対悪であるという前提に同意しつつも、わたしはこの国で、75年以上戦争がなかったことが、現在の状態を生み出しているのではないかという思いを拭い去ることができない。
「平和」とは、「絶対悪」である「戦争」の対極であるといいながらも、実感として、「天国」と「地獄」のような、果てしない距離を、隔たりを感じられないのだ。
無論嘗ては「コールド・ウォー」=「冷戦」という銃弾を交えない戦争もあった。
しかしそれとも違う、なにかもっと重苦しい、鉛のような空気が常にこの国を支配しているように感じられてならない。
確かに「地上の楽園」と呼ばれるような国は存在したことはない。
問題を抱えていない国はない。
しかしこころの病、精神の障害を抱えて、あちこちで自らを「底辺」と呼び、全く彼ら、彼女らの責任ではない事柄について彼らを嘲弄する者がい、そして、嘲弄されたものはほとんどといっていいくらい、彼らを愚弄したものを恨まず、そのことばを引き受けて自らを譴責している。この光景は異常と言っていい。これはあくまでも仮説だが、戦後から現在に至るまでの数十年間は、とりもなおさず、日本人から、「憎む」「怒る」という感情を去勢し続けてきた時間なのではないか。厳密に言えば、「社会」から落ちこぼれること、欠けた歯車になることは、即ち「悪」であるという倒錯した価値観を日本人全体が内面化し続けてきた時代なのではないか。
◇
なぜ私たちではなくあなたが?
あなたは代わってくださったのだ
代わって人としてあらゆるものを奪われ
地獄の責苦を悩み抜いてくださったのだ。
と神谷美恵子はハンセン病患者に対してこのような詩を書いた。
差別の根源は想像力の欠如にある。
「何故わたしではなくあなたが?」=「ひょっとしたらそれはわたしであったかもしれないのに」という、社会的な存在である人間として基本的な想像力の欠如といういわば悪性の疾患乃至障害である。
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