馴れた階段をふみはずす
何故?
何故
と問うた時には
すでに日常の階段をふみはずしている
ー高橋喜久晴詩集「日常」(1973年)より
多くの人は「何故?」と問うことの危うさを本能的に知っている。或いは「目前の現実に従順であれ」という日本的心性乃至文化を内面化している。「何故?」と問うことが即ち、階段をふみはずすことであり、レールからの脱輪であることを知っている。
仮に何故と問いかけること、自問することが「哲学」の要諦であるとするなら。
「安全を確保された哲学(思惟)」とは何だ?
「そこに「事実」があると受け取ってしまえば、それは一種の想像力の墓場になる」
とプリーモは書いた。
しかし逆に、「何故?」と問うことで、目の前の「その事実」を疑うことは「自明性への懐疑」につながり、何故と問う者に、階段をふみはずす以上の精神の危機を齎すだろう。
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