2021年3月11日

静かに眠るために

 
知り合いで、中央アジアに生まれ、アメリカの先住民のもとで育った女性からこんな話を聞いたことがある。どこかで日本の墓参りを見たことがあるらしい。彼女は言った。
「日本人は墓参りのときに墓のまわりに生えた雑草をみんな抜いてしまい、かわりに切花を供えますね。自分らの祖先が埋葬されている墓から生まれてきた植物の新しい命を無造作に抜き取り、切り花という、つまりは”殺してしまった”花を供えるのは、意識としておかしいのではありませんか。わたしは逆であってほしいと考えます」

ー椎名誠 『ぼくがいま、死について 思うこと』(2013年)
この女性の意見にいちもにもなく賛同する。
 
 “From my rotting body, flowers shall grow and I am in them, and that is eternity.”
Edvard Munch
 
「わたしの腐乱したからだから花が咲き出す。わたしはそれらの中に息づいている。それは永遠だ」
 
とムンクは言った。
 
花ではなくとも、またその人のなきがらからでなくともいい。彼、彼女がねむっている場所から芽生え育った野草を無造作に引き抜くということは、ひいては、そこにねむるものへの冒瀆ではないのだろうか?

わたしなら立派だがよそよそしい切り花よりも、それこそ『お茶漬けの味』ではないが、「プリミティヴでインティメット」な雑草や素朴な野の花に囲まれて眠りたいと願うだろう。

草を引き抜き、美しい花を添える者たちは、自分もそうしてほしいと思っているのだろうか? 
 
 
 
Roots, 1943, Frida Kahlo  「ルーツ」 フリーダ・カーロ
 
 
仮に目の前の墓の中に彼が、彼女がいなくとも、その草花たちは、彼、彼女の魂から咲き出(い)でたものかもしれないという想いはないのだろうか?
 
 
 

 

 


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