2021年3月12日

「若者の持つ幸福感」と「よりよい教育」

 
いつものように図書館で母に借りてもらった、『暮らしの手帖』2019年秋号に、いつごろから連載されているのか知らないが、武田砂鉄という人の「今日ひろった言葉たち」というページがある。見開きで2ページ。彼が本に限定せず、様々な場所で出会い、こころに触れた言葉たちを集めている。

わたしにとっては、心に響くというよりも、今の世相を知る上で興味がある。あくまでも「情報」として読んでいる。

今日たまたま目を引いた言葉は、社会学者土井隆義氏の2019年の著書『「宿命」を生きる若者たち』からの抜粋で、
 
砂鉄氏が引用した部分は、
 
今日の若者たちの幸福感の強さは、社会的に排除されていることの認識からも排除された結果といえるのです

 砂鉄氏のコメントが続く、

「所得の多い家庭の子のほうがよりよい教育を受けられる傾向をどう思うか、とのアンケートに、「当然だ」「やむをえない」と答える保護者は6割を超えている(ベネッセ教育総合研究所・朝日新聞社「学校教育に対する保護者の意識調査」2018年)。

自分の置かれた環境を客観的に見つめる視点を失うと、どのような環境にあったとしても、不満を抱かなくなってしまう。今、若者たちが持っている幸福感に危うさを感じるのは、彼らが自分たちの居場所を把握する機会を与えられないまま、「やむをえない」と納得させられているからだ。」

これを読んで先ず驚いたのは、「今日の若者たちの幸福感の強さ」 という言葉だ。
それも「今日の若者たちの抱く幸福感」 ではなく、「幸福感の強さ」とさえ強調している。
ここで言われている「若者」の定義を、仮に16歳から36歳としても、そして仮に話半分としても、現在、少なからぬ若者たちが強い幸福感を感じている・・・ちょっと信じがたいが何を根拠にそういうのか、興味本位で本を図書館にリクエストしてみた。出版元は「岩波書店」であり、著者はわたしより3歳年上である。

「若者の持つ幸福感の強さ」については措いて、上記引用部分のみを手がかりに、話をわたしなりに考えると、親たちの反応は驚くにあたらない。それは現在の社会を見ていれば容易に察しがつく。
寧ろ、「貧しい家庭の子供は教育を受ける機会が与えられなくとも仕方がない」と考える親がそれほど多くないことのほうに意外の念を受ける。(無論これは公表された数字のみに対する印象に過ぎないし、そのようなニュアンスを含んだ設問が為されたかどうかも不明だが)
 
そしてそれ以上に
 
「所得の多い家庭の子のほうがよりよい教育を受けられる傾向」 というときの
「よりよい教育」とはいかなるものかが知りたい。
「よりよい教育」─ いったい何を以ってそういいうるのだろう?
 
わたしはそもそも学校へ行く意味とは何か?というところまで遡って考えてみたい。
敢えて言えば「読み・書き・算盤」を習うこと。それで十分ではないかと思っている。
 
ここでは初等・中等教育の話をしているのだろうが、わたしの通っていた大学は、歴史もあり、創立の理念は「諸学の基礎は哲学にあり」という、それなりの理念も志操も持った大学だったが、今は創立当時どころか、わたしが通っていた(というよりも、一応籍を置いていた)当時に比べてすら、見る影もない醜悪な「ビジネス・スクール」に変貌してしてしまっている。京都大学で、「景観の問題」 とやらで、学内外の「立て看」が排除されたことは記憶に新しいが、わたしが行っていた大学でも全く同じ問題があった。


砂鉄は隣のページで

「何で先に言われたら30点なのか。
そもそも挨拶を点数化させていいのか」
 
という小学校教師の朝日新聞埼玉版への投書を取り上げている。
 
「小・中学校で道徳が正式な教科となったが、道徳に成績をつけるという矛盾した状態に、しっかりとした検証がないまま、子供たちの”評価”が始まってしまった。
ある小学校4年生の教科書では、あいさつを自己評価させる欄の記入例に、「あいさつを先に言われたから、30点」とあった。 
 (略)
人間を数値化する愚を避けるのが最低限の道徳だと思うのだが。」
 
繰り返すが、現在この国に於いて、はたして「よりよい教育」とは何を意味しているのか?
 
石原吉郎の文章の中に、はっきりとは覚えていないが、山の小さな小学校の教師が、「人をうらやむことのない子供に育てたいと思います」といい、とてもいい言葉だと、心に残っている、というようなことを書いていたが。 わたしの思い描く「よりよい教育環境」とは、都会に非ず、進学校に非ず、といえるだろう。
 
 
話を初めに戻して、 

今日の若者たちの幸福感の強さは、社会的に排除されていることの認識からも排除された結果といえるのです。
 
そして砂鉄氏は

自分の置かれた環境を客観的に見つめる視点を失うと、どのような環境にあったとしても、不満を抱かなくなってしまう。
 
 わたしはそうではないと思う。しばしば例に出すが、フランスでは一昨年暮れにも、マクロンの学費値上げに抗議する学生たちの大規模デモが行われた。それは彼ら一人一人の内側から発せられた怒りであり憤りである。彼らは自分たちの置かれた状況を「客観的に」「分析・検討」して街頭に繰り出し、旗を翻しているのではない。単純に「無能な政治家の政策が気に入らない」のだ。
 
一方で、日本の若者に欠如しているのは「自分を客観的に見つめる視点」などではなく、「主観」であり「強い自我」であり「エゴ」なのだ。換言すれば彼らは常に「主観」=「自分」ではなく「外側の目」=「客観的な視点」から自己を見つめている。「自己」の側から社会を見るのではなく、「社会」=「体制」=「大勢」の側に立って自分の思考・行動を制御しているように思われる。
 
手許の岩波の国語辞典にはこう書かれている
 
【客観】【─的】自分だけの考えではなく、誰が見てももっともだと思われるような立場で物事を考えること。

厳しい言い方をすれば「自分がない」のだ。
自己の考え、行動の規準は常に客観性を保っているか?
彼らの言動は、自己一身の内面から発せられたものではなく、自己の外側に、「私」とは無関係に存在する価値観であり、人生観であり、世間体であって、「他者の眼差し」が常に彼らの行動、思考を左右している。

石原吉郎の言うように、およそ「意見」とはすべからく「独断」である。主体性=良くも悪くも「独断」の欠如を支え、そのようなメンタリティーを量産しているのが、所謂、今日の「よりよい教育」であるのではないかと思われてならない。
 
最後にわたしは、若者の幸福感にケチをつけるつもりはない。身もふたもない言い方をすれば、「幸福」を感じているのならそれでいいじゃないかと思っている。
 
 

 

 

 

 

 

 

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