戦後の苛立たしい時期、根をつめて読み通せぬまま、第一巻をいつまでも手にしていると、その息の長い文章は、同じく深い眠りの中でともにたゆたい、ともに揺れた。強いて先へ進もうという気もなく、つねに眺めていたのは新潮社版の訳で十一ページにあたる次の箇所である。・・・・時には反対に、部屋の小さいわりに天井がひどく高く、二階建てにもなるくらいの深いピラミッド型で、もう最初の瞬間から、嗅ぎなれぬヴェチヴェル草の匂いに気分をわるくし、紫色の窓掛けの敵意と、まるで傍若無人に大声でわめきたてる振り子時計の傲慢な無頓着さに、すっかり圧倒されてしまった部屋。しかもそこには角脚の異様な冷酷な鏡が部屋の一隅を斜めに仕切って、わたしの平素の視野の快いふくらみにさっくり切り込み、そこに思いもかけぬ敵地を作っている・・・
自室のあちこちに不快なあれこれを見つけるほどの繊細さをさほど持たなかったことはわたしにとっては幸いである。けれども、一歩外に出れば、そこはプルーストの言葉を借りれば「敵意に満ちた」「敵地」に他ならない。バスや電車の車内で、「傍若無人にわめきたてる」注意喚起のアナウンス。いたるところで目にする趣味の悪い車の色使い。無粋きわまる電子音。それらがわたしの内面に遠慮会釈なく切り込んでくる。
中井はこの文章の最後で、
現代のあわただしい生活からもっとも早く、もっとも深く喪われてしまったものが”香り”であることに違いはなく、それをどう取り戻すかは意外な大事業であるとともに、日本人の将来の大問題と思われる。われわれがほとんど色盲に近い生活を送っていると仮定すれば、その危機は容易に推察されるに違いない。
(初出「グラフィケーション」(1975年)
この考察がなされてから、既に45年を閲している。中井が、当時の日本人をほとんど「色盲」だと評したのは、どういう意味であるのかわからないが、いづれにしても、我々が喪ったものは最早取り戻すことはできない。仮に見え、聴こえ、匂い、触れ、味わうことができても、刺激を内面深く感受することができなければ、それらは単に網膜に対する、鼓膜に対する、粘膜に対する物理的な刺激に過ぎない。
美しいものだけが見え、心地よい音だけが耳に入り、良い香りだけを嗅ぐ事ができ、その一方で「紫色の窓掛けの敵意」「傍若無人に大声でわめきたてる振り子時計の音」「嗅ぎなれぬヴェチヴェル草の匂い」に苦しめられることのない感受性などあろうはずはないのだ。
なお、ここには「ヴェチヴェル草」にまつわる記述もある。
思わぬいきさつからその匂いに浸ることができたのは、昨年のフランス旅行の途次であった。パリではむろんペール・ラシェーズを訪ねて、漆黒の御影石に鋭い金文字彫り付けたプルーストの墓に詣で、彼の没年であり、私の生年である1922という数字を感慨深く撫でてきたのだが、まさかそこにヴェチヴェル草の一鉢が置かれていたわけではない。そんなことをしたら墓の下でも病弱な彼は大いに嘆息をつき、まだ安らかに眠らせてくれないのかと、咳(しわぶ)くことだろう。
それは明らかに日盛りの中で働く土工たちのシャツや地下足袋に乾いてくっついている土の匂いであり、胸にきらめく汗の臭いであり、さらに彼ら全体と陽光との醸し出す賑わしげで猥雑な空気の一種であった。
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