2020年1月11日

社会の家畜、或いは与えられるだけの人々・・・


先日、最近足が遠のいているあるサイトに、このような書き込みがあった。

「正月明け早々2時間残業なんてあり得ん!(笑)」
また
「12月の残業が200時間を超えた・・・」云々

どちらも怒っているわけでも、また絶望しきっているわけでもない。
「そんなもんだ」「仕方がない」という溜息まじりの呟きに聞こえる。

フランスではこういう生活を自分たちに直接・間接に強いる政治に対し、市民たちはゼネストで対抗した。
日本人は何やら「前向き」「ポジティブ」という言葉や(Behavior)ビヘイビアがお好きなようだが、これを見る限りに於いては、とても「前向き」や「(生きることに)ポジティブ」どころか、極めて受動的な民族ではないかと訝る。

ニーチェは仕事ばかりにかまけている人間を「怠惰」であると断じた。「自分自身と向き合うことをしない(そのような時間を持とうとしない)者」を「怠惰な人間」と呼んだのだ。

またカミュは、「人々は幸せになることに忙しく自分自身になる暇がないのだ」と、若き日のノートに綴っている。
この場合「幸福になること」が、「人間としての幸福」ではなく、「働いて金をもうけること」と同じ意味であることは言うまでもない。
フランス市民(何故かフランスは、首都パリに住む人に限らず「市民」と呼んでしまう。そして日本はどうしても「日本国民」だ。どうしたって「日本市民」と呼ぶには無理がある)は、しかし、「自分や家族の幸せ」のために、交通機関がマヒし、パリの街にゴミが溢れることも厭わない。つまり「働くこと」を拒否=「ストライキ」する。自分も拒否するし、ゴミ収集車が(同じ理由で)やってこないことも認める。これこそが、言葉の真っ当な意味での「ポジティブ」であり「生きることに前向きな姿勢」ではないか。
「ああ、今夜もまた残業か・・・」とぼやきながらも家を出て会社に向かうことを「前向き」とは言うまい。

◇

以前にも書いたが、週末になるとやってくる、この団地の住人の家族の車が出す、ドアを閉める際の「ピピッ」という音が神経を逆撫でする。「この車」に限ったことではないのだろう。今ではどのような車種であっても、こんな感じなのだろう。
ドアを「バタン!」と閉めるよりは「上品」とか「進んでる」と思っているのだろうか?
建物のドアと違い、車のドアはどうしても、静かに、音を立てずに閉めるということは難しいのだろうが、わたしからみれば「ピピッ」という電子音の方が無粋で、野蛮野暮である。利用者にいわせれば、「今はみんなそうなんだから仕方ないじゃない」

「前向き」な人たちは、「そういうものなのだから」前向きに順応する。不平を言ったり、文句を言うことは不毛なことだし、第一「昔の方が良かった」なんてあるわけないじゃないか。「僕たちは立ち止まってはいられないんだ、立ち止まること、それは遅滞であり、停滞であり、渋滞だ。立ち止まらずに進むしかないんだ」

◇

本日(十一日)、山手線日暮里駅で、目の不自由な人が、ホームから落ち、電車にひかれて死亡したという事故があった。新聞には大きな文字で「急がれるホームドアの設置」と書かれている。しかし、「昔は」少なくとも都内であれば、また余程の早朝や深夜でもなければ、ホームの端から端まで充分に目が行き届くだけの駅員がいた。そしてもうひとつ、今は、ホームに「人間」がいるのかいないのか・・・みなスマートフォンに魂を抜き取られ、手助けが必要な人がいても気づかない。見えていない。本当の「盲人」はどっちだ。

いったい「人間」は何処へ行ったのだ?

◇

最後にふたつの言葉を紹介する。

ひとつは、先日、「わたしの部屋に飾るポートレイト57人」の中に選んだ、アメリカの女流フォトグラファー、ドロシア・ラングの

“A camera is a tool for learning how to see without a camera.”

「カメラは、どのようにカメラなしで世界を見るかを学ぶための道具です」

わたしは彼女の"How To See The World Without Camera"という言葉を、世のスマホバカたちに送りたい。カメラを通してしか世界を見ることができない者たち。言い換えれば、SNSという「集団の眼」と共に世界を、世の現象を見ている者たち・・・君たちはめくらだ。

もう一つは、『純粋な幸福』の中で辺見庸が引用しているエミール・シオランの言葉
── 私は次のように明言しよう。すなわち、人間の抱く一切の企図が、遅かれ早かれ人間自身に刃を向けることになる以上は、理想的な社会形態を追求しても無駄なことだ、と。人間の行為はたとえ高邁なものであろうとも、結局は人間を粉砕すべく、人間の前に立ちふさがるのである。 
『歴史とユートピア』出口裕弘 訳 (1967年)

◇

「社会は現在、その出発点より後退してしまったように見える」 
ーカール・マルクス『ルイ・ボナパルドのブリュメール十八日』














2020年1月9日

書き続けること・・・


ブログに関しては、書けない状態になっていると言っていいだろう。『ぼく自身或いは困難な存在』を、曲がりなりにも2年間続けてきた。その前の『Nostalgic Light』が2017年の冬から書き始められているので、この両者を合わせれば、3年間書いてきたことになる。
たしかにその間、いや、それ以前、2016年頃から「書く方」のブログに比重が移り、メインのアート・ブログは間遠になっていた。
当時から1万人以上のフォロワーを持つブログを等閑視しても、書くことを、自分の内面を言葉にすることを選んだ。
今は再びアートに情熱が傾いているのかというと、決してそうとは言えない。
今は書くこと同様に、絵を選ぶこと、写真を渉猟することにも少し倦(う)んでいる。

「思索し」「書くこと」・・・これも「今年になってできなくなったこと」に連なるのだろうか?
これ以上「できなくなったこと」が増えれば、それこそ「寝たきり」の状態と実質的には変わらなくなる。片目が不自由であることも一因ではあるだろうが、その治療とても楽観はできない。幸いまだ(完全な健康な目ではないにせよ)右目は見えているのだから、書くことを続けたい。

◇

一昨日の夜、次の日に、読まずに図書館に返却するつもりだった辺見庸の『純粋な幸福』を数ページめくってみて、そのまま小一時間ほど読んだ。昨日返却はしなかった。

「ぼく自身・・・」の最後に書かれている「何のために書くのか?」は、出版社への手紙である。具体的には「毎日新聞社」。あれを読んだ担当編集者から、翌日電話があり、約20分ほど話したことは、前にも書いただろうか?

今回の『純粋な幸福』はもとより、以前から特に愛読していた辺見庸の何冊かの本の編集を担当した、わたしと同世代か、ちょっと年上か、という男性の話に納得したわけでも、辺見庸に対するわだかまりが消えたわけでもないが、編集者の「言い訳」とは別に、『純粋な幸福』は読んで損はないと思った。
辺見庸はいってみればわたしの中でエミール・シオランと同列の扱いを受けるようになったのだ。
人間として心酔は(最早)できないが、書いてあることには惹かれるし、肯くところが多い・・・と言った作者に。

やがて気づく。女といい男といい、客らの面差しの似たようなきれいさ、ある種の規格どおりの端正さに。声音と口ぶりの、まるで同じ音譜を謡うような共通の調子に感心し、少し戦(おのの)く。が、顔や声とはかつて、もっと各人各様の凸凹と輪郭があり、それぞれに尖ったり、凪いだり、時化たり、決壊するものではなかったのか。
 (中略)
ふといぶかる。その昔、ひとはなぜ老け顔をしていたのか。まだ十代、二十代なのにすっかり老成したかのようにふるまい、「存在の証」についてしかつめらしく弁じたりしたのか。なぜそうできたか。逆に、いまはなにゆえこんなにも若者が幼くみえるのか。人という実在はきょうび、なぜ、かほどに希薄なのか。携帯電話で動画を視ている人がつぶやく。「これなついよね」。なつかしいということらしい。音のかろみと乾きに、急に気疎(けうと)くなり、身内に深々(しんしん)と古錆びのような疲れが湧く。
ー辺見庸「馬の中の夜と港」『純粋な幸福』(2019年)より(太字、本書では傍点)

このあたりの描写は従来の辺見庸のままだ。もっともブログの方は、完全に変わってしまったけれど。

これ以上、日常が崩壊してゆくことを怖れる。日常の崩壊と人格の空洞化は同義だ。
しかしそれを押しとどめる妙案があるわけではない。気疎い日々を、「気疎い」と書き続けられることを願うだけだ。








2020年1月7日

タイトル


2枚の写真がある。

1枚目は、「アンタイトルド」(無題)
これは「無題」でいいと思うし、一番ぴったりの「タイトル/題名」だと思う。

Untitled, 1951, Irving Canner. (1924 - 1998)


2枚目はウィージーの撮った、「アンダー・アレスト」、「逮捕!」とでもいうのだろうか?

Under Arrest, ca 1940  Weegee.  (1899 - 1968)

これも、タイトルが写真の面白味を引き立てている。
もともとウィージーはニューヨークの夜の犯罪や事件、事故の様子を多くとっている写真家だ。本物の犯罪者を多く撮っている写真家だけに一層この写真がタイトルと相俟って面白味を増す。
尤も、この犬も実は凶悪な犯罪犬かもしれず。写真もタイトルも、冗談ではないのかもしれないが・・・

一般にストリート・フォトグラフのタイトルは、観る者を特定の視点に誘導したり、写真に込められた作者の意図などを暗示すべきではない。せいぜい撮影した場所、「ニューヨーク、何番街」という程度に留めておくべきだ。









2020年1月4日

コミュ障


あるサイトに登録して、そこでの自分のコミュニケーション能力の余りの低さに今更ながら愕然としている。
正に先日の底彦さんのコメントのような無知・一般常識の著しい欠如・・・

冒頭のようなことを書きこんだら、40代前半の女性から

>理解出来るようにちゃんと伝えてないことない?

というコメントがあった。正直このコメント自体が何を言わんとしているのか、分からない。

わたしの言葉は一体誰に通じているのか?

全く誰にも通じていないのではないだろうか?

だから誰にも相手にされず、小馬鹿にされるだけなのではないのか。

わたしや、底彦さんのデイケアの友人たちは、実際に紛れもなく「劣って」いるのではないか?

「使えない」「ダメな」「落ちこぼれ」で、底彦さんの感懐は、冷酷な、そしてあからさまな現実、事実、真実を伝えているだけなのではないか?

わたしは心のどこかで、そのような「現実」「事実」そして「真実」が、自らのものであるということから目を背けたいのではないか。認めたくないのではないか。しかしネット上であっても、人と交われば厭でも自分の無能力、無価値を思い知らされる。認めないわけにはいかない。







存在の傷・・・



なんにもないなあ 生きる糧なんて・・・





Untitled (Deep South #1, Scarred Tree), 1998, Sally Mann. born in 1951
- Tea-toned gelatin silver print -
 『傷ついた樹』1998年 サリー・マン




2020年1月3日

57人のポートレイト


気が滅入って仕方がない。先日、数年前のジム・ジャームッシュ監督の映画、『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』の主人公、ミュージシャンのアダムの部屋に飾られている57人のポートレイトの話をした。

タンブラーに投稿する絵を選ぶ気分でもないので、アダムと重複しないで、自分の好きな人・・・部屋にポートレイトを飾る57名を選んでみようと思う。
重複しないで・・・
既にアダムのところに、バッハ、ボードレール、オスカー・ワイルド、トム・ウェイツ、そしてエミリー・ディキンソンにビリー・ホリデーの写真がある。
彼・彼女を除いて57人か。

この際人柄などは問題にはしない。第一バッハがどんな人だったか誰が分かるというのか?同じく大のバッハ好きでも、エミール・シオランのバッハと神谷美恵子のバッハとでは、まるで別人だ。

とにかく、57人、つまりわたしが好きな作品を描いた、撮った、書いた、作曲した、演奏した、歌った人たちだ。

◇

①ウォーカー・エヴァンス
②ドロシア・ラング
③ロベール・ドアノー
④ブラッサイ
⑤ロイ・デカラバ
⑥デヴィッド’チム’シーモア
⑦エルンスト・ハース
⑧ジェイコブ・リース
⑨ルイス・W・ハイン
⑩E.アジェ
⑪シャルル・マルヴィル
⑫ソウル・ライター
⑬ダイアン・アーバス
⑭アンドレ・ケルテス
⑮ジョン・シンガー・サージェント
⑯ダンテ・ガブエル・ロセッティー
⑰ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス
⑱エドワード・バーン=ジョーンズ
⑲ウィリアム・モリス
⑳レメディオス・ヴァロ
㉑ウニカ・チュルン
㉒アンドレ・ブルトン
㉓ジョン・アトキンソン・グリムショー
㉔フランソワ・トリュフォー
㉕ジャン=リュック・ゴダール
㉖エリック・ロメール
㉗ルイ・マル
㉘ジョスカン・デ・プレ
㉙アルカンジェロ・コルレリ
㉚ウィリアム・バード
㉛屈原
㉜ビル・エヴァンス
㉝デクスター・ゴードン
㉞デヴィッド・ストーン・マーティン(DSM)
㉟プリーモ・レーヴィ
㊱ナンシー・グリフィス
㊲ケイト・ウルフ
㊳ナット・キング・コール
㊴フランク・シナトラ
㊵エラ・フィッツジェラルド
㊶キリ・テ・カナワ
㊷ピエール・モリニエ
㊸石原吉郎
㊹石川啄木
㊺尾崎放哉
㊻天野忠
㊼パスカル
㊽シモーヌ・ヴェイユ
㊾荘子
㊿ハインリッヒ・ハイネ
51朝日平吾
52大杉栄
53伊藤野枝
54古田大次郎
55難波大助
56磯部浅一
57ラナ・ターナー
以上57人。

わたしはそれとは別に、つまり上記の、わたしとはほとんど本質的なところで無関係な人たちとは別に、母と、祖母の写真を飾りたい。


ー追記ー

57人を挙げたが、まだ漏れた人がいるので、ここに追加しておく

チェット・ベイカー、ペトルス・ヴェン・シェンデル、カスパー・ダヴィッド・フリードリッヒ、カール・ラーション、ジョサイア・コンドル、フランク・ロイド・ライト・・・








2020年1月2日

ジャック・ブレル

Best Wishes

I wish for you dreams which never end,
and the furious desire to achieve some of them.

I wish for you to love what must be loved
and forget what must be forgotten.

I wish you passions.

I wish you silences.
I wish for you birdsong upon awakening
and the laughter of childern.

I wish for you to resist the downtroddeness,
the indifference,
the negative virtues of our times.

Above all I wish for you to be you.

- Jacques Brel 1968