先日の投稿「
無題」に、久しぶりの人からコメントをもらった。
イタリアに留学中の女性で、このブログの右側、プロフィールの下に書かれているふたつのブログで、最初のブログの終わりの頃から、そして引き続き、この前のブログに頻繁にコメントを寄せてくれていた。
昨年8月にちょっとした行き違いがあり、わたしはその彼女、Jさんのブログから遠ざかっていた。そして久しぶりの再会が一昨日のコメントだが、そこには昨年の10月にブログを閉鎖しました。と書かれていた。
コメントの最後の方に、以下のようなことが書かれている。Jさんに断りなく引用するが、決して彼女の揚げ足を取るつもりはなく、その言葉を読んだときに感じた印象を書いておきたい。Jさん、気分を害されたら深くお詫びします。
「正直言って私もこの世界に生きていることに飽き飽きしています。死ぬ気はないので、最後の1日まで丁寧に生き切るつもりでがおりますが、大半の人が少しでもこの世に長くいようとしがみついてるのとは、正反対で、私はいつその日が来るか、楽しみにしているくらいです。」
わたしが疑問に思うのは、これはJさんの言葉に対してではなく、一般論としての話だが、生きることに、また自分を取り巻いている世界(社会)、そして人間という存在に「絶望」しながらも、なお「日々を丁寧に生きる」ということが可能なのだろうか、ということだ。
もちろん刑務所の中に居ても、嫌な言葉だが、「確定死刑囚」という身分であっても、その閉ざされた空間と限られた時間の中で、繊細に生きている人は少なくないだろう。
しかし、ではそのような状況で、「丁寧に生きている」とは具体的にはどういうことだろう?わたしにはそもそも「丁寧に生きる」という意味がよくわからない。
わたしは今の世界の在り方に、この国の姿に、この国の人たちの根本的な心性に、「穢土」を見ている。 そして「絶望」する。その「絶望」は事毎に更新される・・・
人は果たして絶望しながら日々を丁寧に生きるということができるのだろうか。
Jさんとは正反対に、わたしは文字通り、「自堕落」を絵にかいたような毎日を送っている。本音を言えば、朝な夕なに酒色に溺れたいところだが、残念ながらその器量甲斐性がない。
「丁寧に生きる」などということは端から考えたこともない。
丁寧に生きるというのは、規則正しい生活をしたり、部屋の掃除をきちんとしたり、
たとえば聖書や仏典を読み、難解な映画を観、しばしば美術館に足を運ぶことではないだろう。
しかし仮にそれが、日常の些細なことに心を寄り添わせること、一輪の名前も知らない花の佇まいに心を通わせることだとしたら、わたしはそもそも、木々のさざめきや、片隅に咲いている花と通じ合えるような状態の心を持たない。
最晩年のプルーストが、コルク貼りの部屋の中で過ごしたように、「外界」に感覚を開放するということができないのだ。
木を殺す田夫たちの姿を見まいとし、まったく無造作に太い枝を、幹を切り落とし、まるでゴミででもあるかのように落ち葉を吹き飛ばすあの忌まわしい音を遮断しながら、同時に道端に咲く花に目を留める、ということは、不可能なのだ。
以前、アマゾンのレヴュアーで、なかなかセンスのいい数名の人たちのレヴューを読んでいた時期があった。その中のひとりが、『何故プラスチックの街路樹ではいけないのか?』という本の紹介をしていた。アマゾンのレヴューも御多分に漏れず仕様が変わり、すっかり読みにくくなって、もう読むことも書くこともしなくなったが、この本は確かカリフォルニアで実際にあった議論に基づいて書かれていると記憶している。
この本がどうであれ、実際にこれほど育っては伐り倒し、樹木に剪定は必要とは言え、かえって見苦しい姿にするだけの田夫たちのやり方であるならば、いっそ街路樹はプラスチックであってもかまわないのではないかとさえ思う。今は「造花」も本物と区別がつかないほどだという、であれば、見ただけでは本物と見紛うほどのプラスチックの木だって作れないことはないだろう。
Jさんは「絶望」という言葉を使ってはいないし、わたしほどおかしくなってはいないだろう。けれども、「じんせい百年!」と大旗がはためき「枯れるもの、朽ちるもの、萎れるもの、病むもの、壊れるもの」を忌避するこの時代に、なお「日々を丁寧に生きる」とはどういうことだろうか。
わたしにとって、「日々を丁寧に生きる」というのは、自分の美意識に沿った生き方ができるということに他ならない。例えば喫茶店でちょっと本を読みたいと思う。
けれども、きょうび、外観から内装、小物、そして目に見えない「雰囲気」まで「丁寧」に作られた喫茶店がどれほどあるだろう。食べ物、着る物、身に付ける物で、ほんとうに丁寧に造り込まれたものは「ブランド品」と呼ばれている。
男性用の下着にしても、今ではブリーフと言えば「セミビキニ」がほとんどだ(苦笑)
タオルシーツが売っていない。そもそも最近は「シーツ」を使う人がいないという。だから製造されていない。ないない尽くしの世の中・・・
「雑」に出来上がった世の中にあって「丁寧に」日々を生きるとはどういうことか、どうすればいいのか・・・
繰り返しますがこれはJさんの一言に対する反論ではなく、彼女がふと漏らした言葉からわたしが深く考えさせられたことを浅く書き記したものです。
Jさんには重ねてお詫びします。