2019年2月15日

鼬の最後っ屁 その1


わたしはついに、わたしを瞥見し、「ああはなりたくないねぇ・・・」といえるだけの「正統性」と「まっとうさ」を持つことができなかった。

わたしはついに、強い者、支持される者、讃えられる者よりも、指さされ嗤われ、顔に唾を吐きかけられるものの方が人間として上であるという美意識を捨てることができなかった。

そして「ああはなりたくないねえ」と、誰かを見て言う側にならずに済んだことを感謝している。

明日いっぱいでこのブログは「メンバー制」になります。「メンバー制」なんて言ったって、肝心の「メンバー」などいないのだけれど、まあなんというか筆者の気休めのようなものです。



ー追記ー

メンバー制のブログを閲覧するには、閲覧希望者のメールアドレスに招待状を送る手順となります。これがそんな代償を払ってまで読みたいブログだとは思いませんが、万一、引き続きこの駄文を読みたいという奇特な方がいらしたら、右下のフォームからメッセージとメールアドレスを送ってください。

年齢性別障害の有無、職業国籍など肩書きは一切不問ですが、申し訳ありませんが全ての方に閲覧の招待状を送ることはしません。またこちらからメールを送ることもありません。
甚だ傲慢ですが、こちらの独断とメッセージの内容で判断させていただきます。
明日夜の時点で誰も閲覧希望者が現れなくても、このブログは「メンバーズ・オンリー」になります。

こんなブログを読むくらいなら、まともな本を数ページ読む方がよっぽど有益です。

If You want to keep reading / watching this humble blog, Please send me a E-mail address from the mail form, with some message about why you want to keep reading/ watching this blog?
I will send you a invitation massage.

https://www.howtonote.jp/blogger/ini/index4.html

Takeo


◇


Members Only Bobby "Blue" Bland


Members only, it's a private party
Don't need no money to qualify
Don't bring your checkbook, bring your broken heart
'Cause it's members only tonight


Say you lost your woman, say you lost your man
You got a lot of problems, oh, in your life
Well, they're throwing a party for the brokenhearted

And it's members only tonight

Go tell Mama, go tell Daddy
Red or yellow, black or white
They're throwing a party, oh, for the sad and lonely
It's members only tonight


Members only, it's a private party
Don't need no money to qualify
Don't bring your checkbook, bring your broken heart
'Cause it's members only tonight

Say you lost your woman, say you lost your man
You got a lot of problems, oh, in your life
They're throwing a party for the brokenhearted
And it's members only tonight

Go tell Mama, go, go tell Daddy
Red or yellow, black or white
They're throwing a party for the sad and lonely
And it's members only tonight
'Cause it's members only tonight
'Cause it's members only tonight




2019年2月14日

「問い」


自分が、加速度的に「狂って」来ているのを感じる。ほぼ「狂人」といって間違いはない。が、いまだ「完全な狂人」にはなり切っていないことは辛うじて自覚できている。
しかし狂気の水位は既に胸のあたりまで上昇してきている。

これ以上「見世物」になるのは御免だ。
このブログは近いうちに「メンバー制」にする予定だ。
(わたしのほかのブログもそうだが)海外からの閲覧者が国内のそれよりも多いだけに残念だが、今は自分の魂を穢し貶めることを何より怖れる。
(「近いうちに」と書いたのは、このブロガーの使い方がまだよくわからないからだ。)


さて、「問い」

私:「何故私は誰からも嫌われるのでしょうか?」

A:「断言はできないけど、人を不愉快にさせちゃいけないわね」

私:「人を不愉快にさせているかどうかわかりませんし、そんなつもりはありませんが・・・」

A:「それを判断するのは相手であって、あなたではないのよ」

私:「ではどうすればいいのでしょうか?」

A:「人を不愉快にさせるような言動を慎むことじゃない?」

私:「蛆虫として生まれてきたことは「蛆虫の罪」でしょうか?蛆虫やナメクジが人を不快にさせるとして、それを「直す」「正す」とは、どのような意味でしょうか?」

A:「(苦笑)あなたは蛆虫なの?ナメクジなの?」

私:「そうです。あなたに違うという証明ができますか?」









「狂気の愛」とはトートロジーである…


嗚呼、わたしがほんとうに書きたかったのは、もっと別のことだ。

仮に精神障害者手帳1級であろうと、複数回閉鎖病棟に入院させられたことがあろうとも、基本的に「まとも」な人とわたしは友達になれない。わたしの真の友になれるのは、いわゆる「狂人」だけだ。つまりわたしのために「狂うことのできる人」だ。「正気の人」とは友達にはなれない。

以下2年前の2月に書いたフランソワ・トリュフォー監督作品、『黒衣の花嫁』のレヴューだ・・・


◇   ◇

『黒衣の花嫁』

フランソワ・トリュフォー1968年の作品。

ある晴れた結婚式の日、教会の向かい側のビルで、酒を飲みカードをしていた5人の男がライフルを弄んでいて誤って新郎を撃ってしまう。
愛する人を突然失った新婦、ジャンヌ・モローは自殺を図り窓から飛び降りようとするが止められてしまう。その日から彼女は「黒衣の花嫁」になった。「黒」は、死との婚礼、或いは死んだ者との契り、そしてその日から彼女自身が死んだことを意味しているように思える。

5年をかけて5人の身元を探り出した彼女は、ひとり、また一人と愛する人を殺した男たちを殺めてゆく。男たちはみな5年前の出来事など忘れている。

一人目の男は婚約したてのプレイボーイ。デートの時にテーブルの下にテープを仕掛けて、女性が足を組み替えるときのストッキングの擦れる音を録音しているような男だ。「ナイロンだ。絹のストッキングじゃこういう音はしない」と、呆れる友達に笑いながら話す。
ウィリアム・アイリッシュの原作を読んだことはないが、なかなか洒落たシーンだ。
その他にも、ジャンヌ・モローが時折レコードをかける時に使うポータブル・レコードプレーヤのデザインもいい。

二人目はすこぶる人のいい小市民といった男。これも彼女の美しさに惹かれて罠に陥る。

最終的に彼女は目的を達するのだが、一連の彼女の「復讐」を、「狂気」であるとか「常軌を逸した行為」と裁くことが出来る者がいるだろうか?

三人目を殺した後で彼女は教会の告解室で神父と話す。
神父は「憎む心で愛せるのか?」と彼女の行動を非難するが、「愛するからこそ憎める」のだ。

「あなたのために狂えるのは、わたしだけ」...誰の言葉か忘れたが、それが、真の愛なのだろう。

この映画を観て思い出すのは、小津安二郎監督の『東京物語』。
戦争で夫を失って8年、今もひとりで暮らしている紀子(原節子)に対して、義理の父親である笠智衆はいう、「もうわすれてくれていいんじゃ」すると紀子は「わたしずるいんです」という。
「彼のことを忘れている時がある」「思い出さない日もある」のだと。

いなくなって8年経った夫を忘れることがあるというのを「ずるい」と思うか「ずるいということはない」と思うかはそれぞれだろう。けれども「黒衣の花嫁」は忘れることが出来なかった。
複数とはいえ特定できる誰かに殺されたのと、戦争で死んだのでは違うというかもしれない、しかし例えば山上たつひこの『回転』などは、愛する人を戦争で失い、ある日彼女の愛を奪った「戦争」に「復讐」する話であった。

「黒衣の花嫁」も『回転』の女性も、紀子と違って「このままではいけない」という将来への漠然とした不安を抱いてはいない。紀子は「ずるい」といいながらも未来への希望も持っている。希望があるから不安があるのだ。
けれども上記のふたりにとって、人生は愛する人を失った瞬間から止まっている。一度止まった針は再び動き出すことはないのだ。

「黒衣の花嫁」も、おそらくは『回転』の女性も死刑になるだろう。けれどもそれよりも先に彼女たちの生命はすでに息づくことを止めているのだ。


2019年2月14日 ヴァレンタインズ・デーに記す。











「場」


「生きていくということは、どうしてまたこんなにむずかしいのだろうと、ため息をつきたくなる。何も考えずに、ただ無我夢中で追われていくだけなら、それほど身にせまっては来ないのだが、それでも背後にそびえ立つ目に見えない壁がゆっくりと音もなく崩れてくるような不安からは、一秒だってのがれるわけには行かない。そうして、ふと立ち止まると、その瞬間に自分の足もとで、思いもかけぬ深淵が口を開く。しかしそれでも、生きるということを放棄するわけには行かないのだ。この生きないわけには行かないということは、なんと理解しがたい、重苦しいことだろう。

ー石原吉郎「日常への強制」より [下線、本書では傍点]

「生きるということを放棄するわけには行かないのだ。」

「生きないわけには行かない」

彼はいったい何を言っているのだろう?

生きるということを放棄するわけには行かない? 何故?

それは我々誰もが「生という刑」に処せられていて、そこから逃亡することはできないという意味なのか?


◇


「生き場所のみがのがれがたくのこった。死に場所を得られぬままに。」 ー 石原吉郎


「逃げ場はない。ただ死に場所だけがある」 ー 辺見庸


そしてわたしは再び繰り返す。「死に場所こそが逃げ場だ」と。









葬送


Adagio for Strings, Op. 11: Molto Adagio Composed by Samuel Barber. (1910 - 1981) Leonard Bernstein Conducted - Los Angeles Philharmonic.


◇


わたしの友人が書いていた。「心痛み申し候…」を読んで。

「Takeoさんは本気で神と接しなければならない人、なのかもしれない。」と。

「神」については過去の投稿で幾度か言及している。

しかし今わたしに必要なのは、たったひとりの味方。

つまり是非・善悪を超えて、わたしの友だといえる人です。

それは或いは殺人者とその情婦との間柄に近いかもしれない。

それは言ってみれば「狂気」によって結ばれた関係。

嘗てマーク・トゥエインが言ったように・・・

「君が間違ったときにも味方である者が真の友だ。正しい時には誰でも味方だ」


◇


"I would rather walk with a friend in the dark, than alone in the light."
― Helen Keller

「独りで光の中を歩くよりも、友と暗闇の中を歩く方がいい」(ヘレン・ケラー)

しかし、友こそが灯なのだ。闇の中だからこそ友なのだ・・・



Moonshine by the Sea, Charles-François Daubigny. (1860 - 1862)





















フィロソフィー・オブ・ライフ(書かれざる哲学)


From the Series Dear Darkness, 2011, Malin Ahlsved. Finnish, borrn in 1976.
- Watercolour and Watercolour Crayon on Paper -






◇

私たちは「誰もが、究極においては生きなければならない孤独と隣りあわせ」(須賀敦子)である。
孤独はときに人を孤絶させる。けれども同時にそれぞれの人間がうちに秘めている孤独を見出すとき、それは互いに共鳴し、生きるための糧となる筈である。そしてそのとき私たちは、はじめて「孤独」とか「愛」といった言葉の意味を知り、ふっと言葉を綴りはじめる。
ー 松山巖『本を読む。」より








2019年2月13日

生誕


プリーモ・レーヴィは「人間であることの恥」といい、エミール・シオランは「生誕。すなわち敗北なのだ」と認め、石原吉郎は「生きて行くことは、どうしてまたこんなにむずかしいのだろうと、ため息をつきたくなる」とつぶやく。

「恥辱」「敗北」「困難」・・・

つまりは人間として生まれてきたこと、そして人間として生きるということが、我々に科せられた、ひとつの「罰」なのだろう・・・


◇


The Morning, 1810, Philipp Otto Runge. (1777 - 1810)

フィリップ・オットー・ルンゲ(ドイツ・ロマン派の画家)による「朝」(1810年)


 The Morning (Ditail), Philipp Otto Runge.

「朝」(ディテイル)