2019年1月5日

タクシー・ドライバー


Scene from the movie 'Taxi Driver' dir by Martin Scorsese (1976) 
「タクシー・ドライバー」

もう10年ほど前、NHKの英語番組に、アメリカのテレビドラマ『プリズン・ブレイク』の悪役の俳優が出演してインタビューに答えていた。
その時の彼の答えが印象に残っている。

ロバート・デ・ニーロが、「悪役をやる時に気をつけていることは?」と訊かれたときに答えたという言葉を引用していた。

「俺は「悪人」を演じてるんじゃない。「人とは違う選択をする人間」を演じているんだ」

『タクシー・ドライバー』(1976年)は時々思い出したように観たくなる映画だ。なによりも「映像」が美しい。ちょうどヴィスコンティの『ベニスに死す』(1971年)やヴィクトール・エリセの『エル・スール』(1983年)のような、映像の美しさに息をのみ胸をつかれる映画。

ニューヨークの美しさを描き出した映画は幾つもあるが、例えばウディー・アレンのモノクロ作品『マンハッタン』(1979年)よりも、このカラー・フィルムの方が数倍美しい。

この時代、このキャスト、この監督、このカメラマンだからこその映画で、仮に今、この作品をリメイクしようとしても無惨な結果に終わるだろう。
ちょうど山田洋次が小津の『東京物語』(1953年)を60年後にリメイクして大失敗したように。


Gloomy Sunday - Mel Torme (1958)

「暗い日曜日」- メル・トーメ







「異常」とは「過度の正常」さに他ならない


●「健康」という概念の中には、ある人が故障なしにふつうに生活をしていけるような、ふつうの時期の状態という意味が含まれている。つまり簡単にいうと、「健康」という言葉には「常態」という意味がある。したがってこの場合には、「異常」すなわち「正常値」の上限・下限いずれの逸脱も、その人の常態からの逸脱、つまり「不健康」あるいは「病的」の意味を持ってくる。
 (略)
「治療」とは異常値を正常値にまで復帰させるという意味を帯びており、それはとりもなおさず、ある個人について常態をはずれた状態を常態にまで復元するということなのである。


われわれは奇型は醜いものという動かしがたい偏見を持っている。これは整然たるもの、規則的なものに対する、不整のもの、不規則なものという考え方から来ていることであるけれども、手の指が五本あるのが規則的で、四本や六本ならば不規則という理屈はどこにもない。
われわれの日常的・常識的な美醜の判断がいかに習慣的な先入観によって左右されているかは、驚くべきことである。いずれにせよ、ここでは、「異常」がひそかに「劣等」の意味を帯びていることは否定しがたい。


常識は一種の「考え」の基礎になるものではあっても、理詰めの、理論的、推論的な判断とは別種の、むしろこれに対置されるものである。つまり常識には、理論的分別知以前の、一種の勘のようなはたらきが属しているのではないだろうか。


● 常識とは、人びとの相互了解場における実践的感覚が、ある種の規範化をこうむったものと解することができる。
 (略)
常識といわれるものが存在すること、それが一種の規範性を帯びたものであり、公理的なものであることは、時代や文化の相違を超えて人類の共同体一般について言えるようである。
「公理」という言葉は、今日では「自明の事として証明なしに真理として受け取られるような前提」という、きわめて論理的な意味で用いられている。しかしそれの源になっているギリシャ語のアキシオーマは、「人々が共通に真または美と判断するもの」という、より世間的で実践的な意味を持っていた。いま、「あるものはそれ自体にひとしい」という公理についてみると、これは一見、それ自体において当然な、絶対的な自明性をもっているように見えるけれども、これが真理とみなされるのは、人びとが共通にそれを真だと判断しているからなのである。判断といっても、私たちはこの公理を理論的・推論的に証明することはできない。これはまさに、センスス・コムーニス(コモン・センス)とよばれる感覚によって直観的に感じとられる以外には近づきようのない「真理」である。そしてこの「真理」は、人びとが共通に「それ以外には考えようのないこと」として感じとっている限りにおいて、強い規範性を帯びてくることになる。
常識が帯びているこの強い規範性は、常識を外れたものの見方や行為に対する強力な規制の根拠となっている。精神異常者が日常性の社会から徹底的に排除されるのは、常識によるこの規制措置の結果である。


● このような思考様式は「異常」とみなされるものである。しかし、この「異常」は決して「劣等」を意味しないはずである。患者は私たち「正常人」の常識的合理性の論理構造を持ちえないのではない。すくなくとも私たちと共通の言語を用いて自己の体験を言い表しているかぎりにおいて、患者は合理的論理性の能力を失っているわけではない。むしろ逆に、私たち「正常人」が患者の側の「論理」を理解しえないのであり、分裂病的(反)論理性の能力を所有していないのである。患者がその能力において私たちより劣っているのではなくて、私たちがむしろ劣っているのかもしれない。ヤスパースが分裂病体験を「了解不能」と述べたのは、実は「不可能」の意味にではなく、私たちの側の「無能力」意味に解さねばならないのである。
私たち「正常人」は、1=1の公式に基づいた論理を理解する能力しか持ち合わせていない。これはむしろ、私たちの思考能力のいちじるしい狭さと、偏りとを示すものに他ならない。
「正常人」とは、たった一つの窮屈な公式(A=A / A≠B)に拘束された、おそろしく融通の利かぬ不自由な思考習慣を負わされた、奇型的頭脳の持ち主だとすらいえるかもしれない。それにもかかわらず、世間一般の「正常人」は、本来自分たちよりもはるかに自由闊達な論理構造を駆使する分裂病者たちを「異常者」として差別し自分たちの社会から排除してはばからない。それはなにゆえであろうか。そのような差別や排除にはそもそもなんらかの正当な根拠があるのだろうか。もしあるとするならば、その正当な根拠とはいったい何なのだろうか。


● 現代の世論は一般に、精神異常者に対する差別を撤廃し、彼らを社会の共同生活の中へ迎え入れようとする方向で動いている。しかし、この運動が単なる感傷的ヒューマニズムの立場からなされるものであるならば、それは事態の真相を全く理解しないばかりか、偽善的自己満足以外のなにものでもないところの無意味な運動に終わらざるを得ない。
「異常者」を真の意味で私たちの仲間として受け入れようとするためには、私たちはみずからが日常なんの疑問もなく自明の事として受け入れている自己の存在という現実を、あるいはそもそも「生きている」ということの意味を、もう一度あらためて問いなおしてみるだけの勇気を持たなくてはならない。生の事実を盲目的に、無反省に肯定する立場からは、「異常」の差別に対する反省は不可能なのである。

ー 木村敏『異常の構造』講談社現代新書(1973年)より抜粋 (下線・太字・括弧Takeo)



本書は「講談社現代新書」の分類では、「人間心理と人間関係」の中に収められている。
けれども、これは心理学や精神医学というよりも、明らかに「哲学」に傾斜している。
この本からいくつもの引用をしてきたが、それでもまだまだ書き写したい箇所はいくらでもある。そうすると、この本のほとんどの部分を書き写さなければならなくなる。


最後に本書の冒頭に木村敏が引用しているキルケゴールの言葉を。

精神病院の医者が、自分は永遠に賢明だと思い込み、彼のちっぽけな分別がどのような人生の痛手をも受けないように保証されているなどと信じるほどまでに愚かであるならば、彼はある意味では狂人たちよりも賢明であるかもしれないけれども、同時に彼ら以上に愚かなのであって、多くの狂人を癒すこともないに違いない。












2019年1月4日

この不思議な世界2


「あれこれと言葉を模索しながら彼女が訴えようとしていた彼女の「障害」あるいは「欠点」は、一言でいえば、彼女には世間一般の人々にとってはまったく自明の理である常識がわからないということだろう。「だれでも、どうふるまうかを知っているはずです。そこにはすべて決まりがあります。私にはそのきまりがまだはっきりわからないのです。基本が欠けているのです。」「私に欠けているのはほんのちょっとしたこと、大切なこと、それがなければ生きていけないようなこと・・・」「なにかが抜けているんです。でもそれが何かということを言えないんです。どんな子供にでもわかることなんです。ふつうならあたりまえのこととして身につけていること、それを私はいうことができません。ただ感じるんです・・・

これと本質的に同一の「障害」を、わたしの患者は、たとえば次のように表現している。

「どこがおかしいかわからないが、どこかおかしくなる。自分の立場がない感じ。自分で自分を支配していない感じ。なにかにつけて判断しにくい。周囲の人たちがふつうに自然にやっていることの意味がわからない。皆も自分と同じ人間なんだということが実感としてわからない。なにもかも、すこし違っているみたいな感じ」
 (略)
私は先に、常識とは知識ではなく感覚の一種であり、それもいわば実践的な勘のようなものだと述べた。実践的な勘は、私たちの意識生活においてはつねに背景的にしかはたらかぬものであり、「ちょっとした勘をはたらかせれば」といういいまわしからも判るように、意識面での比重からみればごく些細なことである。ところがこの些細なことがひとたび見失われると、私たちのあらゆる行動が、それだけでなく私たちのあらゆる感覚が、支えを失いけじめを失って実践的現実に適応しなくなる。私の患者が「すこし違っている」といい、アンネが「ちょっとしたこと、それがなければ生きていけないこと」といったのは、まさにこのような意味での常識に他ならない。」(下線Takeo)
ー 木村敏『異常の構造』第5章「ブランケンブルグの症例アンネ」



上で木村敏が紹介しているのは、ドイツの精神病理学者ブランケンブルグの著書『自然な自明性の喪失』(1971年)の中心に置かれている一女性患者アンネの症例である。
アンネ自身の言葉である「自然な自明性の喪失」という感覚はわたしにもよくわかる。


「彼女はいつも自分の疑問に対する答えを欲しがっていた。それは、大人になるとはどういうことか、自分のどこが悪いのか、日常生活のちょっとしたなんでもないことや、ごくありふれた言葉の意味などが、どうしたらわかるのかといった疑問だった」(同上)



わたしには、自分がこの世界に置かれているという感覚はあるが、この世界の一員であるという実感がない。であるから、「彼ら / 彼女ら」にとって、まったく「自明」のことの多くがよくわからない。
木村敏の患者の言う
周囲の人たちがふつうに自然にやっていることの意味がわからない。皆も自分と同じ人間なんだということが実感としてわからない。」という言葉は、正にわたしの言葉でもある。

また『自然な自明性の喪失』というが、「自然な自明性」とはいったい何だろう。
そもそもわたしにとって自然な=当たり前に「自明な事」などというものが存在しているのだろうか?

仮に木村敏の患者やブランケンブルグの患者であるアンネ、そしてわたしが「皆と同じ人間ではない」としたら、「人間にとって自明の事」はわたしたちにとってはまったく「自明の事」ではあり得ない。



所謂「引きこもり」や心を病んだ人たちの書いたブログを読んでいると、そこには、自分も皆と同じような普通の生活を持ちたかったという声があちこちから聞こえてくる。
「普通に学校を卒業して、普通に就職して、普通に結婚し、子供をもって、両親に孫を抱かせて・・・云々」と。けれどもそれぞれの事情によって、その「普通のこと」を達成することができなかったと嘆いている。

つまり彼らは、何が「普通」=「常態」であるのかということをきちんと弁えている。少なくとも、自分が「この社会」の中で、何をすべきか?何がしたいのか?何をしなければならない(とされているのか)を知っている・・・

しかしわたしには彼らと共通した感覚が欠けている。何ひとつ当たり前でふつうのこと=生きてゆくうえでの自明の事がないのだから。





自然は、あるいはこの宇宙は、存在する必要もなしに存在しているに過ぎない。太陽の運行は確かに規則的である。しかし太陽が存在するということ、それが運行しているということ、さらには人間を支えているこの地球が存在し、太陽との規則的関係において運行していること、地球上にそもそも生命なるものが存在するということ、これらはすべていっさいの規則性を超越した大いなる偶然でる。そしてそれが偶然であるかぎりにおいて、合理性とは真正面から対立するものである。
この大いなる偶然性・非合理性こそは自然の真相であり、その本性である。それが人間の目に見せている規則性や合理性は単なる表面的な仮構にすぎない。
真の自然とはどこまでも奥深いものである。自然の真の秘密は私たちの頭脳でははかり知ることはできない。そのような自然を人間は科学の手によって支配しようと企てたのである。そして自然の上に合理性の網をはりめぐらせて、一応の安心感を抱いて、その上に文明という虚構を築き上げたのである。

現代の科学信仰をささえている「自然の合法則性」がこのような虚構にすぎないとしたら、その上に基礎を置くいっさいの合理性はみごとな砂上の楼閣だということになってしまう。そのような合理的な世界観は、それがいかにみずからの堅牢さを妄信しようとも、意識の底においてはつねに、みずからの圧殺した自然本来の非合理性の痛恨の声を聴いているに違いない。それだからこそ、この合理的世界観は、いっそう必死になって自らの正当性を主張するのである。」(下線Takeo)
同書第1章「現代と異常」


ー追記ー

木村敏が「わたしたち」を「常識」に対する「非常識」と呼ばずに「反常識」と呼んでいることが興味深い。
何が嫌いと言って、「わたし個人がどう思おうとそれが現実というものなんだから・・・」という態度ほど嫌悪を催させるものはない。

















2019年1月3日

無題


私は何もしていない。そのことは認めよう。だが私は、時間が過ぎてゆくのを眺めている。── 時間を埋めようとするよりは高級なはずだ。
ーエミール・シオラン (下線、本書では傍点)






この不思議な世界


「常識的日常性の世界とは、私たちのだれもがふつう特別な反省なしにその中に住みつき、その中で生活を送り、その中でものを見たり考えたりしている世界である。この世界は私たちにとってあまりにも身近な世界、あまりにも自明な世界であり、いわば私たち自身の存在、私たち自身が「ある」ということがそれと一つのこととして同化しきってしまっている世界であって、私たちはこれを対象化して認識したり、いわんやそれの構造を問題にしたりすることには慣れていない。
したがって、私たちが常識的日常性の自明さに安住し、その論理構造を唯一の絶対的妥当性をもつものとして容認しているかぎり、常識の構造を問うという私たちの課題はおそらく永久に達成できないだろう。この課題を達成しうるためには、私たちはどうしても常識的日常性を相対化し、それの絶対的妥当性から自由になって、それをいくつかのありうべき可能性のうちの一つの特殊例に過ぎないものとして把えなおさなければならない。
ー木村敏『異常の構造』第7章「常識的日常世界の『世界公式』」(下線Takeo)



わたしをとりまくこの世界=外界は、わたしにとって、「わたしの居場所」「わたしの魂の棲み処」として、全く「自明のもの」ではない。
わたしが属しているとされる「この世界」は、
あまりにも身近な世界、あまりにも自明な世界」ではない。
であるからわたしは常に
これを対象化して認識したり」「それの構造を問題にしたり」するのだ。

自分の身体が、物理的にそこにあるというだけで、わたしの内面、わたしの精神は、この世界内に属してはいない。そのような感覚はこの10年来わたしが折に触れて感じていることだ。

逆に言えば、多くの人たちにとって、「この世界」が、彼ら / 彼女らにとって「自明の」世界であるとするなら、いったいその違いは何に由来するのだろう?

わたしが「この世界」への違和感の象徴として「スマホ」を度々持ち出すのも、何故彼らは、「それ」を持つことが、あたかも「この世界」で生きる上で「自明の事」のように考えているのかがわからないからだ。
何故彼らにとって自明の事柄の数々が、わたしにとってはまったく不可解なこと=自明性を欠いたことなのだろうか。

いったい多くの人たちは、年齢や性別、知能や性質の如何を問わず、「今ここにあるこの世界」を自分の存在にとって自明であるという「公理」を、いつ、どこで身に着けたのだろう?そしてその「自明性」の因って立つ「根拠」とは・・・

わたしにとって「この世界」は
いくつかのありうべき可能性のうちの一つの特殊例に過ぎないもの」であって、「スマホ」を持つという「選択」もまた、いくつかの選択肢の一つに過ぎない。それを持つことはわたしにとってなんら「選択の余地のない」「自明の事」ではないのだ。
そして、この世界に生まれてきたことが、この世界で生き(続け)なければならないという「争う余地のない」「自明性」には決してならないことは言うまでもない。

多くの人たちにとって、「この世界」に生を享けたことは、ひょっとしたら、絶対的な必然性を持つものかもしれない。けれども、わたしにとっては、「いくつものありうべき可能性の中」から、偶々「この世界」に落ちてきただけのことなのだ・・・


ー追記ー

何かが「自明である」ということは、それについての「検証」も「論証」も省かれているということに他ならない。何故そのような無批判・無反省の事柄を肯んじようか。











2019年1月2日

『異常の構造』木村敏 ー 永遠のアポリア…


自分が読んで感銘を受けたとか、いろいろと考えさせられた本を、人にも読んでもらいたいと思う気持ちはわたしにもある。
本を薦めるということは、言い換えれば「自分はこういう本を読んで感銘を受け、刺激を受ける人間である」ということを相手に伝えたいということなのだろう。
単純に「いい本だから」とか、「おもしろいから」ということではなく、やはり、他ならぬ、「この本を読んだわたし」を知ってもらいたいのだ。

とは言え、わたし自身は何事によらず、人から薦められるということが苦手な人間だ。
であるから「己の欲せざることを人に施すことなかれ」という黄金律に従って、本でもCDでもビデオでも、人に薦めることはしない。



「異常」と「正常」または「狂気」と「正気」ということをほとんど常に考えている。
木村敏の『異常の構造』講談社現代新書(1973年)は、精神病理学者である筆者が、主に「統合失調症」(本書では「分裂病」)というものを通じて、人間に於ける「正常」と「異常」とは如何なるものかを、医学的・科学的というよりも、例によって、哲学的なアプローチで考察した充実した内容の一冊である。

以下、本書から、「統合失調症」を媒介とした木村敏の人間観が記されていると思われる部分を引用する。





彼らが場違いに繊細な感受能力を持って生まれてきたという運命が、すでにその時点において彼を分裂病者として規定していたのかもしれないのである。私はふつうにいわれている意味での「分裂病性の遺伝」や「分裂病性の素質」は信じたくない。そこにはつねに、なんらかのネガティヴな評価が、つまり「先天的劣等性」のような見方が含まれているからである。私はむしろ、分裂病者はもともと人一倍すぐれた共感能力の所有者であり、そのために知的で合理的な操作による偽自己の確立に失敗して分裂病に陥ることになったのだと考えている。そのようなポジティヴな意味での「素質」ならば十分に考えられることだろう。」


「病気」の概念は「健康」の対概念として、「常態からの逸脱」を意味している。ところが分裂病者の場合、彼の「常態」とはいったいなにをさしていわれることなのだろうか。
 (略)
分裂病者はまさに分裂病者であること以外に彼の「常態」をもたないのではあるまいか。
 (略)
つまり分裂病を「病気」とみなす見方のうちには、暗黙の裡に、さきに述べた「多数者」と「常態」との読みかえがおこなわれ、「異常」から「病気」への意味変更が行われているのである。」


「・・・この「不幸」とか「気の毒」とかいう発想自体が、結局は私たちの常識的日常性の立場から、つまり正常者であることを好ましいとし、異常であることを好ましくないとする立場から出てくる発想であることに変わりはない。
しかしだからといって私たちはどうやって常識的日常性の立場を捨てることができるのか。それはおそらく、私たち自身が分裂病者となることによる以外、不可能なことだろう。私たちは自分が「正常人」であるかぎり、つまり1=1を自明の公理とみなさざるをえないでいるかぎり、真に分裂病者を理解し、分裂病者の立場に立ってものを考えることができないのではないか。そして私たちが分裂病者を心の底から理解しえたときには、もはやその「治療」などということは問題にならないのではないだろうか。

アメリカの革新的な精神分析家のトマス・サスは、ふつうの病気がテレビ受像機の故障に譬えられるならば、精神病は好ましからざるテレビ番組に譬えられ、ふつうの治療が受像機の修理に相当するとすれば、精神病の精神療法は番組の検閲と修正に相当するといっている。しかし分裂病を「好ましくない」と判断し、これに「検閲と修正」を加える権威を単にその都度の体制的な社会規範やその都度の社会の常識的日常性にのみ求めるのでは、この譬えはまったく陳腐なつまらないものになってしまう。規範が変わり、常識が変わっても、そこにはつねに変わらず、規範や常識側に立つ大多数の「正常者」と、これから外れた少数の「異常者」との間の緊張は残るだろう。この緊張の真の原因は、いかなる種類のものであれ、そのような社会規範と常識が必然的に生み出される源であるところの、個人と社会との生命的次元における矛盾的統一の裡にある。私たちが分裂病者を「気の毒」と感じてこれを「治療」しようとするのも、逆に私たちが「正常性」の虚構を見抜いて「治療」を偽善とみなすのも、すべてこの生命的次元における矛盾的統一に由来するものなのである。

分裂病を「病気」とみなし、これを「治療」しようという発想は、私たちが常識的日常性一般の立場に立つことによってのみ可能となるような発想である。そして私たちは、自らの個体としての生存を肯定し、これを保持しようとする意志を有している限り、しょせんは常識的日常性の立場を捨てることができない。私たちにできるのはたかだかのところ、この常識的日常性の立場が、生への執着という「原罪」から由来する虚構であって、分裂病という精神の異常を「治療」しようとする私たちの努力は、私たち「正常者」の側の自分勝手な論理にもとづいているということを、冷静に見極めておくくらいのことに過ぎないだろう。」


「私たちが西欧諸国から受け継いできた従来の精神医学がその根底において間違っているということ、このことだけは最初から確かなことのように思われた。しかし、これに対する闘争として出現した反精神医学の主張も、最初受けた印象ほどには単純に納得しにくいものであることも、次第に明らかとなってきた。つまり、反精神医学がその特徴としている常識解体をどこまでも首尾一貫して押し進めれば、それは必然的に社会的存在としての人間の解体というところまで到達せざるをえず、したがってまた、個人的生存の意志という、生物体に固有の欲求の否定に到達せざるを得ないはずだからである。反精神医学は、自己自身を徹底的に追求すれば、究極的には反生命の立場に落ち着くよりほかはない。
 (略)
かつてクルト・コレは、精神分裂病を「デルフォイの神託」に譬えた。私にとっても、分裂病は人間の智慧をもってしては永久に解くことのできぬ謎であるような気がする。分裂病とはなにかを問うことは、私たちがなぜ生きているのかを問うことに帰着するのだと思う。私たちが生を生として肯定する立場を捨てることが出来ない以上、私たちは分裂病という事態を「異常」で悲しむべきことだとみなす「正常人」の立場をも捨てられないのではないだろうか。
私は本書を、私が精神科医となって十七年余の間に私と親しくつきあってくれた多数の精神病患者たちへの、私の友情のしるしとして書いた。そこには、私がしょせん「正常人」でしかありえなかったことに対する罪ほろぼしの意味も含まれている。
(下線・太字Takeo)





本書が書かれてから、既に45年を閲して、分裂病は統合失調症と呼称を換え、薬物による症状の改善も目覚ましく進歩した。しかしこの木村敏の著作は、日進月歩の医学の世界で、統合失調症をまだ分裂病と呼んでいた頃の古臭い精神医学の本ではなく、
そもそも心を病むとはどういうことか、「健常」「正常」であるとは、また「異常」であるとはどういうことかという、根源的な問題の考察の領域に達している。

今なお古びない良質な「哲学書」として、また木村敏の標榜する「人間学」のテキストとして、「正常」と「異常」、そして「社会」と「個人」の相互関係に興味のある方に一読をお薦めしたい。


ー追記ー

わたしは木村氏の主張に全面的に賛同しているわけではない。
例えば、

「私たちが生を生として肯定する立場を捨てることが出来ない以上、私たちは分裂病という事態を「異常」で悲しむべきことだとみなす「正常人」の立場をも捨てられないのではないだろうか。」

或いは

「反精神医学がその特徴としている常識解体をどこまでも首尾一貫して押し進めれば、それは必然的に社会的存在としての人間の解体というところまで到達せざるをえず、したがってまた、個人的生存の意志という、生物体に固有の欲求の否定に到達せざるを得ないはずだからである。」

このような意見は、「人が個として生きること」と「その者の社会性」との関係について、それがどのようなものであるのかはよくわからないが、「社会」があって初めて人は生きてゆくことができるという見方のように思われて、社会、常識から離れた一個人として、「彼ら」を見ることが何故難しいのかという疑問に突き当たる。

嘗て母は、わたしが主治医に宛てた手紙を読んで、「これは「手紙」というよりも「問答」だね。」と言った。そして本書の解説には木村氏は自分の思想に西田哲学と道元の禅を採り入れていると書かれている。
「~ではなかろうか?」「~なのではないか?」「~だろう」
そのような語り口が、わたしがこの書を好む大きな要素であるのかもしれない。















2019年1月1日

New year's Art and Music...



Out Popped the Moon, Kay Nielsen. (1886 - 1957)

デンマークのアーティスト、カイ・ニールセンです。
「色のついたビアズリー」と言ったのは誰だったでしょうか?(わたし?)

彼は、画家というよりも、ビアズリーやエドモンド・デュラック、アーサー・ラッカムなどと同様、絵本のイラストを描(えが)く人として広く知られています。

20世紀アメリカの、ノーマン・ロックウェルやマックスフィールド・パリッシュなども、画家とイラストレーターの中間に位置する人のようです。

わたしも紀伊国屋で求めた洋書のカイ・ニールセンの薄い画集を持っていますが、全然開けていません。(苦笑)


My Love Is Like a Red Red Rose," performed by Clarke & Walker,

クラーク・アンド・ウォーカーの「ラブ・イズ・ア・レッドローズ」
英国の詩人ロバート・バーンズの詩が元になっています。
2013年リリースのアルバム'Fire and Fortune'から。


ロバート・バーンズと言えば、「蛍の光」の作者ですね。
今でも卒業式では歌われているのでしょうか。
昔「蛍雪時代」という受験雑誌(?)があったのをご存知でしょうか?

いま、何がむかしのまま残っていて、何がなくなってしまったのか・・・

「大事なものは目に見えない」星の王子さまのセリフですが。
この国では、目に見える大切なものが失われ、目に見えない古臭い「因習」だけが残っているように感じてしまいます。