2018年7月7日

追記


先の投稿はもちろん矛盾を孕んでいます。
例えば世界の「幸せの総量」の問題。
「誰かが泣き止めば誰かが泣き出す・・・世界の涙の総量はいつも変わらない」とベケットは書きました。
けれども、ひとりでも多くの人が幸せな人生を送れるようにと願うことは、人間の自然な、当たり前の感情です。仮に誰もが、世界中の人が幸せになることなど見果てぬ夢だと承知していても、少しでも不幸の要因を減らしたい、無くしたいと思います。

けれどもそういう現実のレベルとは異なった次元で、落魄の美、敗者の美、不幸であることの美をわたしは尊ばずにはいられないのです。

わたしには功成り名遂げて、胸を反らしている人よりも、
ひとりで膝を抱えてうずくまっている人の姿形の方が遥かに気高く美しく見えるのです。

世間と、或いは世界と折り合えない人、狎れ合わない人の後ろ姿に惹かれるのです。

「背(手)は語り、口は騙る」と言います。
黙す人たちの背中や、皺だらけの、あるいは垢にまみれた手を愛おしむことができるようになりたいと思っています。

「美」は、わたしにとっての宗教です。






2018年7月6日

泥の美 負の美


なにかを書こうと思うのだが、うまく考えがまとまらず、もどかしい。

弱者であるということは一種の恩寵だろうか、という考えがふと頭を掠めた。
だが「恩寵」という言葉は相応しくはないだろう。「恩寵」というからには、それを受ける者(当人)に何らかの幸(さち)が齎されなければならないはずだ。

これは過去に何度か書いたことのある、わたしの主要な関心事のひとつでもあるのだが、弱者(と呼ばれる状況にある人)や、障害を持った人、悲しみを抱えた人、傷を負った人、社会という枠組みからドロップアウトしてしまった人・・・そのような人たちの存在が、どれほどわたしのこころを潤し、また慰めになっているかということをしばしば考える。

言い換えれば、わたしは全ての人が幸せで、死を思う人の居ないような世界に住みたいとも、またそんな世界に自分が生きられるとも思わないのだ。
つまりわたしは「不幸な人」「孤独に呻吟している人」のいる世界を望んでいる、という事になる。何故か?それは不幸は幸福よりも高貴だからだ。
苦しみや悲しみには、それに相応しい「美」が備わっているからだ。

裏返せば、誰もがハッピーで、病も、老いも、自殺も、自責も、自己嫌悪も悔恨もない世界は、高貴さも、繊細さも、情緒の襞も、美も存在しない、陰影に欠けたフラットで即物的な世界という事になる。もちろんそんな世界には文学も、哲学も、音楽もアートも存在しないだろう。何故って、それらはみな、幸か不幸か我々が生を享けた憂き世の生に付き物の、激しい雨風をなんとか凌ぐための人間の叡智と工夫の結晶に他ならないのだから。

俗に言う「よりよい社会」とはなんだろう?それは政治屋渡世で喰っている者たちの好む言葉だが、そもそも政治(家)というものが存在する限り、「よりよい社会」などというものは絵に描いた餅。噴飯物でしかない。

◇

不幸な人は幸福な人間よりも高貴である。
深い傷を負った人間は無傷の者より美しい。
全ての(商業的、世俗的)成功・栄達は堕落である。
無名は有名に勝る。

これは最早わたしの信仰と言ってもいい。「信仰」といっても、わたしが拝跪する対象は、あくまでも「美」である。
ただ、勝つことよりも敗れ去ることに、更に言えば不戦敗に、より大きな価値を見出すのだ。


「すぎさったものだけがきれいにおもわれるのは、過去がすでに世界から距離をとっているからだ・・・」

Hの日記にあった言葉だが、弱者、不幸な者、落伍者、孤独な者たちが美しく見えるのは、彼らが現世(=いま・ここ)という穢土から離れているから・・・そう言い換えることもできるだろう・・・


誤解を恐れずにいうなら・・・いや、そういう卑怯な言い方は止めよう。

わたしは世界中の人間が全て、今現在悲しみにひしがれている人の如く不幸であれ、とまでは思わないが、たとえばボロをまとったホームレスと、公園でたまたまであった彼(彼女)に、パンと飲み物を差し出す束の間の(一期一会の)やさしさを秘めた無名の人ばかりであればと思う。

うつむく人、地に横たわる躯にさしのべる手と微笑み、それ以上に貴い芸術や文藝、そして仕事が、この世の中にあるだろうか?

「ノブレス・オブリージュ」(Noblesse Oblige) 持てる者が持たざる者を援ける義務・・・
しかし、これは義務というよりも寧ろ、彼らに与えられた「恩寵」ではないだろうか?













2018年7月4日

ディプレッション・ペイシェント(鬱病患者の自己対話)




性欲?
幸か不幸かもうまったくありません。世間的に若くて綺麗という女性を見ても・・・といってもほとんど外に出ることがないし、TVも観ない、雑誌も読まないので、そもそも若い女性が視界に入ってくること自体がないのですが、仮に外できれいな女性を見ても、まったくセクシュアルなことは感じないし考えません。

自分に関心を持っていない女性は全くの路傍の石と変わりません。
「わたしに関心」といっても、わたしは俗に言う「キモオ」ですから(苦笑)
第一スマートフォンをもった女性って、わたしにとってはなんだか生身の人間て感じがしないんですよ。



ファッション?
ああ、昔は着るもの、身に付ける物にも興味もありましたが、今はまったく着の身着のまま。とにかく外へ行かないんですから。ただ、セックスよりはまだ興味はあるかもしれません。
今ではセックスは「不潔」というイメージが強いですね。



望むこと?
友だちが欲しいですね。無理ですけど。何故かって?世間一般の人と共通点がまるでありませんから。



恋人?
あ、これはそもそもまったく可能性のない話。また望んでもいません。
わたしが欲しいのは恋人じゃなく友達です。



わたしの外見?
つまりキモオの外見?
ゲテモノ好きですね。
去年、2017年3月と4月。(「最新」にしておそらく最後の写真です)





なにか一言。

もう世の中にはなにも愉しみはありません。







2018年7月3日

映画について少々


フォローというほどではないが、時々覗くツイッターの(文学系)アカウントがある。
数日前、こんな投稿があった。

「2018年上半期の映画からのベストフレーズは、ハリー・ディーン・スタントンの遺作『ラッキー』の「つまらない雑談なら気まずい沈黙のほうがマシだ」です。」

このセリフのどこがいいんだよ?

今年は全然映画を観てないな。Hは2013年頃のブログで盛んにベルイマンを語っている。彼に心酔しているように見えたが、ベルイマンも観る気がしない。
もちろんHが言っていた『沈黙』は名作だし、もう一度観たい。
ベルイマンで今手元にDVDがあるのは『恥』『野いちご』『蛇の卵』(これは途中で寝てしまった)あれ?「神の沈黙三部作」ってなんだったっけ?『沈黙』『鏡の中にある如く』あとは?数年前わざわざ品川区の図書館まで、この三部作を借りに行ったのに。

Hがカサヴェテスについて書いていた。『こわれゆく女』。これも持ってるがそのままになっている。

大田区に住んでいた頃、母が何処かの映画館でやっていたカサヴェテス特集を観に行った。3回ほど行ったのだろうか?母はジーナ・ローランズが好きだという。

その時に観た『ラブ・ストリームス』という映画の中でカサヴェテスが語る科白について教えてくれた。

「まあ、人生なんてものは自殺と離婚、裏切られた約束と幼児虐待の連続ってところかな」
"Yeah, well, life is a series of suicides, divorces, promises broken, children smashed, whatever." 

こういうのをほんとうの「いいセリフ」っていうんだよ。

再見や過去に何度も観たものも含めて今観たい映画は・・・

『十階のモスキート』『ゆきゆきて神軍』『記憶の扉』くらいか。
あ、いや!トリュフォーの『緑の部屋』、『ゴダールの映画史』ブレッソンの諸作品。とりわけ『ラルジャン』。アニエス・ヴァルダの『落穂拾い』それに『木靴の木』『春にして君を想う』そして、ああ、『ローサのぬくもり』は名作!blah blah blah...

今年初めに初めてYou Tubeで観た映画、『日本暗殺秘録』(1969年)中島貞夫監督

ラストの

「そして現代
 暗殺を超える思想とは何か?」

科白ではないが考えさせられる命題だ。

けれどもそもそも「暗殺」或いは「テロル」とは「思想」だろうか?
転覆に転覆を重ねても、またいかなる体制であろうとも、国家がある限り権力があり、権力のあるところには支配がある。

狂気(兇器)の沙汰と言われ「思想以前」と言われても、それ故に、わたしはそこに人間性の哀しき美の発露を見る。

「テロリズムとは心優しき者の心に宿る思想である・・・」 
ー 竹中労

とにかく今は何もできない。
本を読み、映画を観ることができる日がまた来るのだろうか?




ジョン・カサヴェテス監督『アメリカの影』(1958年)のために、ミンガスが書き下ろした曲。"Nostalgia in Times Square"















2018年7月2日

無題


誰かに自殺を仄めかされたら、「生きてください」といった類のことはわたしにはどうしても言えない。
そう言えるのは、その人がいなくなってしまったら自分が困る場合だけだ。

[ 夏目漱石『硝子戸の中』六・七・八参照 ]


一期は夢よただ狂へ


明日の精神科の予約はキャンセルした。あまりにも具合が悪い。
第一にここから駅まで歩いて約20分、クリニックのある駅から約10分の道のりに耐えられるか?
途中、西部邁言うところの「スマホ人」と「傷害事件」など起こさないか?
衝動的に線路に飛び込んだり赤信号で道路に飛び出したりしないか?
先方で、ちゃんと話せるか?

そのようなことに全く自信が持てなかった。

◇

母はHの書いた

「命はもっと粗末に、ほったらかしにしやうぜ。」という言葉が解らないと言った。
「命を粗末にしよう」という事が解らないと。

わたしはこのセリフとてもいいと思う。
なにかの映画の科白なのか、本の中の言葉なのか、それともH自身の言葉なのかは知らないが、人は、いっしょう懸命生きているから死にたいと思うのだ。
概して不真面目な人間は自殺など考えない。
死にたいと思うほどいっしょう懸命に生きているのだ。
「よく生きるためには自殺さえするのだ」というコクトーの言葉を思い出す。

だからHは、もっと不真面目になれよ、と言っているように思う。

「詩が彼を怠惰にした。そうでなければもっと真面目に自殺を考えていただろう」という言葉が出てくる三島の小説はなんだったろうか?

けれどもわたしはそういうタガの外し方を知らない。

◇

これからこのブログはますますいわゆる「まともさ」から逸脱してゆくだろう。
リベラル、護憲派、戦争反対を訴える人たちから総スカンを喰っているHを今頃になって盛んに持ち出してくること自体、世間の所謂「良識派」と袂を分かつ宣言しているようなものだ。

けれども、誰にでもわかりやすい、それ故まったく衝撃を伴わない、新味も深みもない、敢えて言うなら「非・文学的」「非・哲学的」=「没主体的会話」こそが、大方の理解と共感を得られるというのなら、わたしはわたし個人の言葉で話し、それ故に誰の耳にも届かない孤独な狂人で構わない。

「大勢の理解と共感を得る」ということは、どのような場合にしても決して望ましいことではない。何故なら畢竟それは大衆(マス)への迎合に他ならないからだ。
もう「まともさ」や「正気ぶること」には正直ウンザリシテイルノダ。


追記

Hの言っていることは非常に正鵠を得ていると思う。
けれどもわたしはHに限らず、好きな音楽、内容のある本、素晴らしい映画を人に勧めることが好きではない。わたしが200%の素晴らしさだと思っても、それはあくまでも、あくまでも、わたしの趣味の問題でしかないのだから。
Hは(普遍的な)「真実」を語っているわけではない。(そもそも「真実」ってなんだ?)
わたしは彼のひとりごとに勝手に耳を傾けているだけだ。













2018年7月1日

七月…


7月。一年の半分が終わった。人生なんてあっけないほどに短い。その僅かないのちの時さえ、倖せを感じて暮らすことができない人が大勢いるのだ。これが、「生れてきたことの不都合」でなくてなんだろう。

正直「覚悟はできている」とはいえない。どんな自殺者だって、飛び降りる直前、引き金を引く直前には思い躊躇うものだ。

「人間には生きるために気晴らしが必要である」とパスカルはいった。
わたしにそんなものはない。何もない。ナニモナイ。
それでも尚生き続ける理由を、わたしは見出すことができなかった。
楽に死ぬことができないから。ただそれだけが生の根拠だった。
けれども、退屈と倦怠が「死ぬのも楽じゃない」という気持ちを上回われば、舞台の幕は降り照明は落とされる。


月曜日に今年初めて精神科に行くことになっている。
何のために行くのか?自分でもよくわからない。
確実なのは、(どこであろうと)精神科に因って今の状態が改善される可能性はないという事。そしておそらくわたしは精神疾患などではないのだろうという事。そして引き続き一日の大半を寝て過ごすための薬が要るという事。

「親亡き後」のないわたしにとって、先はそう長くはない。何も死に急ぐことは無かろうという気持ちもないではない。しかし芥川の言うように、ほとんどの人が「ただ生きるために生きている」のだとしたら、人類とはなんと不幸な生き物であることか。


◇


最近は辺見庸のことばかりじゃないかと、わたしのブログの4人の読者の内、4人ともがそう思っているかもしれない。
それほど惹かれるものがあるということだ。彼の書く物には。ただ先日も書いたように、わたしは辺見庸の信奉者でも心酔者でも信者でもない。
わたしは「書かれたもの」と「書いた人」を同一視はしない。

以下またランダムに彼のブログから気になった言葉を引用する。
わたしは彼の紹介者のつもりはない。これらのことばを通じて、こういう思想、こういう考え方に共鳴する者であるという、自己紹介のようなものだ。

それにしても政治についてよく飽きもせずに語る人たちがいるもんだ。
日本に徴兵制が敷かれても、彼ら/彼女らはツイッターで、ブログで、グズグズと愚痴っていることだろう。実際のところ彼らが実在しているのかすら定かではない・・・



ー以下辺見庸ブログより抜粋引用ー


憲法改悪反対の呼びかけに賛同する署名とカンパをしてくれ、といふ手紙がくる。大江健三郎ら、毎度おなじみの「ゼンダマ」ブンカジンたちの氏名と写真つき。アホか。署名とカンパとやつらのえっらそうな記者会見で、9条改悪、集団的自衛権容認、秘密保護法が阻止できるんやったら、さいしょっからこんなことになってないやろ。まずかれらのうす汚い急所を蹴上げよ、だ。(2013/10/23)



未知の〈結末〉などありはしない。だって、〈結末〉はたえず〈死〉でしかないのだから。

エベレストのかへり、女の子たちの話し声を背中に聞いた。小学生だろう。子どもたちがわたしを追いこした。ランドセルの中身の音がした。追いこした3人のうち、ひとりがふりかえり、そのような目つきをどこで教わったのか、さも蔑むような、怪しむような目でわたしを見た。うすく怯えつつ、まったくどうじに、うすく笑っていた。むろん、おもいすごしかもしれぬ。わたしは見返した。〈わたしは不審者ではないよ〉というつくろい顔ではなく、こうすれば残忍な顔になるとひそかに長年イメージトレーニングしている〈残忍な顔〉で笑い返してやった。せつな、子どもが凍りついた。きっと親に報告するだろう。
(2013/11/05)




プログラムの裏表紙に谷川俊太郎先生の例の「詩」が載っていた。「愛する人のために」。「保険にはダイヤモンドの輝きもなければ、/パソコンの便利さもありません。/けれど目に見えぬこの商品には、/人間の血が通っています。/人間の未来への切ない望みが/こめられています」。わたしはクローゼットの闇に横たわっている。世界は正常だ。ジャン=ギアン・ケラスはイケメンだ。無伴奏チェロ組曲全曲は絶品だ。わるひのはわたしだ。そのとほりだ!保険には人間の血が通ってるぅ!Oh、yes! 人間の未来への切なひ望みがこめられてるぅ!すばらしい詩どぇす!ほんま、涙でます。「お金に愛情をこめることはできます」やて。そのとほりどぇす!わたひがわるひ。わたひの根性がわるひさかい、谷川さん、おまはん、なんぼもろたんや、なんて下品なこつ、つひつひ言うてまうんや。すんまへん!センセ、えろすんまへんな!勘弁してつかぁさい!でも、保険に人間の血がかよってるというのであれば、貧者と病者と弱者を合法的にいびり殺す現在のシステムのすべてに、あたたかなひとの血がかよっているということである。つまり、おい谷川、現代のホモサケルはみんなぶち殺してよい、といふことだな。保険にも入れないホームレスは死ね、ってことか。わたひの根性がわるひさかい、おいクソッタレジジイ、おまはん、なんぼもろたんや?て、つひつひ言うてまうんや。すんまへん!そうしたわたしの下劣な品性をコビトは見ぬいている。だから、シカトするのであらう。クローゼットの闇でわたしの顔は赤らむ。(2013/11/17)



けふは小雨のなかエベレストにのぼった。道ばたにパトカーがとまり、なかから警官が2人わたしをじっと監視していたので、気分を害し、2度目の登頂はやめにする。どうしてわたしがアルカイダだとわかったのだろう?おなじジョークを9.11の翌年の1月、ボストンで言ったら、勾留されるから2度と口にしないでくれと米国人カメラマンに真顔で忠告されたっけ。でも、けふは下校時だったので、たぶん、アルカイダではなく、「不審者」か「変質者」とうたがわれたのかもしれないな。突きつめてかんがえてみれば、わたしが広義の不審者か変質者であることは、必ずしも否定できない事実だ。わたし以外のひとびとが非不審者、非変質者であればの話だが。(2013/11/25)



秘密保護法に反対するのなら、新聞はーーそこではたらく個人たちは、という意味だけれどもーーストライキをすべきだった。少なくも、それを目指すべきであった。白紙の新聞、記事の載っていない新聞をだしたらよかったのに…。ぼくはそうおもったし、いまもそうおもう。安倍政権はきわめて危険である。ほんきで倒さなければならない。むろん、ストライキなどおもいもつかず、ロバの屁のような社説でお茶をにごし、きょうもそしらぬ顔で「ニュース」なるものを生産、偽造しつづける、個人のいない新聞と、それら下品な浸透圧の犠牲となる読者たち。困ったことです。そう言いつつ、秘密保護法下の状況を不作為によって支えるひとびと。批判者たちの、アジビラていどの語法とボキャブラリー。下品な浸透圧は、反ファッショの側からも生まれている。いまは権力の実相がきもちわるいだけではない。反権力を自称する者らの立ち居ふるまい、目つき、腰つきも、なにやら怪しい。戦端は、ひとだのみにするのでなく、「個」がいま、みずからひらけばよい。惨めになんどでも負ければよい。(2013/12/30)




・この国は、ヒロシマ、ナガサキがあるために、ずいぶんかいかぶられてきた。絶大な経験はひとの認識を深める、とかんがえるひとびとにより、もともと深い精神性をもつ日本の思想文化は、ヒロシマ、ナガサキの空前絶後の体験によって、かならずや、さらに深淵なものになっているはずである、とかいかぶられてきた。誤解である、善意の。この国の思想文化は、残念ながらヒロシマ、ナガサキの経験をほとんどすこしも血肉とはしていない。かつても、いまも、おそらく、未来も。アラン・レネ、ロラン・バルト、そしてタルコフスキー、ボードリヤールにさえ、日本への好意的誤解があった。誤解はなんらかれらの罪ではなく、かれらの自由であり、勝手である。罪というなら、ヒロシマ、ナガサキの経験をほぼ消費しつくして、観光的表象(というより“商標”)だけを残して、反核反戦の思想と魂の基地をつくることがついにできなかったこちら側にある。経験は、いつもかならず自動的に、認識を深めるというものではない。フクシマについても。とくに、この国の社会なきセケン(世間)とゴロツキ政治においては。侵略戦争のかぞえきれないほどの加害責任を、東京大空襲とヒロシマ、ナガサキのホロコーストで、ご都合主義的に相殺する、チャラにすることで、いちどとして激烈な内省をしなかっただけでなく、ヒロシマ、ナガサキの責任追及をあっさり放棄し、天皇制ファシズムの歴史的検証もネグレクトし、いまや侵略戦争そのものとそれに付随したおびただしい犯罪を正当化するまでにいたっている。

日本が今後、憲法を改定する公算は論なく大である。徴兵制ないし準徴兵制にふみきる可能性もあるだろう。45年に廃止された治安維持法(実質的に再生しているけれども)が、新しい装いで復活する可能性もつよい。将来的核武装化の可能性はもはや絶無ではなくなった。『サクリファイス』をみながら、例によって、茫々と妄想にふけった。経験は直線的に認識を深めることはない。とりわけ、テクストとされた集合的経験と記憶は危うい。経験と認識は、権力にゆだねるものではなく、あくまでも「個」の向自的作業であるべきだ。たしかこんなセリフがあった。「わたしはこの時を待っていたのだ…」。じっとじぶんに耳を澄ますと、わたしにも待っている気配がある。平和やそのための「犠牲」となることではなく、全面的核戦争でも大震災でも巨大隕石の落下でもなんでもよい、徹底的な全的破滅をどこか待っている心もちがある。それまでの一瞬になにを見て、なにをかんがえるか…だけがテーマである。
犬がベランダに糞をしたので、心静かに、ゆっくりとかたづけた。午後3時半すぎ、東口のミスドとストラーダ・ヴェルデをめざしアパートをでるも、寒風意外にきびしく、目標をきゅうきょ下方修正し、マックに行ったら満員。しかたなく、なんだか形式的にエベレストにのぼってお茶をにごす。
かへりみち、郵便屋オットーの言葉をおもいだした。「いままでの人生は本物ではなく、ずっと永いあいだ本物の人生を待ってたにすぎないのだ…」。言外に、本物の人生なんかない、ただ死を待つだけ、とかたっている。このしゅの人生論はなかなかおもしろそうで、じつはとてもつまらない。人生論はどうやってもつまらないものなのだ。『サラバンド』の80をとうにこした老人が吐きすてる、じぶんの人生など「クソだったよ…」のほうが、すっきりしていてよほど好きだ。(2014/01/02)




・エベレストにけふ、のぼった。強風下2回。シダレヤナギの葉が右側の尾根に、切りおとされた無数の青いひと差し指のやうに、ちりつもっていた。友人が自殺に失敗した。らしい。昨夜知った。またやるだろう。そこここで、死はすでに、「状況」なんかより、よほど身近であり、もっとも正直だ。いまごろさかしらげに「状況」をかたるやつはマジ、ウザい。うそくさい。いざといふときが近づいているのだ。ひとはいざという間際に、急に悪人にかわる。わたしぃが言ったのではなひ。まったく文字どおりに、漱石が書ひている。だからおそろしい、油断ならなひ、と。金の話でごまかしてはいるが、むろん、金の話なんかじゃあなひ。いざという間際…とはなんだらう。と、いぶかるが、ププイ、いぶかるまでもなひ。大道寺さんからけふ、封書がとどいた。また黒塗りが1箇所あった。なぜかはわからなひ。ムッとする。ていねいにこの黒塗りをやったきみ、東京拘置所のひと(ブログ読んでますかぁ?)を、しかひ、わたすぃはあまり恨んでいなひ。わたひぃは、この刑務官より100万倍も、朝日はじめ各社の新聞記者や作家、詩人らをふかーく軽蔑する。宮内庁は、刑務官とくに絞首刑の執行にあたった刑務官たちこそ宮中にまねき、あつく労をねぎらひ、表彰すべきである。全員に勲一等旭日大綬章をあたへるべきである。新聞記者、テレビキャスターや作家、詩人らは、わざとらしひ善人面したのも、もともと悪党面、アホ面したのも、ならべていっぱつ延髄切りでええ。

友よ、いまは自殺にもあたひしなひ季節なのだから、首吊りはしばらくやめとけよ。命はもっと粗末に、ほったらかしにしやうぜ。なにもわざわざじぶんでやらなくったって、やっていただけるかもしんないだらう?(2013/12/22)




現とも 夢とも知らぬ 世にしあれば 在りとて在と 頼むべき身か

源実朝「金槐和歌集」より






※ 辺見庸が時に不審者に見られるというのは、彼は2004年に講演中に脳出血で倒れ、その後遺症で右半身マヒの症状が残っているためだろう。
「エベレスト」というのは彼の自宅の近所の小高い丘のことで、彼の歩行リハビリ(彼は「自主トレ」と呼ぶ)のためにしばしば登頂する。

上記の文章を読めば辺見庸がしばしば「左翼/リベラル」に敵視(というよりも、冷笑を伴う黙殺)される理由もわかるだろう。

なお下線・太字は引用者による。