2018年6月6日

言葉、アート、わたしのコミュニケーション




 The Letter, 1979, Andrew Wyeth. - Watercolor - 
「手紙」アンドリュー・ワイエス(1979年)
(水彩)









以前から「言葉」「文章」は、わたしにとって重要なテーマのひとつであった。
過去の経験、特に、インターネットでの経験から、「言葉」はわたしにとって、寧ろ人と良好な関係を築く上での障害物であった。

無論それは「表現」の問題ではなく、言葉に、文章に、どのような感情・思考が込められているか、とりもなおさずそれは書き手の内面の問題であった。
一言でいえば、わたしの内面(=考え方、感じ方)は、あまりにもエキセントリックであり、ときにラディカルに過ぎ、30代から20年以上、手紙のやりとりしていたある著名な作家(脚本家)が、わたしの文章=2008年のブログを読んで、「私にはとてもついていけない」と言ったのもむべなるかな、である。

2008年は秋葉原で殺人事件があり、当時わたしがブログで数回にわたり犯人の加藤智大くんを全面的に「擁護」した年でもあった。

あの事件から10年という事で、今新聞に毎日特集記事が掲載されている。
わたしはそれを読んでいないが、今夜母とあの事件について話したとき、母は、「普通の人にはあなたの考え(気持ち)は到底わからない」と。
けれども母はごく当たり前の常識を持った普通のおばあさんではない。前にも言ったように、母はわたしの物の見方、考え方に最も大きな影響を与えた2人(3人?)のうちの一人である。

このように、根本的に異質な存在であるわたしが、なにをどのように書こうと、それが受け入れられるはずはない。一般的な「常識」乃至「良識」というものをそもそも共有していない者同士が理解しあえるはずはない。



「手紙」(私信)或いは「日記」という表現の形を考えた時、赤の他人に自分の内面をさらけ出すということ、それこそが言葉への、同時に自分自身への冒瀆ではないかと感じることもある。

とはいえ、芥川龍之介でさえ、死後、全集に「書簡集」が入れられることを計算に入れていたのだ・・・

先日の新聞の外信欄に、ロシアでは、生後40日間は新生児の写真を撮影してはいけないことになっているという記事があった。理由は、その写真をインターネット上にアップして、それを見た人の中に「悪い気」を持つ人がいるかもしれない、それが赤ちゃんに伝染しないように、とのことだった。

「悪意」というものを前提としなくとも、何の考えもなしに、自分の考えを無邪気にネット上に散布するという事に、一抹の懐疑と戸惑いを覚える。
「悪い気」「悪意」どころか、わたしの書いたものなど、世間の人にとっては、街中で風に舞うポリ袋のようなものでしかない、しかしいかにちっぽけで取るに足らなくとも、自分をそのような存在に貶めてもいいのか、という疑問が残る。



これほどまでに「言葉によって」通じ合うことができないわたしだが、不思議なことに、2011年から始めたタンブラーには1万4千人のフォロワーがいる。
タンブラーで何をしているかといえば、上に貼ったような絵や写真を載せている。

何故こんなわたしのセレクトした絵や写真、または引用を世界中の人が好んでくれるのか?
彼らがわたしという人物を知らないから?
けれども、わたしが選んだアートは、わたしの内面の(全てではないにせよ、その一部の)投影ではないだろうか?
わたしが選んだアートと、わたしという存在は、全く無関係なのだろうか?

とはいえやはりというべきか、わたしをフォローしてくれる1万人以上の中で、日本人は0.1%にも満たない。
たまにいるかと思うと帰国子女だったというケースが多い。

どうころんでも、何をしても、やはりわたしは日本人とは合わないようだ・・・



2018年6月5日

ホーマー、グリフィス (好きな絵、好きな歌)




Girl reading on a stone porch, Winslow Homer. (1836 - 1910)
「ポーチで本を読む少女」(1872年)ウィンスロー・ホーマー

アメリカを代表する画家のひとり、ウィンスロー・ホーマー。19世紀の、古き良き時代のアメリカのルーラル・ライフが素敵です。彼の絵を観ていると、そのモチーフから、アメリカの画家以外の何者でもないと感じます。

少女(?)が石のポーチで、そよ風に吹かれながら本を読んでいるこの絵は、なんの飾り気もないシンプルな作品ですが、奥に開け放った扉から見える山並みと青空の描写から、心地好い風の流れを感じさせます。横21センチ×縦15センチほどの小さな絵ですが、広がりと奥行き、風のさやぎさえ聞こえてきそうな、彼女のそばに小鳥が舞い降りてきそうな鮮やかなリアリティと、自由な空気を醸し出しています。

好きな画家かと訊かれると、好きな画家は多すぎて・・・と、困ってしまいますが、やはり好きな画家のひとりです。
ホーマーは水彩でも美しい絵をたくさん残しています。


Talk to me while I'm listening 

ナンシー・グリフィス、「トーク・トゥ・ミー・ホワイル・アイム・リスニング」
以前も紹介したアメリカのフォーク、カントリーのシンガー、ソング・ライターです。
「聴いているから話して・・・」読書する少女の絵にマッチしたタイトルかも知れません。これも好きな曲のひとつです。





精神科とはなにか?


まだたくさん残っていると思っていた睡眠剤が無くなっている。
1シートに10錠。1日1錠。2錠づつ切り取って、所定の場所に置いている。
もし無くなりそうであれば、あと1シートになった時点で気付くはず。
それが今日いきなりなくなっている。ついに呆けたのだろうか・・・

6月になった。今年はまだ一度も精神科に行っていない。ここから駅まで、今のわたしの脚で15分ほど、電車で2駅、そこから歩いて約10分。
その行程が大変だということもあるが、どちらかというと、もう精神科はいいよ、という気持ちの方が強い。

そんなことはざらにあることだと言われるかもしれないが、30歳の時から24年間、
それこそ大勢の精神科医と会ってきた。けれども未だこれと言った確定した診断名すらない。状態が改善されるわけでもない。

精神科医は信用できないというよりも、そもそもわたしに精神科が必要なのか、という根本的な疑問に突き当たっている。

過去に何度か触れたことがあるけれど、わたしの主訴は「人と良好な人間関係が築けないこと」。それによって孤立し、孤独感、抑うつ状態が生じる。その「二次障害」である「うつ」によって、わたしは障害者手帳を所持している。

しかし、主たる原因が解消されない限り、二次的な症状が無くなることはない。そして四半世紀をかけても、わたしの「問題」は解消されるどころか、そもそもなにが「問題」なのかの糸口さえ摑むことはできなかった。

「人間関係の構築」が上手くいかないのは、精神科に日参することで改善されるものではないと早々と見切りをつけ。あくまで二次障害の緩和のために通っていた。けれども、鬱状態は年々悪化するばかり。最早わたしは精神科に通院する意味というものを見失っている。

とはいえ、最低限の薬は手放せない。
(手放せない?いったい今飲んでいる薬がどのように利いているのかさえ解らないのに?)

昨年末、最後の受診の時に主治医が言った一言が、未だに小さな棘のように抜けずにいる。
「人と良好な関係を維持することができない」わたしが、これまで何度医者を替えてきたかは容易に想像できるだろう。過去に出会った20人近い医師の中で、明らかに相性が悪いというケースは稀だった。けれどもわたしの場合は、ちょっとした行き違いが致命傷になる。
今回のケースも、ドクターはわたしが受け取ったような意味で言ったつもりは全くなかったのかもしれない。けれどもそれを確かめる術はないし、仮にそれが誤解であったとしても、わたしが「疑った」という事実はドクターの心にしこりを残すだろう。

今処方されているくらいの薬なら、行きつけの内科でも出してくれるかもしれない。
勿論精神科では自立支援を使っているので向精神薬は無料だが、内科で同じ薬を処方してくれても、その分の支払いは必要になる。

仮に月に1000円ほどだとしても、それは大きい。けれどももう精神科は・・・現に、10年前にこちらに越して来た時、今の主治医にかかる前に6か所の精神科に足を運んでいる。現在の主治医と8年(?)ほど続いているのは自分でも驚くくらいだ。

ただ薬の処方をしてもらうだけの医師を探すにしても、どうしたらいい?
そもそもわたしには精神科医が必要であるのかないのか?それは本人次第なのか?それを誰に訊けばいい?

わたしはもはや都の精神保健センターの精神保健福祉士や、保健所の保健師と言った人たちを信用できないのだから。

わたしのブログには

「孤独な精神障害者、引きこもりの内面の記録・・・」と書かれている。しかしわたしは果たして本当に精神障害者なのだろうか?

畢竟ただの異形の者ではないのか?


2018年6月4日

呟き人との対話、または「エアー・リプライ」Ⅱ



Hさん(ブックデザイナー)

「何かを見、強い印象をうけたときのことを思いだしてみると、たいてい、ひとりのときに経験したできごとである」(石井桃子)。ひとりのときだけ開かれる、回路のようなもの。ひとりのひとだけに語りだされる、ことばのない物語みたいなもの。めったにないけれど、ときどきほんとうに、それは起こる。

Takeo:ボナールは「友は世界の翻訳者である」といったけれど、わたしはひとりぼっちの時にはすべての・・・いや、「何かうつくしいものを感じる」感覚が閉ざされ、蓋をされているように感じます。

二つの眼、二つの耳では捉えきれない何か、誰かと共有することではじめて見えるもの、聴こえる声があります。


Sさん

人の口から小さく漏れた言葉に根っこの腐った臭いを感じることがあった。その舌は死の毒に満ちていて、やがては全てを呑み尽くす悪の勢いを感じさせる。人望厚いとされる男の顔を見ながら、霊の淵から立ちのぼる低い声のぬしに私は対峙していた。こんな身震いすることがあるものだ。

Takeo:かつて辺見庸が、谷川俊太郎が保険会社のCM用に作った詩についてこれと似たようなことを言っていた。(自分と大企業の金儲けのための)甘く優し気なことば。まったく同感だ。


Sさん(大学の仏語の先生)

佐々木幹郎が『中原中也-沈黙の音楽』で指摘しているように、文字の連なりは声を音声的に再現するものではありません。そのことは承知していながら、それでも記された言葉に「声」を感じる読み方しかできません。情報として文を読めない。そうすると、いきおい多読はできません。ちょっと悩ましい。

Takeo:二階堂奥歯は小さいころ、本は声に出して読むものだと思っていた。ところが、或る日、発声しなくても言葉が理解できることに気が付いた。それは彼女にとって衝撃的な驚きだった。それ以降彼女は驚異的な数の読書を死ぬまで続けた。


Sさん(北国の花好き)

この世界は悪意に満ちた地獄だと思っているから、わたしは幸せではないかもしれない。でも生きてるうちは、地獄で花を植えていようと思う。

Takeo:好きな花に囲まれていれば、それがどこであっても地獄ではない、と思います。
残念ながらわたしには花に代わるものがありませんが・・・


Kさん(ライター)

「この世界の何が本物で何が幻なのか、私にはもう区別がつかないんだ。私は、私を信じることも、私が目にする世界を信じることも、もうできないんだ」(樋口直美)

「幻視という孤独」

Takeo:目に映っている世界のなにが幻で何が現実なのか、その区別がつかないという現象はわたしの想像を超えている。わたしが感じているのは、それが現実であっても、どうしても馴染めない世界に生きているという事実。そして人間は、生きてゆくために人為的な「幻」を必要とすること・・・

「現実と幻」、いったいその境目・相違とはなんだろう?
ツイッターのタイムライン上に溢れる様々なうつくしい風景写真。それは「わたし」にとってどのように「現実」であり、どのように「幻(イリュージョン)」であるのか・・・


Sさん(評論家)

自殺幇助で2人逮捕の報に西部邁さんの長女のコメント。「頼まれても2人には断って欲しかった」(読売)、「なぜ(父が2人に)自殺を手伝ってくれと頼んだのか申し訳ない」(毎日)。その両方の気持ちに自責の思いが混じって苦しまれているのでは。自殺の問題は、当人の死生観だけでは語れない。

Takeo:もし自死というものが、その命の持ち主だけの問題ではないとしたら、いったい誰がその人の人生(言葉を換えれば、個々人の持つ「運命」)を代わって生きてくれるのか?誰がその人の苦悩を肩代わりしてくれるのでしょうか?

いったい何者が、苦しむ誰かの背負う十字架を代わって荷える資格を持つのか?


Sさん(サイエンティスト)

いいぞ/グーグル、“犬の目線”のストリートビュー公開

Takeo:さすが科学者。バカ丸出し。人はどこまで堕ちれば気が済むのか?


Kさん

"戦争は、私たちから数え切れないものを奪う。町、村、家、友人、仕事…。風景、空気、光、水…。奪えるかぎりを奪う。 名前さえも、奪う。ある幼稚園で、「あなたの名前は?」と先生に尋ねられた男の子は、「ぼく難民」、と答えた
「名前」に象徴されるアイデンティティーさえも、戦争は奪ったのだ。"
山崎佳代子 『そこから青い闇がささやき』抜粋

Takeo:平和と繁栄はなにも奪いませんか?それは町、村、家、友人、仕事、風景、空気、光、水、そして人の尊厳、魂さえも奪いませんか?
奪われ(得る)ものを基準にしたとき、この国は今戦時下でしょうか?そして真の平和とはなんでしょうか?


Jさん

ことばに したから のこる おもい ことばに できずに きえた おもい

Takeo:ことばに したから

    わすれた おもい

    ことばに できずに

    とどまる おもひ 















2018年6月3日

故に我あり・・・



われさびしいゆえにわれあり



Moonlit River Scene with a Ruined Gothic Church and an Arched Stone Bridge with an Angler.
William Pether. (1738 - 1821)





2018年6月2日

遠い声、街の音


混んでいて、吊革にすがっているとこんな言葉が耳に入ってきた。「おとうちゃん、今晩のおかずどうしよう。厚揚げの残りあるし、あれ炙って、生姜醤油で食べるか・・・」

これは山田稔のエッセイ『あ・ぷろぽ』の中に出てきた様々な言葉の中でも、特に印象に残っているものだ。
彼が「天野さんを偲ぶ会」に出席した帰りのバスの中で偶然耳にした言葉である。


先日、ツイッターでも素敵なことばを見つけた。

走り抜けてゆく電動自転車の後ろに座っていた男の子が「いい匂いがしてきた、いい匂いがしてきたよ」と嬉しそうに2回言うのを確かに聞いた。前から来た女の子が何かを両腕で抱きしめながら「かりんとう、かりんとう」と呟いていた。大切な言葉のように何度も。猫の頭は砂まみれ。払った手も砂まみれ。

投稿したのはOさんという男性(?)で、プロフィール欄にはなにも書かれていない。
本好きの人らしい。

こういう言葉を読んでいると、とても不思議な感覚にとらわれる。
それは、今でも町ではこんなやりとりが交わされているのだろうか?という驚きに近い。
驚きでもあり、また、半信半疑でもある。

山田さんのエッセイが書かれたのは2000年初頭だから、もうかなり前と言っていい。
Oさんの投稿はごく最近とはいえ、これが「創作」でないとは言えない。

先日母がバス停で待っていたら、小さな男の子と若いお母さんが隣に並んでいて、お母さんが「今日の晩御飯何にしようか?」と訊いたら、男の子は「からあげー!」と元気に答えたという。

わたしがたまに外に出ても、こんなやりとりは久しく耳にしたことがない。
最近は滅多に電車に乗ることも無くなったが、電車の中ではほとんどの乗客が一心にスマホを眺めていて、音を立てるのも憚られるような雰囲気さえ漂っている。実際、赤ん坊の泣き声がうるさいと文句を言われることさえある時代だ。
人はみな、外では余計なおしゃべりはしないもののようにわたしには感じられていた。

電車で、スマホをいじっている人の隣に座れば、覗かれるのを厭がるように反対側にからだをズラす人も多い。もっとも今隣に腰を下ろした人も、すぐさまスマホを取りだすのだが・・・

今や街中は、個々に閉ざされた無数の「私的空間」が犇き合っている。
そんな中、夕食なににしようかなどという「あけっぴろげな」話ができるのだろうかというのがわたしの疑問なのだ。

先日、町に出るにはどうしたらいいか、誰に尋ねたらいいのだろう、と書いた。
それは空間的な場所ー町のことではなく、上のような会話が聞かれる場所、人と人とが笑顔で言葉を交わし合っている場所のことを言っているのだ。

喫茶店やレストラン、食堂で向かい合って話していても、スマホを傍らに置き、着信音が鳴ればただちに反応し、「あ!ゴメンね」と、目の前の相手に会話の中断を告げなければならないような殺伐とした光景が存在しない場所のことだ。

確かに運がよければ、ひょっとしたらどこかで、人間の声、人間が人間と向き合って、機械の仲立ちなしに、直におしゃべりしている場面を見ることができるかもしれない。けれどもそれは最早日常の中のありきたりの風景ではなく、出会えたことが幸運だったと言えるような貴重な、稀な、遠き日の残照ではあるのだろう。

ちなみに『あ・ぷろぽ』で、興味を引いた言葉をもう一つ挙げるとすれば、

毛沢東がいったと言われる、作家が創造的でいられる三つの条件について。

一、若いこと、二、貧しいこと、三、無名であること、

混み合えるバスの中での夕食の相談は、毛沢東語録に匹敵するほど、わたしには新鮮で感動に満ちたものだった。





2018年6月1日

呟き人との対話、または「エアー・リプライ」


わたしはツイッターをやっていないが、時々、政治(リベラル系)や文学系の投稿をのぞく。たまに目を惹く言葉が記されていて、本の余白に書き込みをするように、それらの言葉に勝手に反応している。

彼・彼女たちの短い言葉と、それへのわたしの反応を書き記しておこうと思う。

それはひとつには、彼ら・彼女ら、一般にまっとうな見識と高い知性をもった人たちとの齟齬・乖離を明らかにするためでもある。

簡単に言えば、普通の人達との違いを知りたいのである。





Nさん(弁護士)

日本人ってマナーを守るのは得意だけど、ルールについては守るのも作るのも不得意という印象。ルールを守らない人よりもマナーが悪い人に対する非難の方が激しいこともざらだし。

Takeo:まったく逆の印象です。ルールは「規則」決まり事だから嫌々でも守る。(=お上の決めたことだから。)マナーは人としての良識、センスに基づく不文律。基準が自己の内面にしか存在しない。つまり「お隣」を基準に出来ないので、センスの鈍い人にとってはマナーを守ることは難しい。


Sさん(政治学者)

支配されていること、つまり不自由を自覚するところから自由への希求と知性の発展が始まりますが、そもそも支配されているとの自覚がなければ、何も始まらず、奴隷根性だけがはびこります。

Takeo: 自由ー不自由というのは相対的な概念で、そもそも「自由」を呼吸したことのないものが「不自由さ」を苦痛に感じることはないはず。かつては日本にも真の自由が存在していたという前提が必要では?奴隷として生まれた者は、果たして自由という概念をどのように知るのか?



Nさん(ルベラル派)

自民党「一強」政治は常に低投票率に支えられています。現状の政治に不満を訴えながらも選挙には行かないという「選択」をすることにより、現在の閉塞した社会状況が結果的に継続してしまう恐れが高い現状を私は何よりも恐れているのです。どうか、決して選挙の棄権だけはしないでください。

Takeo:では白票を投じます。汚い話で恐縮ですが「カレー味の雲固」か「雲固味のカレー」か、どちらかを「選ばなければならない」という「義務」をわたしは負わされてはいません。残念ながら我々は日本人です。中国人でも朝鮮人でもありません。分を知ることだと思います。

政治へのコミットメントが「投票」「粛々たる」「暴徒たらざる」デモ(乃至パレード)に限定されるという思考の限界・・・


Bさん(読書と散歩好きのおとうさん)

人間としてあることに疲れたら、一度、とことん動物になればいい。鬱による2年の引きこもり生活の末に僕が選んだのは四国遍路だった。百薬に勝る遍路に出にけり─この句に背中を押され、一人用テントを買い、夜行バスで高松に降り立った。かくして人間であることを捨て、野生動物になる冒険は始まった

Takeo : わたしは「人間でなくなって久しい」ことに疲れました。同行二人の道行きは、弘法大師よりも「友」でありたい。人は人に愛されてはじめて人になるのだと思います。
You're Nobody Till Somebody Loves You ...


Kさん

腹を割って話すことはまずない。そこはたぶん、胸にある思いが時を経て沈殿した昏い沼のようなところだ。意を決して切開したら、タール状の重くどろりとした黒い不穏が流れ出すに違いない。 だから私は心の上澄みだけを掬い上げ、更に濾過して不純物を除いた言葉ばかりを日々話しているのだろう。

Takeo : わたしは長い年月をかけて積み重なったその「澱」こそが「わたし」の核だと感じています。だからわたしは透明澄明にはなれませんし、それを自分とは認められないのです。

「淀みを話さないこと」と「核が存在しなこと」とは同じではありませんね。 おそらくわたしが言いたかったのは、「本来のわたし」として人と接したいがために、透明な自分を見せることはできない(しない)ということだったのかもしれません。


Kさん

幼い頃、ゆっくり坂を上ってゆく老いた人の左側を軽やかな足取りで追い抜くとき、その人の横顔をそっと窺うのをやめられなかった。 優越でも侮蔑でもなく、憐れみでも同情でもない。幼い私には名付けようもない感情がそうさせた。 今ならあれは畏怖であると言える。衰える、ということへの畏れ。

Takeo : わたしは若い女性の顔には関心ありませんが、障害を持った人や老人の横顔を見てしまいます。老いや、障害を負った生に、何か(言葉にすると薄っぺらに聞こえますが)神聖なものを感じるからです。衰えや、傷を負った生の持つ美、でしょうか。


Kさん

四月の庭はひねもす黄色、五月の庭は白ときどき青、六月の庭は白ところにより紫だ。緑は愈々濃く、暗くなる。 名もない人がいないように、名もない花もない。名もない、というのは語り手の緩慢で、言われた花は密かに憤慨しているかもしれない。

Takeo :「雑草という草はない」と言ったのは牧野富太郎ですが、
わたしは「名もない花」「名もない人」という語感とその存在の在り様が好きです。 「名を上げる」「名を求める」「名を成す」「名を欲す」という心情が好きになれないように。 「名前はまだない」がわたしの生涯だったように。


Kさん

"ヨバノビッチ先生は、言った。「外科医にはメスがある。私たち、精神科の医者には『言葉』がある。あたたかい言葉は、傷を癒すのです」。" 山崎佳代子 『そこから青い闇がささやき』抜粋

Takeo:しかしそれが「あたたかい言葉」であるかどうかはどのようにして解るのだろうか?


Mさん(編集者、ライター)

作家を褒めたりする必要はないと思う。作家のものの見方に、賛成か、反対かを言うべきだと思う。作家自身が批評家なんだから。作家が批評される必要なんてない。評論家の多くは、批評する対象を間違えている。批評するべきは作家じゃない。作家とともに、批評するべき対象について考えるべきだと思う。

Takeo : 何を言っているのか理解不能・・・