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The Letter, 1979, Andrew Wyeth. - Watercolor -
「手紙」アンドリュー・ワイエス(1979年)
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以前から「言葉」「文章」は、わたしにとって重要なテーマのひとつであった。
過去の経験、特に、インターネットでの経験から、「言葉」はわたしにとって、寧ろ人と良好な関係を築く上での障害物であった。
無論それは「表現」の問題ではなく、言葉に、文章に、どのような感情・思考が込められているか、とりもなおさずそれは書き手の内面の問題であった。
一言でいえば、わたしの内面(=考え方、感じ方)は、あまりにもエキセントリックであり、ときにラディカルに過ぎ、30代から20年以上、手紙のやりとりしていたある著名な作家(脚本家)が、わたしの文章=2008年のブログを読んで、「私にはとてもついていけない」と言ったのもむべなるかな、である。
2008年は秋葉原で殺人事件があり、当時わたしがブログで数回にわたり犯人の加藤智大くんを全面的に「擁護」した年でもあった。
あの事件から10年という事で、今新聞に毎日特集記事が掲載されている。
過去の経験、特に、インターネットでの経験から、「言葉」はわたしにとって、寧ろ人と良好な関係を築く上での障害物であった。
無論それは「表現」の問題ではなく、言葉に、文章に、どのような感情・思考が込められているか、とりもなおさずそれは書き手の内面の問題であった。
一言でいえば、わたしの内面(=考え方、感じ方)は、あまりにもエキセントリックであり、ときにラディカルに過ぎ、30代から20年以上、手紙のやりとりしていたある著名な作家(脚本家)が、わたしの文章=2008年のブログを読んで、「私にはとてもついていけない」と言ったのもむべなるかな、である。
2008年は秋葉原で殺人事件があり、当時わたしがブログで数回にわたり犯人の加藤智大くんを全面的に「擁護」した年でもあった。
あの事件から10年という事で、今新聞に毎日特集記事が掲載されている。
わたしはそれを読んでいないが、今夜母とあの事件について話したとき、母は、「普通の人にはあなたの考え(気持ち)は到底わからない」と。
けれども母はごく当たり前の常識を持った普通のおばあさんではない。前にも言ったように、母はわたしの物の見方、考え方に最も大きな影響を与えた2人(3人?)のうちの一人である。
このように、根本的に異質な存在であるわたしが、なにをどのように書こうと、それが受け入れられるはずはない。一般的な「常識」乃至「良識」というものをそもそも共有していない者同士が理解しあえるはずはない。
◇
「手紙」(私信)或いは「日記」という表現の形を考えた時、赤の他人に自分の内面をさらけ出すということ、それこそが言葉への、同時に自分自身への冒瀆ではないかと感じることもある。
とはいえ、芥川龍之介でさえ、死後、全集に「書簡集」が入れられることを計算に入れていたのだ・・・
先日の新聞の外信欄に、ロシアでは、生後40日間は新生児の写真を撮影してはいけないことになっているという記事があった。理由は、その写真をインターネット上にアップして、それを見た人の中に「悪い気」を持つ人がいるかもしれない、それが赤ちゃんに伝染しないように、とのことだった。
「悪意」というものを前提としなくとも、何の考えもなしに、自分の考えを無邪気にネット上に散布するという事に、一抹の懐疑と戸惑いを覚える。
「悪い気」「悪意」どころか、わたしの書いたものなど、世間の人にとっては、街中で風に舞うポリ袋のようなものでしかない、しかしいかにちっぽけで取るに足らなくとも、自分をそのような存在に貶めてもいいのか、という疑問が残る。
◇
これほどまでに「言葉によって」通じ合うことができないわたしだが、不思議なことに、2011年から始めたタンブラーには1万4千人のフォロワーがいる。
タンブラーで何をしているかといえば、上に貼ったような絵や写真を載せている。
何故こんなわたしのセレクトした絵や写真、または引用を世界中の人が好んでくれるのか?
彼らがわたしという人物を知らないから?
けれども、わたしが選んだアートは、わたしの内面の(全てではないにせよ、その一部の)投影ではないだろうか?
けれども母はごく当たり前の常識を持った普通のおばあさんではない。前にも言ったように、母はわたしの物の見方、考え方に最も大きな影響を与えた2人(3人?)のうちの一人である。
このように、根本的に異質な存在であるわたしが、なにをどのように書こうと、それが受け入れられるはずはない。一般的な「常識」乃至「良識」というものをそもそも共有していない者同士が理解しあえるはずはない。
◇
「手紙」(私信)或いは「日記」という表現の形を考えた時、赤の他人に自分の内面をさらけ出すということ、それこそが言葉への、同時に自分自身への冒瀆ではないかと感じることもある。
とはいえ、芥川龍之介でさえ、死後、全集に「書簡集」が入れられることを計算に入れていたのだ・・・
先日の新聞の外信欄に、ロシアでは、生後40日間は新生児の写真を撮影してはいけないことになっているという記事があった。理由は、その写真をインターネット上にアップして、それを見た人の中に「悪い気」を持つ人がいるかもしれない、それが赤ちゃんに伝染しないように、とのことだった。
「悪意」というものを前提としなくとも、何の考えもなしに、自分の考えを無邪気にネット上に散布するという事に、一抹の懐疑と戸惑いを覚える。
「悪い気」「悪意」どころか、わたしの書いたものなど、世間の人にとっては、街中で風に舞うポリ袋のようなものでしかない、しかしいかにちっぽけで取るに足らなくとも、自分をそのような存在に貶めてもいいのか、という疑問が残る。
◇
これほどまでに「言葉によって」通じ合うことができないわたしだが、不思議なことに、2011年から始めたタンブラーには1万4千人のフォロワーがいる。
タンブラーで何をしているかといえば、上に貼ったような絵や写真を載せている。
何故こんなわたしのセレクトした絵や写真、または引用を世界中の人が好んでくれるのか?
彼らがわたしという人物を知らないから?
けれども、わたしが選んだアートは、わたしの内面の(全てではないにせよ、その一部の)投影ではないだろうか?
わたしが選んだアートと、わたしという存在は、全く無関係なのだろうか?
とはいえやはりというべきか、わたしをフォローしてくれる1万人以上の中で、日本人は0.1%にも満たない。
たまにいるかと思うと帰国子女だったというケースが多い。
どうころんでも、何をしても、やはりわたしは日本人とは合わないようだ・・・
とはいえやはりというべきか、わたしをフォローしてくれる1万人以上の中で、日本人は0.1%にも満たない。
たまにいるかと思うと帰国子女だったというケースが多い。
どうころんでも、何をしても、やはりわたしは日本人とは合わないようだ・・・