2018年2月10日

思想のない街 追記(井上章一 京都論)

今日の新聞に、国際日本文化研究所の井上章一氏のインタビューが載っていた。
海外の都市と「古(いにしえ)の都」と言われる京都との比較が興味深かった。

「京都の中心市街は年々、観光地としての人気が高まっています。今の好況をどう感じていますか?」

井上:「なんでこんな現代的な街にくるんやろと思います。例えばイタリアのフィレンツェ市役所は七百年前に建てられた。日本でいえば鎌倉時代の建物を現役で使っている。ルネサンス期より前に建てられた住宅もあちらこちらにありますわ。フィレンツェの人は威張っていて、ローマを見下している。京都にも近い雰囲気がありますよね。
でもぼくはこれだけの歴史を守っているフィレンツェの人には威張る権利があると思います。京都の街中はどうでしょう。どうみてもマンションが立ち並ぶ現代都市ですよ。
京都市は「歴史都市」と自称してフィレンツェと姉妹都市提携をしていますが、申し訳ない気持ちになります。」

「京都市も古い街並みを維持しようと、建築物の高さなどに規制を設けてはいますが」

井上:「欧州の街に比べれば規制でもなんでもないです。二千十六年の地震で多くの建物が倒壊したイタリアのアマトリーチェは、耐震補強しようなんて思わず、前と同じようにレンガ造りの同じ建物を造り直しています。安全性よりも歴史への執着が勝つ。それを見て私はあたまが下がります。
京都の河原町通りを見てください。周囲の空気を読んでいる建物はほとんどありません。パリのオペラ座の周りは全部の建物が同じように統制されているんです。よく日本人は自己主張をせず、欧州の人は我が強いというが建築に関しては真逆。歴史都市京都の方がエゴイズムの塊に映ります。京都は戦中にほとんど空襲被害を受けなかったのにもかかわらず、現代都市の道を選んだわけです」



井上章一も松山巌同様、大学で建築を学んだ。

繰り返し、ヨーロッパのすべてがこのような事情であるとは思えない。少なくとも、フェイスブックで、ヨーロッパの友達がアップするパリやローマの写真を見る限り、東京と見分けがつかない。ウディー・アレンの『ミッドナイト・イン・パリ』は、You Tubeでオープニングを見たが、セーヌ河畔やノートルダム界隈もさほど魅力的には映らなかった。(1970年代に作られたモノクロ映画『マンハッタン』のオープニングは、ガーシュインの「ラプソディー・イン・ブルー」をバックに、マンハッタンの様々なシーンが写し出され、見事な美しさを描き出していた)ーー わたしは現在のパリを愛するには、あまりにもドアノーや、ブラッサイ、ウィリー・ロニス、そしてイジスのパリに、1930~50年代の、「モノクロームの欧羅巴」に魅せられている。(或いは「ヌーヴェルバーグのパリ」に?)

わたしの母方の代々の墓は京都市上京区にあるが、母は京都を「西の東京」と呼んでいる。
わたしも20年ほど前に友人と京都に旅行に行ったが、特に清水寺周辺を歩いた時に、全く歴史の町、古都というにおいがなく、肩透かしを食ったような感じを受けた。

「思想のない街」とはなにも東京に限られたことではない。その無思想は北の涯から南の果てまで列島全土を覆い尽くしている。


ー追記ー

井上章一のインタビュー中の「真逆」「周囲の空気を読む」という表現には抵抗を感じながら引き写した。「国際日本文化研究所教授」であるなら、もう少し日本語表現にも濃やかな心遣いをしてもらいたいと思う。
また、アマトリーチェ(イタリア)は安全性よりも歴史への愛着が勝っていると書いているが、では日本はなにより安全を優先させているかと言うとそうではなく、イタリアは2011年の東日本大震災以降、即座に脱原発へと政策を切り替えた。逆に日本は震災を奇貨として再開発の契機としたように思えてならない・・・


Robert Doisneau, La Sonnette, 1934
「ドアベル」(パリ 1934年) ロベール・ドアノー

2018年2月9日

お化け屋敷のない風景

フォン・ヤイゼル神父は私が日本に帰って数年後に亡くなったが、たとえば電車の窓から雑然とした町並みを眺めていて、よくひびく彼の声が東京の空にとどろきわたるような気のすることがある。こんな思想のない街に暮らしていたら、きみたちはこれっぽっちの人間になってしまうぞ。

これは須賀敦子が松山巌の依頼に応じて、彼の著作『百年の棲家』の解説として認めた一文の結びである。

神父は須賀たち学生に、「街が人を創る」ということを、よく覚えておくようにと伝えた。

数日前の新聞に、ニューヨークで生まれた日本文学研究者のロバート・キャンベル氏のコラムが掲載されていて、それが強く印象に残った。

「故郷で古い仲間に会ってきたが街が変わり過ぎて記憶がよみがえらない。東京の友達から時々そういう話を聞くことがある。わたしも去年の夏、生まれ故郷のニューヨーク市ブロンクス区を三十五年ぶりに歩いてみた。友だちとは逆に、街はほとんど変わっていなかったが、古い仲間はもう一人としていない。
 十九世紀末からユダヤ系、イタリア系、アイルランド系とさまざまな移民集団ができた。アイルランド系移民に属する祖父母も地縁血縁をたよってブロンクスで家庭を作り、人生を全うした。十三歳まで僕が暮らした五階建て鉄骨タイル張りの戦前のアパートも、昔と寸分たがわず建っていた。長い階段を紙袋二個分の食料を抱えて上ってくる祖母の息遣いが瞬時によみがえる。アパートの玄関脇にあった祖父のクローゼットの甘い匂いも記憶から漂ってきた。
 今の住人は、その後入ってきたカリブ海や中南米の人か、戦中、南部から移住してきたアフリカ系労働者の子孫である。相変わらずお金を持っていそうな人は、誰もいない。
 アイルランド系労働者移民の浄財で建てられ、母も僕も通った小さな教会とその付属小学校は、窓枠に塗った赤いペンキまで当時と同じだったけれど、扉の貼り紙はスペイン語で書かれていた。道行く人も、欧州なまりとは違う英語をしゃべっている。
 初めて遊んだ公園に行ってみた。遊具は変わったが、公園で遊ぶ子供たちの笑い声は僕らのころと変わらない。
ここで育ち、やがて去れる人から去ってゆく、この街特有の影と力強さを感じた」

おそらくニューヨークでも、またヨーロッパですら、すべてが変わらず昔のままということはないだろう。これはブロンクスという貧しい人たちの住む下町ならではの事情かも知れない。けれども、50年以上、幸い震災にも戦災にも見舞われずに過ごしてきて、なお「故郷喪失者」であるわたしにとって、「ここも、あそこも昔のままだ」といえる風景を持てるということはなんという幸運であろうという思いを強くする。

東京ははたして「思想のない街」だろうか?そうではなく、寧ろ「誤った思想の下に創られた」都市ではないのか。「思想」を「美」と呼び換えてもいい。美のない街に人は生きることはできない。そして東京は戦後の高度成長期以降、「美」というものをはき違えて現在に至っている。いやそもそも人間にとって美が欠くべからざる生命の根源であるという思想さえ抜け落ちているのではないだろうか。

わたしはこの街を「穢土」だと感じている。何故なら、この都市はあたかも地上の「浄土」を創り上げようとしてきたかに思えるからだ。おそらく「浄土」には一切の穢れたものや、汚れや、闇、朽ちゆくもの、滅びゆくものは存在しないだろう。不壊、不朽、そして不老・不死こそが「浄土」の要諦であるとしたら・・・

一方で「変わらぬ風景」を求め、同時に「滅びゆくものこそ美である」というのは明らかに矛盾しているのではないかと言われるかもしれない。
しかしそれは人間一代の視点で捉えているからこそ生じる「矛盾」である。数百年、数世紀、数世代の単位で考えれば、どのような建物もいずれは朽ち、滅びる。「発展・開発」の荒波から救い出された、ヴァージニア・リー・バートンの『ちいさいおうち』とても例外ではない。
日本人は記憶の継承というものをなおざりにしてきた。それが目に見える形として具現化されているのがこの都市の姿である。


うしろを振りむくと
親である
親の後ろがその親である
その親のうしろがまたその親であるというように親の親の親ばっかりが
むかしの奥へとつづいている
まえを見ると
まえは子である
子のまえはその子である
その子のそのまたまえはそのまた子の子であるというように
子の子の子の子ばっかりが
空の彼方へ消え入るように
未来の涯へとつづいている
こんな光景のなかに
紙のバトンが落ちている
血に染まった地球が落ちている
ー山之口獏 「喪のある風景」

地上のすべての家や建物が百年の棲家ではなく、「かつ消えかつ結びて久しく留まりたるためし」のない「泡沫(うたかた)」の如きものであるならば、わたしたちはいつ「喪」の記憶に参するのだろう?
親と子、そして子供の子供の記憶は全て細切れに分断・切断され、「喪」の継承は行われない。
土地と家の記憶の寸断は、同時に人々の生活の記憶の断絶でもある。記憶は街の姿と共にある。

「死の家とは、ものが死んだ家ではない。むしろ、ひとつ一つのものが記憶を甦らせ、うごめいて住む人に語りかける。(高村)光太郎の目にはかつて自慢した、高い屋根や七つの窓や欅の木の向こうに妻をはじめ、死者の姿が映っている。
おそらく多くの方は、このような家に住みたいとは思わないだろう。しかし生きている家とはこのようなものだ。ふと振り返れば、重い記憶が壁や天井、窓や床に染みついている。建築家はこんな家を設計することはできない。作るのは真新しいピカピカの家である。どれほど生き生きと明るい表情を見せても、実は生きた記憶は消されている。

建築家、建売業者、建材メーカー、いずれも家と什器の新しさを強調して売りつけ、客もそれを求める。つまるところなにを買うかといえば、絵のような汚れなき「マイ・ラスト・ホーム」。むろんこんな文句は宣伝には使えない。本当のところは客はあきらめている。そうでなければ、あれほどチャチな住まいに満足しないだろう、どうせ息子か娘の代になれば取り壊される。どこの家も同じ、誰も同じ、それがせめてものなぐさめなのだ。均質な死に場所こそが新築される家の隠し味なのである」-松山巌「詩のなかの住まい、詩とその家々 6」(初出 1993年)








2018年2月7日

「言葉」への懐疑

昨年暮れに、2007年から使っている「楽天ブログ」から、こちらのブログに移ってきた。画面に表示される広告が鬱陶しいというのがその理由であることは、あちらのブログにも書いた。10年間続けてきた愛着のあるブログではあるけれど、今は広告は視たくない。
広告のないブログに移ったからといって、このままどこまでもブログを継続してゆけるとは思えない。メインのブログでも、1年12カ月、すべての月に何らかの投稿をしたのは昨年が初めてだった。継続という点では、2011年、それまで利用していたSNSの廃止(?)に伴ってはじめたTumblrは、逆に昨年まで、すべての月に投稿をしている。
Tumblrも「ブログ」ではあるけれど、「楽天ブログ」やこことなにが違うのかと言うと、Tumblrは絵や写真を投稿するサイトで、こちらは言葉を使うサイトであるということだ。

わたしには「言葉」に対して、根深い懐疑の気持ちがある。
それがインターネットを始めて以降のものかと考えてみると、そうとも言えないようだ。大学時代、世間では「ニュー・アカデミズム」と呼ばれたポスト・モダンの書籍がもてはやされていた。その頃から、わたしの中の「知」への反発感情が醸成されていたように思う。

知的障害があるせいか、「言葉」とりわけ「アカデミック」で「知的」で「訳知り」で「賢しら」な言説への抵抗は大きかった。
同根の理由から、わたしは「書籍」というものに対しても深い愛着を抱くことはなかった。
「本好き」「読書好き」と呼ばれる人たちへの屈折した反感があった。

広くとらえれば、日本社会というものへの嫌悪感があり、それは当然、日本人の使う言葉への忌避感へと流れ込んでゆく・・・

「言葉」への根源的な信頼が希薄なので、主に言葉を紡ぐことによって成り立つブログには、アートを投稿するサイトに比べて、どこか一歩退いているところがある。
無邪気に言葉を信用できない。「知」よりも「情」を優先させてしまう。
「説明」よりも「直感」を好む。

尾崎放哉の句に勝る風景画は存在しないと思っているが、それは俳句、特に自由律俳句がまだ「言葉」以前の直截な感情の発露に近いからだ。「言葉」が「説明」であるなら、それは寧ろ「感嘆符」に似ている。



松山巌のエッセイ集『手の孤独、手の力』(2001年)に、常日頃わたしが感じているようなことが引用されていたので、それを引いてみる。

「電信電話が出来、蓄音機活動写真が出来、自動車やモートルボートや空中船や飛行機が出来、水雷艇やターバイン式の快速な軍艦や壮麗な飛脚船やが出来、宏大精美な住宅や劇場が出来、瓦斯や電燈が吾人の夜を飾り、精良珍稀の飲食物が吾人の胃を充たし、細軟軽暖の衣服が吾人の身を包む、其等のすべての事の発達進歩が即ち世界の真の文明であるならば、文明ということは畢竟吾人の五官に眼まぐるしい衝動を与えて、而して吾人の真の生命の油を無益に消費せしむるに適したもので、吾人より真の生活の意義を断片的に奪い去り盗み去り、乃至は真の生活を不断の小刺激によって麻痺せしめ、其の本来の精神面目を発揮展開するに暇あらずして、外界との応酬に忙殺せられて死に至らしむるのみであると云いたい。」
ー 幸田露伴「簡易の好風景」『修省論』(大正二年)

松山は引き続きこの一文より以下の箇所を引く

「物質界の進歩は敢えて非とすべきものではない。しかし形而下の進歩が跛脚者の一脚のみ長いように進歩して、そして形而上の者がこれがために累せらられるような状態に陥る場合には、一部に於いては不可無きも、全体に於いては不利を致している。」

要するに形而下=物質世界の進歩が、形而上=精神・感覚・感情・情緒等、人間の心身、生体本来の在り方を凌駕し、それと著しく乖離してしまうというアンバランスを来したときに、それは人間社会にとって不利益を齎すものになると露伴は言っている。

最後に松山はこのように締めくくる

「人間はなにかの折にぎりぎりの立場に立たされる。その時人は試される。あわてても仕方ない。その急場を堪えるには、日頃から「実に参する」他はない。掃除を含め、家事は日常の些末な仕事である。しかしだからこそ、人の身振りや立ち居ふるまいを決定づける。ぎりぎりの立場に立たされたときこそ、その些末な日常が活きる。露伴は、こう娘文に笑いを含ませて伝えたのだ」「掃除の仕方」(初出 1989年)

「虚」の世界は人間を救わないとわたしも思う。また上の引用でも指摘されているように、虚の世界の肥大は結局人間存在を相対的に卑小化する。

更に『手の孤独、手の力』の他の章では、柳田國男の以下のような言葉が引用されている

「言葉さえあれば、人生のすべての要は足といふ過信は行き渡り、人は一般に口達者になった。もとは百語と続けた話を、一生涯せずに終わった人間が、総国民の九割以上も居て、今日謂ふ所とは丸で程度を異にして居た。それに比べると当世は全部がおしゃべりと謂ってもよいのである」「涕泣史談」

「柳田はかつては眼の色や顔の動きで気持ちを表現したし、男ももっと泣いたといい、「語は本来なくても済んだのである」と指摘する」「においと気と笑いの衰微」(初出 1989年)

結局わたしは現代の文明が(精神を含めた)人間の生体を著しく損なっているという露伴に共鳴し、
「かつては眼の色や顔の表情=身体で気持ちを表せていた」ので「敢えて言葉は必要なかった」という柳田の論に賛同するのである。
即ち過大評価されている「言葉」とそれを弄ぶマテリアリズムへの嫌悪、そしてそれらに浸蝕されている人間精神への嗟嘆である。

ああ、それにしても横38センチ×縦22センチのパソコンの画面でさえこの文字の読みにくさ!言葉への懐疑などといった形而上の問題以前に、形而下の肉体が、目がついてゆけない・・・














2018年2月6日

廃墟について

私は石の柱……崩れた家の 台座を踏んで
自らの重みを ささえるきりの
私は一本の石の柱だーーー乾いた……風とも 鳥とも かかはりなく
私は 立っている
自らのかげが地に
投げる時間に見入りながら
ー 立原道造 「石柱の歌」

松山巌は、廃墟を語る一文の中で道造の詩を引き「この詩は私たちにあらゆる事柄から解き放たれた時間を夢想させる。一瞬かもしれぬし、 永遠かも知れぬ凍結した時間、その美しい夢へと廃墟の一本の柱は私たちを誘う。」『手の孤独、手の力』
と綴る。

けれどもこの詩を「廃墟」の文脈から切り離して単独に読んだ時、わたしはすぐに
ジョン・シンガー・サージェントの「アトラス」の絵を思い出した。

Atlas and the Hesperides, 1925, John Singer Sargent

ゼウスとの戦いに敗れ、天空を支える罰を科せられたアトラスは、シジフォス同様に永遠の苦痛に耐えることを運命付けられている。

同時に、この詩がわたしにもたらした印象は、己(の生)を支え、維持することのみを目的とする存在となった、一本の柱の悲しみでもあった。
「石の柱」が支えているのは、他ならぬ自分自身のいのちである。
「彼」は身じろぎすることもままならず、「風とも 鳥とも かかはりなく」ただじっと支え続けることに耐えている。

わたしは自分の「生」を容易にこの詩に、この絵に重ね合わせることができる。
「風とも 鳥とも かかはりなく」ただじっと動かずにいることを余儀なくされているいのちの在り方に。

まだみどりも花も見ることができ
まだ蓮の花咲く池のほとりをめぐり
野鳥の森の朝のさわやかさを
味えることのふしぎさよ
ー 神谷美恵子

自らの生をただ維持するためだけに、不動の柱として生きているわたしが、風や鳥や、樹々や草花とふたたび心を通い合わせることのできる日が訪れるのだろうか・・・



「廃墟の美しさは「風とも 鳥とも 花とも かかはり」のない久遠の美しさだ。建築家は多かれ少なかれ、この美学に魅了される。当然である。自らが設計した建築が、たとえ機能を失い、建築としての生命を失っても、周囲がどれほど変わろうとも超然として残ることは建築家の夢に違いないからだ」と松山は続ける

廃墟を廃墟たらしめているのは、建築としての本来の機能を失ってしまったからだが、それでもわたしは下の絵にあるように、「超然たらざる」廃墟と人の生活が交差する情景が好きだ。

A Hermit Praying in the Ruins of a Roman Temple, ca 1760, Hubert Robert. French (1733 - 1808)


これはユベール・ロベールの描いた「ローマの寺院の廃墟で祈りを捧げる隠者」。
廃墟は造られた当初の機能は失われても、尚このように人々の生活の中に溶け込んでゆく。

「廃墟というものがいまだ存在する。炭鉱やさびれた漁港で、石炭積み出しの施設、洗炭場、鉄道施設、炭住、そしてかつて漁師たちが寝泊まりした番屋や赤錆を浮かした船に出会った時は新鮮な驚きを感じた。それらはすべて打ち棄てられていた。かつての栄華を、土地の記憶を強く廃墟や廃屋や廃船は焼き付けていた。
同時に感じたのは、廃墟が経済的価値から解き放たれて見えたことだ。人間が与えた価値から、これらの建築や船は解放されて、ただの物体に戻り、あたかも自然そのものとして息づいている。風雨にさらされたコンクリートの肌、錆びた鉄、茂る雑草は地霊の力を感じさせた。」『手の孤独、手の力』

廃墟は打ち棄てられることによって、新たな生命を得る。ある人々、ある階層、ある使命から離れることで、別の人々に愛され、別の役割を担うことになる。
現在の資本主義は「いつまでも壊れず、汚れない物は作らない」という呪縛の上に成り立っている。
言い換えれば、壊れたり汚れたりしたものは、ただちに新品に取り替えられるということだ。
廃墟は既に市場経済の埒外に位置し、貧しい人たちとその新たな生命を共有する。

新しい建造物は、廃墟化することで、自然の一部となる。衰え、やがて朽ちてゆくという、有機物としての生命を与えられる。
そこではじめて巨大建築は人間に近しいものになる。
廃墟を偏愛し、廃墟の絵を描き続けたユベール・ロベールは、建造物に「やがて滅びゆく」有機体としての生命を吹き込んだ人ではなかっただろうか。

「廃墟や廃屋や廃船が残されるのは、土地の経済的な価値が取り壊す費用と見合わないほどに低いためである。もし東京などの大都市であるならば、廃墟が生れるいとまも許されない。使われぬ建物は瞬時に建て直される。」(同)

大都市では時間も空間もすべてが経済対効果で計られる。廃墟の生きられない土地、「無駄」の許されない土地では、人間の生もまた、やせ細ってゆく。

The Barn Hubert Robert, 1760,
ユベール・ロベール「納屋」(1760年)








2018年2月4日

「猫」という哲学 或いは街角の哲学者


もし誰かに「好きな言葉はなんですか?」と訊かれたら何と答えるだろう?「猫に小判です」とでも答えようか?


なんのために

生きているのか

裸の跣(はだし)で命をかかえ

いつまで経っても

社会の底にばかりいて

まるで犬か猫みたいじゃないかと

ぼくは時に自分を罵るのだが

人間ぶったぼくのおもいあがりなのか

猫や犬に即して

自分のことを比べてみると

いかにも人間みたいにみえるじゃないか

犬や猫ほどの裸でもあるまいし

一応なにかでくるんでいて

なにかを一応はいていて

用でもあるような

眼をしているのだ

ー山之口獏 「底を歩いて」



街中で猫の姿を見るとなぜかほっとする。
それが野良猫だったりすると尚更ほっとする。
「町」といっても大きな地球の一画だ。人間様だけのものという法はあるまい。

「猫に小判」という言葉が好きなのは、猫が人間がありがたがるものにまるで関心を示さないからだ。「馬の耳に念仏」でも「豚に真珠」でもいい。
その存在によって、人間の価値観をせせら笑っているようで愉快じゃないか。

大判・小判を有り難がらない人間がいてもよさそうなものだが、きょうびなかなかそういう御仁は見当たらないようだ。
人間はどうも人間の価値観から自由になるのは困難らしい。
そうなると人間の価値観から自由なのは、その埒外にいる他の動物ということになる。
「町」という、人間と同じ空間に住みながら、人間とは全く異なった存在。
そんな奴らの姿を見るとほっとする。

犬 も 入 れ て 残 ら ず 写 す (放哉)

犬は人間の生活の中にスポッと納まってしまうかもしれないが、
記念写真を撮っている時だって、猫は澄まして庭を歩きまわっていそうだ。

人間が多すぎるんじゃない。同じような人間が多すぎるんだ。
猫も杓子も同じ道具を使い、同じ言葉を使い、同じように見、同じように聴き、同じ歩調であるく。

とにもかくにも人間がこぞって拝跪するものに目もくれない存在があるということだけで気が楽になる。

ところで梶井基次郎の「愛撫」という作品で、「私」は、ゴロッと仰向きに寝転んで、猫を顔の上へあげ、その両の前足を瞼にあてがう。

「私の疲れた眼球には、しみじみとした、この世のものではない休息が伝わってくる。
 仔猫よ!後生だから、しばらく踏み外さないでいろよ。お前はすぐ爪を立てるのだから。」


尾崎放哉は

猫 の 足 音 が し な い の が 淋 し い

という句を詠んでいる。

一応なにかでくるんでいて
なにかを一応はいていて
用でもあるような
眼をしているのだ

猫よ、お前はいつでも裸で跣(はだし)でいてくれよ。
猫に小判、猫に勲章とあってくれよ・・・






2018年2月2日

思想はネットでは伝わらない。

『右であれ左であれ、思想はネットでは伝わらない』という坪内祐三の本のタイトルには素直に首肯する。

では「思想」はどのようにして人から人へと伝わるのかと訊かれれば、あくまで「オールド・ファッションド」であるわたしは、(坪内祐三風に言うなら「古臭いぞ私は」)このような方法で、と答えるだろう。

この国のおれは植字工
口ふさがれてパチパチと
ただパチパチと
神様の思想を植える。
ー新村正史 『生活の歌』(1936年)

山宣の写真が
壁にはげ残り
謄写版の匂いがするーー
懐かしい小舎(こや)
ー斎藤 薫 『短歌評論』(1937年)

人の手と、その汗と油を経て初めて思想はその重みを得、読む者の心に着床するのだと思う。何が書かれているかということ以上に、それが人の目に触れるまでにどれだけの「手間と隙」が費やされたか、ということがその思想の価値を決めると言ってもいい。

また「思想」を受け取るにも

傍線を強く引き、再び読み返し、胸に畳んで、偖(さて)表に出たばかりの眩しさ。
ー足立公平(孝平)(1936年)

という「手間隙」が要る。そして新たな「思想」がこの胸に根付いたという充足感があるとき、世界は新たな光に輝いて見える。

思想はきっとこのような手順でひとからひとへ、手から手へ、胸から胸へと伝えられてゆくのだ。人間の「思想」「想い」とネットは所詮水と油だ。言葉は水面に広がる油膜のようにただフワフワトユラユラト漂っているだけ・・・










2018年2月1日

世間猿

まだこちらのブログに馴れていないので、昨日まで友人からコメントが寄せられていたことに気が付かなかった。「Q&A」サイトの「哲学」カテゴリーの仲間で、フェイスブックのフレンドでもあったけれど、彼もFBを去った模様。

コメントが書かれてから20日以上気付かづにいたので、このブログをまだ見てくれているのかわからないけれど、お礼とお詫びに、彼にわたしの好きなジャズを贈ります。

クリス・コナーの「ザ・ナイト・イット・コール・ア・デイ」

チェット・ベイカーの「ポルカドッツ・アンド・ムーンビームス」





わたしは彼がSNSを辞めた(?)ことを残念とは思わない。
『右であっても左であっても、思想はネットでは伝わらない』という坪内祐三の本が最近出版されたようだけれど、これはわたしが日頃感じていることと同じだ。

Facebook であろうと、Twitterであろうと、それで人に影響を与え得ると考えているなら、あまりに後生楽だし、仮にそんなことが可能であるとしたら、それは寧ろ人間存在そのものが、そこまで「お粗末化」していることの証しに他ならない。

インターネット、ことにSNSは畢竟、人を分断し愚昧化させることにしか役立たない。
もし誰かがわたしに対して「君だってインターネットをやっているじゃないか。同じ穴の狢だよ」と批判するなら、わたしはその批判を甘んじて受け入れるだろう。

Twitter などで、訳知り顔で「思想」らしきものを語っている連中を見ていると、「諸道聴耳世間猿」という上田秋成の小説のタイトルを思い出して苦笑してしまう。

諸道 聞き耳 世間猿。正に陋劣なわれわれ現代人のことじゃないか?