2018年2月7日

「言葉」への懐疑

昨年暮れに、2007年から使っている「楽天ブログ」から、こちらのブログに移ってきた。画面に表示される広告が鬱陶しいというのがその理由であることは、あちらのブログにも書いた。10年間続けてきた愛着のあるブログではあるけれど、今は広告は視たくない。
広告のないブログに移ったからといって、このままどこまでもブログを継続してゆけるとは思えない。メインのブログでも、1年12カ月、すべての月に何らかの投稿をしたのは昨年が初めてだった。継続という点では、2011年、それまで利用していたSNSの廃止(?)に伴ってはじめたTumblrは、逆に昨年まで、すべての月に投稿をしている。
Tumblrも「ブログ」ではあるけれど、「楽天ブログ」やこことなにが違うのかと言うと、Tumblrは絵や写真を投稿するサイトで、こちらは言葉を使うサイトであるということだ。

わたしには「言葉」に対して、根深い懐疑の気持ちがある。
それがインターネットを始めて以降のものかと考えてみると、そうとも言えないようだ。大学時代、世間では「ニュー・アカデミズム」と呼ばれたポスト・モダンの書籍がもてはやされていた。その頃から、わたしの中の「知」への反発感情が醸成されていたように思う。

知的障害があるせいか、「言葉」とりわけ「アカデミック」で「知的」で「訳知り」で「賢しら」な言説への抵抗は大きかった。
同根の理由から、わたしは「書籍」というものに対しても深い愛着を抱くことはなかった。
「本好き」「読書好き」と呼ばれる人たちへの屈折した反感があった。

広くとらえれば、日本社会というものへの嫌悪感があり、それは当然、日本人の使う言葉への忌避感へと流れ込んでゆく・・・

「言葉」への根源的な信頼が希薄なので、主に言葉を紡ぐことによって成り立つブログには、アートを投稿するサイトに比べて、どこか一歩退いているところがある。
無邪気に言葉を信用できない。「知」よりも「情」を優先させてしまう。
「説明」よりも「直感」を好む。

尾崎放哉の句に勝る風景画は存在しないと思っているが、それは俳句、特に自由律俳句がまだ「言葉」以前の直截な感情の発露に近いからだ。「言葉」が「説明」であるなら、それは寧ろ「感嘆符」に似ている。



松山巌のエッセイ集『手の孤独、手の力』(2001年)に、常日頃わたしが感じているようなことが引用されていたので、それを引いてみる。

「電信電話が出来、蓄音機活動写真が出来、自動車やモートルボートや空中船や飛行機が出来、水雷艇やターバイン式の快速な軍艦や壮麗な飛脚船やが出来、宏大精美な住宅や劇場が出来、瓦斯や電燈が吾人の夜を飾り、精良珍稀の飲食物が吾人の胃を充たし、細軟軽暖の衣服が吾人の身を包む、其等のすべての事の発達進歩が即ち世界の真の文明であるならば、文明ということは畢竟吾人の五官に眼まぐるしい衝動を与えて、而して吾人の真の生命の油を無益に消費せしむるに適したもので、吾人より真の生活の意義を断片的に奪い去り盗み去り、乃至は真の生活を不断の小刺激によって麻痺せしめ、其の本来の精神面目を発揮展開するに暇あらずして、外界との応酬に忙殺せられて死に至らしむるのみであると云いたい。」
ー 幸田露伴「簡易の好風景」『修省論』(大正二年)

松山は引き続きこの一文より以下の箇所を引く

「物質界の進歩は敢えて非とすべきものではない。しかし形而下の進歩が跛脚者の一脚のみ長いように進歩して、そして形而上の者がこれがために累せらられるような状態に陥る場合には、一部に於いては不可無きも、全体に於いては不利を致している。」

要するに形而下=物質世界の進歩が、形而上=精神・感覚・感情・情緒等、人間の心身、生体本来の在り方を凌駕し、それと著しく乖離してしまうというアンバランスを来したときに、それは人間社会にとって不利益を齎すものになると露伴は言っている。

最後に松山はこのように締めくくる

「人間はなにかの折にぎりぎりの立場に立たされる。その時人は試される。あわてても仕方ない。その急場を堪えるには、日頃から「実に参する」他はない。掃除を含め、家事は日常の些末な仕事である。しかしだからこそ、人の身振りや立ち居ふるまいを決定づける。ぎりぎりの立場に立たされたときこそ、その些末な日常が活きる。露伴は、こう娘文に笑いを含ませて伝えたのだ」「掃除の仕方」(初出 1989年)

「虚」の世界は人間を救わないとわたしも思う。また上の引用でも指摘されているように、虚の世界の肥大は結局人間存在を相対的に卑小化する。

更に『手の孤独、手の力』の他の章では、柳田國男の以下のような言葉が引用されている

「言葉さえあれば、人生のすべての要は足といふ過信は行き渡り、人は一般に口達者になった。もとは百語と続けた話を、一生涯せずに終わった人間が、総国民の九割以上も居て、今日謂ふ所とは丸で程度を異にして居た。それに比べると当世は全部がおしゃべりと謂ってもよいのである」「涕泣史談」

「柳田はかつては眼の色や顔の動きで気持ちを表現したし、男ももっと泣いたといい、「語は本来なくても済んだのである」と指摘する」「においと気と笑いの衰微」(初出 1989年)

結局わたしは現代の文明が(精神を含めた)人間の生体を著しく損なっているという露伴に共鳴し、
「かつては眼の色や顔の表情=身体で気持ちを表せていた」ので「敢えて言葉は必要なかった」という柳田の論に賛同するのである。
即ち過大評価されている「言葉」とそれを弄ぶマテリアリズムへの嫌悪、そしてそれらに浸蝕されている人間精神への嗟嘆である。

ああ、それにしても横38センチ×縦22センチのパソコンの画面でさえこの文字の読みにくさ!言葉への懐疑などといった形而上の問題以前に、形而下の肉体が、目がついてゆけない・・・














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