2018年2月20日

知的障害者が問う、「知識」とはなにか?

先日投稿した自己紹介で、わたしは、「知的障害と精神障害を持つ引きこもりです」と書いた。知的障害について、計算能力の余りの低さは精神科医を驚かせたが、単にそれだけを以て言っているのではない。

わたしにはそもそも「知識」というものがいったいどういうものなのか、よくわからない。
たとえば「本を読むと知識が得られる」と言われる。ではその「得られた知識」とは如何なるものを指すのだろう?
ほとんど本を読まない自分と、たくさん本を読んだ彼とでは、具体的にどのように違うのだろう?
そもそも絶対にして不変(普遍)の「知識」というものが存在するのだろうか?



ウディー・アレンは映画『マンハッタン』のラストで、人生は生きるに価するか?価するとしたらそれは何に因ってか?と自問し、「価値あるもの」を列挙してゆく。

「・・・ウィリー・メイズ、グルーチョ・マルクス、(モーツァルトの)『ジュピーター交響曲』第二楽章、ルイ・アームストロングの『ポテトヘッド・ブルース』、スウェーデン映画、フローベールの『感情教育』、マーロン・ブランドー・・・フランク・シナトラ・・・セザンヌの素晴らしい『りんごと梨』、サンド・ウォール(?)のクラブサンド(サンドイッチ)・・・トレイシーの顔・・・」

これらは果たして「知識」だろうか?
モーツァルトやルイ・アームストロングやシナトラを聴くのも、
セザンヌの水彩画を見るのも、フローベールを読むのも、
ベルイマンや、ブランドーの映画を観るのも、それらは憂き世に生きる者の愉しみであり慰安であり、「知」ではなく「美」(或いは「五官の快楽」)を求める営みであって、それを「知識」とは呼ばないはずだ。

ローズ・シュナイダーマンは、それを「ブレッド&ローズゼズ」=「パンと薔薇」と呼ぶ。

人生には多分薔薇の園(ローズ・ガーデン)があったほうがいい。けれども、モーツァルトもバッハも、ドストエフスキーも漱石も、レンブラントもルーベンスも無くても人はこころゆたかに生きてゆける。

「自分はしばしば思うた、もし武蔵野の林が楢のたぐいでなく、松か何かであったらきわめて平凡な変化に乏しい色彩いちようなものとなってさまで珍重ちんちょうするに足らないだろうと。
楢の類いだから黄葉する。黄葉するから落葉する。時雨しぐれ私語ささやく。こがらしが叫ぶ。一陣の風小高い丘を襲えば、幾千万の木の葉高く大空に舞うて、小鳥の群かのごとく遠く飛び去る。木の葉落ちつくせば、数十里の方域にわたる林が一時に裸体はだかになって、あおずんだ冬の空が高くこの上に垂れ、武蔵野一面が一種の沈静に入る。空気がいちだん澄みわたる。遠い物音が鮮かに聞こえる。自分は十月二十六日の記に、林の奥に座して四顧し、傾聴し、睇視ていしし、黙想すと書いた。「あいびき」にも、自分は座して、四顧して、そして耳を傾けたとある。この耳を傾けて聞くということがどんなに秋の末から冬へかけての、今の武蔵野の心にかなっているだろう。秋ならば林のうちより起こる音、冬ならば林のかなた遠く響く音。
鳥の羽音、さえずる声。風のそよぐ、鳴る、うそぶく、叫ぶ声。くさむらの蔭、林の奥にすだく虫の音。空車からぐるま荷車の林をめぐり、坂を下り、野路のじを横ぎる響。ひづめで落葉を蹶散けちらす音、

 (略)
自分が一度犬をつれ、近処の林をおとない、切株に腰をかけてほんを読んでいると、突然林の奥で物の落ちたような音がした。足もとにていた犬が耳を立ててきっとそのほうを見つめた。それぎりであった。たぶん栗が落ちたのであろう、」


これは国木田独歩の『武蔵野』に描かれた自然である。

切り株に腰を下ろして本を飛んでいる独歩の姿、それがそのままロシアの風景画のようにうつくしくなつかしい感興を惹き起こす。

自然を感じる心と感覚(=senses)があれば、ディレッタンティズムに陥ることなく人は豊かな生を生きることができる

わたしにはわからない。「知識」とは何か?

「知」を持たないものを、「知」の不足、「知」の欠如を・・・更にいうなら「知への嫌悪」をも含めて「知的障害」と呼ぶのなら、わたしは紛れもなく知的障害者だ。

改めて問う。「知識」とは何か?



















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