2018年2月19日

匂いガラスとスマートフォン


「匂いガラス」というものをはじめて知った。松山巌さんの、タイトルもそのまま『銀ヤンマ、匂いガラス』というエッセイ集で。
「匂いガラス」という物があるのではなく、正確には当時の先端技術を用いたプラスティックで作られた爆撃機の風防ガラスの破片で、摩擦するとその熱で甘い芳香を発するので「匂いガラス」と呼ばれていたらしい。
被弾した戦闘機は、墜落炎上し、操縦していたパイロット=兵士もおそらくは機と運命を共にしたのだろう。戦後、原っぱでその破片を拾った子供たちが、匂いガラスと呼んで、地面や壁にこすりつけてはあまい香りをかいでいたのだ。

その他にもこのエッセイ集には懐かしい品物がぞろぞろ出てくる。
松山さんは、終戦の年、1945年に生まれた。この本は1995年に戦後50年を様々なモノを通じて振り返るという企画の下に書かれたものだが、1963年、東京オリンピックの前年に生まれたわたしにも懐かしいと思えるものたちが登場する。
「蠟石」「紙芝居」「ベーゴマ」「蚊帳、蠅取り紙」「屋台のおでん」「クレヨン」「謄写版」「東京タワー」・・・
といっても、わたしの個人的な思い出の中で、燦然と光り輝いているのは「メンコ」であり、「泥の団子」であり「秘密基地」だった。

1960年代といえば、敗戦国日本が高度経済成長の緒についたディケイドであり、64年のオリンピックを控えて急ピッチの都市開発が進み、オリンピックを境に東京の様子がガラリと様変わりしてしまったと言われる。けれども、そんな時代に生まれたわたしは当たり前のように自分の生まれた時代と共に子供時代を送った。
「様変わりしたトウキョウ」といっても、まだ空地はあったし、紙芝居屋さんも来ていたし、屋台のおでん屋さんも、プーピーと喇叭を吹く豆腐屋さんもいて、子供たちは広場の土管の中に潜って遊び、メンコや缶蹴りをし、馬跳び(馬乗り)をして遊んでいた。
写真集『ドアノーのパリ』に写っている、50年代のパリの子供たちとさして変わらない風景と、子供たちの日常がそこにあった。
時代はまだ敗戦直後の青空と、原っぱと、麦わら帽子と赤とんぼの時代と繋がっていた。


僕らの町は 川っぷち

煙突だらけの 町なんだ

白い煙突 こんにちは

赤い煙突 さようなら

昼でも夜でも 元気よく

煙を吐いて 歌ってる

そんな僕らの 町なんだ

小学校時代にこんな歌を聴いていた。時々口ずさみもした。
地元が大田区の蒲田で、多摩川を隔てた向こう岸が川崎だったからこんな歌があったのか、学校で、音楽の時間に習った歌だと思うけれど、どういう経緯で覚えた歌だったのか、記憶にない。

そんな時代を大人たちは苦々しい思いで見つめていたのかもしれないが、小学生のわたしは「大気汚染」「公害」と言った言葉とは無縁に子供時代を過ごしていた。

『銀ヤンマ、匂いガラス』の「あとがき」に松山さんは、幸田露伴の一文を引用している。

時代の自惚れといふ奴で、誰でも自己の属してゐる時代をエライものだと思ってゐて、他の時代をば蒙昧のもののやうに信じてゐるが、それは自惚鏡の前の若旦那同然で、実際は何事も当人の思ったやうでも無いものである。
「河川」

「誰でも自己の属している時代をエライものだと思っている・・・」この文章を読んで、わたしはふと立ち止まってしまう。東京オリンピックの前年に生まれ、再来年、2度目のオリンピックを控えているこの東京で、わたしの属している時代とは、はたしていつなのだろうかと。

「戦争の間から戦後すぐにかけて空は澄んでいたが、河川もまた澄んでいた。この逆説は少し淋しい気もするが、淀んだような空と濁った水しか今日、眺めることができないとすれば、やはり鼻白む。」

と松山さんは続ける。

さきほどの、わたしが小学校時代に覚えた歌には二番があって、その後半は、

父さん母さん 帰るまで

煙突の林で 鬼ごっこ

そんな僕らの 町なんだ


そんな時代は確かにわたしが属していた時代だった。
けれども、松山さんが戦後50年経った時代を眺めてふっと鼻白んだように、
わたしもまた、オリンピックから54年を閲した今、自分の時代はとうに過ぎ去ってしまっているのだという思いの中で立ち止まっている。
子供たちは今でも最先端技術を用いたプラスティックを手に持っている。けれどもそれはいくらこすっても、もう当時の甘い匂いはしない。









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