「本書(『抵抗論・国家からの自由へ』)の上梓により、『永遠の不服従のために』にはじまる論考・エッセイ集は『いま抗暴のときに』をはさみ、3冊目となった。タイトルの ”つよさ” からか、これらを” 抵抗3部作 ”と呼ぶ向きももあるようだが、著者にはそうした大仰な意識はまったくない。
(略)
「不服従」「抵抗「抗暴」の字面は、いわれてみればたしかに穏やかでない。しかし穏当を著しく欠くのはむしろ世界の情勢のほうなのだというのが、私の言い分である。
「不服従」や「抵抗」といった、いささか古式でそれ自体の正当性をいいはるたぐいの言葉は、よくよく考えると私の好みでもない。アグレッシヴなこれらの言葉と人の内面の間には、しばしば到底埋めがたいほど深い溝があるからである。
それなのに敢えてこれらのタイトルを冠したわけは、決して私の衒いや気負いではなく、おそらく喫緊の状況がそうさせているのだ。と、申し上げておく。
世界は今、「不服従」「抗暴」「抵抗」を” テロ ”という名辞で暴力的に一括して完全に消去しようという流れにあるように見える。わたしの考えでは、しかし、「不服従」や「抗暴」や「抵抗」がさほどまでに忌み嫌われているのとまったく同時に、これほど必要とされ、求められている時代もかつてないのである。」
ー 辺見庸 『抵抗論・国家からの自由へ』(2004年)あとがき◇
昨日の日記で、わたしは「シンフェーン」というゲール語の意味が「我らのみ」であると書いた。そしてわたしは「我ら」という「等」を持たない孤絶した「我のみ」であると。昨夜観た映画で、主演の千葉真一演じる血盟団員「小沼正」は同志(村井国男)に向かって。「俺、わかったよ。「革命」ってのは「俺たち」でやるんじゃないんだな。「俺」がやるんだ・・・」
監督中島貞夫、脚本笠原和夫の1969年作品『日本暗殺秘録』は、先日かわぐちかいじの『テロルの系譜』を読んだ折りに知り、是非観たいと思っていた。
若山富三郎、片岡千恵蔵、高倉健、鶴田浩二、菅原文太、田宮二郎、里見浩太郎、藤純子といったオールスター・キャスト。それだけでエンターテインメントとして第一級の作品だが、微瑕を言えば、冒頭、吹雪舞う桜田門外の殺陣のシーンで、黒澤ー三船や、今井正ー中村錦之助ほどの凄まじいまでの迫力が感じられなかったことだろうか。
タイトルの通り、この映画は日本の暗殺ーテロルの歴史をオムニバス形式で描いている。
143分。登場する暗殺事件は、 幕末桜田門外の変から昭和11年の2.26事件まで九つ。140分で九つの暗殺事件を描くなら、ひとつのエピソードあたり15分ほどになってしまって、事件の背景などは描きようもないのではないかと思っていたが、この映画のメインは、昭和7年に起こった血盟団事件で、次に2.26事件と、ギロチン社事件に多少の時間をかけているが、その他は、単に何時何処で誰が誰によって殺されたというシーンのみである。だったら初めから井上日召と血盟団事件の作品にすればいいのではと思うが、やはり、幕末ー明治ー大正、そして戦前と、絶えることなくつづく権力の支配・圧迫と被支配・屈従の「歴史」が続いていることを示唆する必要があったのだろう。
暗殺の前にも暗殺があり、テロルの後にもテロルがある。その変わらぬ国の風景の背後に何が潜んでいるのかを暗示する必要があった。
興味深かったのは、「ギロチン社」の古田大次郎も、血盟団の小沼正も、また2.26事件の磯部浅一も、異口同音に「革命」というタームを用いること。大杉栄虐殺の復讐に起ち上がったギロチン社の面々は、言うまでもなくアナキストであり、血盟団は右翼と言っていいだろう。
作品が作られた当時、「政治の季節」と言われた60年代後半~70年代にかけての時代の精神というものも影響しているのだろうが、そもそも竹中労が指摘するように、「左右を弁別せざる」思想にわたしは共鳴する。
戦いは左右の水平上の闘いではなく、上下の垂直方向の戦いであるべきなのだ。
政治的なスタンスをいうなら、わたしは勿論右ではないが、だからといって、左派かというとそうでもないような気がする。そもそも現在のこの国で、言葉の正確な意味での「右翼・保守」或いは「左翼・革新」というものが如何なるものであるのかがよくわからない。
戦後、俳優山村聰は映画『蟹工船』(1953年)を監督し、また国鉄下山総裁の轢死事件に材を取った、井上靖原作の映画『黒い潮』を撮っている。同時期、佐分利信は、2.26事件に取材した『叛乱』(1954年)の監督をしている。これこそ正に「左右を弁別せざる」時代背景ではなかったろうか。
わたしには「右」も「左」もないように思える。ただ、上(かみ)と下(しも)、富裕の貧困の対立があるのみだと。
映画は
「そして現代
暗殺を超える思想とは何か?」
と問いかけている。
けれどもそもそも「暗殺」或いは「テロル」とは「思想」だろうか?
転覆に転覆を重ねても、またいかなる体制であろうとも、国家がある限り権力があり、権力のあるところには支配がある。映画の中で田宮二郎の言う「我々の革命は、失敗はもとより、成功もまた死のはずだ。生きて二階級特進など、貴様ら、本気で革命をやろうと思っておるのか!・・・連夜紅灯の下に酒を飲み、女を抱き、自己の栄達のために革新を語る。たとえ成功してもそれでは単なる政権の交代、自分たちが権力を握るためのさもしい権力抗争に過ぎんではないか!」という心情に心打たれる。
狂気(兇器)の沙汰と言われ「思想以前」と言われても、それが故に、わたしはそこに人間性の哀しき美の発露を見る。
働けば血を吐き働かなければ喰えなくなる現在(いま)の俺の態(ざま)を見てくれ
喰うために全力をあげてなお足らぬこの世になんの進歩があろう
ー 渡辺順三 (1929年)
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