2018年2月18日

「信仰」或いは「趣味の問題」としての歴史

プラグマティズムの哲学者、ウィリアム・ジェイムスは、
「神を信じることによってその人が救われるのなら(その人にとって)神は確かに実在する」と言っています。

同じように「歴史」とは、わたしにとっては「宗教」乃至「信仰」と同義です。
つまり歴史的事実というものは存在しない。
ニーチェの言葉に従えば、「事実というものはない。ただ解釈だけがある」のだと思っています。

極論すれば、南京大虐殺があったと思う人には、それはあったのだし、
ホロコーストはデッチアゲだという人には、ユダヤ人虐殺はなかったのだと思います。
広島も、長崎も、沖縄戦も同様です。歴史に「客観的事実」というものは存在せず、ただ主観的事実のみが存在します。
「趣味の問題」として。

ホロコーストはなかったというネオナチの人間に「あったのだ」と思わせるには強制的な「洗脳」による以外方法はありません。

わたしは右も左も信じていませんし、選挙にも行きません。
指示する政党も、信頼できる政治家も存在しないからです。

けれども個人的には、60年代後半から70年代にかけての反戦(非戦)・現在の形での9条死守の洗脳(洗礼)を自ら選択しました。これはわたしの「信仰」です。

慰安婦強制連行があったのか?
南京大虐殺があったのか?
関東大震災時に朝鮮人の虐殺があったのか?

わたしは「事実」は知りませんし、過去は永遠に知り得ないことだと思います。
ただわたしは「あった」という「信仰」を棄てません。

繰り返しますが、わたしの歴史観は、「趣味」に基づくわたしの信仰に他なりません。


0 件のコメント:

コメントを投稿