2018年2月23日

「無知」ということについて、「無知」は罪か?

もう30年ほど前、わたしが二十代のころのテレビCMで、印象に残っているものがある。
といっても、それがなんのコマーシャルであったのかは、まるで覚えていない。
若き日のヴィクトル・ユゴーが、パリの出版社に出した手紙で、書かれているのはただ一文字「?」そして出版社からの返信も同じく一文字「!」

説明には及ばないだろう、ユゴーは自分の小説の売れ行きを尋ねたのである。「?」
それに対して出版社は、上々、「!」と。



わたしは「!」を解答、そして「?」を疑問、或いは謎だと思っている。そして「!」を幾つも持っている者よりも、「?」をたくさん抱えて生きている人を好む傾向にある。

「?」は、未知の状態を表している。なんらかの「答え」と呼ばれるものを手にする以前の段階である。では「?」は果たして「無知」と同義だろうか?



わたしが「知」=「知識」とか「知識人」というものを嫌うのは、おそらくはその自信ありげな態度への反発かも知れない。知識とは畢竟確信に他ならず、自信たっぷりで声の大きなものの言うことが「正解」なのだと不貞腐れてみたくなる。

太宰はこう書いている。

私は議論をして、勝ったためしが無い。必ず負けるのである。相手の確信の強さ、自己肯定のすさまじさに圧倒せられるのである。そうして私は沈黙する。(「桜桃」)
これはそのまま若い頃からのわたしの気持ちでもある。

「知識」とは「謎を解く鍵」、そして「知識人」と呼ばれるものたちは「謎を解く者」なのだろうか?彼らは宇宙や世界や人生の諸問題に対して何から何まで「知って」いるように見える。

はたして「無知」とは克服されるべきものなのだろうか?それは何故?
「?」はすべからく「!」に変わらなければいけないのだろうか?それは何故?
「無知」とは、なにかどうしても必要なものの欠如した状態なのだろうか?
本を読む、或いは学ぶということは、自分の中にある「?」という「オセロの石」を次々と「!」へと捲り返す作業なのだろうか?

わたしは未だに「知識」とは何かを知らない、それは「無知」のなんであるかを知らないのと同じであることに気付く。

重ねて問う。「無知」は罪なりや?

本を読むとは、時に冷酷無慈悲な刑吏の前に身を晒し鞭打たれることではないのか?





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