2018年2月4日

「猫」という哲学 或いは街角の哲学者


もし誰かに「好きな言葉はなんですか?」と訊かれたら何と答えるだろう?「猫に小判です」とでも答えようか?


なんのために

生きているのか

裸の跣(はだし)で命をかかえ

いつまで経っても

社会の底にばかりいて

まるで犬か猫みたいじゃないかと

ぼくは時に自分を罵るのだが

人間ぶったぼくのおもいあがりなのか

猫や犬に即して

自分のことを比べてみると

いかにも人間みたいにみえるじゃないか

犬や猫ほどの裸でもあるまいし

一応なにかでくるんでいて

なにかを一応はいていて

用でもあるような

眼をしているのだ

ー山之口獏 「底を歩いて」



街中で猫の姿を見るとなぜかほっとする。
それが野良猫だったりすると尚更ほっとする。
「町」といっても大きな地球の一画だ。人間様だけのものという法はあるまい。

「猫に小判」という言葉が好きなのは、猫が人間がありがたがるものにまるで関心を示さないからだ。「馬の耳に念仏」でも「豚に真珠」でもいい。
その存在によって、人間の価値観をせせら笑っているようで愉快じゃないか。

大判・小判を有り難がらない人間がいてもよさそうなものだが、きょうびなかなかそういう御仁は見当たらないようだ。
人間はどうも人間の価値観から自由になるのは困難らしい。
そうなると人間の価値観から自由なのは、その埒外にいる他の動物ということになる。
「町」という、人間と同じ空間に住みながら、人間とは全く異なった存在。
そんな奴らの姿を見るとほっとする。

犬 も 入 れ て 残 ら ず 写 す (放哉)

犬は人間の生活の中にスポッと納まってしまうかもしれないが、
記念写真を撮っている時だって、猫は澄まして庭を歩きまわっていそうだ。

人間が多すぎるんじゃない。同じような人間が多すぎるんだ。
猫も杓子も同じ道具を使い、同じ言葉を使い、同じように見、同じように聴き、同じ歩調であるく。

とにもかくにも人間がこぞって拝跪するものに目もくれない存在があるということだけで気が楽になる。

ところで梶井基次郎の「愛撫」という作品で、「私」は、ゴロッと仰向きに寝転んで、猫を顔の上へあげ、その両の前足を瞼にあてがう。

「私の疲れた眼球には、しみじみとした、この世のものではない休息が伝わってくる。
 仔猫よ!後生だから、しばらく踏み外さないでいろよ。お前はすぐ爪を立てるのだから。」


尾崎放哉は

猫 の 足 音 が し な い の が 淋 し い

という句を詠んでいる。

一応なにかでくるんでいて
なにかを一応はいていて
用でもあるような
眼をしているのだ

猫よ、お前はいつでも裸で跣(はだし)でいてくれよ。
猫に小判、猫に勲章とあってくれよ・・・






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