『右であれ左であれ、思想はネットでは伝わらない』という坪内祐三の本のタイトルには素直に首肯する。
では「思想」はどのようにして人から人へと伝わるのかと訊かれれば、あくまで「オールド・ファッションド」であるわたしは、(坪内祐三風に言うなら「古臭いぞ私は」)このような方法で、と答えるだろう。
この国のおれは植字工
口ふさがれてパチパチと
ただパチパチと
神様の思想を植える。
ー新村正史 『生活の歌』(1936年)
山宣の写真が
壁にはげ残り
謄写版の匂いがするーー
懐かしい小舎(こや)
ー斎藤 薫 『短歌評論』(1937年)
人の手と、その汗と油を経て初めて思想はその重みを得、読む者の心に着床するのだと思う。何が書かれているかということ以上に、それが人の目に触れるまでにどれだけの「手間と隙」が費やされたか、ということがその思想の価値を決めると言ってもいい。
また「思想」を受け取るにも
傍線を強く引き、再び読み返し、胸に畳んで、偖(さて)表に出たばかりの眩しさ。
ー足立公平(孝平)(1936年)
という「手間隙」が要る。そして新たな「思想」がこの胸に根付いたという充足感があるとき、世界は新たな光に輝いて見える。
思想はきっとこのような手順でひとからひとへ、手から手へ、胸から胸へと伝えられてゆくのだ。人間の「思想」「想い」とネットは所詮水と油だ。言葉は水面に広がる油膜のようにただフワフワトユラユラト漂っているだけ・・・
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