2018年2月9日

お化け屋敷のない風景

フォン・ヤイゼル神父は私が日本に帰って数年後に亡くなったが、たとえば電車の窓から雑然とした町並みを眺めていて、よくひびく彼の声が東京の空にとどろきわたるような気のすることがある。こんな思想のない街に暮らしていたら、きみたちはこれっぽっちの人間になってしまうぞ。

これは須賀敦子が松山巌の依頼に応じて、彼の著作『百年の棲家』の解説として認めた一文の結びである。

神父は須賀たち学生に、「街が人を創る」ということを、よく覚えておくようにと伝えた。

数日前の新聞に、ニューヨークで生まれた日本文学研究者のロバート・キャンベル氏のコラムが掲載されていて、それが強く印象に残った。

「故郷で古い仲間に会ってきたが街が変わり過ぎて記憶がよみがえらない。東京の友達から時々そういう話を聞くことがある。わたしも去年の夏、生まれ故郷のニューヨーク市ブロンクス区を三十五年ぶりに歩いてみた。友だちとは逆に、街はほとんど変わっていなかったが、古い仲間はもう一人としていない。
 十九世紀末からユダヤ系、イタリア系、アイルランド系とさまざまな移民集団ができた。アイルランド系移民に属する祖父母も地縁血縁をたよってブロンクスで家庭を作り、人生を全うした。十三歳まで僕が暮らした五階建て鉄骨タイル張りの戦前のアパートも、昔と寸分たがわず建っていた。長い階段を紙袋二個分の食料を抱えて上ってくる祖母の息遣いが瞬時によみがえる。アパートの玄関脇にあった祖父のクローゼットの甘い匂いも記憶から漂ってきた。
 今の住人は、その後入ってきたカリブ海や中南米の人か、戦中、南部から移住してきたアフリカ系労働者の子孫である。相変わらずお金を持っていそうな人は、誰もいない。
 アイルランド系労働者移民の浄財で建てられ、母も僕も通った小さな教会とその付属小学校は、窓枠に塗った赤いペンキまで当時と同じだったけれど、扉の貼り紙はスペイン語で書かれていた。道行く人も、欧州なまりとは違う英語をしゃべっている。
 初めて遊んだ公園に行ってみた。遊具は変わったが、公園で遊ぶ子供たちの笑い声は僕らのころと変わらない。
ここで育ち、やがて去れる人から去ってゆく、この街特有の影と力強さを感じた」

おそらくニューヨークでも、またヨーロッパですら、すべてが変わらず昔のままということはないだろう。これはブロンクスという貧しい人たちの住む下町ならではの事情かも知れない。けれども、50年以上、幸い震災にも戦災にも見舞われずに過ごしてきて、なお「故郷喪失者」であるわたしにとって、「ここも、あそこも昔のままだ」といえる風景を持てるということはなんという幸運であろうという思いを強くする。

東京ははたして「思想のない街」だろうか?そうではなく、寧ろ「誤った思想の下に創られた」都市ではないのか。「思想」を「美」と呼び換えてもいい。美のない街に人は生きることはできない。そして東京は戦後の高度成長期以降、「美」というものをはき違えて現在に至っている。いやそもそも人間にとって美が欠くべからざる生命の根源であるという思想さえ抜け落ちているのではないだろうか。

わたしはこの街を「穢土」だと感じている。何故なら、この都市はあたかも地上の「浄土」を創り上げようとしてきたかに思えるからだ。おそらく「浄土」には一切の穢れたものや、汚れや、闇、朽ちゆくもの、滅びゆくものは存在しないだろう。不壊、不朽、そして不老・不死こそが「浄土」の要諦であるとしたら・・・

一方で「変わらぬ風景」を求め、同時に「滅びゆくものこそ美である」というのは明らかに矛盾しているのではないかと言われるかもしれない。
しかしそれは人間一代の視点で捉えているからこそ生じる「矛盾」である。数百年、数世紀、数世代の単位で考えれば、どのような建物もいずれは朽ち、滅びる。「発展・開発」の荒波から救い出された、ヴァージニア・リー・バートンの『ちいさいおうち』とても例外ではない。
日本人は記憶の継承というものをなおざりにしてきた。それが目に見える形として具現化されているのがこの都市の姿である。


うしろを振りむくと
親である
親の後ろがその親である
その親のうしろがまたその親であるというように親の親の親ばっかりが
むかしの奥へとつづいている
まえを見ると
まえは子である
子のまえはその子である
その子のそのまたまえはそのまた子の子であるというように
子の子の子の子ばっかりが
空の彼方へ消え入るように
未来の涯へとつづいている
こんな光景のなかに
紙のバトンが落ちている
血に染まった地球が落ちている
ー山之口獏 「喪のある風景」

地上のすべての家や建物が百年の棲家ではなく、「かつ消えかつ結びて久しく留まりたるためし」のない「泡沫(うたかた)」の如きものであるならば、わたしたちはいつ「喪」の記憶に参するのだろう?
親と子、そして子供の子供の記憶は全て細切れに分断・切断され、「喪」の継承は行われない。
土地と家の記憶の寸断は、同時に人々の生活の記憶の断絶でもある。記憶は街の姿と共にある。

「死の家とは、ものが死んだ家ではない。むしろ、ひとつ一つのものが記憶を甦らせ、うごめいて住む人に語りかける。(高村)光太郎の目にはかつて自慢した、高い屋根や七つの窓や欅の木の向こうに妻をはじめ、死者の姿が映っている。
おそらく多くの方は、このような家に住みたいとは思わないだろう。しかし生きている家とはこのようなものだ。ふと振り返れば、重い記憶が壁や天井、窓や床に染みついている。建築家はこんな家を設計することはできない。作るのは真新しいピカピカの家である。どれほど生き生きと明るい表情を見せても、実は生きた記憶は消されている。

建築家、建売業者、建材メーカー、いずれも家と什器の新しさを強調して売りつけ、客もそれを求める。つまるところなにを買うかといえば、絵のような汚れなき「マイ・ラスト・ホーム」。むろんこんな文句は宣伝には使えない。本当のところは客はあきらめている。そうでなければ、あれほどチャチな住まいに満足しないだろう、どうせ息子か娘の代になれば取り壊される。どこの家も同じ、誰も同じ、それがせめてものなぐさめなのだ。均質な死に場所こそが新築される家の隠し味なのである」-松山巌「詩のなかの住まい、詩とその家々 6」(初出 1993年)








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