2018年2月23日

無題

今年に入ってからまだ一度も外へ出ていない。数回、階段下のゴミ置き場に、夜、ゴミを置きに行っただけ。まだ一度も今年の空を見ていない。

ああ、外に出たい。そこがうつくしい場所であるなら。
もし犬がいたら、木々に囲まれた田舎の土の道を一緒に走ってみたい。
草の匂いを感じながら草原を飛び跳ねるように走りたい。
潮騒の鳴り響く砂浜を潮風に吹かれながら転がるように駆け回りたい。

もし地上にまだ看板も、アナウンスも流れていない自然のままの土地があるなら・・・
せめて、空を。
看板も、高層ビルも、奇抜なタワーもまだできていない青く澄んだ・・・或いは夕映の濃いオレンジ色の空を眺めてみたい。





わたしの「知識嫌い」或いは「知的な人」嫌いが何に起因しているのかわからない。
ただ漠然とした’Smart Ass’ たちへの嫌悪を感じるのだが、おそらくそこには謙虚さというものが感じられないからかもしれない。「語り得ぬもの」に対して、脱帽し、深く沈黙を守るという畏怖・畏敬の気持ちが・・・
利口な人たちは、その利口さ聡明さ故に「粛然として頭(こうべ)を垂れ口を噤む」ことを知らない・・・





ショーペンハウエルや太宰治がそうしたように、無知な人々は常に知識人の嘲笑や侮蔑の的であったし、これからもそうだろう。
ハブなんとかというスケーターやスマートフォンを嫌う人間が存在しないように、
無知を礼賛するわたしは決して誰からも理解されることはないだろう。


ああ、それにしてもわたしの「本嫌い」の根は深い・・・





「知(識)」がある種の「財産」「資産」であることは疑いがない。富の分配の在り方によって階級が生れるように、「知」もまた階級を生み出す。わたしのように「無知な者」は最底辺の階級に位置する。
ひとはジャン・フランソワ・ミレーの描いた貧しい農民の姿を美しいという。
けれども果たして誰が「貧しく乏しい知」を讃えるだろう?
ミレーを愛する者もまた「知的上流階級」だ。

かつてわたしの親友だった人と一緒に銀座を歩いていた。わたしが「資生堂」の前で足を止め、中に入ってみようとしたところ、「そんなところはブルジョワが行くところだ」と立ち去ってしまいわたしは当惑して後を追った。資生堂を観たいと思ったが、当時からなんとなく彼女の気持はわかる気がしていた。
わたしは「無知で構わない」と開き直っているのではない。むしろ「無知」=「無垢」こそ人間の目指すべき姿だと考えている。





同じようにバッハ好きでも、神谷美恵子の語るバッハと、エミール・シオランの描写するバッハはまるで別人のようだ。結局のところ、

" We see the world what it is: We see the world what we are "
「人は世界をありのままには見ない。人は世界を我々があるように見る」

というアナイス・ニンの言葉の通りだという思いを強くする。





誰の言葉だっただろう

「この世にまだ愚という美徳があったころ・・・」





わたしの態度は懸命に学ぼうといういう人を貶めているのだろうか?
そうではない。あまりに多く学んだ末に堕落した者たちを見過ぎたのだ・・・











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