生きるということはほんとうに、つらく、かなしいことですね。
そしてわたしには「生きる」ということがどういうことなのかすら、わかりません。
いったんは逃げ出したここにまた戻ってきたことは誤りだったのでしょうか?
けれどもわたしは立川では一歩も、文字通り一歩も外に出ることができませんでした。
もしわたしの「誤り」をいうのなら「生まれてきたこと」がそもそもの誤りでした。
では「誤りではない生」とは例えば誰のことを言うのでしょう?
それもわたしにはわかりません。
けれども生まれてきたことで誰かの人生を犠牲にしているのなら、その生はやはり「誤り」なのではないでしょうか?
どんなに周囲に迷惑を掛けても、当人が楽しく生きているのであれば、それはそれで生まれてきた意味はあるのでしょう。けれども、わたしは生きていることが少しもたのしくない。ただただ無為徒食の日々を、人に支えてもらって維持している。どこかおかしくはないでしょうか。
多くの人は何らかのかたちで「働いて」います。
「はたらくこと」これもわたしのわからないことのひとつです。
働いている人誰もが、歓びと生きがいを持って日々仕事に向かっているとは思えないのです。「こんな仕事いやだなあ」と思っている人もいるのだと思います。では何故彼ら・彼女らは、「嫌なこと」を止めないのでしょうか?
「生きていくため」?
何故「生きなければならない」ということが大前提として存在しているのか?わたしには昔から理解できませんでした。
「したくもないことをしてまで生きつづける意味」とはなんでしょう?
わたしがいまもなお生き続けているわけは、簡単には死ぬことができないからという間の抜けた理由でしかありません。
簡単に死ねないのは誰しも同じこと。けれども、それを行った人たちが大勢いる。
わたしは自らの意志の弱さを愧じるばかりです。
◇
辺見庸は、アメリカの哲学者ジュディス・バトラーの「生は特権化された人々の権利に過ぎなくなる」という言葉に呼応して、現代を眺め、
「バトラーの言う通り、「生は特権化された人々の権利」になりさがってしまったのか。」
と書いています。けれども、もとより「生とは特権化された人々のみの権利」なのではないのでしょうか?
わたしにしてみれば、既に20代の頃から感じていたことを、今更事々しく嘆いて見せる辺見庸の気持ちがわかりません。
わたしには「生を享受できる特権を持つ人」とは誰なのかを言うことができません。
ただわたしはその一人でないことだけは、確信を持っていうことができます。
◇
わたしは「救い」を求めています。こころの底から「誰かわたしを救ってください!」と、声にならない叫びをあげています。けれども、誰が、どのようにわたしを救ってくれるのでしょう。
わたしのくるしみは、すべて「わたしがわたしであること」から来ているのではないでしょうか。
「わたしがわたしのままで」救われるということを考えた時に、「救い」はどうやら「生」の方角にはないように思えるのです。
「わたしアスパラガスが嫌いでよかった。だって、もし好きだったらたべなきゃならないでしょう。そんなのイヤだもの!」というジョークをふと思い出しました。
わかりにくければ「アスパラガス」を「現代社会」に置き換えてもいいでしょう。
精神科にかかる意味も分かりません。精神医療では、ひょっとしたら、大嫌いなアスパラガスを好きにさせてくれることもできるのかもしれません。(それとても相当の名医でなければ不可能なことですが。)しかしわたしは「アスパラガス」を好きになりたいとは思っていないのです。
なぜって、好きになったら食べなくちゃならないから。
そう考えてみると、「自分がありのままの自分でありながら苦痛なく生きられる」そのような人々こそが、「特権化された人たち」と言えはしないでしょうか?
◇
わたしは救いを求めています。けれども、それはやはり「生」の方向には無いようにしか考えられないのです。だとすれば精神医療も、福祉もわたしの救いとは無関係ということになります。
ではこのくるしく、そして深い悲しみに満ちた人生からの救いは何処を捜せばいいのでしょうか・・・
書こうと思っていたことの半分も書くことができませんでした。
また書きます。
お読みくださりありがとうございました。
不一
追伸
目の状態がよくありません。今朝も鏡を見ると、両目がそれこそ文字通りウサギの目のように真っ赤に充血しています。これは今に始まったことではなく、昨年3月の右目緑内障の手術以降です。けれども、かかりつけの眼科医は、この充血の原因を「わからない」と言います。その医師はわたしの目を手術した御茶ノ水の眼科病院の出身ですが、わたしの右目を手術した当の理事長も、「(目)薬の副作用じゃないですか・・・」と曖昧な返答をするばかりです(でした)。
目の状態が悪化している。けれどもきちんと診察できる医師がいない。そのこともわたしの絶望と厭世観をいやまして深めるのです。