2021年10月24日

書けない訳

日常とはなにか、私たちの日常とは。それは立ちどまり青ざめて見返ることのない畏れなき「いま」である。立ち止まり青ざめて見返ることを余儀なくされた者は多くそこに在りつづけるのは難しい。それが私たちの、息を呑むような日常の構造である。

ー 辺見庸「自問備忘録」『たんば色の覚書 ー私たちの日常ー』(2007年)より 




 

2021年10月11日

秋の夜 自問自答の 気の弱り(炭 太祇)

September of my years 
 

Don't Wait Too Long


実りの秋というけれど、
樹の葉が枝から離れて落ちるのをただ眺めているだけ
虚しい 空っぽの人生
いまやわたしは一個の落日
ひとひらの落葉に過ぎない





2021年10月10日

無題(歴史認識についてについての覚え書き)

István Harasztÿ Central manegement


1935年ハンガリーに生まれた彫刻家の手に成る『セントラル・マネージメント』


誰もが自分の言葉を棄て、ただひとつの言葉=「主義」に従うことをファシズムという。

先月の投稿「納豆と世界」で、われわれは客観的な世界を感知することはできないと書いた。納豆がマズいと感じている者に、「本当は」納豆は美味しいんだよと諭すことはナンセンスであると。何故なら、彼の味覚は「納豆とはマズいもの」としか感じられないのだから。


「我々は世界を、私たちが(今)あるようにしか捉えられない」ということが疑いを容れぬ真実であるとしても、また世界認識はそれぞれの主体・主観に依拠するとはいっても、我々は時に「倫理を重んずる人間存在」として「客観的な世界」を再認識することを求められる。

それは「歴史的事実」である。


わたしたちは「南京」や「アウシュヴィッツ」「ヒロシマ・ナガサキ」といった厳然たる歴史的事実を(人類が共有すべき)過去の現実として認識しなければならない。
如何にそれがマズかろうと、そこには揺るぎない「本当の世界」の「歴史」が厳然として君臨しているからだ。
そのとき、わたしたちは誰も口を噤み、過去の事実の前に粛然と頭(こうべ)を垂れなければならない。

ポール・ヴァレリーは書いている

もし私が誰かを愛するにしても、私はその人を嫌うことも出来るだろうと抽象的に考えることができるし、誰かを嫌うにしても、同じ能力を持てる。

「納豆がマズい」という、自身にとって確たる事実があっても、わたしたちは、頭の中で「納豆は美味しい」と考えることができる。

それと同じように、時にわれわれはちっぽけな自己一身の主観を離れて、巨大な歴史的事実の前に額づかなければならないのではないだろうか・・・

無論それを他人に強制はできない。けれども、歴史的事実を忘れた時に、必ず同じ惨劇が繰り返されることは歴史それ自体が教えてくれているのではないだろうか?

改めていくつかの言葉を

*

”The destruction of the past is perhaps the greatest of all crimes.”

ー Simone Weil


「過去の破壊。おそらくそれは最大の犯罪であろう」

ー シモーヌ・ヴェイユ

*

”The past is not dead. In fact, it’s not even past.”

ー William Faulkner


「過去は喪われてはいない。実際のところ、過去は「過去」ですらないのだ」

ー ウィリアム・フォークナー


(未完)







2021年10月8日

会話

 

わたしはいったい だれと どんなことがはなしたいんだろう?

わたしはいったい だれと どんなことがはなせるんだろう?






2021年10月7日

だれでもいいから

 

誰かにやさしく 力強く抱きしめられたい・・・




2021年10月6日

教師という仕事・・・

 図書館で借りた2006年の『暮しの手帖』を、ぱらぱらと眺めるともなく眺めていたら、パリ在住の、作家・翻訳家という肩書をもつ飛幡祐規(とびはたゆうき)さんという方のコラム(?)が目に入った。 

フランスでは、無償の教育法に先立つ1880年に、世界で初めて現場の教師に教材を選ぶ自由を保障する法律ができた。だから教科書の検定はなく、ほとんど教科書を使わない先生も多い。カリキュラムは全国一律だが、授業内容は先生によって千差万別になる。 
 (略)
教師の独立性が保障されているこの国では、「心のノート」のような妙な教材が、国から押し付けられる心配はない。

これを読んで驚くとともに、つくづく羨ましく思った。
こういう仕組みなら、「教師」「先生」という仕事も悪くないじゃないかとも感じた。
第一教材選びが面白くて刺激的で仕方がないだろう。


仮にわたしがこのような環境の下で教師になるなら、選ぶ教科は「国語」か「社会科」になるだろう。悪く考えれば「自分(=教師)の価値観の押し付け」という風にもとられかねないが、わたしは第一にディスカッションを重視したい。わたしの選ぶ教材は、主に映画と本、そしてアート(主に写真)ということになるだろうが、とにもかくにも生徒に観せ、読ませたものについて生徒本人はどう思い何を感じ考えたかを話してもらう。この作品のどういうところに共感し、またどういう部分に違和感を覚えたかを他の生徒たちと一緒に聞かせてもらう。
非常に非効率的な方法だが、教育とは本来効率性に背馳する。

尤もいかに自由な授業ができるとはいえ、根が狭量な上に、極めて柔軟性に欠けるわたしのような人間に仮にフランス本国であったとしても教師が務まるかどうかは甚だ怪しいが、魅力を感じることは確かだ。

教育に於いて最も大事なことは何かと訊かれれば、わたしは、とにかく教師や親を筆頭に、マスコミのコメンテーター、文化人と称される人たちがこぞって言っていることを鵜呑みにせずに、先ず自分の感覚、本能、感受性を第一の規準とすること。その上で少しでも先生や親たちの言うこと、世間が良しとしていることに違和感を感じたら、その違和感を掘り下げ追求してゆくことだと答えるだろう。

わたしが教師なら、卒業に際し、生徒たちにたくさんの「!」(=知識・情報)ではなく、より多くの「?」(=疑問・違和感)── 即ち「問題意識」── を頭と心に詰め込んで社会に出て行ってもらいたいと願うだろう。

さて、はたしてフランス的な規準に照らして、わたしに「教師としての適性」があるのかどうか・・・


"There is a voice inside of you That whispers all day long, “I feel this is right for me, I know that this is wrong.” No teacher, preacher, parent, friend or wise man can decide What’s right for you–just listen to The voice that speaks inside."

— Shel Silverstein



 



2021年10月5日

地獄とは・・・

嘗てこのような対比的な言葉を引用したことがある


” The Hell is Others ” 

Jean-Paul Sartre (1905 - 1980)

「地獄とは「他者」である」

ジャン=ポール・サルトル

*

“ Hell isn't other people. Hell is yourself. ”

Ludwig Wittgenstein (1889 - 1951) 

「地獄とは「他者」ではなく君自身である」

ルードヴィッヒ・ヴィトゲンシュタイン


わたしには両者の言っていることは同じに聞こえるが、そのことに関する考察は措いて、今のわたしの心境は、ヴィトゲンシュタインの言い分に傾く。

すなわち

「地獄とはわたし自身である」

吾人の「治癒」と「健康」を妨げているものを、悉く未成熟で陋劣な社会環境に還元することはできない。
鋭敏すぎる美意識や感受性は、それを持つ者にとって、ある意味で「不治の病」であり、それは彼自身にとって「地獄」でもあるのだ。


以下、底彦さんの9月30日の記録を抜粋引用させていただく。

夕方からデイケアで PSW さんとの面接があるのでアルコール依存症のミーティング会場からデイケアに向かう.
ちょっと前までは, この面接では認知療法やスキーマ療法で日々の苦しみについて話し合い, 回復の道筋を探っていた.
けれども, 苦しさの根源であった過去の記憶の問題からほぼ解放されたことで, 深刻に取り上げる話題が無くなった.
強いて言えば, 慢性的な鬱が苦しいということだが, これはある意味で自分の性格に深く根ざしているので治療の名の元に無理に治す ── 性格を変える ── のがいいのかどうかはわからない.

PSW さんも, それはあなた自身なのだから変えなくてもいいのではないかとも言っている.
(下線 Takeo)

もとより現在の底彦さんの状態を軽視するつもりは毛頭ないが、「私が私であることは地獄である」と感じている今のわたしは、この底彦さんの感懐を、極めて複雑な気持ちで読んだ。


先の「再び、書くということ」の中で、底彦さんに

わたしに関して言えば、「普通の人のように成れるものなら・・・」という気持ちはありません。これがわたしなのだ、と胸を張れるものは何一つありませんが、大事なことは、これというもののあるなしではなく、単純に、純粋に「私は私以外の何者でもない」「私が私である」ということ。それ自体なのだと思っています。

と言っている。その気持ちに変わりはないが、今のわたしは、

「大事なことは、これというもののあるなしではなく、単純に、純粋に「私は私以外の何者でもない」「私が私である」ということ。それ自体なのだと思っています。」

などと気楽な(或いは軽々しい)ことは口にできない・・・

「私は私自身でなければならない」というある種の「信念」乃至「信仰」と、その「信念・信仰」ゆえの煉獄の試練の狭間でわたしはいま、のたうち回っている。

しかし一方で、いかにわたしが自己に殉ずることを恐れ、「普通の人のようになりたい」と願ったところで、それはそもそも無理な相談であるということも、承知している。

何故なら、「わたし」は「わたし」として生まれてきたのだから・・・